第34話 祭りの後で(2)

 互いを労うようにあちこちで談笑が起こり、居心地の良い喧騒に包まれる宴席であったが、とある一角には静寂の帳が降ろされていた。


 厳密には部屋の隅に配された一つの卓なのだが、その様は静かの一言で終わらすには物足りない。どんよりと重い空気が可視化して覆っているかのように暗く、禍々しいことこの上ないのである。


 他の席の賑わいがあるからこそ余計に映えてしまうのか。

 そんな近寄りがたい席に着いている者達の顔ぶれたるや、また異色だ。

 穏やかで賑やかな場に馴れておらず、居心地が悪そうに身体を小さくしている異邦人ユディトと、その肩の上で変わらず泰然自若とした佇まいを崩さないイヴリーン。

 そして、喧噪の環に加わらず甲斐甲斐しく二人の世話をするメリィと、卓に突っ伏しているレアである。


「……あー、レアさん。その、大丈夫ですか?」

「ううぅ……」


 心配げに声を掛けるユディトに、崩れ落ちたままのレアはか細い唸り声で言葉にならない返事をする。

 柔和でありながら、常に余裕や凛然さを感じさせる普段の彼女からはおよそ考えられない反応だが、レアの様子はある意味尋常ではなかった。


 両腕を支えにして卓に身を寄せ、がっくりと項垂れている。両肩の上下が通常よりも多いことから彼女の呼吸が浅く早くなっているのが一目瞭然で、髪の隙間から覗くうなじや頬の色は青白く薄っすらと脂汗が滲んでいた。


 体調が良くないことを如実に体現していたのだが、小さく絶えず発せられている苦悶の唸り声はまるでブツブツと呪怨でも呟いているかの如くで。

 総身から発せられる気だるげな雰囲気と相俟って、現実離れした不穏さを周囲にばら撒いていたのである。


 この楽しげな宴席の場にあって極めて縁遠い様相を呈されては、隣の席に着くユディトも見て見ぬふりはできそうにない。もっとも、メイドのサーラとヒルデが入れ代わり立ち代わりでレアの面倒を見ているのだから、厭でも目に付くというものだったが。


「レアさんの状態って……アレ以外思いつかないんだけど?」

「ああ、そうだな。間違いなくアレだ」


 隣で苦しむ彼女を横目に、肩に乗るイヴリーンにヒソヒソと問う。


 レアは時折憔悴した表情で顔を上げ、片手に握ったままの盃に満たされた水らしき液体を一気に飲み込んでは、糸が切れたように力なく腕の中に沈んでいく……それを何度も繰り返していた。


 そんな彼女の姿を見ていると、ユディトはある一つの光景が脳裏に甦って離れず、そしてイヴリーンも同様だったのである。


「……完全に」

「二日酔いだな」


 そう。レアの気だるげな姿は、一見して二日酔いの態なのだ。

 つい先程までは戦女神さながらの颯爽とした活躍を披露していた凛とした彼女であったが、現在の姿との落差は酷く見る影もない。


 配下のサーラやヒルデがレアの状態を慮って絶えず杯に水を注ぎ、汗を拭って介抱していたが、その一連の動作が極めて自然な所作で完遂されていることから、彼女らの侍女としての練度の高さが伺える。が、レアを上司として尊敬している者達にとって今の姿はあまりに衝撃的だったのだろう。

 レアの痴態を受け入れまいと心を閉ざしたからか、それぞれ眼差しから感情の光が消えていた。逆に親衛隊に入って日の浅いメリィはメリィで、上司のある意味あられもない姿を戸惑いながらも受け止めようとする健気さが滲み出ている。


 だがそんな心優しい部下達の両極端な気遣いは、逆に心を深く抉るもので。

 多くの親衛隊員を指揮するレアは当然三人の様子に気付いていて、吐き出され続ける苦悶の呻き声に、血涙もかくやというなんとも言えない悲哀を乗せるばかりであった。


「レアさんレアさん。苦いお茶を飲めば少しは気が紛れると思いますよ。あとはそうですねえ……あ、二日酔いの後は脂っこいものを食べると落ち着く、と聞いたことがあります。あちらに凄い量の肉料理があるみたいですので、取ってきましょうか?」

「…………」


 澱んだ空気になっているのは察していたが、それが四者の複雑すぎる感情の機微に由来するなど、当然ユディトにわかる筈もなく。


 裏も表もなく、ただ純粋な善意のまま色々と提案してくるユディトに、レアは混濁した双眸の光が仄暗くなるのを止めることはできなかった。


「それにしても……これも耀力を使った副作用と考えるべきなのかな?」

「経緯を鑑みてそうだろうな。小娘の時は全身の筋肉痛で、この女の場合は極度の酩酊、もとい二日酔いか。対価として死すら覚悟しなければならない我々の常識と比べれば、なんとも微笑ましい結果じゃないか」

