第24話 サヴァナーズ平原(1)

 深藍色の空に満遍なく鏤められた星々が、宝石さながらの煌めきに彩られる刻限。

 夜空を飛び交う静謐な輝きは冷たさを湛えたまま、大地をまるで梳くように淡く優しく照らし出していた。


 耳に痛いまでの静寂が天壌の隅々まで満ちていく中、それを痛烈に打ち砕く存在が二つある。

 紅月イシュランテ蒼月フォルトソリア

 原初の刻に《レヴァ=クレスタ》という世界を創造した双子神の名を冠した衛星だ。

 対極の色彩に彩られた双星は熾烈な存在感を放ちながら、滅びの厄災アヴサーダスに苛まれ続ける世界を遥か悠久の時より、ただ無慈悲に見つめ続けている。




 砂礫の大地の夜は寒く、その分空気が乾いていて、吹き荒ぶ風に舞い上げられた砂が夜光を遮る紗幕となることも少なくない。

 だがそう言った邪魔が全く入らず、夜空の様相をあるがままに見られる日も確かにある。


 王都周辺を取り巻く砂嵐が穏やかな今日という日もそれに該当し、天体観測にはもってこいの夜だ。


 魔王殿の上層に存在する魔王の居住区はその高さ故に遮るものが極めて少なく、言ってみれば最高の条件が揃った観測場所でもあり、満天の星空の観覧は王として多忙を極めるエルファーランにとってのささやかな楽しみであった。


 自然と昂揚する気持ちを抑えつつも、窓の外よりその存在を強烈に示す紅蒼の双月を見上げながらエルファーランは呟く。


「あやつらが出立して既に半日、か。どの辺りまで進めたかのぅ?」

「道中、星魔との戦闘は避けられないことを考えますと、行軍速度が制限されてしまうのは否めません。どんなに早くてもサヴァナーズ平原の半ばには到らないかと。街道の三割進めれば良いところでしょう」

「……そう、じゃな」


 ごく少数の精鋭達が秘密裏に動くのであれば決してそうではないのだが、今回は聖星燐石の運搬の為、大型の荷車を随行させていることもあって易々と進めるものではない。

 その上、何事もないということはなく、話題にも上がった星魔サキュラという〈レヴァ=クレスタ〉土着の異形生物が跳梁跋扈している地を往くのだから、確実に遭遇戦を強いられることになる。


 勿論、旅立った者達が既知の星魔程度に後れを取ることはないと断言できるのだが、旅路の目的が目的だけに気になってしまうのは仕方がないことだった。


 エルファーランのそんな内心の不安を、声色の僅かな機微から読み取ったシエルは問う。


「何か気になる点でも?」

「ん、常識的に考えればお主の言うとおりなのじゃが……常識外れがおるじゃろ」

「……そうですね」


 誰とは言わず、だが共通する人物を想像して両者は同時に溜息を吐く。


「これまでの様子を見て確信したのじゃが、あやつ……阿呆じゃろ?」

「随所に思慮に欠ける言動が見受けられたことを鑑みるに、間違いないかと」


 率直に表するエルファーランと、遠回しにある意味止めを刺しているシエル。

 口々に紡がれる評価が惨憺たるものなのは、それだけ彼女らが受けた衝撃が大きかった反動だろう。

 本人が聞けば血の涙を流すかも知れないが、そんなことは二人の与り知らぬことだ。


「ですが、彼の者が遺憾なく力を発揮するのであれば、在野の星魔など障害にもならないでしょう」

「ほぅ、お主がそこまで言うとはのぅ。このアガルタは、地上には棲息すらしていない星魔の巣窟でもあるのじゃがな」

「それでも、です」


 散々煮え湯を呑まされたとはいえ、こと強さを測ることにおいて自分にも他人にも厳しすぎる見識を持つシエルにして、はっきりと断言した様子に少しばかり驚くエルファーラン。


 そもそも天空を往く魔王領アガルタは地上よりも星灼フォルトゥナが豊富に満ちていて、それを原動力とする星魔にとっての楽園でもある。仮に地上と同じ種類の星魔がいても、前者とアガルタとではその根本的な生命力の強度に雲泥の差があるのだ。


 にもかかわらず人的被害があまりにも軽微なのは、それらを打倒し自分達にとって安全な生活圏を確立できるだけの戦闘能力を異胚種達が保持しているからである。

 とは言え、自然と際限なく増えていく星魔に比べると個体数が圧倒的に劣る為に完全掃討は叶わず、逆にアガルタの中で最も星灼活動が低い場所……すなわち現在の王都を拠点とするしかなかったという歴史があったが。


