第29話 星降ろしの儀(2)
ズズンと大気を震撼させる鈍重な落着音を発しながら片腕と片翼が崩れ落ち、その丘の如き巨体が湖面の上に展開された円陣に強かに叩き付けられる。
総身に走った痛みからか、あるいは自身を構成する一部分が欠落しての嘆きからか。竜型のゴーレムは絶叫を挙げていた。
「ふう……これなら通じる、か」
繰り出した攻撃が、はじめて目に見える有効打になったことを確認して、レアは一つ深く息を吐いた。
今の攻撃は部下達の間で『黄の衝撃』などと言われている、レアの得意技であり奥義だ。
心なしか青臭さが匂い立つ技名であるが、決して自分が考案して名乗ったものではない。実際にその技が起こす見た目上の現象と威力を目の当たりにしたエルファーランがいたく気に入ったことで、香しい名が与えられてしまった業の深い技である。
使う時は決してその名を口にしないように常々気を張っているが、命名者が命名者だけにレアも蔑ろにすることができない。
以前、同僚のシエルが主たる魔王が気に入っていることを良いことに、堂々とこの技を真似て『黒の衝撃』なる技を開発してしまった時は、本気で物理的に話し合ったものだ……結局、レアとしてもエルファーランが悦んでいるならばそれで良いのだと話が着き、共倒れになった訳だが。
何はともあれ、『衝撃』は魔印術とは異なる系統の闘技であり、多種属性を自在に操れるレア自身の特性も併せ、聖竜の鱗による星灼減衰力にある程度抵抗することができると見込んで放ったのである。
本来は魔印術の強固な障壁術式と堅牢な物理防御を同時に突破する為に用いるのだが、どうやら有効のようだ。
と言っても、今、星燐晶竜を砕いたのは純粋な意味で聖竜の鱗を打ち破ったのではなく、これまで付けてきた大量の細かな傷を最大限活用するように高出力の攻性圧力を浴びせ、物理的に押し切った……要は力業で引き千切ったのである。
その偉容故の弊害だろうか。身体の重心に狂いが生じたのか、星晶竜はうまく立ち上がることができず、代わりにその場でジタバタと身じろいでいる。
荒ぶる意気に合わせて尾や残った翼で周囲を打ち払い、もんどり打って暴れに暴れている竜の乱撃に巻き込まれぬよう、注意深く間合いを確認してレアは再び槍を構えた。
「打倒するにはこの技を基点にするしかないけれど……」
黄に限らず各色の『衝撃』はレアの切り札に違いがないが、一度の消耗が激しすぎる。その為、一日四回が限度だと定めていた。
そもそも技の着想自体が、異胚種の「奥の手」使用を前提としたものだから、通常状態で多用することで身体に掛かる反動はかなりのものである。
もしも仮に従来通り、自身の転写体が現われたのならば、対処法はいくらでもあった。
自分自身のことを熟知している前提もあるが、自己研鑽意欲の塊のような種族性を持つ異胚種ならば、自身を超える、という華々しいお題目を前にすると、誰しも意気揚々と困難に立ち向かっていくことだろう。
しかして眼前に立つのは、そんな意志さえ嘲笑うかのようにデタラメな存在だ。力を温存する余裕など、ある筈もない。
「……残り三発。多少無茶はしてでも、確実に叩き込んで破壊するしかないわね」
「レアよ……」
随所に棘を孕んだレアの決意の言の葉は、後方で見守っていたテオドアの耳にしっかりと届いており、テオドアは悲しげな顔を浮かべる。
聴覚の端をざわつかせたそれを無視して、レアは巨大な存在を油断なく見据えて疾駆した。
『衝撃』の最大の短所は、攻撃前の溜めの時間が魔印術よりも多いことだ。
普段の戦闘では、シエルや部下達が時間を稼ぐためにフォローに入ることが多く、他者の助力なしでは成し得難い技なのである。