「うーん、確かに。耀力譲渡って本来は危険な行為の筈なんだけどねえ……」


〈アンテ=クトゥン〉における耀力の譲渡は、渡す側渡される側双方の先天的性質による因果関係もあって容易く行えることではない。そもそもとして遺伝子上耀力との親和性が高すぎるが故に些細な齟齬も許されず、破綻を起こさぬよう高度な繊細さが要求されるのだ。

 よって利便性と安全性を追求し、生命体同士間での授受リスクを極力解消すべく耀束器ユビキタスを用いた機械的補助を行う方向に技術開発が進んでいったという歴史がある。


 そんな背景がユディトの中に染みついていた為か、エルファーラン然り、レア然り。両者の結実は斬新かつ新鮮なのだ。

 まだたった二つの事例しか観測しておらず、またユディトの提供した耀力の殆どが、本来の出力から程遠いレベルに抑えられていたものだとしても。


異胚種ゼノブリードの人達って……面白いねえ」


 示された結果の尽くがこちらの予想を上回ったものだった為か、純粋な感嘆がユディトの口腔から零れ落ちていた。


〈アンテ=クトゥン〉界とは異なる成果が示された現実は、まさに未知そのものだ。

 異胚種という存在がこの〈レヴァ=クレスタ〉界において特殊な存在で、最も星灼に親和性が高い種族である事実を踏まえれば、彼らは寧ろより〈アンテ=クトゥンこちら〉側に近い、ということになる。

 それはある可能性・・・・・を示唆していて、それを思うとユディトは太陽を直視したかのような眩さを覚えずにはいられない。


「……いやお前、苦しんでいる本人を前にして面白いは感想としてないだろう」


 だが当然、場にそぐわない発言であった為、瞬時にイヴリーンに諫められてしまう。

 イヴリーンはイヴリーンで、ユディトが無自覚に不用意な言動をすることによって悪い立場に傾いてしまわないように気を張っているので容赦がなかった。


「まったく……発言には時と場合を弁えろといつも言っているだろうが。そういう脇の甘さから不利益を被ったことなど、数え上げるまでもないだろう?」

「ごめんごめん、迂闊だった」

「……本当にわかっているのか?」

「わかっているよ。ただ色々と思うことがあって、つい」


 普段と異なり、妙に熱を帯びているユディトの声にイヴリーンは怪訝を覚えた。


「なんだ、お前にしては珍しく尾を引いているな。……何か気になることでもあったのか?」

「ん、もしかするとここの人達って、耀術インヴォカーレが使えるんじゃないかなあって」


 言いながら、ユディトはこれまで自分達を支配していた理を思い返す。


〈アンテ=クトゥン〉の存在ではない者も、得られる効力の優劣を抜きにして、正しい術の教育を施せば行使できる。それはこれまでに築いてきた数多の世界の住人との交流で実証されてきた歴史的事実だ。

 よって耀力に適応できる性質の片鱗を認めた以上、伝授次第では〈レヴァ=クレスタ〉の全ての者達が耀術を行使できてしまうのでは、という気になってくるのである。


「この世界の者は星灼フォルトゥナというものを用いて似た術を行使しているが、そもそもとして耀術には耀力フラジールが必須だ。この世界の構成素子も耀力であるのは間違いないが、耀力と星灼の因果関係は調査中だから想像の域を出ないぞ」

「わかってるよ。でも先日、エルファーランさまに差し上げた指環に星灼を収容することができたじゃないか。それって耀束器が星灼を耀力と誤認するだけの類似性がある、ということだろ? 可能性は十分にあるんじゃないかな?」

「……まあ、頭ごなしに否定はできないが」


 妙に力を入れて説明するユディトの姿に、イヴリーンは内心で嘆息する。


 ユディトが示唆する可能性は、奇しくも彼自身がかねてより欲して止まず、どれだけ願っても決して手に入れることのできなかった素養。つまりは〈アンテ=クトゥン〉における当然にして自明の帰結であり、全てのものの前提である。


 その当たり前さえ持ち得ることができず、不遇の極致に落とされていたユディトの来歴を思えば、そこにコンプレックスを抱いていても仕方がない。


(割り切れ、と言うには……根は深い問題だからな)


