枕元と足元

「ご心配には及ばないデス。あなた様のご病気は必ずや治して差し上げるデス」


 頼もしい医師の言葉に、患者様は苦しそうながらも表情をほころばせた。

「ありがとうございます。宜しくお願い致します」


「ああ、ベッドの向きを変えて差し上げますデス。頭があっち側の方が窓の外が見やすいのデス」


 医師はベッドに接続されているリモコンを手に取り、スイッチを押した。

 静寂の満ちる部屋の中、ベッドが回転するうぃーんという機械音だけが響いた。




名付なつき先生ー! つつがなくお過ごしでしたかー?」


 片手にはチェーン系カフェのロゴがプリントされたトートバッグ、もう一方の手はブンブンと蜂が飛び回るような音がするほど激しく振り、顔は弾けるような笑顔。

 そんな様で窓から侵入してきた長身に、隣町の医者仲間は紅茶を噴き出しそうになった。


「ドクトル目井めい⁉︎ どうしたんデス突然!?」


「『目井さん』とお呼びください。何人もの患者様を救えなかった私程度がお医者様扱いされるなんておこがましすぎます」


「それ言ったら名付のことも『先生』って呼ぶのやめるデス。もう医者辞めたデスから」


「…そうでしたね。では名付さん、とお呼びします」


「で、何の用デス?」


「友人に紅茶をたくさんいただいたんですが、本当にたくさんで飲みきれないので一緒にいかがかと思いまして」


「わあ、名付の好きな銘柄… うん、じゃあいただくデス。その前に一つ」


「はい?」


「いい加減視認できないほどの速さで手振るのやめるデス。見てるだけで言いようのない不安に襲われるデス」


「あ、はい」




「しかし、あなたがお医者様をお辞めになったのは残念でしたよ。あなたがお決めになったことなのでどうこう言うべきではないんですが…」

 話が盛り上がってきたあたりで、思い出したように目井さんが言った。


「薬草の知識なんかも豊富ですごいじゃないですか。私も色々と教えて頂きましたし」


「こっちもこっちで思うところがあったんデス」


「そうなんですね。

 ところで、全く話題が変わってしまってあれなんですが、このところこちらの町で連続殺人事件が発生していますよね?」


「ああ、もう十件は起こってるデス」


身代みしろ先生も堂喪どうも先生も甲藻こうも先生も、被害者の方が病院に搬送されてきて、助けようとしたけれどどうしようもなかったとおっしゃっていましたよ。本当にお痛ましいことで…」


「ドクトル甘井あまいなんて『僕のところにまで運ばれてきたんだよ~! 僕のところにまで~! 僕のところにまで~!』って騒いでたデス」


「そんなご自身がダメな医者だから患者様が来るなんてありえないと思ってたみたいな言い方しないでくださいとお伝えしておきます。

 で、事件が起こりだしたのってちょうど先月の10日からですよね?」


「そうデスね」


「それのほんの2日くらい前ですよね?」


「何がデス?」


「あなたが突然お医者様をお辞めになったの」


「…」


「被害者の方達にはひとつだけ共通点があるんです。全員あなたに治療してもらったことがあるというね」


「…」


「皆さん死因は植物からとられた毒を摂取したことによるものなんだそうです。犯人に飲まされたようなのですが、遺体に抵抗した跡は全く見られなかったそうです。このことから、顔見知りの犯行が疑われています。

 あの毒、超即効性で解毒剤もない危険なものなんですよね。あなたに教わりました」


「…」


「あなたはどんな絶望的な状態の患者様も救おうとずっと努力し続けてこられた方です。

 ですから、そんなはずはないと信じています。ただ確認させて頂きたいだけです。

 あなたがやったわけでは、ありませんよね?」


 名付は青くなったり赤くなったり白くなったりしながらしばし黙秘した。

 まだ中身の半分以上残るティーカップを、まるでそうしていれば答えるべき返事が浮かんでくるかのように、濃い隈に縁取られた感情のない目で見つめ続けていた。




 どれほど経過した頃か、観念したように口を開いた。


「名付、小さい頃から見えるんデス」


「何がですか?」


「ベッドや布団に横になっている人の枕元か足元には、必ず白い影がいるんデス。白くてぼんやりした、形のはっきりしない、触ることもできない影。

 それが枕元にいる人は何ともないんデス。でも、足元にその影が立ってる人は、必ず近いうちに亡くなるんデス」


「何なんですか、それって…?」


「存じ上げないデス。でもきっと… あれが死神ってやつなのデス」

 ティーカップを持ち上げ、残った中身を一気に飲み干す。すっかり冷めきっていた。


「医者になったのは、『死神』に逆らうためだったデス。昔から足元に立たれた人達が亡くなるのを見てきたから、もうあいつらの好きにはさせてやらない、もう誰も死なせない、そう思ったからデス。

