第35話 残照

 燦然と輝く蒼穹の空の下に敷き詰められた空気は乾いていて、それが逐一肌を強かに打ち据えてくるように感じるのは、緊張を覚えているからだろうか。


 眩しすぎる空を一瞬だけ見上げて、ユディトはそう自問する。


 だがそれに対しての答えなど、ユディト自身改めて顧みるまでもなく解りきっていた。

 そう。

 今の自分の顔には、きっと言い様のない緊迫が貼り付けられているのだろう、と。


「なぜだユディト!? お前は何故こんなことをしている!?」


 投げ付けられた響きはどこか悲鳴にも似ていて、硬質な空気に染み渡る言葉が示す通りの困惑の感情が載っている。


「何故、かあ……今更説明なんて必要あるのかい? 僕がここに来るまでに何をしてきたのか、当然君達はわかっている筈だろ」

「信じられないんだよ。誰よりもこの世界の平和を求めていたお前が、こんなことをするなんて……」

「その通り。世界を平和にする為に必要なことだった。そしてこの先の、最後の一つを破壊することで完遂されるんだ」

「現実を見て言え! お前がやっていることは、各地の境界門リミニスを破壊して世界を滅茶苦茶にしているだけじゃないか。その先に平和があるなど、良く言えたものだな!」


 ユディトに表情はなく、声にも抑揚がない。

 本人としては全力を傾けて平静を装っているに過ぎないが、それでも周りに与える印象は異なり、淡々と連ねるその姿からは、嘗てどんな逆境にあっても絶えず湛えていた穏やかな雰囲気が微塵も感じられず。


「どうしてしまったんだっ!? お前は、そんなことをする奴じゃなかっただろうっ!」

「どうもこうもないさ。果たすべき願いを完遂する為に、取り得る最善を最短で尽くす。僕がやっていることなんて、今も昔も変わらないよ」


 嘗ては、世界を平和にする為に魔物を駆逐した。

 そして今は、世界を平和にする為に境界門を破壊している。

 これまでを振り返ってみても、ユディトの行動は実に単純明快で、ただ殺戮と破壊を繰り返しているだけだ。


 その短絡的で直線的過ぎる有様は、周囲に自身に対する危惧を植え付けてしまう程で。


 そんな自覚を淡々と告げるユディトの姿には、それ以外の一切に対しての明確な拒絶が滲み出ているように映っていた。

 だからこそだろうか。

 ユディトの昔を知るが故に信じられない、と翠緑の髪を短く刈り込んだ精悍な青年が悲嘆に睨みつける。


 がっしりと鍛え上げられた体躯を包む、深い夜空を思わせる藍色の軍服は〈アンテ=クトゥン〉にある国の一つ、エストルード共和国にて制式採用されているもので、眩い銀糸で絢爛なまでの刺繍が施され、どこか凛とした気品を滲ませるまでに着こなしている事実は、青年の所属が軍属であることを主張していた。

 そしてその手に携えられた黄金色の剣。〈アンテ=クトゥン〉の科学者や耀術士達の知識と技術の粋を集めて造り上げた人造の神器の一つ。戦時下で対魔物用に造り出された無数の兵装耀束器アームド・ユビキタスの中でも世界最高峰に君臨している『星剣エクセリオン』だ。


 保有している耀力の高さと、心技体の練度。加えて清廉な気質と精神性によって人類共通の決戦兵装とも呼べる代物を預けられたるは、グレイス=フォーマルハウト。

 冠絶の剣技の使い手であり、そこに耀術と独自に編み出した戦闘術とを絡めて当代随一にまで登り詰め、『剣聖』と呼ばれた男だ。そして、『魔物討伐ランキング』なる戦果序列で第三位に数えられていた英雄中の英雄である。


 なにより彼の存在を世間に印象付けていたのは、対魔物戦線において常に先陣を征く『イルヴァ―ティの勇者』に着いていく・・・・・ことのできた・・・・・・数少ない人間の一人であることで、ユディト自身が兄とも慕った男だった。


