救い

「あ」

 病院に足を踏み入れた魚田うおたの口から声が漏れた。


 こちらに向けられた、ズタボロの白衣に包まれた大きな…… けれど心持ち普段より小さく思える背中。

 待合室のソファーに着座し、人形のように微動だにしない、しかし人形ではなく人間の背中。


 時折、胡乱うろんな言動に困惑させられることもある。それでも、尊敬している主治医。

 こんな様子は初めて見る。

 あちらはこちらの訪問に気付いていないようだが、なんとなく気まずくてすぐには声をかけられなかった。

 ごまかしのように、入口付近に配置された水槽に人差し指を当ててみた。火傷だらけの、けれど元気いっぱいのサンマがすーっと泳ぎ寄る。自分の住居に押し付けられた指の腹を、白い眼球で興味深げにしげしげと見つめている。

 魚田は少し微笑み、ぺたぺたと指を他の箇所にも押し当てていく。サンマはその都度、泳いで指を追いかけた。


 しばしそうしてからやっと意を決し、まだこちらを向かない白衣の人物に呼びかけた。

目井めいさん」

 声は、若干上ずっていた。


「! 魚田さん! あれっ、今日約束してましたっけ⁉︎」

 意識を取り戻したかのように、反射的にこちらを見る横顔。

「してませんよ。来てみただけです」

 目井さんが言葉を返すよりも先に、入り口を向けて配置されているソファー、つまり目井さんが座っているそれと背中合わせに置かれたソファーに腰を下ろす。

「病院、やってるんですね」

 振り返らず水槽だけを見つめて言ってみた。

 背中の真後ろから返事が聞こえる。

「ええ、いつどなたがどんな理由でいらっしゃるか分かりませんから」

 少し迷って、口にする。

「……なんか、この町おおよそいつも通りですね。『あんなこと』があったから、TVなんかがいろんな所に詰めかけてもっと大騒ぎになっちゃうのかと思ってました」


「ああ、それに関しては私自らマスコミの方々に『津々羅つづらさんに関わる方達を中傷するような報道をしたら、アレさせていただきますよ』と脅させていただいたので」


「そ、それはそれは……」

 「アレ」がドレなのか無性に気になったが、知らないほうが良さそうな気がしたので訊かないことにした。


 そっと座り直し、「アレ」について尋ねる代わりに、違うことを尋ねた。

「目井さん、私のことは、怒ってますか……?」

 言ってから、心臓が大きくドクドク鳴り出した。視界の中の自分の膝が小刻みに震えていた。


 問いかけられた意味が分からなかったのか一瞬黙り…… けれど何秒もしないうちに応答はあった。

「いいえ」


 その言葉に、どう答えたら良いのか分からなかった。

 ほっと胸を撫でおろしたいような、罪悪感が膨張したような、納得がいかないような。

 この前逮捕された「あの人」についてどんな感情を抱けばいいのか。それ自体、魚田の中で整理はついていない。未だ胸に残る恐怖を植え付けた張本人で、けれどそもそもそうさせたのは自分自身で、父親から救い出してくれた命の恩人でもあって、でも世間から見たら悪い人で……


 二の句が継げず思考していると、後ろで大きな背中が伸びをするような気配が伝わってきた。

「まあ…… 今回のことで、私は失格なんじゃないかと思いましたよ」

 

「失格?」


「私はあの方がおうちで辛い思いをし続けていたことに気付きませんでした。また、あの日、私はあの方を救うつもりであの方のしてしまったことを隠しましたが、それがかえってあの方を地獄に突き落とすことになったんです。あまつさえ、あの方が人を殺し続ける道を選んでしまった、選ばざるをえなくなってしまったことも察知できず……

 魚田さん、あなたのこともそうです。『依頼』をしなければならないほど追いつめられていたなど思いもよりませんでした。なんとお詫びして良いのか分かりません。

 大勢の人の痛みに気付けないなど、医者失格ではないかと」


「そんな」


「病院を開けておいてこんなことを言うのは矛盾してますがね……

 そもそもこんなこと、患者様、しかもお子さんに言うべきではありませんでしたね。重ね重ね申し訳ありません。忘れてください。申し訳ありません」

 それきり、背後の気配は黙ってしまった。




 「お医者さんをやめないで」も、「元気だして」も、「大丈夫だよ」も、違う気がした。

 だから、そうじゃないことを言った。

「目井さん、前言ってくれたこと、忘れちゃった? 『悲しい時は悲しむのも大事です。悩んでる時は悩むのも大事です』って。今がそういう時なんだと思います。今は整理がつかなくても、きっといつか答えは見つかると思います。自分で見つけるものだとは思いますが、でも一言だけ口出しさせてください。

 目井さんが救えなかった人達だけじゃなくて、目井さんが救えた人達もいるんです。救ってくれてありがとうって思ってる人もいるんです。今ここにも。それだけ、忘れないでくださいね」


 顔の見えない背中合わせの人物は、やがてふうーと息を吐いた。

「やはり失格かもしれませんね。患者様、しかもお子さんに気を使わせるなんて。医者以前に大人として失格です。ですが……」

 小さな声で、けれどたしかに耳に届いた感謝の言葉。


「はい」

 魚田は答え、ソファーに両手をついて立ち上がると、振り返らずに病院を出ていった。


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