「先日戦った際、あのユディトとか言う者はまるで本気を出していなかったです。そもそもこちらに攻撃する意思すら感じられませんでした」

「まあ、奴は逃げ回っていただけじゃからなぁ」

「凶獣との戦闘で見せた空中歩行を含めた予測不能の動きをされた場合、正直私には対処できません。勿論、魔刻痕スティグマの解放を使ったとしてもです」

「……そこまでなのか」


 このシエルという女傑は、アガルタの各地を出歩いて棲息する全ての星魔と戦い、それらに勝利しているという耳と正気を疑いたくなる実績がある。

 その実績がアガルタの星魔棲息領域図を作製させ、各所の安全の基準になっているのは余談だ。


 何にせよ、そんな彼女が奥の手を曝しても白旗を挙げざるを得ないとまで言わしめる、異邦の存在。

 確かに何もない空中を駆けたり跳ねたり滑ったり、走るだけで岩石の回廊の床や天井を踏み砕いたり、と普遍的な常識の数々を無視した様を嫌と言うほど見せつけられたのだから、納得せずにはいられない。

 エルファーランはゴクリと唾を呑み込まざるを得なかった。


「カリオン殿も同じ結論でした。彼らの奥の手、聖装具ゴスペルの最大出力を用いても、です」

「……妾達は、とんでもない奴を抱え込んでしまったということか」


 先日のカリオン達との戦いにおいて互いに死力は尽くしたものの、それが全力だったかと問えば、否だ。

 意図的に余力を残したというより、相手を本気で害するつもりがなかったのだが、それは『天色託宣』に必要な無色の星灼を生じさせる戦いの儀式を完遂するための手順に則ったからである。

 ……儀式の最中、後から思えば恥ずかしさに悶絶したくなるような文言を色々と口走っていたが、それは昂揚した意識が自然とそうさせたのだと、エルファーランは自分にそう言い訳をしているのは秘密だ。


「あの痴れ者がまともに動くかは別問題ですが、一緒にいた鳥はまだ理知的な存在のようです。彼女に手綱を握られている間は、こちらの損になるようなことにはならないかと。一応、友好を望んでいたようでもありましたし」

「……まったくもって良くわからん奴らじゃな」


 あれだけ有無を言わせない凄絶な力を持っているならば、それを全面に押し出してこちらを無理矢理従わせることも可能だっただろう。自分達の利を追求するならばそうした方が確実に無難だというのは、多少力に自信のある者ならば一度は想起したことがある筈だ。


 にも関わらずそう言った素振りが見られなかったのは、少なくとも話し合いによる協調が可能である、と言うことになる。


「我が方からは何名ほど出したのじゃ?」

「はい。星燐石の運搬に必要な作業員を数名の他、彼らを統括する為にサーラとヒルデ、メリィの三人を派遣しました。特にサーラはレアの付き添いで何度も彼の地に赴いた経験がありますので、道中の対応に問題はないと考えられます」

「お主の人選を疑ったりはせぬよ……他国の間諜共は?」

「いくらか着いて行っているようですね。馬鹿正直に接触することはないと思いますが」

「連中の狙いはなんじゃと思う? といっても一つしか答えはないのじゃが」

「勿論、凶獣を駆逐せしめた存在の情報を獲得することでしょう。そして、加えるならば凶獣を斬り滅ぼした漆黒の剣の奪取……といったところですか」

「安直すぎるが、そんなところじゃろうな。自分達の勢力下に取り込みにかかるのも見え透いておるしなあ」


 ユディト達がこの世界に降り立ってから既に三日経っているが、その間にユディトの剣を奪おうとする動きは確かに存在していた。常に肌身離さずユディトが佩いている所為で、全てが失敗という結果に終わっていたが。


「妾達は下手なことを考えぬようにな」

「無論、部下達にも充分注意する様にと伝えてあります」

「ぬかりはない、ということか……っ!?」


 話が一段落着いたかと思うや否や。突然、全身に走った激痛にエルファーランは言葉を呑み込み、苦悶の表情を浮かべる。


「あだっ!? あだだだだだっ!」

「……はしたない声を出さないで下さい、お嬢様」

「んなこと言っても痛いものは痛いのじゃ! くぅぅーーっ、痛い痛い痛いっ!?」


 嘆息混じりにシエルがその指先に力を込めると、エルファーランの悲鳴が高まる。


 自室に備えた寝台に俯せに寝そべったエルファーランの背中を、シエルが指先で圧していた。力を入れると痛みのあまりエルファーランがジタバタと両脚を動かして抵抗するが、シエルにとってはそれさえも慣れたものだと難なく掴み抑える。