 嘗ての兄を宥めることも言い返すこともせず、その憤りの焔の強さを確かめるようにユディトは静かに前を見る。


「……そうか。皆の中では、もう戦争は終わったことなんだね」

「当然だ。あの地獄のような戦争が終わって、もう五年も経っているんだぞ。それなのに……ようやく軌道に乗り出した復興を、事もあろうかお前が台無しにしたっ」

「そうだね。否定はしないよ」


 異世界との交流を持った近現代の〈アンテ=クトゥン〉は、〈境界門〉によって生成される無限に近いエネルギーを基幹に据えた文明だ。

 故に復興にも取り戻したそれの活用を組み込むのは至極当然の流れで、だからこそ前提たる〈境界門〉が破壊されれば衰退に転じるのは必至。


 そして今や、全部で七十二基ある内たった一つを残して、ユディトによって完全・・に破壊されていた。

 以前の魔物の時は占拠され封鎖されるに留まっていたが、今回においては、今後もう二度と建造できないよう、あらゆる因果や構成要素の全てを徹底的に蹂躙されていたのである。


 それが齎した世界規模で起こった深刻極まるエネルギー不足が、経済活動の混乱と破綻を招き、引き起こされた世界恐慌で治安は大きく乱れることになった。

 大都市、地方都市村落の区別なく不穏さは日に日に増していき、警邏機構の眼が届かないところでは犯罪や汚職が横行し、テロリズムに狂騒する者達も増加している。

 五年という長い年月をかけて築き上げてきた平和であるが、そこから安定圏に成熟するまでには更に長い時を必要とし、そんな矢先に屋台骨をへし折られたのだから、ある意味当然ともいえる結実だろう。


 そして世界を破滅へと導いている悪逆非道な大罪人が、以前自分達を絶望の窮地より救った『イルヴァーティの勇者』ならば、その正気を疑う声が出て当然だ。

 事実、十四基目の〈境界門〉を破壊した時点でユディトは世界中で狂人認定され、〈キルリ=エレノア〉……つまりは魔界によって洗脳されてしまった最凶最悪の裏切者として、世界中に討伐命令が出されていたのである。

 ……もっとも、名実ともに最強の存在である『イルヴァーティの勇者』を討てる者などいないからこそ、ここまで一方的に蹂躙される結果になったのだが。


「最後に会った時に言ったと思うけど、僕の中でキルリ=エレノアに滞在していた時間は半年余り。こちらに戻ってきてみたら、皆が皆、憑き物が落ちたような清々しい顔をしていてさ。ああ、あの戦いは既に過去のものになったんだと思って……ちょっと安心したよ」

「安心、だと?」


 語られる言の葉と文脈に大きな違和感を覚えてグレイスは怪訝に眉を寄せる。

 その様子を真正面に捉えながら、ユディトは朗らかに笑った。


「うん。誰もが戦いから離れて、復興に意識を傾けているからさ。これなら境界門を破壊して回るのも楽だと思ったよ……事実、そうだったけどね」

「! ユディト、お前っ……」


 敢えてグレイスを煽るように連ねたが、実際のところ、ユディトとしては何から何まで彼の方が正しいとわかっていた。

 既にこの世界に味方はおらず、異端で異質で、世界の平和を阻んでいるのは寧ろ自分なのだと。

 しかし世界を救う手立てはこれ以外に存在しないのも確かで、その唯一ともいえる方法は、この世界の住人には決して受け入れられないことを。


 だからこそユディトは、総てを肯定することにした。

 自分に向けられる無数の悪意も敵意も、全ては正しきものである、と。

 よって帰還から続く全ての諍いが、立場が異なる者同士による正義と正義のぶつかり合いで、それを否定する気のないユディトは、あらゆる一切に対して真正面から向かっていく選択肢しか取れなかったのであった。