とは言え、単身だと使い物にならない技、という訳ではなく、故にレアは一つ所に留まるという愚策はとらない。
常に相手と一定の距離を保ち、緩急を織り交ぜながら攻撃と回避を重ね、生じた隙を突く。一対一という不測の事態が起りにくい状況下において、その基本方針の遵守こそが、この戦闘の運び方の最適解だ。
重要なのは、自身の星灼を最大限に活性化させる『
全身の強化を行いつつ『衝撃』を放つ為に必要な星灼の確保し、全過程を恙なく進める為のスタミナのペース配分を考慮。いずれも正しく行使して、自らを安定に律することこそが勝利の鍵である。
そして狙うべきは、たった今破壊したばかりの左半身。そこから削り取っていく以外に道筋はない。
懸念があるとすれば――。
(あれが父上の転写体である以上……
『黄』に限らず『衝撃』を安全且つ確実に放つには、相手との距離を一定以上開けて留まることが望ましい。行使には極めて高い集中と精密な星灼制御が求められるからだ。
しかし眼前の竜と敵対している今に限り、距離を開けて棒立ちになるのは下策である。
竜種を知的生命体最強の座に押し上げている要因。それは打撃、斬撃などあらゆる攻撃をものともしない強靭な鱗に覆われた体躯。そしてどんな防御障壁をも貫通突破して敵を圧倒する、高出力で放たれる息吹。
この至高の矛と盾を備えているからである。
息吹は竜種にとって基本的な生体の機能に過ぎないが、各々が有している属性の色を強く反映するものだ。
その中でも特に聖竜が放つ「
端的に言ってしまえば、両者の違いは纏うか放つかの差でしかないのだが、性能面で論ずるならば、それだけで充分。
なにせ展開される高出力の聖属の攻性波動は、純粋なエネルギー状態の星灼がそのまま触れれば即座に消滅し、物質が干渉を受ければその強度は著しく減少する。また生命体が浴びれば活力の低下は免れず、曝され続ければ死という結末さえ容易く訪れることになるのだから。
「アレだけは、撃たせてはならない」
竜の間合いギリギリの境界円周上を周回しながらレアは口腔で呟く。
聖竜の血を引き恵まれた親和性を保持しているレアですら、直接喰らったとしても一発程度ならば明確な生命の危機に瀕することはないだろうが、戦力の激減は必至なのだ。特に今のように一対一の場では、高い確率でそのまま敗北に繋がりかねない。
(……予定通りなら、そろそろサーラ達が到着してしまう。あの子達をこんな危険な状況に付き合わせる訳にはいかないし、ここで私が頑張るしかないわね)
隣に副隊長シエルが立っていれば、と強く思う。
冷静沈着を地でいくアガルタ最高峰の剣士が並び立てば、この程度の状況など窮地でもなんでもなくなるのだ。
部下達のことを信用しない訳ではないだが、戦闘能力ではどうしても劣ってしまう彼女らは、レアにとっては庇護対象になってしまう。
それ故、部下達をこれ程の危難に遭わせることを全力で拒否したいレアは小さく意気込み、警戒域を見極めながらの様子見から攻勢に転じた。
竜像の迎撃半径に大胆に踏み込むや否やの瞬間。全身を強化している『星纏衣』を両脚に集中し、竜像に向かって高々と跳躍する。
一気に間合いを跳び越えんとする意思のまま、一瞬で儀式場の天頂まで到ると、着地点を違わぬように風の魔印術を併用して自身の位置と空気抵抗を調整。落下に転ずると後背に向けて同じ術式を展開し更なる加速を獲得する。
そうして颶風どころか流星の如き勢いを得たレアは、ようやく立ち上がった竜像の、抉り取った腕の断面に穂先を突き立てた。
「二発目」
すさまじい突破力で深々と刺さった槍の先端から、眩い赤い閃光が溢れ出し、竜の総身を震撼させる。