 逆にそのまま脹ら脛や大腿部を静かに抓むと、声にならない悲鳴を挙げてエルファーランは枕に顔を埋めて悶絶するばかりだ。


 今、公務を終えたエルファーランは自室でシエルに全身のマッサージを受けていた。

 何故そんなことになっているかと言えば、単純にエルファーランが職務後、執務室の席を立った瞬間に力なく倒れたからである。

 血相を変えたシエルの甲斐甲斐しさもあって直ぐに原因がハッキリしたのだが、その代償として呆れ顔がすっかり抜けなくなってしまっていた。


「……完全に全身筋肉痛ですね」

「うぅ……筋肉痛なぞ、ここ数年なったことがないというのに」

「そうですね。毎日基礎訓練として体術は一通りこなしておいでですし、物足りない、ということは無い筈ですが」

「……あの量の鍛錬で物足りないとか、それは最早脳筋のレベルじゃぞ」


 肩から二の腕をゆっくりと揉みほぐされて、生じた鈍い痛みに耐えながらエルファーランは日課の体術訓練を思い起こす。

 シエル主導の下で行われる魔王としての作法の一つであるが、その実態は、軍属の者すら逃げ出す過酷なものなのだ。

 それを毎日欠かさず、弛むことなくさせられるのは、魔王という絶対強者の威厳を獲得せんがためのものであり、シエルは自分のためを想ってやってくれているのだと理解しているから、エルファーランも投げ出す訳にはいかない。

 ……あまり筋肉を付けたくない、という年相応の少女の想いは、だが眼前の女傑にはきっと届くことはないだろうと、半ば投げやりに諦めてはいた。


「想像以上に全身に負荷が掛かった……と。考えられる可能性は、やはり」

「うむ。天色託宣に使ったヨウリョク、と言う奴か」

「あの痴れ者が言っていましたね。……過剰に体内に取り込むと、身体が爆散するとかないとか」

「ええい、思い出させるでないっ!!」


『凶獣』の出現を完璧に予測する未来予知の術式『天色託宣』。

『魔王』を継いで初めて行った直後に意識を途絶させてしまったことを考えれば、今の状態は随分と自分にも周囲にも柔らかい状況と言える。


 だがその後に耳にした、ある意味元凶からの言葉は歓迎すべからざるものとしてエルファーランの心に深く刻まれていた。


 そして、想像するのも恐ろしい結末を敢えて考えないように努めていたエルファーランは、何気ないシエルの呟きを振り払わんと耳を塞いでもんどり打つ。が、そんなささやかな抵抗もシエルの前では何の意味も成さなかった。


「あれだけ高密度で高濃度、かつ透明度の高い星灼なぞ触れたこともない」

「まるで伝承にある星煌の落涙ラクリマ・フォルトゥナのようですね」

「……あるいは、それそのものかもしれぬぞ」

「まさか」


 お伽話に出てくる、どんな願いも叶えるという奇蹟の星灼。

 シエルとしては、エルファーランの気を紛らわせる為に多少冗談の意味も込めて言ってみたのだが、当の本人は殊更真剣な表情と声色で返してきたのだから、目を瞠らざるを得ない。


「……いや、それはさて置くとしても、実行してみてよもや天色託宣があれほどのまでに星灼を消費するものとは思わなんだ。先代魔王達の偉大さが骨身に染みたぞ」

「いえ、先代は盤上遊戯に興じながらの書類仕事の片手間にこなしておられましたので、意識を失う程に消耗するものではないかと」


 間髪入れずの冷静な指摘に、エルファーランはううむと唸りながら考え込む。


「……そ、そうじゃったな。思い立ったように全軍率いて荒地の開墾に勤しみ、土塗れになって一息ついた時、弁当食いながら行っておったこともあったな」

「先代は豪放な方でしたから」

「……自由すぎるじゃろう」


 どうやら思い出はいつの間にか美化されていたらしい。驚愕の事実にエルファーランは頭痛を覚える。

 我が母のことながら行動の端々から窺える破天荒さには、振り回された他の者達への同情も止むなしだ。

 シエルはシエルで満面の笑みを浮かべているのだから、自身を召し上げてくれた母のことが誇らしいのだろう。シエルとの付き合いは古いが、行動の端々に母への崇敬の念が見て取れた。


「ときにお嬢様。印のお加減は?」

「……まだヒリヒリしておる」

「それは過剰処理の影響ですね。魔刻痕解放状態を限界まで維持すると同等の症状に陥ることがあります」

「……実感がこもっておるのぅ。経験者は語る、という奴か」

「お恥ずかしい限りで。以前レアと手合わせした時に。お互い全力を出しすぎて、通常業務に支障をきたしてしまったのは、ただ己の未熟を恥じるばかりです」

「……何時の間にそんなことをしておったのじゃ!?」


『魔刻痕』とは、異胚種ゼノブリードならば誰もがその肉体に持つ紋章のことで、膨大な量の星灼を蓄え、魔印術行使の際の基点になる器官だ。

 その種類は固有のものが多く、凡そ異胚種の人口の数だけ存在しているとも言われている。


 最高位の魔刻痕は無論、異胚種の頂点たる『魔王』が保持しているが、親衛隊隊長レアもその血統からの高い潜在能力に恵まれ高位の魔刻痕を有しており、疑いなくこのアガルタでも最強の一角を担う存在だった。そして副隊長のシエルもまた、それに比肩する使い手である。