「ユディト……」

「!」


 苦渋に顔を歪めながら発するべき言葉を模索しているグレイスの肩に手を添え、彼を気遣いながらその後背より一人の女性が歩み出てきた。


 その瞬間だけこの殺伐とした逼迫の空気が晴れ、早朝の森林の涼やかさと、葉々の隙間から零れる陽の眩さに満たされたようにユディトは感じる。


 それが誰なのか、自分の名前を呼ぶ声だけでユディトは理解した。いや、その存在がいること自体は最初から判っていたが、敢えて意識的に外していたのである。


「……お嬢様」


 花のように艶やかに、鳥のように麗らかに。

 風のように朗らかに、月のように淑やかに。

 最後に会った時よりも伸びた髪は変わらず艶めかしい射干玉ぬばたまで、整えられた眉と確かな芯が秘められている蒼穹の眸には、固い決意が載っていた。


 本来であれば同じ年齢であった筈だが、互いに異なる世界と時間を過ごした所為ですっかり隔たりができてしまっていて、だども重ねた年月は彼女の美しさに一層磨きをかけていて。

 身に染み付いていた昔の習性からか、反射的にその場に跪きたくなる衝動をユディトは必死で抑える。


「答えなさい。あなたは誰よりも先頭に立ってこの世界を守ってくれたでしょう? それなのに、どうしてこんな事をしたの?」

「……すみません。答えられません」


 ユディトは胸の裡の傷みを隠すように俯き、面に深い陰影を張り付けて返す。

 答えられないというのは正直な心境だ。

 そして、全てを語ったところで賛同が得られないばかりか、こちらを説き伏せようと言葉を尽くしてくるのが判りきっていた。


 話してみなければわからないと、これまでに投げ掛けられてきた無数の説得の言の葉も、厳然たる真実を前にすれば敢え無く掻き消え、途端に咎める言葉に反転するだけなのだ。

 だからこそ相互理解と言う夢想は捨て、冷酷に冷徹に、無慈悲に現実を突き付けるように、ユディトは進んできた。

 その度に受けてきた謗りの数々を、ユディトは一字一句余さず覚えているのである。


「どうして答えられないの? 後ろ暗い理由があるから? あなたが邪な野心を抱くなんてとても思えなかったけれど」

「無邪気で、無知だったのは昔の話ですよ。僕も今回の戦争をはじめとして色々なものを見てきました。それらに感化されてしまったかもしれません」

「……見え透いた嘘は止めなさい、ユディト。この世界に戻ってきた時、あなたが言ったことでしょう? 前だけ見続けていた所為で、後ろがどうなっているのか考えもしなかった。浅はかだった、って」

「……確かに、そんなことを言いましたね」

「あなたは昔から一つの事に囚われると、周りが見えなくなる。だから、誰かの悪意や邪念が入り込む余地なんてないわ」

「…………」


 ハッキリと断言され、思わず言葉が詰まるユディト。

 幼少期の時間の共有は、それなりに人の本質に触れているというのか。やはりとも言うべきか、眼前の女性は確かに自分の性質を知っていた。

 ならば、とユディトはそれを逆手に取ることにする。


「そうだとしても、今更です。この世界を護るためには、この手段しかないんですから」

「それが世界中の境界門を破壊する、ということ? あなたは自分が守ったものをその手で崩すことに何の呵責もないの?」

「ありませんね。僕は人間社会ではなく、この世界・・・・が護れればそれでいい。それに帰る場所なんて既に無くなっていますからね……おじいちゃんが亡くなってしまったので」

「!」


〈アンテ=クトゥン〉に戻ってきて最初に行ったのは、唯一の家族である祖父への帰還報告である。

 本来であれば、戦時下に所属していた世界同盟の指導者層に報告するのが筋であったが、個人的な感情を最優先させていた。

 その事に非を唱える者は少なからずいたが、〈魔界〉帰りの『イルヴァ―ティの勇者』に、正面切って文句を言える者など存在する筈もなく。


 しかしいざユディトが故郷に帰ってみると、街並みや人の顔ぶれは世界規模での復興の波に煽られてガラリと姿を変えていて、過去を振り返らぬよう前を見て変化し続けている人々の意識と、更には大好きな祖父が数年前に亡くなっていたという冷徹な現実だけが突き付けられたのだ。