視界を強かに焼き尽くしながら迸るのは、炎の属性を宿した『赤の衝撃』だ。
燦爛と煌めく力の波動は槍を通して直接体内に注ぎ込まれ、赤熱化した穂先を更に奥深くへ導いては、星燐石そのものでもあるゴーレムを激しく熱し、その身を紅蓮に染め上げる。
至近距離で放った分、聖竜の鱗の影響を最小限に抑えられ、逆にこちらが叩き込んだ攻撃は最大の効力を示したが、反動が最も自身に降り掛かることにもなり、レア自身もその熱波に灼かれることとなった。
しかしその程度のことは、何よりも儀式の早期終結を鑑みたレアにとって想定内のことでしかない。
融解とはいかないまでもかなりの熱を発する体表から槍を引き抜いたレアは、足場に軽やかに降り立っては裂帛の気合と共に強化した一撃で足を打ち据え、その巨体の支えを大きく揺るがすことに成功する。
浸透した赤の衝撃の残滓の影響で、未だ硬直状態から戻れていない竜は、目論見通りにその場に再び倒れ伏した。
明確な隙が呈された絶好の好機を、レアは逃さない。
横臥したまま暴れる竜の、振り抜かれた爪撃を大きく飛び退いて躱し、着地と同時に次なる奥義を解放する。
「三ッ」
清廉な彼女の意を体現するが如く、竜全体を包み込むよう範囲を広げて放たれた『青の衝撃』が、周囲の大気ごと水分を凝結させ、竜の全身を凍て付かせていた。
星燐晶像は瞬く間にその総身に霜を纏うことになり、高温に熱せられていたその身のあちこちからは、ピシリピシリと皹と裂帛音が発せられる。
レアの狙いは、急激な温度変化による物質組成の劣化だ。
星燐石と金属や鉱石とでは物性そのものが異なるため、期待した結果に到るか不安ではあったが、身じろぐ度にその総身よりパラパラと欠片が飛び散っている現状を見れば、まったく無意味なことではないと確信が持てる。
本来であればそれなりにインターバルを置かなければならない『衝撃』の、無茶に無茶を重ねた連続使用。それを可能とするために、自身の限界を超える勢いで収斂される莫大な量の『星纏衣』。
そのあまりの密度の濃さに、全身を襲う負荷に骨や筋が悲鳴を挙げ、意識が潰えそうになるが、そんな弱さを漲る意志でねじ伏せた。
(このまま、押し切るッ!)
レアの目に力が宿り、勝負を一気に決するべく力強く踏み出していた。
己に残された力を考慮した上で、この戦術が最適解だと信じて忠実にそれを実行する。
だが同時に、竜像も咆吼を挙げた。
空気をけたたましく揺さぶり、レアの前進をも押し止める迫真のそれは、造られし者の崩壊への抗いか。
猛り狂う烈気に反して身体は上手く動かないものの、立ち上がれないながらも学習したのか、全身を捩って尻尾を振り上げ、レアの頭上より垂直に凄まじい勢いで振り下ろす。
轟音を発てて足場を強かに打った衝撃が自らをも打ち据え、その尾鞭のあちこちを飛散させることになったが、それでも竜像の尾を振る勢いは止まらない。
「これで――」
だが像の挙動より反撃を察していた彼女は、寸でのところで回避行動をとり、距離を開けていた。
それは竜尾の追撃にはあと一歩届かない、絶妙な距離。
そして、聖竜の鱗の障壁ごと押し通せる、絶好の位置。
「――最後!!」
放たれたのは、閃光でありながら途轍もない質量を伴った大地の一撃。
既に崩壊の兆しが見えている像を完全に破壊するには、これ以外の選択肢はない。
足りない星灼を補う為、全身を包んでいた『星纏衣』を解除し、その分の星灼さえ『衝撃』に転化した、戦いを決する為の渾身の攻撃だ。
最初に放ったものと同じ『黄の衝撃』が、既に半身を失って半壊している水晶竜を襲う。
しかし機会を窺っていたのはレアのみならず、ゴーレムも同じだった。
