annoying nail cutting
他の誰かが爪を切る、パチン、パチンというあの独特の音を聞くだけでも背筋が縮み上がった。自分の手足に付いているあの意味不明な硬いものが、あの小さな刃物によっていとも容易くへし折られ、その白く濁った
自分以外の人間でそんな調子だから、当然自分の爪を切るなどもってのほかだった。
幼稚園生の頃は保護者に爪を切られそうになる度に手袋や靴下を身に付け、全力で逃げていた。最終的にはいつも捕獲され、結局切られたが。
あの音が自分の指先から響き、自分の指先から三日月型の
爪切りがダメならばとヤスリをかけてもらったこともあるが、自身の
記憶にはないが、赤ん坊の時分から激しく爪切りを嫌がる子だったらしい。保護者達は毎回寝ている間に切ったり、気を紛らわせたり、何回かに分けて切ったりと様々な工夫を凝らし、どうにか切ってきたそうだ。
そんな瓜有だったので、小学一年生になった際「人に切られるのが怖いなら、いっそ自分で爪切ってみるか?」と問われ、そんなことができるのかと驚愕した。いや考えてみれば保護者達は誰かにやってもらうこともなく、いつも自分で切っているのだから可能なのだろうが、自分もいずれそうしなければならないということには考えが至らなかったのだ。
もちろん全力で難色を示したが、「みんなやってるから、大丈夫だから」と説得され、渋々教えられた通りに人差し指の爪を爪切りで挟んでみた。
が、よりによって初っ端からその人差し指を深爪してしまった。あの硬い爪を切るための道具に、爪と誤解されてあっさり切り取られた皮膚は、中の肉と血液を空気に晒すこととなった。それを認識したと同時に、痛みが倍増したように思った。
決して大きな傷ではなく、出血もすぐに収まったが、それは爪切りに対するマイナスイメージをより一層強化することになった。
そんなわけで瓜有は、爪が伸びすぎて服のボタンを留めたり缶ジュースを開封したりするのに不便を感じるようになっても、周囲の大人達に何度も何度も注意されるまで爪を切らなかった。
みんな「慣れれば大丈夫だ」と言うし、細心の注意を払っているためか、あれ以来深爪をしたことはない。けれどそれでも、やはり「これは『怖いこと』だ」という思いは拭えなかった。しかもそんな思いを、一回につき二十回もしなければならないなんて……
けれど、小学二年生になった時のことだった。
下校時、一緒に帰る友達と、なにげなく手を繋ごうとした。
「痛っ」
友達は、反射的に手を引っ込めた。
「……あ、ごめん。大丈夫だよ」
友達は少し慌てたように、けれど笑いながら瓜有の手を掴んだ。指先には触れず、甲の部分だけを。
いくらなんでも、いけないと思った。自分が不便なのは自分が我慢すればいい。けれど、友達に痛い思いをさせるのは、ダメだ。
だけど、爪切りはどうしても好きにはなれない。
こんな時こそ困った時の
「ああ、それならちょうどいい手術がありますよ!」
目井さんは三日月型の目で笑いながら、ぽんと手を叩いて言った。
「
流石は目井さん。そんなこともできるのか。これなら自分は爪切りの煩わしさと恐怖から解放されるし、うっかり友達を傷付けてしまうこともなくなる。
二つ返事でお願いした。
こうして、瓜有は爪切りという、好きになることのできない行為をする必要がなくなった。
その生活は驚くほど快適だった。もう決して深爪をする心配はないし、細かい作業がしづらくなることもない。それよりも何よりも、遠慮することなく友達と手をつなげるようになったのが嬉しかった。
そうして、二ヶ月ほどが過ぎた。
違和感を覚えるようになった。
何か特別なことが起こったわけではない。普段と変わらない、当たり前の日々が当たり前に過ぎていくだけの日常だ。なのに、何かが欠落している気がし始めた。
始めはただの気のせいだと思っていた。けれど一度胸に生じた違和感は、とどまることなく増大していった。
何だろう、何だろう、何かが足りない。今まではあったのに、なくなってしまったもの。それって、何だろう……
思い当たることは、当然あった。けれど、そんなはずはなかった。
だって、自分はあれが好きなんかじゃなかった。だからしなくて良くしてもらったんだし。今更恋しいと思うなんてありえない。これは、ただの気の迷いだ。そう思い直した。
けれど、思い直しても思い直しても。
あれほど煩わしくて、怖くて、好きじゃなかった爪切りが、音が、
……そうか、自分はたしかに、爪切りが好きじゃなかった。
だけど、嫌いなわけでもなかったのか。
日常の中に組み込まれた、生きているからこその、好きじゃなさ。それが、嫌じゃなかったんだ。
「目井さん、せっかくやってもらったのにごめんなんだけど…… 爪、元に戻してもらえたりする?」
目の前に差し出された、自身が半年ほど前に手術をした小さな両手足に、目井さんは驚いたような顔をした。
「ええ、できますが…… いいんですか?」
一拍だけおいて、瓜有は首肯した。
「うん、いいの」
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