Courteous Doctor

 隣町のある病院。




「あの、先生… まだですか…?」

 患者様は苦痛に歪んだ口から問いかけの言葉をもらす。その両手は腹部に置かれている。


「大変申し訳ございません。

 ですが、患者様への敬意と感謝を示すためには、間違いなく遂行しなければならないことなのでございます」




 何年も着用しているのに新品同様に一つの汚れもヨレもなく、目が痛くなるほどの白さを誇る白衣。

 一本たりとも微動だにできないように、ポマードできっちり七三に固められた髪。

 1mmのズレもなく、決まった場所に固定されているかのように配置された家具や書籍や治療器具。

 そして、仮面のように顔に貼り付いた、決して絶やすことのない左右対称の笑み。

 目じりはとろけたチーズのように下げられ、三日月を連想させる吊り上げられた口角からは真珠のごとき歯がのぞいている。


 そんな佐豊さほうは患者様の問いかけに答えると、横の壁に目をやった。

 壁には、その大部分を占めるほどの大きな分度器が上下さかさまに貼り付けられている。


「お辞儀は必ず90°の角度で行わなければならないのでございます。これがマナーなのでございます。できなければ医師として以前に人間として恥でございます。

 もう一度ひとたびやり直させてくださいませ」


 表面が眩しいほどに磨きあげられた左目の片眼鏡をくいっと上げる。

 分度器を視界の端に捉える。

 脳天から一本の針金を通したかのように、ピンと背筋を伸ばす。

 かかとを閉じ、つま先も揃える。

 両手を身体の前で重ね、患者様とアイコンタクトをとる。

 身体を腰から曲げ、ゆっくりと頭を下げた。


 3秒後、ゆっくりと頭が持ち上げられた。

「ようこそいらっしゃいました。本日はどうされましたか?」

 よく通るはきはきとした声が部屋に反響した。


 腹の中で、硬い石のような何かがゴロゴロと転がり続けている。

 痛みのあまりに顔中に玉のような冷や汗を浮かべ、せめてもの気休めにと腹をさすり続けながら、けれど患者様はほっとした。


(やっと終わったか…

 さっきからやれ89°だっただの、頭上げるタイミングが早かっただの、足が揃ってなかっただので小一時間はやり直しやがって。こっちは今までの人生で体験したことがないくらいの痛みだから早く診てほしいって言ってんのに。

 まあいいや、これでやっと…)


「お待たせして大変申し訳ございませんでした。

 では続いて、お辞儀のやり直しにあなた様の貴重なお時間をいただいてしまったことについて、お詫びの土下座をさせていただきます」


「は?」


 佐豊は申し訳なさをいっぱいに浮かべたまなこで患者様を見つめる。

 目を離さず、三歩ほど後退する。

 右脚から膝を床につけ、両手も八の字になるように床に置き、正座のような体勢になる。

 一気に頭を、床の寸前まで下ろす。


「この度は、誠に申し訳ございませんでした!」


「いや、もういいですから…」


「いいえ、大変申し訳ございませんでした!」


「いいから、早く診ていただきたいんですが…」


 くしゃみをする佐豊。

 その勢いでバランスを崩し、片肘が床についた。


「大変申し訳ございません。土下座をやり直させていただきます」


「ええ⁉︎ もう結構ですよ! 挨拶だけでどんだけ時間とったと思ってんですか!

 早く治療してください! お腹に石が大量に詰まってるみたいにゴロゴロして痛くて重いんです! ここに来るのもやっとだったくらいなんです!」


 くらくらと揺れ始めた視界に吐き気を催しつつ、必死に訴える患者様。


 佐豊は首を横に振る。


「いいえ、マナーはマナーでございます。

 診察をさせていただく前に、誠心誠意、心のこもった態度でお迎えしなければ失礼にあたるのでございます。

 マナーはお相手の方を不快にさせないためのもの。どんな理由があろうと、この形式は守らなければならないのでございます。


 では土下座を… あっ、お待ちください。より謝意が伝わる土下座の様式というものがあったはずでございます。そちらを行わせていただきます」




 患者様は息苦しささえ感じ始めた。

 朦朧としつつも片手で腹をひたすらにさする。もう一方の手は吐瀉物が飛び出さないように口元に当てる。

 体内で石らしきものと石らしきものが激しくぶつかり合う、ごんっ、ごんっという背筋が凍りつくような音と感覚。

 泳ぎは得意だけど、今この状態で水に入ったらどうあがいても沈んでいって、二度と浮上できないに違いない。


 壁に取り付けられた本棚に並ぶ本の、「新しいマナー」だの「あなたの知らないマナー」だのといったタイトルの冠された背表紙が彼方にあるように感じられた。実際には手を伸ばせば届く位置なのに。


「ああ! なんと未熟なことでしょう!

 あの土下座の方法が思い出せません! どうやるんでしたっけ⁉︎」


 そんなもんはどうでもいいんだよ!

 痛いんだよ! 赤い頭巾被った子や、7匹のヤギのお母さんをボコボコにしたくなるくらい痛いんだよ!

 治してほしいんだよ! 助けてほしいんだよ!


 喚きたかったが、出てきたのは声ではなく荒い呼吸。出てきそうになったのも声ではなく先ほど家で食べてきた食事だった。


「いつものサイトでやり方を確認しなければならないのでございます。

 けれど、患者様の前でスマホを見るなど、のど飴を舐めながら職務に臨むごとき言語道断。礼儀がなっていないのでございます。

 しかし、より誠意を込めるためにはあの様式でなければならないのでございます。

 けれど、けれど… あああああどうしたらよいのでございましょう!?」


 どうもしなくていいんだよ! ただこの痛みをなくしてくれればいいんだよ!


 腹の中身がますます重量を増していく。

 手を置いているだけでも、それなりに肉がついて柔らかかった腹部が1秒ごとに硬化していくのが分かる。

 まるで身体を突き破ろうとするかのようにせりだしはじめた中身に突き上げられ、デコボコし始める。


「様式を間違えてでも土下座をすべきか、失礼を承知でスマホを操作させていただくか…

 究極の二択でございます。真に患者様にご満足いただけるのは一体どちらなのでございましょう…」


 貼り付いた笑顔のまま、ぶつぶつと独りごちだす佐豊。


 患者様は、カバンのチャックを開く。

 中でスマホを操作する。


(こっからだと隣町の目井めいクリニックってとこが近いな。タクシー呼ぼ)


 患者様は痛む腹を抱え、息も絶え絶えに手すりを伝ってほとんど身体を引きずるように診察室を去った。


「患者様への礼儀を示すには… そもそも礼儀とはどういうものなのでございましょうか…」

 佐豊は礼儀を示すべき相手がいなくなったことにさえ気付かず、迷い続けていた。

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