レアが攻撃を繰り出したのと同時に竜像も顎を開き、その奥から煌々とおぞましく滾る白光が解き放たれる。
偽の聖竜が放つ渾身の『息吹』と、死力を尽くした『衝撃』の正面衝突。
実体を伴わない、加速された純然たるエネルギー同士のぶつかり合いは、衝突点の空間を大きく軋ませ、歪ませる。
レアの衝撃は近距離で放つ分において、出力としては息吹に勝るとも劣らない。自身が警戒していた『聖滅の息吹』と、一見すると拮抗を保っているようでさえある。
だが、空間の一点に掛けられる負荷は刻々と加速度的に増大し、その圧力に反発しようとする空間の膨張力が終ぞ弾け、周囲に等しく不可視の衝撃波を奔らせた。
「っ!?」
それはまったく意識していなかった、想定外の出来事だった。
時間にして数瞬。
空間の撓みは波のように普く広がって、微風の如くレアの全身を梳いていく。
その静かで微かな鎮撫に曝されたかと思うと、途端に膝から力が抜け、レアはバランスを崩してしまった。
短期決戦を選択し、通常状態での奥義の連射という些か前傾的に過ぎた無茶の代償が、このタイミングで現われたのだ。
「しまっ――!?」
どんなに完璧な計画を立て、緻密に気を払って事を運ぼうとも、一刹那の乱れで、全てが瓦解する時もある。
この戦いにおいてのそれは現実のものとなり、儀式の行く末の天秤を一気に傾けた。
『黄の衝撃』によって威力の大部分が削がれたものであったが、己の奥義を貫通してきた亡びの白光を全身に浴びてしまったレアは、結界外縁まで弾き飛ばされる。
儀式場外縁の湖畔に生じている半透明な光の壁面に背中から強かに打ち付けられ、くぐもった呻きを挙げた。
肺腑の空気が一気に押し出されたこともあって、意識が一瞬だけ白転する。
「くっ……見誤ったか――ッ!?」
溜まらず膝を着いてその場に崩れ落ちたレア。そんな彼女への追撃か、真一文字に振り抜かれた竜の巨大な尾が、地面を薙ぎ払わん襲いかかる。
鈍重そうな外見に反して俊敏に舞うそれを、レアは咄嗟に槍を盾にすることで受け止たが、そのあまりの威力に耐えれる筈もなく、大きく弾かれてしまった。
勢い良く地面を滑り、転んでは弾かれ、それでも何とか体勢を直して踏み止まって顔を上げると、大きく顎を開いたゴーレムの口腔で、燦然と輝く光が視界に映り込んでくる。
「っ――!?」
体勢は、直ぐに動けるようなものではない。
槍で防ごうにも防げるものではなく。何よりも星灼と体力の消耗があまりにも大きく、立ち上がることすらままならないのが現状だ。
大きく目を見開いたレアの何もかもを塗り潰さんと、封滅の閃光が金色に明ける湖の上を駆け抜けた。
※
「レアっ!」
儀式を構築する端末水晶を強く握り締めながら、テオドアは叫んでいた。
限りなく娘に不利な状況下で、冷静に善戦していたのは、テオドアの眼から見ても明らかだ。
些か功を急いている運びであったが、戦術の着眼点は決して悪いものではなく。可と不可との境界を確りと見据えてのものだった。
加えて、行動の全てに油断はない。それもまた明瞭であった。
故に、競り負けたのは単純に力量の差だ。
武技を繰る技量の差ではなく、戦術の読み合いと言った知略の差でもない。
『
かといってレアが奥の手たる『魔刻解放』を使用したとて、テオドアの転写体に確証はないのだったが。
だが、今は駆け寄ることをしてはならない。
それを為すことは、結界を解除することであり、儀式の強制終了を意味する。
仮に現時点で中断したとしても多少なりの聖星燐石を確保できるものの、必要と見込まれる量には程遠い。
そして何よりも、この儀式を完遂以外の形で終了させることは、これまでのレアの努力を無にする愚行だ。
