人間じゃない
居酒屋で1人飲みをしていたら、隣に座った奴に話しかけられた。
目井さんだった。久しぶりだったので話が盛り上がった。
最近まともに人と顔を合わせて話していなかったから楽しかった。普段人に言うとなぜか変な顔をされることでも、目井さんはいつもの笑顔で面白そうに聞いてくれた。
「何の流行りなのか、最近よその町の奴らがこの町にいっぱい来やがってて、そいつらにも親切にしましょう的な空気が流れてるけどなあ、そんなの無理に決まってんだろ。世界で一番優れたこの町に、あんな下等な連中が入ってくるなんて許せねえ」
「へえ、そうなんですか」
「この町に生まれたってだけで選ばれた存在なんだから、外の連中なんかとつるむべきじゃねえんだよ。マジで今すぐにでも全部追い出すべきだ。
こう言うとみんな俺のこと差別主義者だって言うけどなあ、違うんだよ。そもそも差別ってのは人間に対して使われる言葉なんだよ。
この町の出身者じゃない奴らは人間じゃないから、あいつらに対する差別は差別じゃない。何も間違ってないだろ?」
「なるほどなるほど、興味深いですねえ」
「こんな当たり前のことすら分かんないバカが多くて困るよなあ。あいつらに人権なんかねえんだっての。何仲良くしてんだ」
「あなたはそうお考えなんですね」
俺の正論を聞いてくれるのが嬉しくて、時間を忘れて喋った。
「あ、もうこんな時間だ。悪い目井さん。俺もう帰るわ」
明日も仕事だし。そう言って腰を浮かせたその時だった。
「待ってください。あなたそんな目じゃ大変でしょう。治療しときますね」
目井さんは、2本の人差し指で俺の両目の下まぶたをあかんべをするように引っ張った。
俺の視界がぐるぐると回り始める。
天井、床、目井さんの顔、自分の着ている服。
それらの映像が次々と変わりばんこに脳に運ばれてくる。
やがて、景色の回転は止まった。
左目は店の天井、右目は今日履いてきたジーンズの紺色を映し出して。
ああ、これって、引っ張られた勢いで目玉が飛び出して、回転しながら膝の上に落っこちたのか。
理解すると同時に、気を失った。
はっと覚醒した時には、自室のベッドの上だった。
目は普通に見えているし、鏡で確認したけど目玉も両方ともきちんと眼窩に収まっていた。
昨日は大分酔っていたし、いくら目井さんでもさすがにあんなことはするまい。夢でも見たんだろう。
気を取り直し、仕事へ行く準備を始めた。
準備が整い、さあ出かけようと玄関を開けた。妙な光景が目に飛び込んできた。
家の前にバケツが置かれていたのだ。
何の変哲もない、普通の水色のバケツ。
(? なんだこれ? 邪魔だな)
俺は家の前を流れる川めがけて思いっきり蹴り上げた。バケツはほとんど何事もなく軽々と宙を舞い、橋を越えて川へと吸い込まれていった。
「ぎゃーーーーーん」
そう、「ほとんど」何事もなく。
耳をつんざくような甲高い悲鳴が響いた以外は。
橋に駆けより、川を見下ろした。
いつもより流れの速い川を、バケツが見る見るうちに流されていくところだった。
やっぱり、何の変哲もないバケツにしか見えなかった。
(何だ? 俺、疲れて幻聴でも聞こえたのか?)
胸騒ぎを無理やり押さえ込んで、俺は仕事場へと向かった。
駅まで来たところで、定期入れがないことに気が付いた。
途中で落としたのか? 焦りかけたが、ここへ来るまでの途中に交番があったのを思い出した。届いてるかどうか訊きに行ってみよう。俺は急いで来た道を戻った。
交番の前に警官が立っていた。ちょうどいい。
「あの、定期入れを落としたみたいなんですが、届いてませんか?」
返事がない。
「? もしもし? 聞こえてます? ちょっと?」
声を大きくして、一歩近づいた時だった。
「何あの人。看板に話しかけてる…」
はっとして、振り向くと、通りすがりらしい2人組がこちらを変な目で見て話していた。
俺の視線に気づいた2人は、ギョッとした顔をするとコソコソと去っていった。
(おい、あいつらなんて言った? 看板…?)
