魚の目

出てきた患者が何故か待合室にある本棚に真剣に話しかけ始めたのを不審に思いつつ、水住みなずみは入れ替わりに診察室へ入った。左足を引きずりながら。




「こんにちは。どうなさいました?」

椅子に座ると、目井めいさんが、いつも通りに微笑みかけてきた。


性別も年齢も下の名前も、何を考えているのかすら不明なこの人物が、水住は嫌いではなくともなんとなく苦手だった。


とはいえ、この町に病院はこの「目井クリニック」しかないから、何かあったらここに来ざるを得ないのだが。


とにかく、水住は目井さんに今日ここに来た理由を伝えようと話し始めた。


「ええと、ですね先生。なんかすごく変な怪我というか病気というか… そういうのだと思うんですけど…」


「ええ、大丈夫ですよ。見慣れてますから、どうぞお話しください。それと、『先生』なんておやめください。『目井さん』とお呼びください」


「そうですか… それでですね目井さん、今日学校でプールの授業があったんです。それで泳いでたら急に左足の裏が痛くなってきて、後ろで見てた友達の悲鳴も聞こえてきたんです。しかも…」


一旦口を閉じ、考えるそぶりをした。分かってもらえるであろう言葉を選び、身振りを交えながら再び話し始める。


「平泳ぎしてたから顔は正面を向いたままで、両目は自分が飛び込んだのとは反対側の飛び込み台の方を見てたんです。


…なのに、


自分が飛び込んだ飛び込み台や、こっちを見て驚いてる友達の顔が。まるで、


それで、慌てて水から上がって左足の裏を見てみたら、こうなってて…」


水住は徐に左の靴と靴下を脱ぎ、裸足になった足の裏を目井さんに向けて見せると、両目を閉じた。


闇に閉ざされるはずの水住の視界は、しかし、目井さんの笑顔をはっきりと捉えていた。


左足の裏の中央にぎょろりと光る、500円玉ほどの大きさのによって。




「こういうわけだからびっくりして、何よりメチャクチャ痛いんで、学校早退して車でここまで送ってきてもらったんです。で、これって一体…」


金色の白目に包まれた黒い瞳と目を合わせた目井さんは言下に答えた。


「ああ、これはウオノメですね」


「え… ウオノメって足の裏やら指やらにできるイボみたいな、あの?」


「ええ、あれは悪化すれば悪化するほど魚の目に近い形状になっていって、究極に酷くなるとこうなって視力まで発言するんですよ。ほら、それも鯛の目みたいに見えるでしょう?」


「そうですけどそんなギャグみたいな… しかも究極に酷い割に自覚症状なかったんですけど…」


「まあ、そんなこともあるかもしれませんね。急に悪くなることもあるんでしょう」


「そんな適当な…」


「それで、治療はどうなさいます?」


「どうって、確かに目がもう1つあるって便利かもしれないんですが、それよりももう痛くて痛くてうまく歩けないんです… できるだけ早く治していただけませんかね」


「でしたら、簡単に切除できますよ。今からやりましょうか?」


「お願いします! 是非」


「では、準備をしてくるので少々お待ちくださいませ」


目井さんは背を向けて診察室にかかるカーテンの奥へと引っ込んでいった。


水住はほっと息をついた。やっぱりあの人とはなんか合わない感じがする。けど、この痛いのを治療してもらえるというのはありがたい。あんまり悪く思うのはよそう。


ああ、さっきからずっと顔の目は閉じっぱなしだったな。そろそろ開けよう…


今まさにまぶたを持ち上げようとしたその時、30秒もしないうちに目井さんが戻ってきた。


その姿がウオノメに入るや否や、水住は首をかしげた。目井さんの言う「準備」が想像を遥かに超えるものだったから。


ウオノメは顔にある目とは違って、変な風な見え方をしちゃうことがあるんだ。きっとそうだ。というか、そうであってくれ。


心の底から祈りながら2つのまぶたを開いた。だが、見える光景は全く同一だった。




サメだった。


軟骨魚綱板鰓亜綱の魚類のうち、鰓裂が体の側面に開くものの総称である、あのサメ。


直前まで水中を泳いでいたのであろう巨体からぽたぽたとしずくを滴らせ、たくさんの牙を剥き出し、つぶらな瞳を光らせてウーウー唸っている。


そして、自分の身長の何倍もあるそんな生物をあたかもキャンプの道具かなにかのようにうきうきと小脇に抱えている医者。


「どこのB級映画ですか? 何ジョーズ?」

真っ先に口をついて出たのは、自分でもどうかと思うセンスのセリフであった。


「ウオノメも魚みたいなもんなんだから、サメさんに食べて退治してもらうのが一番なんですよ」


「そういうもんなんですか?」


「そういうもんなんです。足湯でお魚さんに角質を食べてもらうって話は聞いたことあるでしょう? あれと似たようなものです。さあ、足をこちらに向けて。この子は人間は食べない種類のサメさんだから心配いりませんよ」

そう言って抱きかかえたサメを水住に近づけた。


一瞬納得して足の裏を目井さんの方に向けたが、はたと気が付いた。


「人食いじゃないって言っても、勢い余ってウオノメ以外の部分を食いちぎっちゃうことはないんですか?」


「んー、あるかもしれませんねえ」


「いや、のんきに言うなや!」


慌てて引っ込めようとした左足は、しかしいつの間にか台の上に包帯でグルグル巻きにされていたため微動だにすることができなかった。


「マジでいつの間に!?」


「はーい、いきますよー」

二重三重に並んだぎざぎざの歯でいっぱいの、燃えるように真っ赤な口ががーっと吼えて飛びかかってくる。


「まってまってまってちょーちょーちょーあああああああああああ」

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