星降ろしの儀式は娘が望んで行ったことであり、また彼女の主である魔王エルファーラン直々に下された勅命である。
レアが魔王の第一の臣下であることをこの上ない誇りとしているのを知っている以上、一時の感情に任せて儀式に水を差すことは、そんな娘の矜持を踏み躙ってしまうことだ。
父親としてそれだけはやってはいけないと、テオドアは逸る精神を宥めることに徹していた。
深く長く息を吐き、儀式の監督者としての顔で輝ける結界内の様子をつぶさに見つめ、過負荷が掛かり綻びかけた儀式場の再構築と強化に意識を集中する。
※
視界は真っ白に染まっていた。
不純物のない清冽な力の波動に震撼した周囲の空気がピリピリと肌を打ち据え、既に限界を迎えている全身の神経を容赦なく逆撫でして、激しい痛みをもたらしてくる。
奥義の多用の所為もあってか、少しでも気を抜けば簡単に意識が潰えてしまいそうな程の脱力感に見舞われていたが、それでもレアがまだ槍を手放さないのは、諦めていないからだ。
いや、覚悟を決めたと言い換えてもいい。敬愛する主より与えられし任務を果たす為の決死の意気を、だ。
極光が今まさに降り掛からんとする中。未だ立てはしなかったが槍を支えに身構えたレアは、激しい衝撃と更なる激痛に耐えるべくきつく目を閉じ、身を強張らせる。
――だが。
いつまで経っても『聖滅の息吹』に灼かれる感覚が、ない。
総身を突き抜ける苦痛をバネに前へ踏み出す算段だったレアは、その要が来ないことを怪訝に思い、瞼を持ち上げようとする。
「あのぅ、大丈夫ですか?」
「ッ!?」
その瞬間。ある筈のない何者かに声を掛けられたことに驚き、レアは目を見開いた。
急に開けた視界はただただ眩く、白い。そんな中で彼女が辛うじて目の当たりにしたのは、白き逆光の中で一層際立つ瑠璃色のコートの裾を優雅になびかせた誰かが、身を屈めてこちらを覗き込んでいる様だった。
「ええと、レアさん、ですか?」
「…………」
光に慣れていない目では、視界を強かに圧す光輝に隠れてその表情を窺うことはできなかったが、何者かの声色は柔らかな感じがあるものの、のんびりしているようでどこか頼りない。
本人的にはあまり嬉しくないだろう印象だが、全くの第三者がこの儀式場に唐突に出現したという事実に、レアの思考は完全に停止してしまった。
星降ろしの儀の領域は、万魔殿にある〈星読みの間〉で行われる『天色託宣』の儀式と同等の結界が展開され、内外を完全に分かつように設定されているのだから。
「……ありゃ? 聞こえていますか?」
絶句してしまったレアとしばらくの間、見つめ合っていたのだが、そんな事情があるなど露程にも思わない突然の闖入者であるユディトは、彼女のあまりの反応の無さに、心配になって首を傾げる。
「うーん。ひょっとすると……人違いだったのか? でも湖畔に立っている人以外に、生物の耀力は感じられないし」
「あ、いえ、私がレアです。あの、あなた……は?」
「そうでしたか。初めまして。僕はイルヴァーティの勇者、ユディト=ヴァーヴズと申します」
ようやく硬直から逃れたレアが反応を見せると、その誰何に答えるべく、ユディトは律儀に襟元を正し、丁寧に腰を折って会釈する。
それはユディトがどんな時でも崩すことのない決まり切った社交辞令だが、その所作は戦場にいるとは思えない場違いなものだ。
それによって再び言葉を無くしたレアの様子に気付かずに、ユディトはつらつらと続ける。
「いやあ、それにしても間に合って良かったです。貴女の部下のヒルデさんが遠見の魔印術とやらでこちらの様子を窺っていたみたいですけど、急に慌てだしまして」
