第26話 サヴァナーズ平原(3)

「この尋常ならざる星灼フォルトゥナの流れ……何かが起きる前触れなのか?」


 天上に拓かれた雲一つない見えざる路を、白く眩い太陽が燦然とした輝きを纏いながら昇っていた。

 このままあと数時間もすれば天頂を超え、その軌跡を下降へと転じさせるだろう。

 そして醒めるように落ち着いた翡翠の天空が朱に染まり往き、やがて深き静寂を伴って双子の月がのっそりと顔を出す筈だ。


 それは昼と夜の永遠の追走。世界創世の瞬間より淡々と繰り返されている永劫不変の理。

 そんな一分の揺らぎも撓みもない完全なる予定調和を前にしては、人は誰しもそこに安定と平穏を見出し、それ以外の可能性を破却しようとしてしまう。


 だが。

 世界はいつも、そんな優しさに満たされている訳ではない。


 寒冷な風が容赦なく吹き荒ぶバスティーラ山地の、急勾配の山肌に築かれた展望台にて天を見上げる男はそれを知っている。

 そんなぬるま湯のように深々と意識を侵す耳心地の良い言葉など、他者と自身を誤魔化す為の方便に過ぎず、魂を鈍化させんとする果てしなき陥穽の毒物でしかないことを。


「――或いは、既に何かが起きてしまった、か」


 この世界は常に不安定で、絶えず脅威に曝されている。それも自分達の力では到底太刀打ちできない、絶望すら生温い不条理に、だ。

 精々できることとして先人達が築き上げてきた対抗策も、その実、不条理達の目を眩ませ、気が済むまで蹂躙の爪痕を刻み込ませることだけである。

 それは薄暗い洞穴の奥で、遭遇した荒れ狂う嵐が自ずと過ぎ去るのを、身を縮め震えて祈りながら待つことに等しい。


 消極的な回避策しか取れないことを、この〈レヴァ=クレスタ〉の者は諦めと共に享受している。連綿と語り継がれる敗者の歴史が、それを如実に証明していた。


 そんな背景があるからこそ、この世界の者達は、持たざる者や異質に対しての差別意識が顕著だ。それは敗走し続けることを運命付けられた己が生を呪っての、裏返しと言えるかもしれない。


 そして、何時の時代もそんな不遇の矢面に立たされるのは、異胚種ゼノブリードであった。

〈レヴァ=クレスタ〉に存在する知的生命体の内、出自も由来も全く不明で、いつの間にか歴史の上に存在していた、不祥の存在。攻撃対象としてはこの上ない、都合の良い者達である……自身達とは似て非なる彼らこそが、危うく不確かな世界の存続を辛うじて繋いでいる事実を見ないようにして。


 故に多くの者は理解できていない。

 個々は大したことがなくとも、そんな無数の歪んだ想いが連なり重なり合って大きなうねりを生じさせ、世界に満ちる星灼を擾乱させていることを。

 そしてそんな揺らめきの残り香を嗅ぎ取って、凶獣という終焉がこの世界に現われ出していることを。


「知らぬことこそが幸せ、と言わざるを得ないか。人にも、世界にとっても――」

「こちらにおいででしたか」


 凜とした声が、思惟の中にあった男の耳を打つ。

 山肌の急斜面に拵えられた展望台に佇む男は壮年と言ってもよい風貌だが、後ろに流した真銀の長髪や鋭い眦から作られる風格たるや紛れもなく王者のそれだ。

 風流な黒衣を内より押し上げる隆々とした体躯と威厳を前にしては、ただそれだけで息が詰まり、膝を折って傅きたくなったとしても不思議ではない。


 壮年の名は、テオドア=リンドブルム。嘗て獣精種ベスティア五氏族の中で最強の名を欲しいままにしていた竜族を統べし、竜帝と畏れられていた存在である。


「……どうした? そんな物々しい装いで。王都に戻るのは延期になったと聞いていたが?」

「先日入った通信で、事態は変わりました」


 踵を返したテオドアの鋭い眼が捉えるのは、年若い女性だ。

 壮年の男との血縁を感じさせる銀髪が風に揺れ、陽に梳かれて碧空の色彩をそのままに映している。

 顔の造詣や柔和な雰囲気から穏やかな印象を周囲に与えるのは、彼女自身の清廉で柔軟な内面を体現しているからか。


 容貌から感じ取れる柔らかさとは相反して、女性は純白の胸甲に加え、上腕までを覆う手甲と篭手を装着していた。脚絆もまた同じ白き輝きを湛え、甲冑の下に着ている漆黒の戦闘服とのコントラストも併せて、清廉な騎士の如き装いだ。

