with my sin

津々羅つづらさんに訊かれたことありましたよね? 『家族に死んでほしくないの?』って」

 休み時間。たきの問いかけに、狗藤くとうは静かに首肯した。かつて自身が逮捕された際に激昂し、絶縁を言い渡してきた家族を思い出しながら。


「飲み会だったので、酔って物騒なこと言ってるだけかと思って『今は家を出たし、自分で抱っこできるからもうどうでもいい』って答えたんですが、今考えるとあれって……」

 自身の胴体を抱きしめる長い腕に、きゅっと力を込める滝。

「……それでも。人の命を奪うのは許されないけれど、それでも。あの人なりに私達のためを思ってくれてはいたんですね。優しい人でしたから。正しくなかったかもしれないけれど……」

 滝は寂しそうに笑った。寂しそうではあったが、笑顔だった。

 狗藤はそんな表情にはなれなかった。




 社員の一人、津々羅が世間を騒がせた殺人鬼として逮捕されて以来、しばらく社内は陰鬱な空気によって牛耳られていた。

 しかし、自分達が前向きに生きていくことと津々羅を見捨てることはイコールではない。それに津々羅だって、我々が落ち込んでいるのを知ったら「私のせいで……」と思ってしまうかもしれない。

 長池ながいけやエスクリビール(Escribir)のように特に津々羅と仲の良かった者達は、だからこそそう考え、少しずつ活気を取り戻そうともがき始めていた。


 大切な友人が想像を絶する理由でいつもの場所からいなくなってしまった。ずっと側にいたのに、自分達はあの笑顔の裏にあるものに気付けなかった。何の助けにもなれなかった。あの子は自分達と一緒にいる時でさえも、孤独だった……

 そうして自分自身を責める声は、きっと一生心から消えることはないけれど、それでも。


 一方、そう簡単にはいかない者も当然いるわけで……




 仕事を終えてアパートに帰り着き、家のドアを開けようとしていると、隣室から一里間ひとりまが出てきた。狗藤を見た途端、桃色に変色し、やや大きくなる炎。顔の表情の代わりに炎の色やサイズで感情を表現する一里間の、これは嬉しい時の炎だ。


「おかえりなさい、狗藤さん!」


「ええ…… ありがとうございます」


「今日もお疲れ様です! あの、この前言ってた遊園地、良ければ今度の土日にでも一緒に行きませんか? 一里間も乗ってみたいアトラクションがありまして、レインコート着ていけば上半身は隠せるし体温もある程度抑えられるので……」


「一里間さん」


「はい?」


「今あなたの目の前にいるのがどういう輩かお忘れですの?」

 自分でも驚くほど冷酷な声が出た。


「え……」


「いけませんわよ、お忘れになっちゃ」

 目線をそらし、ドアを開けた。自宅に踏み込み、後ろ手にドアを閉めた。

 バタン。と、強風で閉じられたような乱暴な音がした。




 最低だ。

 ドアで遮られる寸前、辛うじて視界の端に写り込んだ一里間の炎は、緑色がかった小さめのものになっていた。悲しい時の炎だった。


 受傷した直後と比べれば自身の身体からだを受け入れられるようにはなったが、それでも必要以上の外出は避けていた一里間。

 その一里間が、自らどこかに行きたいと言い出したのは初めてだった。


 一里間は狗藤の会社の先輩に何があったのかもニュースで知っている。しばらくはこちらに接する際、どこか気まずそうにしていたが、徐々に態度に明るさを取り戻していき、そして今日の誘いだった。一里間なりの励ましのようなものなのかもしれなかった。それなのに。


 もう一度玄関のドアを開けるだけでいいのに。まだそこにいるかもしれない一里間に先程の発言を訂正すれば済むかもしれないのに。膝から崩れ落ち、玄関にぺたりと座り込んだ身体は動けなかった。


 刑務所を出所し、始まった新たな日常。平和に見えたその中に、途轍もない闇を隠し、ひたすらに苦しみ続けている人が紛れ込んでいた。

 死力を尽くすような思いで作り上げた笑顔の仮面の下で、常に憎しみと罪悪感に押し潰されそうになっていたのだろうか。

 盗みをしてはいけないという感覚が麻痺していた自分と異なり、誰かを殺害するたびに大好きな人との約束を破ったと自分を糾弾し、けれど自分にしかできないことだからとその行為を止めることもできず。