 枕元に『死神』がいる患者様は、必ず助けられたデス。足元に『死神』がいる患者様は、ベッドを回転させて枕元と足元が逆になるようにして治療したデス。そうすれば枕元に奴らがいることになって、死なないですむんじゃないかって。ずっとそうしてきたデス。

 でも、ダメだったデス」

 机の下に隠した利き手の拳を、親指が手のひらに食い込むほど強く握りしめる。


「一度足元に『死神』が現れた患者様は、どんな治療法を試しても決して救えなかったデス。そうやって何人も何人も亡くなるのを見ていることしかできなかったデス。

 とうとう、諦めるしかなかったデス。人間にはなんの力もない。『死神』の決めた寿命には抗えないんデス。そう考えたら、医者になった意味がなくなった気がしてしまって、辞めようと決意したデス」

 拳から生じた血の雫が、床へとしたたり落ちた。


「でも、そこで気付いたんデス。誰でもみんないつか死ぬんだって。ろうそくと同じデス。火をつければどんどん溶けていって、最後にはなくなってしまう。火をもっと長いろうそくに移し替えたところで、そのろうそくだっていつかは溶けてしまう。

 それなら、どうせ遅かれ早かれ溶けるしかないなら、必死になって命を救ったって無駄なんじゃないか、むしろ、余計なことなんじゃないかって思い始めたデス」

 床の上の小さな小さな血の水たまり。一滴、一滴と雫が加わり、徐々に大きくなっていく。


「だから、名付のした『余計なこと』をなかったことにしたかったデス。今まで助けた人達をみんな殺せば、名付は人間がいずれ辿らなければならない運命に逆らった悪人じゃないことになる、そう思ったデス。

 あの人達、みんな名付が訪ねて行ったらあっさり信用して、あっさり家に入れてくれて、あっさり毒飲んで、あっさり亡くなったデス」

 一滴、また落ちた。




「『そんなわけないデス』って、笑い飛ばしてほしかったです」

 先程と同じくらいの長い沈黙の後、目井さんがポツリと呟いた。


「あなたの悩みに気付くことができませんでした。あなたにも被害者の方々にも、一体何と言ってお詫び申し上げればいいのか…」


「なんであんたが謝るんデス。気付かなくて当たり前デス」


「ですがね、名付さん。これだけは分かってください。

 無駄でも余計なことでも悪でもありません。たしかに『大多数の』人間はどうしてもいつか必ず亡くなってしまいます。

 ですが、たとえほんのわずかでも長く生きて、ほんのわずかでもご本人がやりたいことをできるようにお手伝いすることの一体何が間違っているんですか。あなたやこの町のお医者様方や私が今まで救ってきた方々は一体何だったんですか。いえ、もっと言えば、人間に限らず生き物はみんな何かしらを摂取し、排出し、他の存在と関わりを持ちます。これらも全て、生きるためです。生きているということは、それだけで死に抗い続けていることなんです。

 あなたはあなたなりのお考えで悩み続けてこられたんですよね。ですが、お願いですから、命そのものを、生きることそのものを否定するのはおやめください」




「…そっか」

 名付は顔を上げた。とても悲しそうな笑顔だった。


「そっか。分からないよね」


 立ち上がり、存外しっかりした足取りでキッチンへと向かっていく。


「名付さん?」

 目井さんは慌てて追った。




 名付はキッチンの棚から迷いなくひとつの瓶を手にし開封した。蛍光緑の液体が入っているのが見える。少し離れたところからでも、鼻を刺すような強烈な刺激臭を感じる。


 目井さんはギョッとした。

「ダメです! おやめください!」


 崩れることのない悲しそうな笑顔を向け、最後の言葉を告げた。


「バイバイ、ドクトル目井。助けないでね」


 瓶の中身を、一気に煽った。




 名付の脳が最後に思い出したのは、今朝自分のベッドの足元に見えた白い影。

 名付の耳が最後に聞いたのは、聞く者にまで感情を伝染させる、誰かを救えなかった者の悲壮な悲鳴。それから、一瞬のうちに全身から集められ、喉からせり上がってきたおびただしい量の体液が口からキッチン中に吐き散らされる、「げぼっ」とも「ぐぼっ」とも「がぼっ」ともつかない不快音だった。

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