 その肩に背負う美しい意匠の白銀槍の確かな存在感もあって、さながら、これから戦場へと向かわんとする出で立ちだが、実際にそれは彼女の完全武装した姿でもある。


 魔王領アガルタの君主、新米魔王エルファーランの親衛隊隊長レア=リンドブルムは、毅き意志を秘めた鳶色の双眸で父テオドアを油断なく見据えていた。


「先代殿は、最後の天色託宣ゾア・プロフェテスに失敗したようだな。何でも予見通りに凶獣アヴサーダスが現われなかったそうだが」

「……その辺りの詳しい事情を、シエルは言いませんでした。他国の者に通信が傍受されるのを警戒しての判断です」


 苦々しく答える娘に、父は渋面を浮かべる。


「正直なところ、我は信じていない。先代のことは良く知っているからな。貴奴はガサツで適当でいい加減で大雑把なところも多々あったが、護るべき処はしっかり護る奴であった。そんな女が、目に入れても痛くない愛娘が重要極まりない祭事を行う際に、斯様な懸念を残すようなことなど絶対にせぬ」

「先代様のことは私も同意見です。あの方がエルファーラン様の危機を招くようなことは致しません」

「そう確信があるからこそ、今代殿のことが気掛かりで仕方がない、と」

「当然です。私はエルファーラン様の親衛隊を預かる身。……やはり、あの方が何と言おうとお側を離れるべきではありませんでした」


 現実的には、妹的な魔王による”お願い”という名の最強の権威を振われての強制的な里帰りだったが、そもそもの原因は眼前の男が時期も弁えず陳情を出した為でもある。

 そうして戻ってきてみれば、用件は単に身内で完結する話であり、帰還しようにも凶獣襲来の時期と重なってしまった為、動くに動けなくなってしまったのだ。


 レアの厳しい眼差しの中に、呼び戻した自分への非難が籠もっているのをまざまざと感じてか、多少やり過ぎてしまったという自省を胸中に抱いていたテオドアは、誤魔化すようにわざとらしく咳払いした。


「通信を入れてきたということは無事なのだろう? 遠巻きに偽贄香炉デコイプラントの輝きが潰えていくのを確認できたが、凶獣襲来の窮地を切り抜けられたのは、その采配手腕によるもの、とも受け取れる。大任を継承したばかりだというのに急場を凌ぎきった胆力、大したものではないか」

「…………」


 取り繕ったようにも聞こえる言の葉が、随分上の立場から発せられたようにも聞こえ、レアはピクリと眉を寄せる。


 だが事実、壮年の男にしてれみればエルファーランなど新米の王に他ならない。

 経験も感覚も。竜帝として永らく強者達の頂点に君臨していたテオドアに比べるとひよっこに過ぎないのだから。


 それを理解しているからか、レアも言葉には発さなかった。……代わりに纏う気風を硬質にすることでささやかながらの抗議をしていたが。


「……ここで事態の詳細は確認しようがありません。先の通信も、こちらに聖星燐石の確保要請が主としたものでした。あのシエルの逼迫した様子を鑑みるに、あまり時間をかけてよい案件ではないと考えられます」

「お前の親友の、先代のお気に入りか。かの娘は、些か張り詰めすぎているきらいがあるが」

「そんなシエルが言うのだからこそ、事態は急を要するものだと判断したのです。シャンバラから直ぐに輸送隊を向かわせると言っていましたので、逆算すると今日明日中には到着するでしょう。指揮はサーラに執らせるとの事ですから、あの子ならまず間違いなく予定を完遂します」

「ふむ」

「ですので、私は私でやれることをやっておきます。その為に、一刻も早く聖星燐石を確保したいので、神護の泉に立ち入る許可を頂きたい」


 今現在、輸送隊を指揮しているサーラはレアの副官を勤め、その戦闘力、指揮能力は非凡なものがある。

 テオドアの目から見てもそう感じる才女の能力を信頼しているのか、レアの姿に一切の迷いはない。寧ろそんな部下に報いるべく、予定の妨げにならぬように今後の算段を既に着け始めてさえいる。


