水筒
夜、診察室で医療従事者向けの雑誌をマーカーで線を引きながら熱心に読んでいた
壁に掛けられた時計が目に入る。
「もうこんな時間でしたか」
ひとりごちると椅子から立ち上がり、音がした方に向かって呼びかけた。
「どうぞー」
ガラッとドアを開けて、濃い色のサングラスをかけた患者様が入ってきた。
「こんばんは、
「こんばんは、目井さん」
十と呼ばれた患者様は、親しげに微笑むと手にしたクーラーバッグを目井さんへと手渡した。
「先週のです。ありがとうございました」
「どういたしまして。ではこちらが今週分です」
目井さんも同じように微笑むと、机上にあったクーラーバッグを同じように十に渡した。
いつもならそれで二言三言交わしてから、夜の間だけ従業員として働くホテルへ向かう十だが、どうしたのだろう。
今日は受け取ったバッグの中身を見ながら立ちすくんでいる。
「どうなさいました?」
「あっ、いえ… 今更ですけど、これをくれた人たちにもちゃんと教えてくださってるんですよね? 私みたいな人のために使われるかもしれないって」
「ええ、もちろん十さんの個人情報は伏せてありますが、協力してくださる方々にはこういう体質の方の為にもなる… ということは大まかにですが説明してあります」
「そうですよね… なんかね、親以外にも快くこういうことしてくれる人たちもいるっていうのが今更ながらありがたいことだなーと思えてきちゃって」
十が、前に住んでいた町でその体質故に気味悪がられ、差別されてきたと話していたこと、両親を失ってから誰にも助けてもらえず、餓死寸前で道端に倒れていたところを自分が間一髪救ったことを目井さんは思い出した。
「本当にいい人ばかりですよねこの町。私の体質を知っても他の人たちにするのと同じように接してくれるし、怖がらずに私のことをわかろうとしてくれてる。
私を無理やり昼間に外に引きずり出そうとなんてしないし」
「前の町でそんなことをされていたんですか? 命に関わるじゃないですか」
「ええ… あと、人に噛みついたことがあるとか、催眠術が使えるなんて事実無根の噂を流されもしたし…
あ、ごめんなさいこんな話しちゃって。でもとにかく何と言いますか… この町に来て、『こんなおかしい私でも人間扱いされていいんだ』って初めて思えて、だからまあ感謝してるってことです」
「そうでしたか。そう言えば十さん、どんどん笑顔が素敵になってきていますものね」
「目井さんほどじゃないですよ」
十がそう言ったのと、ぐううううう、という音が鳴り響いたのは同時だった。
「…お腹すいてらっしゃいます?」
「…あはは、今日はちょっとね…」
「でしたらどうぞ、ここでお飲みになってください」
「いいですか? じゃあちょっと…」
十は患者様用の椅子に腰かけると、バッグのチャックを全開にした。
1リットル入りの水筒が7本入っていた。
そのうちの1本を取り出し、蓋を開けて中の液体を口内へと流し込む。
鉄のような香り。小さい頃から慣れ親しんできた飲み物。
以前は両親の味しか知らなった。でも、今は色々な人のが味わえる。人によって味がこんなに違うなんて知らなかった。
ああ、美味しい。ん、珍しい味が混じってるな。
飲み込んでから、目井さんに尋ねた。
「これ、Rhマイナスの人のが入ってます?」
「流石ですね。昨日初めて献血するというRhマイナスの方が来てくださったんですよ」
「やっぱり」
十は唇についた鈍い赤色の液体を舌で舐めとった。
1日に約1リットル、7日で約7リットル。
1週間分の中身が詰まった水筒を、毎週のこの曜日に目井さんにもらいに行く。
先週の分の水筒を洗って返すのと引き換えに。
これらの水筒の中身が、十が唯一口にできる、命をつなぐものだから。
「それと、個人的に思うんですがね…」
「はい?」
「母乳というのは血液から作られるものなんです。そう考えると、人間はほぼみんな、いえ、哺乳類はほぼみんな血を飲んだことがあると言っても過言ではないんじゃないかと思うんです。
だから、なんにもおかしいことはないんですよ」
「…なるほど」
十は、尖った2本の八重歯を見せて笑った。
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