警官を見つめる。どこからどう見たって、普通の人間だった。ただ話しかけてもゆすっても反応がないだけで。
きっとこの警官も、さっきの2人もおかしい奴なんだ。気にすることはない。
また胸騒ぎを押さえながら来た道を少し戻ったら定期入れが落ちているのを見つけたので、拾い上げ、今度は交番の前を通らないように回り道をして駅へと向かった。
満員電車の中、居心地が悪くて仕方がなかった。
人ごみに混じって、人じゃない物がいくつか見えた。
というか、乗っている「乗客」の半分くらいは人間じゃなかった。
通行止めの標識、緑色の冷蔵庫、グランドピアノ、蛍光灯、丸めたカーペット、スキー板、などなど他にもいろいろ、何の法則性もないような物達が。
それらが人間と同じくらいの割合で電車内に、当たり前のように存在していた。
そんな奇妙なものが大量に電車にあったら皆注目しそうなものだが、だれも気にしているそぶりも見せなかった。
誰かの荷物なのかとも思ったが、そうでもなさそうだった。
まるで、それらの物達が人間であるかのような空気だった。
気分が悪くなってきたので、次の駅で空いた座席に座ろうとしたら、座席が椅子じゃなくて、空気椅子のような体勢をした人間だった。どこを見ているのかわからない瞳で無表情に佇んでいた。
でも、周囲の乗客は何も驚くことなく、当たり前のようにその人間達の上に座っていた。
まるで、その人間達が物であるかのような空気だった。
くらくらしながらなんとか会社に辿り着いたら、同僚が段ボール箱と話していた。
いきなり知らない人間に腕に噛み付かれたので悲鳴を上げたら、「蚊に刺されたくらいでどうしたんですか先輩?」と地面に置いてあったヘッドホンに話しかけられた。
PCが置いてあったはずの場所に、変な人が正座していて仕事が出来なかった。
もう限界だった。上司の席に座っていたクマのぬいぐるみに早退すると伝えて帰路についた。
帰り道、人間と物が行き来する道で誰かが話しているのが聞こえた。
昨日の深夜に虐待親に家から追い出された小さい子が、つい先ほど〇〇川の下流で遺体で見つかったらしい。
今朝、川に蹴り捨てたバケツを思い出す。
あの川の名前は〇〇川… 違う、俺が蹴ったのはバケツだ。俺が殺したんじゃない。そんなはずはない。そんなはずはない…
息苦しさとバクバクする心臓を抱えながら、本当は人間なのかそうじゃないのか分からない存在達の間をすり抜けて家に帰り、玄関においてある姿見の前に立ってみたら、洗濯機が映っていた。
鏡の前にいるのは俺なんだから俺が映らないとおかしいのに、そこに映ってたのは洗濯機だった。
一昔前のデザインの、汚れていてぼろぼろで、蓋もどこかに行ってしまっていて、とても使えそうにない洗濯機。
そもそもこれは本当に姿見なんだろうか。うちに侵入してきた泥棒か何かが、俺の目に姿見として見えているんじゃないだろうか。
玄関と言えば数人の人間が2人ずつペアになって体育座りをしているのが見える。
あれは靴だろうか。いや、うちに迷い込んできた本物の人間かもしれない。踏んだら悲鳴をあげられるかもしれない。
人間とそれ以外の存在の区別がつかなくなった。人間は人間でないものに見えることがあり、人間でないものは人間に見えることがある。
自分の目が信じられない。どうしてしまったんだろうか。
ここでやっと、昨日の目井さんのことを思い出した。
「はい、どうしました?」
重い身体を引きずり、肩で息をしながらやっとの思いで「目井クリニック」に到着した俺に、目井さんはのんきにそう言った。
「どうしたじゃねえよ…」
今日の出来事を話してから無理やり襟元を掴んで引き寄せ、目に力を入れて睨みつける。
「あんた俺の目に何しやがった。戻せ」
俺の目にも人間に見える目井さんは、不思議そうな顔で、でも目にはいつも通りの柔和な笑みを浮かべたままこう答えた。
「もともと人間を人間として見られないんだから、人間とそれ以外の存在の区別がつかなくたって何も困らないでしょう? むしろその方があなたにとっては好都合ではないかと思ったのですが」
そして顔の表情も目の表情も一切動かすことなく、診察室のドアを指差して一言、「次の患者様がいらっしゃってますので、お引き取りください」と告げた。
ひどく事務的で、無慈悲で、本当にどうして怒られたのか分からない、といった言い方だった。
こういうわけなんだけどさ、俺、これからどうやって生きていけばいいんだよ。
教えてくれよ、なんとかしてくれ。
というか、お前って、人間だよな?
今俺が話しかけてるのって人間だよな? 物じゃないよな?
いや、黙ってないで、なんとか言ってくれよ。答えてくれよ。頼むよ、頼む、なあ…
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