「それでもさ、偉いと思うよ、犯罪で使った能力をいい方に活かそうとしてるのって」

 あの日掛けてくれた言葉。一体どんな気持ちで言っていたのか。


 自分は家族のことは恨んではいない。他の方法を選ばず、盗みを繰り返し、挙げ句殺人犯になりそうになった人物が身内にいたらいい気分はしないだろうから。

 けれど、もしあの時私が「家族には死んでほしい」と答えていたら――津々羅さんはどうしていたのだろうか。


 そして、この一件で思い出した。自分自身が許されるべき人間ではないということ。

 人一人の命を奪いそうになったこと。もしかしたら、結果的に誰かの命を奪っているかもしれないこと。

 戒めのためのおもちゃの手錠まで身につけておきながら、日々の楽しさに流されて忘れていたのではないだろうか。良いことをしたところで、過去の罪が消えるわけではないのに、またしても麻痺していたのではなかろうか。


 いいや。悶々と考えるよりもまずは、今さっき八つ当たりで傷つけた一里間に謝罪しなくては。立ち上がらなきゃ。立ち上がらなきゃ……

 まるで心と身体がバラバラになったように、力が入らない。


 鶏のゴールデンエッグがとことこと歩み寄る。「どうしたの?」とでも言いたげに、心配そうに下から顔を見上げてくる。

 霧がかかるように白み始める思考の中、狗藤は唯一の家族を抱きしめ、小刻みに震え続けるだけだった。




 どうすることもできないまま翌朝となり、朝はあっという間に夕刻へと変わった。

 朝も隣家のチャイムを押そうかどうか迷ったが、その末に何もせず逃げるように会社へと向かってしまった。だが、仕事中も頭は一里間のことでいっぱいだった。

 

 もう勇気が出ないだの何だの見苦しい言い訳はやめよう。今日帰ったらきちんと謝ろう。こんな私を誘ってくれたのに、あなたの好意を邪険にしてごめんなさいと。

 許してもらえなくても、謝ろう。

 固く心に決め、帰り道を歩んでいた。オレンジ色に染め上げられた、他に人通りの見えない道。十数本の鉄パイプが放置された空き地を通り過ぎた。




 がしっ


 直後だった。肩に掛けたバッグが、背後に引っ張られた。

 何かに引っかかったか。そっと見返った。

 ジャンパーを着込んだ見知らぬ人物が、オレンジ色に染められた能面のような表情でバッグを力任せに引いていた。


 一瞬の思案の後、自身の置かれた状況を把握し、泡を食いつつも咄嗟にバッグを引き寄せ返した。

 相手は諦めない。表情一つ変えぬまま、ひたすらにバッグを自分のものにしようと信じられない力で掴んだまま離さない。


 ダメです。それは悪いことですわ。私がかつてしてしまったのと同じようなことですわ。

 嫌です。誰にも悪い人になんてなってほしくありませんの。もう誰にも。誰かが私のように、津々羅さんのようになるのは、もう。

 何があったのか分かりません。あなたのことは何も知りません。けれど、お願いします、おやめくださいませ。離してください、あなたに犯罪者になってほしくない。

 地獄ですのよ。罪を背負って生きていくのは。


 一気に押し寄せる呼びかけはけれど言葉になることはなく、口内に虚しく広がるだけ。

 持ち手が食い込み、肩には千切れそうな痛みが走る。それでもただ無言で、バッグを引っ張り合い続けた。




 ちょっと、あれヤバくない?