 その双眸にただならぬ武威を宿し、完全武装の理由を語る様子を嬉しく思う反面、冷酷な現実を省みて父は深々と嘆息した。


「……レアよ。この問答はもう何度目になる? いい加減にしないか。いくらここでお前が息巻いたところで事態は動かんぞ」

「そんな悠長なことを言っている場合ではありません」

「主君が心配で仕方がないのは理解できるが、そんな体たらくでは、多くの命を預かる立場の者として下に示しが付かなくなるぞ」

「ここには私と父上しかいません」

「……その発言は、暗に親を前にして駄々を捏ねている子供だと自白しているのだが」

「どう捉えられようと、私は気にしません」


 取り付くしまのないレアの頑なさに、テオドアは眉間をきつく抓んだ。


「……頑固な奴め。既に言っているが、今は良しとできる時局ではない。ただでさえ凶獣が出現した際の残響で世界が揺れているのだ。そんな時に星涙点ステラリウムに近付くのは、予測不可能な事態を引き起こしかねない故、鎮護守として許可できない」

万魔殿シャングリラに保有されている聖星燐石イレス・プリマテリアの枯渇は王都の、ひいてはこのアガルタ全体の死活問題になります。それを未然に防ぐ為ならば、私が被る多少の危険など問題ではありません」

「確かにな。国家に仕える者として、その気概は当然でもある」

「……鎮護守。これは魔王様からの勅令でもあります。詔勅を振りかざすような真似はしたくありませんが、その務めを受けないのであれば――」

「権威の使い処を間違えるな、馬鹿者が」


 いつまでも鷹揚な父の様子に、レアは業を煮やしてか声に険を乗せるも、そんな微妙な機微を先んじて察したテオドアは娘を手で制する。


「我はただ、星降ろしを執り行うには機が満ちておらんと言っているのだ。どうにもここ数日、星涙点に星灼の集まり具合が悪くてな。属性付与の進捗状況も芳しくなく……星灼の動きを見るに、他に奪われている可能性もある」

「……ちょっと待って下さい。そんなこと、これまで一度も言わなかったではないですか!」


 レアからすればそれは寝耳に水だ。今まで何度も立ち入りの要請を出してきたが、鎮護守という聖星燐石鉱床の管理責任者である目の前の父が連ねてきた回答は、一貫して機が満ちていない、である。

 その実態が、大本たる星灼が不足して肝心の聖属性化が進んでいなければ、何の意味もないということだ。


「焦るな。そして逸るな。流出を防ぐ結界は既に張り巡らせておるし、現況の天候を見るならば、今夜は気持ちの良い夜空を仰ぐことができよう。なればこそ、今宵の内に注がれる星灼量も相当なものになる筈だ」

「…………」

「そう不審そうな顔をするな。何年ここで鎮護守をやっていると思っている? 風水士の真似事くらい造作もないわ」

「それは……存じていますが」


 下唇を噛んで悔しそうに言葉を噤むレア。テオドアの言っていることが正しいと認めたからだ。

 そして同時に、足踏みせざるを得ない現状に、エルファーランのことが心配で溜まらない心情が滲み出ていた。相反する感情が胸裏で鬩ぎ合い、冷静に努める意識の戒めを越えて表情に漏れ出てしまったのだろう。