「ヒルデが……ですか。確かにあの子の遠視術の精度は群を抜いていますが、人前で取り乱すとは」
「それだけ貴女が信頼されている、ということですね。その上で先行して助けに行って欲しいと頼まれたら、流石に断れませんよ。信頼を得るためには、一つ一つ信用を積み重ねなければいけませんから」
あはは、と屈託なく笑うユディト。
信用を積み重ね、その姿勢を評価する側の相手にそれを言うのが正しいかどうかは兎も角。
ユディトだけがこの場に到達しているのは、その説明にある通り、山道を駆け上がる馬車から遠視の魔印術で儀式の様子を観察していたヒルデが、レアと対峙する巨大な星燐石竜の存在に動揺し、その状況からレアの危機を察知してか、それを防ぐ為の助力を求められたからである。
単純な戦闘能力で言えば、ユディトには『凶獣』さえ滅ぼした実績があるのだからヒルデも、そして隊を指揮するサーラもその判断を下すのに迷いはなかった。
そうしてユディトは、タイミング的に本当に間一髪であったものの、なんとか依頼を無事に完遂することができ、その安堵を得たからかいつも以上に暢達な様相を呈している。
未だ状況を整理し切れていないレアであったが、ユディトの纏う柔らかな空気と、場違い極まりないのほほんとした言動に少しずつ冷静さを取り戻し、徐々に双眸に理性的な光が戻り始めていた。
「皆が……到着してしまったんですね」
そうして思考を支配するのは、自身への落胆だ。
その若干落ちた声調には、独力でこの試練を超えれなかった苦渋と、部下達を巻き込まないようにする意思を全うすることができなかった悔悟が滲んでいる。
親衛隊を預かる身として、レアの責任感は人一倍強いのだ。
「あ、他の皆さんはもう少し後で到着すると思いますよ。僕だけが先行して走ってきました」
「は、走って!?」
だが、あっけらかんと返したユディトは、とことんその辺りの機微を察することが不得手だった。
その言葉の意味を量ろうと、レアの思考は加速する。
どうにもこのユディトという人間の返答は、楽観的に過ぎた。
王都からの聖星燐石運搬隊は、慣例によって馬車で向かっているのは間違いない。ならばこのバスティーラ山地を駆け上るのも馬車で行われることであって、人の身でその速度に勝るなど到底考えられるものではないのだ。
魔印術を用いればその限りではないが、眼前の青年は明らかに異胚種ではなく、その手段は使えない。……実際は、ユディトは『ヴァーヴズ』を用いて空中を駆けてきたのだが、そんな事情があるなどレアが判る筈もなく。
そこまで冷静な思考を取り戻していたレアは、自身に見えていた状況を顧みた。
「そうでした! 聖滅の息吹は!?」
ハッとしてレアが今自分に迫っていた危機を思い返して視線を動かすと、ユディトの背後で白光の奔流が相変わらず進むことも戻ることもできず停滞していた。
星燐晶竜から放たれる攻撃は未だに続いているのか、徐々にその量が多くなっているようでさえある。
その後背で大挙して押し寄せている白が、見えない壁に阻まれているのか堰き止められている現実離れした光景を目の当たりにして、レアは寒気を抑えられなかった。
停滞した場で対流し、あそこまで肥大化した『聖滅の息吹』の濃度ならば、どんな生命体だろうと一瞬で死滅しかねないだろう。それだけの濃密な死影が眼前に存在しては、正に生きた心地がしない。
しかし。緊迫して表情を強張らせたレアに反して、ユディトは背後で膨れ上がる破滅の輝きをつまらなそうに見上げた。
「ああ、心配しなくても大丈夫ですよ。この程度の出力じゃあ、アシュロンを突破する事なんてできません。なんか面倒臭い色付けがされているみたいですけど、それだけです」