『イルヴァ―ティの勇者』となり、耀術程度・・・・とは次元が違う『真韻ケニング』を扱えるようになりながらも、未だにユディトは耀術に拘り続けているのだ。

 いや、それは既にコンプレックスを超えて執着や妄執と言い換えてもよいかもしれない。


 だがそれが悪いことだとイヴリーンは思わなかった。

 執着にしろ妄執にしろ、その拘りはユディトの人間性を維持し、大きな力に呑み込まれて自我を亡くさない為に必要不可欠な要素なのだから。


 そしてそんな理屈や建前を抜きにして、ユディトの心奥の渇望を知っているイヴリーンは、羨望を載せたその横顔に無粋な言葉を投げることなどできなかった。


 ……当然両者の場違いなやり取りはしっかりレアの耳に入っていたが、まるで理解できていない様子で。

 ささやかな抗議の意思として、鬱屈した視線を投じるばかりであった。











 さほど広くはない造りの場の喧騒も多少は落ち着き始め、宴席に参じている者達は、それぞれが落としどころを見つけながら思い思いに寛ぐ段階に移っていた。


 主催者であるテオドアが未だにあちこちの席に顔を出して談笑しているのだから、流石に退席する者はおらず。寧ろ身分の如何なく気さくに話しかけてくる姿に感化され、一つでも多く言葉を交わそうと人が集まってさえいた。

 その辺りの器の深さは、流石に嘗て一種族をまとめていた王の座に在った者だからだろう。


 そして異胚種にとっては、異種族でありながらも敬意を向けるに足る存在として受け容れていたのであった。


 そんな様子を肌で感じていたレアは、未だに鈍重な音が鳴り響いている頭を持ち上げ、何とか姿勢を元に戻すことにする。

 これ以上痴態を部下に見せたくないという意地がそうさせたのだが、父との器の違いを見せつけられることを厭うたというのも密かにあった。


 些か子供染みた反骨心であったが、レアはレアなりに父のことを尊敬しているので、見苦しい姿を晒したくない気持ちもあったのだ。

 隣の席に座るユディトという異邦人が、大丈夫ですか、と心配げに声を掛けてきたが、流石にそれに返すだけの気力は戻っていなかったが。


「レア……ようやく起きましたか」


 上体を持ち上げたレアは、頭上から降ってきた声にギクリと肩を揺らせる。


「は、母上……私は寝てはいません」

「……今の自分の顔を鏡でご覧なさいな。少なくともあなたはこの宴席の主役で、皆に声を掛けて回る立場でしょう? それを怠っておきながら否定したところで何の説得力もありませんよ」

「うう……面目ありません」


 開口一番。口調はおっとりとしていて柔らかいが、その諫言には情け容赦など一片もなく、色々と弱ったレアの心身を痛烈に打ち拉いでいく。


 実のところ戦闘全般は勿論のこと、平時の立ち振る舞いや戦者としての気構えについて厳しいのは父ではなく母だ。父は妙なところで大雑把且ついい加減で更に色々と偏っているので、自然と母の方が厳しい印象を抱くようになってしまったのである。……まあ、事ある毎に父が母によって力づくで黙らされている光景を幼い頃より見続けた結果の、洗脳に近い要因もあったが。


「あなた、お酒は飲んでいないでしょう? どうしたのですか?」

「何と言いましょうか。正直、私にもよくわかりません」

「……何ですかそれは?」


 悄然としてしまったレアに、エカテリーナは嘆息する。

 言い訳にもなっていない言葉を紡いだ娘の、らしくない言動に困惑を隠せないのだ。


 しかしレアとしてもそう言う他ないのである。

 いや、ユディトから耀力なる未知の力を譲り受けたことが原因であるのは先程の会話で明らかだったが、流石にその現場を見ていない者を納得させるだけの説得力をレアは持ち合わせてはいない。

 爆発的な身体能力の向上を直接見た父テオドアや部下達ならばまだしも、エカテリーナは伝え聞いたものしか情報を得ていないのである。


 故に、両者の認識に大きなズレがあるのは然るべきであった。


「レア。ようやく起きたか」

「だから寝てませ……もういいです」

「? まあいい」


 そんな折。

 レアが幾ばくか復調したのかと今度はテオドアが鷹揚な足取りで近寄って来た。その後ろには付き合わされているのか、若干緊張した面持ちのカリオンも追随している。


 レアはレアで立て続けにそう言われては、反論する気力もごっそり削がれてしまい、最早訂正する気にもなれなかった。


「ユディト。ちょっといいか?」

「おやカリオン君。うん。どうしたんだい?」

「ああ。テオドア殿がお前と話をしたいと仰ってな」

「ユディト殿、だったか。少しよろしいだろうか?」


 カリオンを伴っていたのは面通しをする為だったのか。

 紹介されて一歩前に出たテオドアの眼光は油断なく鋭い。本人は意識していないが、強大な力を持つ種族特有の熾烈な存在感を無自覚に発していて、そこには気弱な者ならばすぐさま竦んでしまう威圧が込められていた。