 そんな娘を見かねてか、父の声色は殊更穏やかだった。


「一晩ぐらい我慢しろ。明日の為にも昂ぶる気勢を抑え、早々に身体を休めることが、今お前に求められていることだ。早朝には星降ろしの儀が可能になる予定だからな」

「え?」

「意外そうな顔をするな。娘の我儘など、笑って通してやるのが親の務めと言うものだ」


 宥めるように言い連ねた父の言葉に含むものを感じ、弾けたように顔を上げたレアは目を見開いた。


「……まさか、同行してくるおつもりですか?」

「何を当たり前のことを……先代殿との約定により、星降ろしの儀には我が立ち会うことになっているのはお前も知っての通り。我の特質を忘れた訳ではあるまい」

「それはそうですが……」


 困ったように目を逸らす娘に、父は怪訝を浮かべた。


「……煮え切らん態度をする奴だな。思うことがあれば遠慮せずに言ってみればいい。我らは親子だぞ」

「父上が現場にいらっしゃると面倒が増えるばかりか、スムーズに運ぶ筈の事も二転三転してややこしい方向に転がりかねないので、ちょっと迷惑です」


 数多の武勇を遺した泣く子も黙る竜帝に向かって、一切の遠慮を持たずに諫言できるのは、この世界で妻か娘の二人だけだろう。

 他者が聞けば卒倒間違いなしの禁句たるや、言外に家で大人しくしていてくれと言われているようで。


「……実の親に向かってなんたる言い草か。嘆かわしい」


 多様な獣精種の中でも、最強を冠する竜族の主、先代竜帝テオドアはそうしみじみと吐き捨てる。


 その背中は、少し哀しみに煤けていた。






                  ※






 結局、あの戦闘の後。

 戦いの余波で破けてしまった荷馬車の幌補修のために、資材を取りに行ったアメリアにしっかりと件の星燐石を見つけられてしまう。

 悲鳴と共に血相を変えて詰め寄ってくる彼女に拿捕されたユディトは、その勢いに圧されっぱなしのまま馬車に拘束され、殆ど軟禁状態で延々と説明させられる羽目になってしまった。


 その影響で馬車に乗り込む隊列に微妙な変化が起きてしまったのは言うまでもない。

 アメリアは元々先頭車両に詰めていたのだが、それは彼女の持つ聖装具『星辰弓エストレア』が、光の矢を産み出し放つ遠距離攻撃用の武器であり、周囲を牽制する上で外せない役割だったからである。


 その煽りを喰らって殿を努めていた術師ケヴィンが先頭車両に移り、代わりにカリオンが最後尾の馬車に乗り込んで警戒をすることとなった。

 ケヴィンの持つ聖装具『雷霆杖エクレール』ならばアメリアの穴埋めを充分にできるとの判断であるが、効果範囲としては広域すぎて大味で、小回りが利かず出力の調整が『星辰弓』に比べると融通が利かない。その為、馬車の中から進路上の敵をピンポイントで狙撃することに適しているとは言えなかった。

 また、カリオンの『光浄剣プルガシオン』や同乗する女騎士レオーネの『焔獄斧イグニード』も遠距離攻撃に対応できるものの、両者の場合、直接切り込んだ方が早く効果が見込める始末である。当然、その度に馬車は停車を余儀なくされるのは想像に易い。


 色々な意味で進行に損害を受けた訳だが、元を糺せば、件の星燐石を袋なり何なりに包んでおけば回避できた災難である。偏にユディトの落ち度だ。

 それを念話でイヴリーンにネチネチと言われ続けながら、ユディトはたどたどしい回答という名の言い訳をアメリアに滾々と説明するのであった。




 そうして戦闘と休息を繰り返しながらの旅路は慌ただしく、忙しなく時間が流れ、その日の内に長かったサヴァナーズ平原の終盤に差し掛かっていた。


 やがて、目指すバスティーラ山地の麓に広がる森林地帯、カドモニの森を一望できるだけの距離に到達した場所で野営の準備を始める。

 まだ日も高かったので進めるのでは、と純然たる疑問を呈したユディトであったが、隊を指揮するサーラからの返答は、このまま森に入るのは危険だ、ということだけで。

 本当に危険で気を引き締めなければならないのはここからだと、追加で言い切られてしまった以上、口を挟めなくなる。


 茜色に染まり往く空と、それに引きずられるように深緑の森林地帯には闇が深みを増していき、見る者の不安を煽るようなおどろおどろしい雰囲気を醸し始めていた。






                 ※






「……間違いない。異胚種共の荷馬車だな」

「あちら側からの報告通りか。凶獣が去った直後だというのに、連中何を考えているんだ?」

「……気掛かりではある。お頭に連絡を入れておけ」

「わかりました」


 平原の広がりを阻むように一直線に広がるカドモニの森。

 その手前の街道で陣を造り、野営を行っている馬車の連隊がある。中心で煌々と燃える焚き火を囲むように集まり、それぞれが思い思いに過ごしているようだ。


 鎧を着ている者達が傍らに武器を携え談笑し、甲斐甲斐しく動き回るメイド達もその見てくれに不似合いな武具を決して外そうとしない。

 星魔除けの結界が張られているにも関わらず、完全に武装を解いていないのは、あの場所が屋外で危険と隣り合わせの場所であるという認識を拭い去っていないからか。

 だとすればそれは当然であり、同時に、常在戦場を自覚する油断ならない相手と言うことになる。


 直線的にかなりの隔たりがありながらも、野営の様子を正確に見つめる目線・・は、垣根のように連なり阻み立つカドモニの森の、鬱蒼と生い茂る枝葉や夜闇の隙間から発せられていた。


