araña

「その後、いかがですか調子は?」


「おかげさまで好調ですよ。何も問題ありません」


細蟹ささがに目井めいさんに笑顔で報告した。


これまでは自他ともに「元気だけが取り柄」と認める、病院とは無縁の人生を送ってきた細蟹だったが、先日ちょっとしたことで怪我をしてしまった。


激しい痛みと朦朧とした意識の中、目井さん自らが運転する救急車で搬送されながら、これから自分は一体どうなるのだろうと不安を抱えた。


だが、終わってみればまったく大したことはなかった。痛みも後遺症も嘘のように残らなかった。

医療というのはすごいものなのだなと、初めて身をもって実感した。




あまり人に言ったことはなかったが、細蟹は生まれつき蜘蛛が苦手だった。


あのちょこまかとした動きが、たくさんある細長い脚が、頭と腹にしか別れていない小さな身体が、というかもう全てがダメだった。


他の虫に対してはそこまで嫌悪感はないのに、蜘蛛だけは別だった。


蜘蛛が一瞬視界に入るだけでも涙がこぼれ落ちそうになり、走馬灯が脳内を駆け巡るほどの恐怖を覚えた。

恐怖のあまり追い払ったり潰してしまったりということもできず、いつもおののきながら蜘蛛が自分からどこかに行ってくれるのを待つことしかできなかった。


蜘蛛に関するもの、連想させるものはことごとく無理で、避けてきた。

中年と呼ばれる年齢になった現在でも芥川龍之介の「蜘蛛の糸」がどんな話なのかを知らないほどであった。もしも「蜘蛛の吐いた糸を上るシーンがある」などと知ったら、それだけで卒倒するに違いなかった。

百歩譲って卒倒までいかないとしても、「そんなもの上るくらいなら永遠に地獄にいた方がマシだ」と蒼白な顔でコメントするに違いなかった。


そもそも先日目井さんに手術してもらったのも、仕事中机上に蜘蛛が現れたのに驚いて喉が張り裂けんばかりの悲鳴を上げながら椅子ごと後ろに倒れて後頭部を強打、縫わなければならないほどの傷を負ってしまったからだった。




そんな細蟹だったから。




「そうですか。良かったです。あの子も喜びますよ」


「あの子?」


「ええ、今もあなたの椅子の下にいるんです。出てきてくださーい」


目井さんの呼びかけに応じて、回転椅子の座面の下から、よじよじと、折れそうに細い8本の足と、ぷっくりとした頭と腹と、ベースとなる薄い褐色に濃い褐色のまだら模様をもった、自分の掌と同じくらいのサイズの蜘蛛が膝に這い上がってきて、




「この前からうちで使う糸はその子に出してもらうことにしたんですよ。

蜘蛛の糸は鋼鉄よりも頑丈で、止血効果もあるらしいですからね。


もちろんあなたの手術にも使わせていただきましたよ。

傷口がもう二度と開かないように、後頭部にしっかり縫い付けてありますのでご安心を。今から抜糸しちゃいますがね」


目井さんのそんな台詞を耳にしたら、喉が張り裂けんばかりの悲鳴を上げながら椅子ごと後ろに倒れて後頭部を強打せざるをえなかった。




「細蟹さん? おーい、大丈夫ですかー? あ、ダメだ。完全に気絶してる上にこの前とは別のところが切れてる。今すぐ縫わなきゃ。


あの、蜘蛛さん、また糸出して頂けますか?」

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