 しかも。

 それを教えてくれた眼前の女性の隣には嘗ての兄が並んでいて、温かな家庭を築いている。

 自分には想像すらできない団欒をまざまざと見せつけられれば、自分だけ世界から置いて行かれた、という疎外感を覚えるのは必至で、戻りたかった場所の完全喪失を強く理解させられたのだった。


「リエロのことは……でもだからと言って、それが世界を壊す理由にはならない筈よ」

「……そうですね。訂正します。今の言い方だと、全部おじいちゃんの所為になってしまいかねませんね。そんなこと絶対に許されないから、やっぱり僕個人の我儘ということにしてくれませんか? 理由なんて別になんでも構わないので、そちらでいくらでも後付けしてください」


 祖父の名誉を守りたい、という意思以外をあまりにも適当に返しているとしか思えないユディトの言に、流石に堪忍袋の緒が切れたのか、冷静に努めていた女性が表情を歪めた。


「ユディト! ふざけているの?」

「お嬢様。戦うことのできない貴女がこの場にいるのは、誰の意向でしょうか? 普通に考えると、この先の聖堂の中にいる元老の連中だと思いますが……ハインさん、はないな。あの人なら、非戦闘員を戦場に立たせるなんてこと許容しないと思うけど」


 戦いとは無縁の筈の彼女がこんな戦場の真ん中に現れて、グレイスに寄り添いながらこちらを責めるように問い質してくる。

 おそらく、この邂逅を仕組んだ者は、自分に対して最も有効な切り札であると理解しているのだ。

 そしてその目論見は、見事に功を奏したと言っても良い。

 並び立つ二人は互いに支え合っているのが一目でわかる様相で、それを目の当たりにして、確かにユディトの胸には気が狂わんばかりの深い傷みを与えたのだから。


 しかし、ユディトはそれを表に出さなかった。

 子供の時分に抱いていた淡い感情など、量るのも馬鹿らしくなるくらいの殺戮の果てに色褪せて久しい。

 ただ胸の内に在るのは、彼女が生きる世界の平和を希求する純然な願いだけ。

 この路を選んだ際の覚悟を顧みて、それが間違っていなかったとユディトは確信する。


「勘違いしないで。私は私の意志でここに立っているわ。ユディト、あなたを止める為に」

「……お嬢様。お心遣い痛み入りますけど、もうこの段階では説得なんて既に無意味なんですよ。仮に僕が応じたところで、世間は絶対に許さないでしょう?」

「そうね。あなたはそれだけの大罪を犯したのだから当然よ。でもあなたは元々、我が家の使用人……私にはあなたを制止する義務があるわ」

「そんなことの為に戦場にまで足を運ばれたんですね……ご立派な覚悟です」


 毅然とした佇まいの彼女に、ユディトは惜しみなく敬意を贈る。

 いや、そうすること自体、おこがましいにも程があるのだ。

 しかし、そうせずにはいられない理由がユディトにはある。


 彼女は、ただ緩慢な死を待つばかりの自分を救い上げてくれた。

 彼女は、自分に生きる場所と目的を与えてくれた。

 そして彼女は、自分の戦う理由の全てだった。

 彼女の存在無くして今の自分などは在り得ず、大げさに言わずとも、彼女はユディトにとっての神そのものなのだから。


 よってユディトは、そんな彼女に応えるべくこれまで噤み続けてきた言葉を紡ぐ。


「誰が立ち塞がろうとも、僕は全ての境界門を破壊して、その先にいる天帝を殺します。誰であろうと邪魔はさせません」


 それは、初めて明かされる一連の破壊行為の明確な動機だった。

 そしてその内容は、現代の〈アンテ=クトゥン〉にとって看過することのできない大逆であり、不遜極まりない蛮行に外ならない。


「……何と畏れ多いことを! 天帝様はこの世界の平定を見守る現人神。ユディトさんは、彼の御方に刃を向けるというのですか?」

「その通りだよシルヴィ。アレはこの世界に巣食い蝕む寄生虫だ。唾棄すべきアレがこの世界に沸いて出た時、その危険性を看破した先代のルミナ先輩が抗ったんだけど、力が足りず……この世界が在り続ける為には、アレだけは絶対に滅ぼしておかなければならないんだ」