「貨物運搬用の大型荷馬車が三台、か……このサヴァナーズを往くということは連中の狙いは十中八九”イレス”だが」

「にしては今回は随分と大掛かりな編成だな。一体どういうつもりだ?」

「わからん。定期的なものではないのは確実だが」


 大人一人など容易に隠し通せるまでに育った茂みの中で、アガルタからの馬車の一行を監視していた頭目風の男は身を起こし、身体に付着した枝葉を払う。そして側に立っていた別の男に、手にしていた筒状の何かを手渡しては、同じ体勢で凝り固まってしまった筋肉を解すように両腕を大きく回した。


 深く落ち着いた声色の男が声をくぐもらせると、一回り年若そうな明るい声が重ねてくる。


「連中の都合なんざどうでも良いじゃないスか。こちらとしてはそれを丸ごと掻っ攫うだけッスよ!」

「それはそうだが、タイミングを間違えるな。アレはこれから星涙点に向かうんだぞ」

「……そういうことだ。こちらも生活が掛かっているし、からの指示は何としてもこなさなければならないからな。身を守る為にも、虎の子の”聖”は多く確保しておくことに越したことはない――仕掛けるのは、連中が帰路に着いた時だ」


 別の男が油断ない険しい眼差しで問う。


「……でもこの距離で気付かれませんかね?」

「あり得ないな。これは本国から送られてきた最新の遠視用星導具プロスフォラだ。工房の説明をそのまま信じるなら、昼夜問わず人間の視認外からの望遠が可能、だそうだ」

「ちょっと待ってくれ! アレは――」


 木々の影に紛れ、身体を茂みに隠蔽しながら筒状の物体を覗き込んだ男は一瞬だけ言葉を切り、その数瞬後に叫び声を上げる。


「おいっ! あの馬車の周りにいるのは……七聖のカリオン・ラグナーゼじゃねえか! どういうことだ!?」

「なんだと!? この時期だと例の儀式関係で聖剣の勇者は万魔殿にいるって話だったが」

「んな事はわかっている! 儀式の当事者であるヤツが、何故外に……ッ!?」


 突如として筒から急に顔を離す男。

 その表情は、信じられないものと遭遇したかのように、驚愕に血の気が引いていた。


「どうした?」

「いや……まさか。今カリオンの隣に立っていた若い男がこっちを見て……目が、合った!?」

「は? いやいや、あり得ないっスよ。この距離でこの暗さ。偽装までしているんだから、視認なんて絶対にできる訳がない」


 男達が纏う緑色の装束は、周囲の景色に溶け込み視覚的に自分達の姿を隠蔽する効果を秘めた隠密行動用に開発された星導具である。

 夜という刻限に傾き始めた空の明るさでは、その効果は飛躍的に上昇し、見破ることはまずないと言えた。

 そんな絶対の信を置いていたからこそ、男達のうちの一人は厳しい表情で唸る。


「しかし誰だ? カリオンと組んでいる奴ら以外に、人間種が異胚種共と行動しているだと?」

「いや、考えるのは後にしろ。これ以上ここに留まるのはマズい……全員、撤た――」

「あのぅ、何か用ですか?」

「!?」


 望遠鏡から目を離し、思惟に暮れていたのはほんの数分だ。

 声に驚愕し改めてその方角を見れば、望遠鏡のすぐ前には、カリオンと話していたらしき白髪の青年、ユディトが首を傾げて佇んでいた。


「い、何時の間にっ」

「君達、ずっとこちらのことを監視していたよね。そうそう、ちょうど野営の準備を始めた頃だったかな?」

「き、気付いていたのか!?」

「え!? あれで隠れているつもりだったんですか? あんなに露骨に姿を見せていたら気付くでしょ、普通」

「ば、馬鹿なっ」


 人間の視界範囲の限界を超えた先で、望遠鏡を用いて監視していたのだ。こちらから一方的に見ることはできても、その逆は絶対にあり得ない。それが彼らの中での常識だった。

 だからこそ彼らの驚愕は仕方のないことなのだが、逆にユディトにとってそんな彼らの反応そのものが意外で面食らってしまう。


「ありゃ? でもカリオン君達やメリィさん達も気付いていなかったから、そうでもないのかな? うーん、耀術を使えばあの程度の距離の索敵なんて朝飯前なんだけど」


 とは言え、ユディトは耀術を使えない。単純にユディト自身の感覚に由来する索敵による結果だ。その範囲は、神器の補助もあって膨大である。

 しかし科学技術によってそれを超える方法は存在していて、宇宙開発が既に始まっていた〈アンテ=クトゥン〉では人工衛星を飛ばして地表の耀力準位の変動を観測するところまで進んでいた例もあった。


