ラッシュ・ボディ

 混雑、人ごみ、すし詰め、人だかり、群衆、雑踏、人がいっぱい、大混雑……


 あー、ダメです。朝の通勤ラッシュがあまりにもきついので「ラッシュ」をいろんな言い方で言って気を紛らわそうと試みましたが、うまくいきません。

 連休明けは特に辛く感じますねえ。里帰りして楽しく過ごせた分余計に……


 絵の具を溶かしたような青の空。ポツポツ浮かぶ綿のような雲。

 その下に広がる、鋼鉄の箱に押し込まれた曇天のような人の海を想像し、我はため息を禁じ得なかった。


 こうしてまた憂鬱な日常が始まるのね。ああ、嫌だわ嫌だわ。通勤中なのにもう帰りたくなってる。今までロクに怪我も病気もしたことがないこの丈夫な身体からだが憎いわ。おかげで会社を休めない。ああ、早く週末が来てほしい。何なら終末でもいいわ……

 窓外に流れていく景色と、視界に垂れている自分の緑の髪と青の髪を眺めながら、そんなどうしようもないことを考えていた。


 その時だった。僕は見た。

 電車という狭小な箱にぎゅうぎゅう詰めに詰め込まれた、鬱屈とした瞳と表情の人々。けれどそのほんの僅かの隙間を縫うように。

 にょろにょろ、にょろにょろと。蛇のようにうねりながら。

 瞠目する僕の目の前まで伸びてきたそれは、腕だった。

 

 一本の腕。長大に引き伸ばされた肉の先端にくっついた、平べったい丸のような形状の肉。さらにその先の、長細い五本の肉。

 どう見ても腕だった。ところどころ継ぎ合わせたように肌の色が異なっていて、ところどころにタトゥーや傷やアザやほくろや火傷のある、腕だった。

 それが存在していた時間は、十数秒もなかったと思う。開きっぱなしに耐えられなくなった瞼がまばたきをした瞬間、消え去っていたから。

 辺りを見回してみる(混みすぎていたせいか首を回すのも一苦労だったが)。周囲の人達はみんな気怠げで、俺みたいに窓の外を見ていたり、俯いていたり、スマホをいじっていたり、本を読んでいたり、目を閉じていたり…… とにかく、誰も腕に気付いた様子はなかった。あんな奇妙な、それも結構な長さのあるものだったのに…… どこから伸びてきたのかは分からなかったけど、目算できるだけでも1mくらいは……


 何だったんだ。何だったんだ今の不可解な現象は……

 混乱しつつも納得できる答えを模索していたら、ふと思い出した。

 子どもの頃からの持病を診てもらいに目井めいさんのところに行った際、どういう話の流れだったか教えてもらったことがあったのじゃった。

 

「『ラッシュ・ボディ(rush body)』といって、満員電車のように大勢の人が押し合いへし合いしている場所では、その場にいる人達の身体の情報を合わせ持った人間の身体の一部が発生することがあるんです。

 たとえば、その場に様々な肌の色の人達がいらっしゃったら、その様々な肌の色を持った手や足が出現したりですとか。肌の色だけじゃなく、仮に足を怪我した人がいたら、現れた足もそれと同じ怪我をしていたりなんかもしますね。

 知らない人達と嫌でもぴったりと接触して、もみくちゃにされて、もはやどこからどこまでが自分の身体で、どこからどこまでが他の人の身体なのか判別できなくなる…… そんな人々の混乱から、ラッシュ・ボディは生まれるんです。生まれて何分もしないうちに消滅してしまうんですがね。恐らくラッシュ・ボディご本人も自分がそうだと気付かないうちに。

 『極めて稀な現象』とされてるんですが、個人的には実は結構あることなんじゃないかと思ってるんですよね。

 なにせ自分と他人の身体の区別もつかないくらいの混沌の中です。誰も気付かないだけで、本当は毎日、どこかで発生しているのかもしれませんよ……」


「恐らくラッシュ・ボディご本人も自分がそうだと気付かないうちに」


 自分の身体を確認しようとしてみた。が、頭が下がらない。手の感覚がない。目だけを動かして下を見る。

 首から下が、なくなっていた。いや違う、そんなもの元からなかったんだった。

 私の中にある大量の記憶は、それぞれを照らし合わせてみると辻褄が合わない部分だらけだ。

 窓に映る自分を見てみた。両隣の人の身体に挟まれているその顔は、ところどころ皮膚の色が異なっていて、顔のパーツもそれぞれ大きさや形や雰囲気がバラバラで。髪の色も質も長さも、ところどころバラバラで。


 なんだ、あたし、そうだったのか。

 なーんだ、そっかあ……


 じゃあ、これでもう仕事行かなくていいんだなあ……


 天に昇るような安堵の中、意識がゆっくりと薄れていった。


 様々な人間の容姿と記憶が組み合わされて出現した頭部の存在及び消滅に気付いた乗客は、誰ひとりいなかった。

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