「な、何て無礼なっ!」

「そもそもアレは、魔物との戦争で皆が苦しんでいる時に、何もしてくれなかったじゃないか。その現実は君だって見て来た筈だろ?」

「それは……彼の御方は今を生きる我らに試練を与えて下さって」


 答えに窮してか苦し気に表情を歪める少女は、治療術士として最高の集団とされるグラン=アリアス大法院に所属する、シルヴィア・アイネスである。


 その中でも桁外れの術能力を誇る彼女は、夜空の月の如く静かに輝く銀の髪と、儚げなまでの線の細さ、常に憂いを湛える藍色の眸。その無垢なる白き法衣と同じようにその性根も清廉潔白で、それらが織りなす雰囲気も相俟って、『銀華の聖女グランデヴィナ』と呼ばれていた。


 グラン=アリアス大法院の源流はセフィリア教団に関連深い組織になるが、現代においてその信仰心は女神セフィリアよりも、実在する天帝にこそ向けられている。

 中には信仰心の箍が外れた者も少なくなく、ある意味で天帝の狂信者集団とも言えるのだが、そこに所属するシルヴィアもまた、純粋に天帝が善性の権化であると信じ込んでいた。


 真実を知ったが故にユディトには度し難いものだったが、彼女の信仰心そのものを否定する気は全くないからこそ、敢えて嘲笑する。


「じゃああの戦争が終わってからの五年、亡くなった人のご家族に、あなたの家族は天帝が課した試練に討ち負けたんです、って喧伝して回ったのかい? 君達グラン=アリアス大法院は、戦災被害者の人達に寄り添うって声高に主張しながら世界中で奉仕活動を行っているけれど」

「そ、そんな言い方はあんまりです!」

「……まあ今のは意地の悪い言い方だったけど、結局はそういうことだよね」

「ユディトさん……あなたは、変わってしまったんですね」


 双眸に悲しげな光を湛えてシルヴィアはユディトを見つめてくる。


 そう、彼らの中に刻まれた自分は、決してこんな尖った言葉を吐かないのだ。一連のやり取りを聞いていた周りの者達が目を丸くしていることからも、それぞれの内心が伺える。

 しかし敢えてそれを行わなければならないのは、必要な、所謂儀式なのだから。


 ユディト以外誰にも認識されていないが、肩に留まったイヴリーンが悪ぶっても似合わないぞ、と先程から頻りに囁いているが、ユディトはそれを無視している。


「変わった? そんなつもりはないよ。ただ知ろうとしなかったことを知っただけさ。だからこそ、無知のままアレの策略を幇助してしまった自分が赦せないんだよ」

「ユディトさんっ!」

「シルヴィ。もうそんな問答なんてしている場面じゃないよ」


 ユディトとシルヴィアの間に割って入ったのは、風にたなびく紅蓮の髪を頭頂部で一つに纏め、漆黒のローブを纏った女性の耀術士だ。


 ユディトの冷たい雰囲気と言葉に愕然とするシルヴィアを庇うような位置取りで立ち、その勝気な気質が一目でわかる紅の双眸に強い光を湛えながら、エミリア・エルネシウス・エルランドは幾つもの宝石が埋め込まれている豪奢な杖を構えた。


「ユディト。アンタ、私達を裏切ったということで良いんだね?」

「裏切るも何も、どう思われようが僕のスタンスは変わらない。僕の求めるものの為に、ただ真っすぐに突き進む。それだけだよ」

「……昔と同じで頑固だね。一人で突っ走るだけ突っ走って周りの状況を確認しない上に、他人の忠告なんて聞きやしない」


 あまりにも正鵠を射ていた為、思わずユディトも苦笑を零す。


「そうだね。いつもイヴに言われているよ。でも仕方がないじゃないか。誰も彼も、自分が得られる手柄を考えるばかりで、こっちの行動に一々待ったを掛けてきてさ。逼迫しているんじゃないのかって、文句を進言したこともあったよ」