「それは、どういう――いえ、待って下さい! そもそも貴方、どうやってこの中にっ!?」
「どうって、普通に飛び込んできましたけど?」
「そんな馬鹿な! 父上は何をしているのっ!?」
レアの混乱は尤もで、そしてユディトの困惑も当然だった。
異邦人であるユディトに、儀式の詳細などわかる筈もなく。
同時に、『神璽』による解析と『鏡衣』による結界の部分中和にて障壁を潜り抜けたユディトの事情など、初対面のレアには当然理解できる筈もなかった。
不信感からかどことなく険しくなったレアの視線がユディトに突き刺さる。
「ええと、レアさん? ち、近いんですけど……」
「……貴方は一体、何者なんですか?」
シエルからの事前連絡で、星燐石運搬隊の人員構成は既に聞いていた。どうして急に星燐石を欲することになったのか、その理由も同様だ。
ただそれら中で、微妙に言い淀んでいたというか、明確に言葉にするのを躊躇っていた部分があった。
誰が相手でも物怖じせず、遠慮のない口調で正論を連ねる相棒にしては、随分珍しいと首を傾げたものだが、彼女にそれをさせたのが目の前の人物……そう確信する。
そう思うが故に、状況を忘れてレアは追求に逸った。
槍を持つ手とは逆の手で、ユディトの襟元を強く掴んだことがその顕われだろう。
逆にユディトは、ズイッと顔を寄せて真剣に問い詰められてしまい本気で焦っていた。
レアが美人の類いであるとユディトにもわかる為に、その余裕なき圧力には抗し難いものがあったからだ。
故にユディトは甚だ情けないことだが、取り敢えず逃げることを選ぶ。
「せ、説明は後でさせていただきますから。それよりも、早く儀式を終わらせてしまいましょうか!」
「は?」
「儀式の概要については一応サーラさんやヒルデさんから聞いています。要諦としては、あのデカブツを殴って粉砕すれば良いんですよね?」
「なぐ……まあ端的に言ってしまえば、そうですが」
それがままならないからこその試練であり、乗り越えた時に得られるものが大きいのだ。
そして想定外が現出し、困難を極めた果てに現状があるのだが。
レアに確認を取ったユディトは一つ頷き、踵を返して荒れ狂う竜へと歩み出した。
「それなら僕にもできそうです! レアさん、そこでちょっと待っていて下さいね。すぐ終わりますので」
「あ、ちょっと――!?」
レアが制止する間もなく歩み始めたユディトが、徐に掲げた腕を真一文字に振り抜く。するとその風圧によって、今の今まで滞留しながら猛威を振っていた白が霧散霧消した。
「!?」
ユディトの手刀に纏わり付いた耀力が、『聖滅の息吹』の大元である星灼を情け容赦なく蹴散らしたのである。
耀術によって顕現した現象を迎え撃つ時、反射術式や防御術式で防ぐとは別に、ただ膨大な量の耀力を纏うことで弾けるのは〈アンテ=クトゥン〉の耀術士ならば誰もが知っている常識だ。……ただ、それを為すためには通常術式を用いるよりも遥かに高濃度の耀力を収斂する必要があるのは自明だったが。
ユディトが行ったのはそれだけのことなのだが、事情を知らないレアは大きく見開くだけだ。
そんな彼女の驚愕の視線を背に受け、ユディトは拓かれた道を見据えて地面を蹴る。
竜像すら自身の息吹が消失した理由が理解できず、一瞬の硬直を余儀なくされ。
その反応できない僅か一刹那の間に肉薄し、巨体の頭頂部まで跳び上がったユディトは、その眉間に向けて白銀に煌めく拳を振り下ろした。
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