 が、ユディトはそんなものなのどこ吹く風で、ただ目の前の人物の顔を認識すると慌てて椅子から立ち上がり、深々と腰を折っていた。


「あ、はい。テオドアさんですね。あの後、バタバタしてご挨拶が遅くなりましたが、今回はなんだか色々ご面倒をお掛けしてすいませんでした」

「いきなり謝罪が来るということは、やはりゴーレムの強化はそなたに原因が?」

「まあ一応は。ただ不可抗力だと弁明しておきますが」


 表情を強張らせるでもなしに、真っ先に頭を下げてきたユディトに対し、一瞬目を丸くしたテオドアは得心が言ったように頷く。


「よい。起きてしまったことをいつまでも言ったところで何にもなるまい」

「そう言って頂けると助かります」


 確かにゴーレムが強化されて打倒不能に陥ってしまったのは、ユディトに非があると言えばあるが、そもそもとしてゴーレムがテオドアの竜化した姿を模したのは、娘に向けた父の強すぎる想念が齎した結果だ。

 それを理解しているが故に、テオドアはユディトに文句を言うつもりは毛頭なかった。


 唯一、直接的な被害を被ることになった娘レアだけがお互い無難なところで手打ちにしあっている男二人に文句を言っても許されるだろう。現にジト目で二人のやり取りを無言で見つめていた。


「しかし終わったからこそ思うのだが、今回の星降ろしの儀は予想外の出来事が立て続けに起きたものだ」

「そうなんですか?」

「うむ。本来であれば儀式に臨んだ者……レアの姿を模したゴーレムが顕現する筈だったのだが、な。そして何よりも今回獲得した星燐石の全てが『星煌の落涙ラクリマ・フォルトゥナ』の結晶体であることだろう。現出そのものが極めて稀なのだが、あれだけの量がこの世界に実体化したというのは……レヴァ=クレスタが開闢して現在に至るまで、その記録は皆無だ」

「……」


 随分と壮大になった話に、自然と眉を寄せるユディト。

 史上初だという事態に話が飛躍しすぎだと思い、それが面倒事を引き寄せる強大な要因になり得ることに気が付いて、危うさを感じずにはいられない。

 今後、一体どんな厄介事に巻き込まれてしまうのかという不安もさることながら、奇跡の結晶を手中に収めたことで異胚種達が被るかもしれない困難を想起すると、眉間の皺は深るばかりだ。


 レアを救出する為に最善を尽くしたつもりだったが、齎された結果は今後に影を落としかねない物騒なものになってしまった。……かといってあの局面と選択可能な範囲内では他に方法がなかった訳だが。


 ままならないなあ、とユディトは内心で独りごちる。


「迷惑、でしたかね」

「一概にそうも言えん。聖星燐石イレス・プリマテリアはこの魔王領アガルタの運営の根幹を為している為、慢性的に不足しているのだ。同じ属性で潜在するエネルギー量が桁違いに大きいのであれば、その恩恵は計り知れん」

「そう言って頂けるなら気は楽になりますが……」


 世界にただ一つとして〈レヴァ=クレスタ〉の大空を彷徨い、『凶獣アヴサーダス』という世界の天敵の眼を引き付ける業を往古より担い続けているのだから、航行と自衛に必要とされるエネルギーは常に不足しているようなものだ。


 よって無尽蔵に近いだろうと考えられているエネルギー供給源の確保はアガルタの安定に繋がることになり、それは魔王領に住まう者として歓迎すべき事象である。


「代償として、この儀式場はしばらく使えなくなったがな」

「……やっぱり、儀式場に負荷を掛け過ぎてしまいましたか?」

「うむ。機能停止まで至らなかったのは不幸中の幸いだが、自己修復で数年は稼働できないだろうと予測している」

「なんだか、すいません」

「……いや、貴公の所為ではあるまいよ。必然的ではあるが、しばらくは閉鎖ということになる。人払いの結界処置はレアの部下が施してくれたが、今後の方針については魔王殿と相談しなければならん」


 鷹揚に両腕を組んだテオドアは、ふう、と疲労感を滲ませた溜息を吐く。


 星涙点ステラリウムの管理者という大任を負う者の一人として、長年護ってきた勤めが停滞を余儀なくされた現実に思うことはあった。

 とは言え、ここでユディトを糾弾するのは筋違いも甚だしい。

 結果はどうあれ、彼の者の行動は娘を救う為のものだった。それを責めることは親としての義に反することになり、同時に引退したとはいえ誇り高き獣精の王の矜持に泥を塗ることになる。