「……そういう面があったのは確かだよ。多国籍軍なんて往々にしてそんなものだし、ましてや絶望の状況が一転して希望を持ってしまったからね。少しでも心に余裕ができてしまえば、己の利得に走るのは人間だからこそ止められないものだよ」


 嘗ての足の引っ張り合いを思い返して辟易するユディトであったが、意外にもエミリアが同調してきたことに内心目を見開いていた。

 少なくともユディトの記憶の中で、彼女は自分を制止する側の存在であったからだ。


「だよね。だから最終的に僕は気にしないことにしたんだ。一刻も早く、平和にしたかったからね」

「……絶対に止めてみせる! 例えアンタを殺すことになってもだ!」


十輝の災厄ディエス・ディザスター』と呼ばれる世界最高峰の術士の一人に数えられる彼女の耀術は、ある意味最悪の破壊兵器である天使兵器にも通じるところがあり、驚異と言えば驚異に外ならない。


 しかし、この場に規格外集団をも凌駕する『星辰の戦女神ウルティマ・ディース』……リベカ・アークハイネという世界最強の耀術士がいないことにこそ、ユディトは密かに安堵していた。

 そうならないように事前に立ち回ってきたが、彼女の能力的な立場を思えば情勢如何では駆り出されてもおかしくはないのである。


「僕を殺す? 君は面白いことを言うね。できるのかい? イルヴァーティの勇者であるこの僕を」

「! 馬鹿にしてっ。あんたが魔界に行ってからもずっと、私達は修練を続けてきたんだ。昔のままだと思ったら大間違いだよ!」


 成程、とユディトは思う。

 エミリアを纏う耀力の密度が、自分が知るものよりも数段濃く、深い。いや、エミリアだけでなくグレイスも、シルヴィアも、この場にいる者全員がそうだと言えた。


「時間はそっちにこそ流れているんだっけか。確かに、前にリベカに狙撃された時は、こっちの意識外から『鏡衣』の防御障壁を突破されたからなあ。相当な修練を積んだんだね」

「……またあの女かっ」


 リベカの名前を聞いて憎悪すら滾らせるエミリアの双眸を前にして、ユディトは苛立ちを向ける相手が違うのではと苦笑する。


 確かにエミリアは耀術士の名門の出自や本人の努力もあって、世界で十指に数えられる程の術士に登り詰めたが、その十人に誰が最も優れているかを問うと、十人ともリベカの名を挙げるのだ。

 エミリアは年下の術士に並々ならぬ対抗心を抱いていたようだが、ハッキリと言ってその才能には大きすぎる隔たりがある。

 それを自覚しているからこそ、エミリアも更に頑なになってしまうのであった。


「そこまで言うなら、そうだね。これ以上、立ち話していても時間の無駄だし、戦おうか」


 言ってユディトは、戦闘意思を籠めて少しばかり耀力を開放した。


 ユディトを中心に放射状に発せられたそれは、ただ満ち行くだけで大気を大きく掻き揺らし、続いて熾烈な圧力を周囲に浸潤させる。


 その圧迫感たるや、相対する者の呼吸を忘れさせる程で、言うなれば巨壁が突如として自分達に向かって倒れてくるかのようだ。

――たった一人で敗北が約束された盤面を覆した勇者その人が、最も恐ろしく警戒しなければならない存在である。

『イルヴァーティの勇者』が〈魔界〉に消えてから、復興が進んで暫く経った頃に流れた心無い噂だ。


 誰のおかげでここまで平和を勝ち取ることができたのか、と仲間たちは常々義憤に駆られていたのだが、こうして敵対すると、あの時の噂は真実だったのではと思えてしまう。

 圧倒的な力というものは、後ろから見ている分にはどこまでも頼もしく映る反面、立場が転ずればこの上なく恐ろしいものに変換されてしまうのだろうか。

 それが今、嘗て戦場を共に駆けた者達の胸中に湧いた共通の感想だ。


 敵対者の行動さえ縛る無言の圧力を前にして、背中に流された艶やかな黒髪を一つに結い、刃のように鋭い雰囲気を放つ壮年の男が、自然な足取りで先頭のグレイスの横に並び立った。