 T字路の先、Tの縦棒と横棒がぶつかるあたりの場所で繰り広げられる光景に、足を止めた。

 ジャンパーを着た大柄な人が、前にいる人の肩に掛けられたバッグを奪おうと引っ張っている。バッグの持ち主は必死に抵抗している。両者ともTの縦棒の中程にいるこちらからは表情がよく見えないが、バッグの持ち主はよほど恐怖しているようだ。悲鳴すら上げられていない。


 助けなきゃ、でも、あの人めちゃくちゃ強そう。持ちこたえてはいるけど、相当ギリギリであろうことが遠目でも分かる。体力に自信がないこっちが一人で加勢したところで負けるのは目に見えている。

 だからってほうっておくことなんてできない。盗むという行為は許せない。中学生の頃、泥棒に重症を負わされたことがあるから。

 さりとて、どうすれば…… 通報しても警察が来るまで持ちこたえられるかどうか……


 ……そうだ、この体質を利用すればいい。

 被害者の人はあの空き地を少し過ぎたところにいる。あの人に危険を及ぼさず、空き地の前に立っている犯人だけをビビらせて、手を止めさせる。

 よし……


 片手の人差し指に常にはめている指輪を抜き、地面に置いた。



 

 がちゃがちゃがちゃがちゃ


 無我夢中でバッグを守ろうとする狗藤の耳に、金属の騒ぐ音が届いた。

 相手も急な騒音を妙に思ったのか、バッグは掴んだまま、けれど音の発生源に目を向けた。

 空き地の鉄パイプ達がぶつかり合っている。徐々に重力を失うように宙へと浮き上がっていき、そして。

 合図でもあったかのように、ジャンパーの人物に向かって突進した。

 同時に、狗藤は自身の腕の手錠が浮き上がり、何かに引き寄せられるようにぴんと張ったのを視界に捉えた。

(これって、まさか……)


 予想外の襲撃に、逃げることもできず動きを止めるジャンパー。一瞬のうちに目にも留まらぬ速さで鼻先まで到達した頑強な金属達はしかし、ジャンパーの人物を傷付けることなく動きを止め、大地に大音量とともに叩きつけられた。

 ジャンパーの人物は二、三度その場で足踏みをしたかと思うと、ようやくバッグから手を離し、何も言わず背を向け、走り去った。

 鉄パイプが落ちると同時に手錠の動きも止まったことを確認した狗藤は、しばし呆然としていたが、やがて我に返った。相手が強盗にならなかった安堵よりもまず、手錠が引き寄せられていた方向へと顔を向けた。

 磁石のように金属を引き寄せる体質を活用して助けてくれたのであろう人物の姿は、どこにも見当たらなかった。


 きっとこちらの正体に気付かなかったのだろう。気付いていたら助けるはずなどない。かつて指輪を盗もうとして大怪我を負わせた悪人のことなど……

 これで許されたと思ってはならない。

 遠くから、目井めいさんが自分の名を呼ぶ声が聞こえた。




「びっくりしましたよー! 目井さんから狗藤さんが怪我したって連絡が来たんですから!」

 病院の待合室。ソファーに腰掛ける狗藤を前に、炎の高さを上下させながらほっとした声を出す一里間。


「怪我といってもバッグの持ち手が肩にめり込んで腫れただけです、大したことありませんわ」


「でも痛そうです。お大事に…… さっき聞いたんですが、バッグを盗もうとした犯人は捕まったらしいですよ。目撃者がいたそうで」


「そう、ですか……」

 きっと警察と目井さんへの連絡も、私を助けてくれた人がしてくれたのだろう。私を救うべき人物ではないということに気付かぬまま。

 そしてジャンパーのあの人は結局、犯罪者になってしまったのか……

 そうだ、一里間に謝らなきゃ。あんなにひどいこと言ったのに、今こうして何事もなかったかのように病院に駆けつけてくれたんだから。

 口を開こうとしたが、それより一足早く話し始めたのは一里間の方だった。


「あのですね狗藤さん。ここで急にこんな話をするのもおかしいかもしれませんがね」


「? どうしましたの?」


「いや、どうしたってことはないんですがその……」

 咳払いで口から煙を吐き出し、続けた。

「狗藤さんが以前どういうことをした人なのかは知ってます。そして、それは悪いことだったと思います」


「……はい」


「そうです。分かってます。ですが、一里間は狗藤さんと遊園地に行きたいんです。狗藤さんのしたことですから、狗藤さんと関係がないと言い切ることはできません。けれど、一里間は一緒に行きたいんです。狗藤さんの全部含めて、一緒に行きたいんです。ダメですか?」

 強く、温かい声だった。


 許されたと思ってはならない。

 けれど…… 今なら、同じ温度の声で返せるだろうか。

「……ダメなんかじゃありませんよ」

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