 よって自身を諫めたテオドアは、長く深く溜息を吐くことで蟠りの感情の全てを吐き出し、霧消させた。


 そして神妙に頷いているユディトの前の席に、テオドアはようやくドカリと腰を下ろす。


「……して、そなたらは何者なのだ? カリオン殿からは凶獣を斃した異世界人、と説明されたが、正直眉唾だ」

「はい。間違いありません」

「ほぅ、即答か」

「動かしようのない事実ですから隠しても仕方ありませんよ」


 これまでの話題よりもこちらが本題だったのか。

 テオドアの眼差しは真剣そのもので、虚偽は許さないという強烈な意思が見て取れる。


 ある意味爛々とした眼を正面から見据えて、下手な誤魔化しは下策だとユディトは覚っていた。……耳を疑うような出自を唐突に聞かされて、隣のレアから突き刺さってくる胡乱な視線には気付かなかったが。


「この世界の事情については、僕達も滞在して数日になりますので多少知ったつもりではいます。凶獣討伐については成り行き、と言えば良いでしょうか。その結果についてはカリオン君達やエルファーランさまが証人となってくれると思います」

「凶獣討伐を成り行きの結果、とな。確かに、証人については信用できるものだと思うが……事が事だけに冗談で済まされるものでもない。そのリスクを背負ってまで我らを謀る理由はあるまいよ」


 冷厳な眼光と物言いから、こちらの言葉を全て信じているようではない。

 しかしそれが当たり前の反応だ。

 この世界に来てから今日まで、既に数えるのも馬鹿らしくなるくらい同じ類の視線を向けられてきたのだから。


「勿論、いきなり全てを信じろとは言えませんし、信じられないというそちらの気持ちも理解しています。ですので、僕は無理にそれを求めないことにしています。例えこの世界の誰にも信じられなかったとしても、僕が『イルヴァ―ティの勇者』ユディト=ヴァ―ヴズであることに変わりはないんですから」


 それがユディトのアイデンティティ。

 どんなに変遷する環境であろうとも、自身を強固に支える自我である。

 そしてそれこそが自分が世界という盤面に穿つ錨であり、多様に巡る幾多の世界でも自己を見失わない為の基準点となるのだ。


 よってユディトは常に自分は『イルヴァーティの勇者』だと言い続ける。


「待て……イルヴァーティ、だと?」

「はい」

「イル、ヴァーティ……どこかで、聞いたことがあるような響きだ」

「へ? いえ、それは流石にないと思いますけど」


 思ってもみなかった反応にユディトは目を瞬かせる。


 自分とイヴリーンがこの〈レヴァ=クレスタ〉に流れ着いたのはつい先日だ。

 一悶着あったものの、一応和解した上で万魔殿に滞在していたが、それでもほとんどが城内の特定の区画に押し込められていたようなもので、接触する相手も魔王親衛隊に所属する者の他、魔王に近いごく少数に限られていた。

 当然、一般には秘匿されている上、事が事だけに他国の上層部に漏らすことなど以ての外。緘口令を超えて意図的に伝えない限り、あの時、あの場所にいなかった者達が知る筈はないのである。


 唯一の例外として、当時城を離れていた親衛隊隊長のレアに副隊長のシエルが報告することは職務上必要不可欠で魔王自身もそれを許していたが、それより先は王命への背信だ。

 忠誠心の高いレアが、例え身内であれそんな愚を犯すとは考えられない。


 故に、こんな僻地に隠棲しているテオドア達がタイミング的に知ることはほとんど不可能であった。


(にしても、なんだか他の人と反応が違うね)

(ああ。凶獣云々よりもイルヴァーティの名に反応しているようだな)

(イヴ……ひょっとして合流前に何かしたの?)

(お前じゃないんだ。そんな訳があるか)


 念話で互いに疑い合っているユディトとイヴリーンであったが、対面するテオドアは顎に手を当て、小さく唸りながら意識の奥底に埋没した記憶の断片を拾い集めているようだ。


「あれは確か……我が乳飲み子の頃、か? ううむ、婆様から聞かされた話の中にあったような……何だったか。当時のファティマ教団の聖女が何かを発表しただのなんだの、だったような……むむ」


 テオドアの見かけは壮年だが、種族的性質もあって実年齢とは大きく乖離している。獣精種の中でも竜氏族の平均寿命はそれこそ数百年単位にも及ぶのだ。


 その辺の事情を同席するカリオンに説明され、ユディトは頬を引き攣らせた。〈アンテ=クトゥン〉の時間に換算しても、一般的な人間の寿命を遥かに超えていたのである。


 やがて顔を上げたテオドアは殊更鷹揚に頷いた。


「すまん。思い出せん」

「……いえ、まあ仕方ないですよね。昔の話なんですし」

「あり得ないと思えるからこそ、多少は期待していたんだがな」


 事情を理解してユディトは頷くも、数百年どころか数千年以上も神器の内在世界に封印されていたイヴリーンにしてみれば落胆が隠せない。

 テオドアの記憶の底に沈んだ何か・・に、自分達と何かしらの因果を持つものが孕んでいて、それが〈レヴァ=クレスタ〉に迷い込むことになった遠因なのかと疑ったからであった。