「その荒々しく烈しき耀力……ユディト君。君は本気なんですね」

「ユーゴ教官。……はい。流石の僕でも冗談でこんなことなんてしませんよ」

「……そうですか。君には今後、この世界で大いに役立って貰えると期待していたんですが……残念です。どうやら見込み違いだったようですね」

「それは見込み違いと言いますか、見当違いも甚だしい、ですね。僕にできるのは昔から破壊と殺戮、それだけですよ」

「成程。自分でそう言いきれるのならば、こちらの見当違いに他ありませんね」


 言葉を交わす様相は互いに穏やかであったが、発せられる内容と形成される雰囲気は如何せん真逆のものである。


 世界同盟軍の戦術統括官だったユーゴ・サリエリ・氷上。

〈アンテ=クトゥン〉最大の宗教組織であるセフィリア教団の武力を担う僧兵団『神裁ジャッジメンテス』の長で、『剣聖』に比肩する『剣仙』という称号を得た刀の使い手だ。


 だが、年長の人格者として、若く血気に逸りがちな多くの若き英雄達を導いてきた男を前にしても、ユディトはその姿勢を変えなかった。


「貴方がこの場にいるということは、ハインさんは大聖堂の中ですか?」

「ええ。中で教皇猊下は貴方の討伐の報を待っているでしょう」

「となると、最後の境界門を守護するのはハインさんですか。ではこれからご挨拶に出向きますね」


 眼前に立つ者など、それこそ眼中に無いとでも言うように、ユディトは軽い口調で綴った。


 それに対して不快な表情を浮かべるのは術士の女性二人組で、英雄グレイスやユーゴは流石は年長者としての気位で平静に受け止めている。……もっとも、グレイスに限ってはユディトの変貌振りを受け容れるのに苦慮していたようだが。


「それはできません。外道に墜ちてしまった咎人を、易々と神聖なる大聖堂の敷居を跨がせる訳にはいきません。この場で確実に仕留めます」


 そうして音もなく抜き放たれたのは、グレイスやエミリアが持つ剣や杖と同等の決戦兵器。『天裂ク爪』と『地穿ツ牙』という双刀である。

 ユーゴの研ぎ澄まされた剣気と耀力が合わさって、並の精神力では耐え難い威風がユディトにのみ撒き散らされた。

 それは『剣仙』の二つ名を持つ戦人の本気の顕現だ。


 グレイスやユーゴ、シルヴィアにエミリア。いずれも個でありながら群よりも大きな戦果を挙げてきた歴戦の勇士達である。

 そしてユディト自身、絶対の信頼を置いて背中を預けてきた仲間達だ。

 その彼らが、自分達の世界を護る為に本気で牙を剥こうとしている。各々が内に秘めた純粋な願いを叶えんと、貫くべき意志を発露させているのだ。


 ならばユディトは、彼らの正しさと向き合う為に戦わなければならない。

 決意と共に手にした『滅刃カーネイジ』に耀力を注ぎ込む。

 そして徐に漆黒の剣を前に立つ者達とは全く別の方向へと振り抜くと、その剣閃の延長上に在った草原や大地に漆黒の線が迸り、やがて深々と亀裂が奔った。


 その規模たるや、草原地帯の中心から、相当な距離を隔てて草原を囲い込む岩壁にまでに至っていて。

 触れた草や土、空気すら分子や原子の結合を破断され消滅していて、後に残る虚空に周囲の風が流れ込み、悲鳴のような風韻を奏でている。


 初見であればその常識外れの威力とおどろおどろしさに、敵対行動を躊躇してしまうだろうが、この場に揃っていたのは勇者の殺戮を最も間近で見続けてきた者達であり、流石に動揺はなかった。