 そして個人単体で言えば、ユディトの非常識な索敵範囲を優に凌ぐ超長距離で耀術による狙撃を放ち、且つ『鏡衣アシュロン』の防御障壁を貫通してダメージを与えてきた”世界最強の耀術士”がいたのである。


「で、実際に君達は何なんだい? 身なりから勝手な想像をすると、異胚種の皆さんと敵対している賊徒の一派だと思うんだけど」

「……だとしたら、どうする? こちらの監視に気付き、且つここまでこちらに気取られなかった術は見事としか言い様がないが、この人数を前にしてたった一人で――」

「十八人……いや、そこの木陰に一人と、その更に奥の茂みからボウガンみたいので狙っている人達を含めると二十人か」

「!?」


 間髪入れずに人員の総てを看破され、男は押し黙る。


「どうすると言われても、今のところ用はないんだよね。他の皆さんは賊徒は害悪だから見つけ次第殲滅する、って言っているけれど、結局は彼らの常識だ。僕はそれに縛られるつもりもないし、強要される覚えもない」


 両腕を組んでううんと悩むユディト。


「所詮僕は余所者だし、この世界の罪人を裁く権利なんて当然ある訳ないからなあ……うーん、どうしたものか」

「……こいつ、何を言っているんだ?」


 どこか間の抜けた様子は、だがこれ以上なく異質で異常に映っていた。

 あまりにも唐突すぎる展開に、この場にいるユディト以外の誰しもが言葉すら紡げず、呆気にとられている。


「かといって、ここで逃がして後で大挙して押し寄せてきても迷惑だし。うーん、それだと見逃した僕の責任になってしまうか? ……協力関係を築くと決めた以上、それはやっては駄目なことだから、そうすると――」

「おい! お前、何を一人でごちゃごちゃと!!」


 そんな中。異様な雰囲気に耐えかねてか、血気盛んな年若い賊の一人がスラリと抜いた剣を振り被り、未だ何の構えも見せず隙だらけのユディトに斬りかかる。


「死ね――――っ!?」


 若輩の賊徒は最後まで言うことができなかった。

 完全に死角からの一撃だったにも関わらず、剣はユディトが徐に掲げた指先二本で抓まれて停止し、その事実を男が認識するよりも速くユディトの繰り出した拳が男の顔面を捉え、そのまま粉々に弾き飛ばして絶命させたのだから。


 突如として首をなくした胴体が仰向けにゆっくりと倒れ、ピクピクと痙攣しながら夥しく血を吹き出しては地面を深紅に染めていく。


 脳漿や頭蓋の砕片が草木を彩る様を、感情の載せない双眸で一瞥したユディトは、呆然としたままの頭目格の男に静かに視線を移した。


「……これは正当防衛だよね? まあ、話の途中でいきなり斬りかかってきたんだから、反撃されても文句はないでしょ?」

「貴様っ!」


 あまりにも呆気なく部下が殺され、しかもそれが路傍の石ころを小突いた程度の感覚で言われたものだから、男の意識は一気に硬直から脱し、狂奔する。


 そんな頭目の怒号が引き金になったのか。

 様子を窺っていた他の男達も携えていた武器を閃かせ、謎の闖入者を狩るべく捕食者の行動を開始した。

 その動きたるや流麗の一言で、賊徒の徒党とは思えぬほど、明らかに高度に訓練された統率の取れたもので、瞬く間にユディトを囲うような円陣を造り上げる。


「……結局、こうなるのか」


 一瞬で形成された包囲網によって四方八方を塞がれ、ジリジリと着実且つ慎重に間合いを狭めてくる賊徒達を感慨なく見渡したユディトは、逃げ道がないことを改めて確りと視認して小さく嘆息し、瞼を閉じる。


 それを諦めと受け取った賊徒達は一斉に動き、刃を突き出した。


「ま、その方が話は早いか」


 そして。

 殺到する刃と殺気にたじろぐことなく、ユディトはゆっくりと開眼した。

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