「勘弁してくれると助かる。何せ我が幼少の、洟垂れ坊主の時だったからな」

「それでも時期は思い出していたんですね」

「我が故郷に行けば、何かしらの文献が残っているやもしれんが」

「テオドアさんの故郷というと……」

「セントヴァレス大陸の西側。獣精種の領域だ」

「……いずれ、機会があれば行ってみる必要があるかな?」


 深刻そうな面持ちでイヴリーンに問うユディトであったが、意外なことに返ってきた言葉は実にあっけらかんとしたものだった。


「別にどちらでもいいんじゃないか? お前が気になるなら行ってみれば良いし、そんな黴の生えた逸話など気にしないのであれば、すぐにでも忘れてしまえ」

「随分投げやりだねえ。いやむしろ、君の方が気にすると思っていたよ」

「我々の生存を脅かす類のでもないし、そこまで興味はないな」

「うわ、冷たい」

「それよりも目下気にしなければならないことがあるだろうが」

「というと?」


 純粋にわかっていないのか、首を傾げるユディトにイヴリーンは溜息を吐く。


「採集した星燐石、どうやって全てを王都まで運搬する気だ?」


 常軌を逸した星燐石は、星涙点たる湖から全ての砕片を回収したものの、運搬用に持ち込んだ荷馬車の積載量を超えていて乗り切らなかった。原因は単純に、予測よりも遥かに大量の星燐石が現出してしまったからである。


 今はテオドアの庵の側に纏めて置いて、星灼が流出するのを防ぐ為に結界の中に封じてある形だ。それでも軽く小山を形成しているのだから、まさに問題は山積みである。


「その件ですね。はい、それが目下の悩みでした」


 イヴリーンの問いかけに応えたのは、少し体調が回復したのかレアだった。

 ちなみに鳥の姿のイヴリーンに困惑を覚えたのは事実だが、儀式の時に生身のユディトが巨大な竜を殴り飛ばしていたという常識外れも甚だしい光景を散々目の当たりにした所為で、一々驚くのが馬鹿らしくなり、取り敢えずは清濁併せ呑んだ後で一人悶々と悩めば良い、と非常に前向きな先送りを自身に課していたのである。


「空間操作系の魔印術の中に、ある一定量の物質を異空間に収容するという術があるんですが、私は使うことができます。ただそこに収容できる量は精々馬車一台分ぐらいでして」

「我は魔印術なんぞ使えんぞ」

「そんなことは言われずともわかっています。サーラとヒルデで合わせて一台分ぐらい、ですかね。今回の運搬隊もそれぞれにその術式を収めていますが、総てを合わせたとしても、採集した量を収めるとなると心許ないのが現状でしょう」

「成程な。段取りはしていたが、予想を超えて大収穫だった訳だ。所謂嬉しい悲鳴という奴か」

「まあ、それなりに痛みは伴いましたがね……増援を要請するにも、今は他の星涙点にも人員を割いているようですので、それも望めないでしょう」

「……仮にできたとしても、増援がここに到着するまで足止めを食らう、ということか」


 つらつらと並べられる説明に頷いて、イヴリーンは思考する。


 レアの語る魔印術とは、恐らく耀術でいうところの亜空間創生の術式。あれは術者の耀力に比例して空間の広さを決定付けるが、その口振りからして魔印術でも同様の制限があると見て間違いない。


 ユディトの纏う神器『鏡衣』にも亜空間を生成、携帯する機能があり、主に『滅刃』の鞘として使用しているが、今はこの繊細な世界で過剰な破壊が起きないよう何重にも覆っているので、他に割く余裕がないのである。 


「そちらの立場としては、今回得た星燐石は一つたりとも残しておきたくはないんだろう? 聞いた限りだと性質が性質だからな」

「……ええ、勿論です。万が一に外の勢力に流れでもしたら、非常に厄介なことになると想像できますので。それだけは何としても阻止しなければなりません」

「成程な。それなら良い方法があるぞ」

「良い方法?」


 一きしり対応策を考えたイヴリーンは、ニヤリと笑ってユディトを見た。


「ああ。なあ、ユディト」

「……そこで僕に振ってくるあたり、イヤな予感しかしないんだけど?」

「こうなった原因の一つはお前にもあるんだから、構わないだろ」

「……不可抗力だと声を大にして言っているけど?」

「ここで恩を売っておいた方が良い」

「うん。徹頭徹尾打算塗れだね。せめて周りに聞こえないように言って欲しかったよ」


 イヴリーンが自分に何をさせようとしているのか、なんとなくわかってしまったユディトは、この場の全ての若干冷たい視線に晒されながら、明くる日に確定した重労働を思い、深々と嘆息した。