「……この期に及んで使うのは”黒剣ディンスレイヴ”ですか。舐められていると、受け取るべきですか?」


 侮られていると思ったのか、ユーゴの声には険が籠っていた。

 彼らは当然、ユディトと戦場を共にしてきたのだから、”黒剣”よりも凶悪無比な力を秘めた別の形態の恐ろしさを知っているのだ。


 流石の胆力だと惜しみない称賛を内心で送りながら、ユディトは続ける。


「そんなつもりはありませんよ。これからの戦いは、この形態の方が都合が良いんですよ。それに――」

「それに?」

「アレで一瞬で消されては、皆も納得できないでしょう? これは互いの貫くべき正義を賭けた戦争ですからね」


 酷薄に口元を歪めて笑うユディト。

 イヴリーンに言わせたら似合わないことこの上ないが、本人にしてみれば真剣そのものだ。

 どうしても仲間達の闘争心を煽って、耀力を最大限に賦活してもらう必要・・があるのだから。


 もう嘗ての面影さえ想起できなくなってしまったのか、シルヴィアが悲哀の眼差しを向けたまま零した。


「悪魔よ……ユディトさん。あなたは魔界に行って邪悪に染められてしまったのね」

「……『イルヴァーティの悪魔』、か。良いね、それ。シルヴィ、今後僕のことはそう広めてくれないかな」

「ユディトさん!」

「残る境界門は、エル・セフィリア大聖堂に設置された原初アモンのみ。皮肉なものですね。以前、キルリ=エレノアの人達によってここに攻め込まれた際、僕が神器に選ばれてそれを防いだ。そして今、その時の過ちを僕が濯ぐ」

「過ち? お前は、過ちだったというのか!?」

「……考えが足らなかったのは、僕自身の落ち度だ。もっと早くに真実に気付いていれば、こうはならなかったのかもしれない。だけど、起こらなかった未来を嘆いても、所詮は仮定に仮定を重ねているだけの虚構。意味なんてない」


 表情を消して綴るユディトの姿を見て、グレイスの諦念は色濃くなる。


「もう……俺達の声は届かないのか?」

「この世界に戻ってきた時に、僕はこうなることを覚悟していたよ。グレイス。君達とは、必ず道を違えると、ね」

「……そう、か。わかった。俺も腹を括ろう。星剣エクセリオンで、お前の邪心を切り裂く!」


 漸くグレイスが決意と覚悟を固めると同時に、その気勢に喚起されて黄金の剣が覚醒する。


 剣の呼び声に応え、大気中に充満する耀力が励起されて金色に輝き、それが一様に剣に流れ込んでいく様は、正に圧巻の一言だ。

 金色の剣に急激に収束される耀力は、拡散するだけの星々の光を一点に圧縮したかのように凄絶で、眩い、という表現では言い表せない程の赫灼かくしゃくは周囲の空間を白く塗り替えていく。

 その清冽にして凄惨な量の耀力を斬撃に換えることこそ、星剣エクセリオンの、剣聖グレイスの真骨頂だ。


 自身が信頼する『鏡衣アシュロン』の守護結界を突破し得る力を前にして、静かな戦慄を覚えていたユディトは屈託なく笑った。


「グレイス、ユーゴ教官。シルヴィア、エミリア。そして……お嬢様。さよならです」

「ユディト……あなたなんて、あの時、拾わなければ良かったっ」


 完璧なる否定の言葉。

 その音韻はどんな刃よりも鋭く閃き、どんな術よりも凄絶な被害を齎す。

 如何に絶対守護領域を展開する『鏡衣』を身に纏っていようとも、戦闘力のない女性の言の葉はいとも簡単に結界を潜り抜け、ユディトの胸を痛烈に抉った。


 明確な決別の宣告は、自分が力を求めた理由、後ろを振り返らず駆け続けることができた意思全てを覆して無に帰すものであったが、逆に今のユディトにとって自分がこれから成すべきことへの最後の福音となる。


「そのお陰で、僕はこうして願いの為に邁進できます。ありがとうございます、――ラお嬢様」


 そうして、世界を救った者達同士で、だども袂を別った者達の戦端は切って落とされた――。

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