 翌日。王都シャンバラ、その最上層。


 太陽が天頂を越え、下降に転じ始めた昼下がりの刻限。地上よりも遥かな高みに在る為か、曇天であることも相俟って、心なしか風に夜の気配が混ざり始めたと錯覚してしまう。

 だが実際のところ、アガルタ全土で大気の流れは制御されていて、浮遊大陸外縁に張られた大陸結界によって外界との気圧差が平衡化されているのだ。よって余程の事象が起きない限り、大陸内において極端な気候変動は発生しない。


 そして王都全体、更には万魔殿にもそれぞれ結界が張られていて、異胚種達の生活を常日頃より支えていたのである。


 だからこそ、天環橋を見上げるエルファーランが感じていた風の冷たさは、ただの感傷に過ぎなかった。


「お嬢様。こちらでしたか」

「うむ。レアからの連絡から逆算すると、時間的にそろそろじゃからな」


 不意にエルファーランの影が伸び広がり、その中から親衛隊副隊長シエルが音もなく現れた。


 もしユディトがこの場にいれば、まるで悪の組織の幹部が現れるような登場の仕方だ、と謎の言葉を呟いただろう。……それを言ったところで彼女らには伝わらなかっただろうが。


 シエルがそんな風に現れることに慣れきっているエルファーランは特に気にした様子もなく、漆黒の外套をたなびかせ、その手に煌杖アルマデルを握ったまま、実に威風堂々と言った様相で星涙点の方角を見据えている。

 だが未来を看破するその紅蓮の双眸には変わらず曇り空が映っているだけで、変化の兆しを視ることができなかった。


「来ると思いますか? 運搬手段を聞いたところでまるで信じられませんが」


 今朝方レアから、入手した星燐石を持って今日中に帰還する、と通信が入ったが、彼我の距離はそんな軽々しく越えられる距離ではない。ましてや大荷物を抱えているのだから、往路以上に時間がかかって然るべきなのである。


 どういうつもりだと問い返したシエルであったが、若干の沈黙の後、空を歩いて帰る、という虚妄を他ならぬレアが発したものだから、流石に正気を疑ったものだ。


 冷たさを増したシエルの追求に焦りに焦ったレアが連ねたのは、先日『凶獣』を滅ぼした異世界の存在の名だった。


「気持ちはわかるが……あやつらを常識で量ろうとするだけ労力の無駄じゃぞ。あの鳥女が提案したとなるなら、ある程度は信憑性を置けるじゃろうが」

「それはまあ」

「実際あやつは当たり前のように空を走っておったしな。それよりも……なんなのじゃ? 聖星燐石の星煌の落涙とは!?」


 自分で言いながら、その場で地団太を踏むエルファーラン。

 主君の荒れようを諫めるどころか激しく同意しているシエルはただ頷くだけだ。彼女にしては珍しく悩むように眉間に皺を寄せているあたり、シエル自身にとっても消化しきれない事実なのだろう。


「出現する筈のゴーレムに不備があったようですね。予定ではレアは自身の星燐晶像と戦うはずだったのですが、相手はテオドア殿だったとか。それも獣魄神化テオーシスで全力を発揮した状態の、とのことです」

「……レアも災難じゃったな。確かに星涙点は周囲の強き想念を拾い上げてしまう性質があるのじゃが……あの親父、儀式に向かう娘を前にして良からぬことを考えたのではあるまいな」

「最近のテオドア殿の懸念は、レアの婿をどうするかの一点に尽きますからね。この前、レアもいい加減にして欲しいと愚痴ってました」

「あー、それ他の者に聞かれぬようにのぅ」


 少し離れたところで受け容れの準備をしている他の親衛隊達を横目に、小声でエルファーランが釘を刺す。


 親衛隊の中にはレアのファンも多いのだ。姦しい者達にそういう浮ついた噂話を耳にしたらどう箍が外れてしまうのか想像できない。


「ともあれ、あの親父の所為で儀式は普段通りにはいかなかったということじゃな」

「はい。性質はもとよりその量も尋常ではない程で、運搬用に用意した荷車では載せ切らない程だとか。体積的にテオドア殿の竜化したゴーレムを打破したのならば当然かと」

「……それにしても、星煌の落涙、か。保管とか運用とか考えると頭が痛くなるのぅ。そもそもどう扱えば良いのじゃ? 属性が聖じゃから、通常の聖星燐石と同じにするしかないが……出力が桁違いじゃろうから、そんなものをそのまま施設に放り込む訳にもいかぬよのぅ」


 ううむ、と深く眉間に皺を寄せて考え込むエルファーラン。


「今回のような事例、過去に一度たりともありませんでしたからね。新たな事例を生み出すとなると、関係各所に色々と根回しが必要になり時間が掛かります。用途も……従来のままではいけないでしょうね」

「まずは検証の積み重ねが必要ということじゃな。幸い、他の星燐石を採りに行った者達はまだまだ時間を要するから、考える暇はあるが」


 それとて無限にある訳ではない。


 寧ろ、先日行った『天色託宣』によって次に『凶獣』が現れる時期が判明している以上、それまでに方策を考えなければならなかった。

 まったくもって、異世界人が現れてからというもの、初めての事例に直面するのが連続で、驚きの感覚が麻痺しそうになる。

 しかし、歴代魔王の誰もが成し得たことのない事柄でもある故、やり甲斐を密かにエルファーランは感じていた。

 全ては、アガルタの民の幸せのために。魔王として、できることをやるだけなのだ。


 エルファーランが内心で決意を新たにしていると、側に控えていたシエルが空を仰いで声を挙げた。


「お嬢様……見えてきました」

「妾はお主ほど視力が良くないからのう……ちょっと待っておれ」


 そう言って遠視の魔印術を自らに施す。そして、言葉を失った。


 二人が目にしたのは、雲間に隠れるように近付いてくる金色の円陣だ。

 その円陣というのも燦然としているのではなく注視しなければ気付かない程度の光量で、一定間隔で明滅してはその度に曇天の色彩と同化している。


 事前に来ると通知されていなければまず気付けない、存在感さえ朧なものだった。 


「……なんじゃ、あれ? 隠蔽系の術式か?」


 呆然とするあまりポカンと口を開けたままのエルファーランだったが、それは仕方のないことであった。


 エルファーランの”眼”は、光どころか万象に潜在する星灼の流れすら捉えることができ、特に魔印術に対してはその振る舞いだけでどのような術式であるかを看破することができるのだ。


 そのエルファーランにして、宙に顕れた金色の円陣はもとより、それを明滅させている何かが微塵もわからなかったのである。


 絶句する二人をよそに、徐々に近付いていた円陣がゆっくりと降下し始め、この時初めてその上がどうなっているのかが判明した。


 円陣の先頭に立つのは、この異常を生み出している異邦人ユディトと、その肩の上が定位置である麗らかな瑠璃色の猛禽イヴリーンだ。

 その二人に続く形で三台の荷馬車が佇んでいたのだが、それを牽く馬達は暴れ出さないように魔印術によって強制的に眠らされている。


 しかして人影はユディト達以外に見ることはできなかった。


「……レアの報告でも半信半疑でしたが、言ったとおりになりましたね」

「いやいやいや。何を冷静に言っておる!? あんな無茶苦茶な引っ越しなどあってたまるか!!」


 声の抑揚を無くして淡々と告げるシエルに、エルファーランは思わず杖で円陣を指して叫んだ。


 輝ける円陣の上にはユディト達や荷馬車の他にも、テオドアが住んでいる筈の家屋や物置小屋、果ては彼の家の周囲に自生している幾本もの大樹や、その傍らに山積みされた眩い石礫が存在していたのである。


 一言で表すならば、テオドアの庵の周囲環境を地面ごと匙で掬いあげてそのまま持ってきたのだ。

 非常識にも程がある。


「妾でも解らぬ隠蔽術を使用しておるのじゃな。……あんな異常な光景を市井の者達が目撃したらと思うとゾッとする」

「しかし何故家ごと運んでくる必要があるのでしょうか?」

「お主もつくづく冷静じゃな……おおかた、あの親父が住み慣れた家から離れたくないと駄々を捏ねたんじゃろう」

「……否定できないところがテオドア殿らしいですね」


 散々な言われようだが、助け船が出ないあたりこの主従の中では確定した事実なのだろう。そしてこの場にその娘が居たら、羞恥のあまり自室に三日くらいは引き籠るのも想定内のことだった。


「空の旅、と洒落込めれば良いのですが」

「無理じゃろ。メリムの奴以外、飛翔術式なぞ使えぬからな……あの場にいる者達の怯えが伝わってくるようじゃ」

「確かに……間違いなく混乱しているでしょうね」


 配下の魔将の一人を除いて、飛行経験など異胚種の誰もないのだ。

 ましてや土地ごとの空中移動などと想像を絶する事象に晒され続けている。

 他の者達は恐らくテオドアの家屋内で待機しているのだろうが、精神的なストレスのあまり恐慌状態に陥っていたとしても不思議ではない。


「ま、まあ良い。受け入れの準備を始めよ! 忙しくなるぞ!」

「御意」


 その号令を受けたシエルの指示によって、異常事態に呆然自失としていた親衛隊の者達は機敏に動き始める。

 だども困惑から脱しきれない無数の視線のいずれもが、ユディトが統御している『ヴァ―ヴズ』の耀ける円陣に向けられたままで。


 そしてエルファーランは、この万魔殿の屋上に苦手とするテオドアの居宅が移設されることに、大いに辟易するのだった。

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