 そんな二人が全力でぶつかるような事態は、周囲にとって迷惑なことこの上ない。

 それが日常の修練の中でごく自然にやり取りされたからこそ、エルファーランにとって初耳なのだろうが、聞いてしまった以上はことの顛末を聞かずにはいられない。

 後日改めてその機会を設けようと、エルファーランは密かに決意した。


「とにかく安静にするしかありませんね。魔刻痕の鎮静には時間が必要でしょうから、しばらく魔印術の使用はお控えください。筋肉痛に関しては、後で治癒の術式を使える者を呼んで参りましょう」

「……すまぬな」


 魔刻痕と神経は概ね同調しているからこそ、過度の負荷は神経から筋肉に伝わり、疲労を蓄積させる。

 今回の件も、突き詰めていけばそういうことなのだ。


 今一度窓から外を気怠げに見上げ、先程から変わらぬ空の様相を恨めしげに睨め付けてから、エルファーランは枕に顔を埋めた。






                 ※






「しかしなんで月が紅いんだろうねえ。蒼ならまだ違和感は薄いけど」


 つい先日まで見上げていた月は、白く翠掛かった穏やかな色調をしていた。

 夜という時間帯の空が、嘗ての世界と何ら遜色のない暗藍の様相を見せているだけに、違和感が膨れ上がって仕方がない。


 広大な夜の平原の中で、野営に定めた陣地の端に鎮座している巨岩に背を預けながら、無数に煌めく星々を擁した空をユディトは見上げていた。

 そうして口を衝いて零れた感想だったのだが、ユディトの右肩に停まっていたイヴリーンに拾われる。


「大気の組成が異なる所為か、光の屈折率の問題か、或いは光の散乱によるものか……まあ理由を挙げていけば幾らでも出てくるな」

「うん、実に情緒に欠けるねえ。もっとこう、ロマンというものを追求したって」

「知るか」


 にべもない。

 あまりにも素っ気ないイヴリーンにユディトもどうしたものかと眉を顰めた。


「それにしても、さ。この世界でも月は月と称するんだね」

「……単に異言訳出ゼノグラシアの働きで、衛星を我々がそう認識しているだけだとも思うが」


 一行の中で少し離れた場所で寛いでいたユディト達であるが、開いた距離はそのまま他の者達からの警戒の表れである。

 だがそれも無理からぬことだ。

 和解した訳でもなく、今は完全に双方の利害が一致しての同道でしかない。信頼の無い協調を前提とした関係が、たかが数日で変わるはずもないのだ。


 とは言え、今更そんなことなど二人は気にせず、普段通りのやり取りをしていたのだが、今夜は唐突に会話に混ざる者が現われる。


「お二人の世界では、月は二つないのですか?」


 他の者達が警戒に意識を割いていて、ある種の緊張状態が続いていたにもかかわらず、率先して声を掛けてきたのは、意外なことにシエルの配下で案内役兼世話役として付けられたメイド兵の一人、メリィである。

 ベリーショートの淡い桃色の髪が、焚き火の暖色に当てられて燦爛と輝いて見えるメイドの年の頃はユディトと同じくらいか、少し下だろうか。

 物腰が柔らかそうな女性であるが、昼間は自身の身長を超える長槍を軽々と振り回し、星魔という化け物を軽々と撃退していた戦士でもあった。


 このメリィは、アガルタにおけるユディトやイヴリーンの世話役であり、聞けばなんと自ら志願してその貧乏くじを引いたという。……ユディトがやらかしたことを思えば、メリィを除いたメイド達の全員が全員嫌がったのは仕方がないことだったが。


「そうですね。僕達のいた世界、アンテ=クトゥンの月は一つだけでした。色は白みがかった翠で、ええとこちらの昼の空の色に近いですね」

「それは……綺麗でしょうね」


 概要をただ連ねられても想像しがたいだろうが、どのように想いを馳せているのか、小さく感嘆を零しながら空を見上げるメリィ。


「メリィさん。今日はどのくらい進めたんですか?」

「私自身神護の泉に行くのは始めてですが、サーラ先輩が仰るには現在地は街道の三割から四割の間くらいと」


 概ねシエルの予想通りなのだが、この場にいる者達に知る由もない。

 だがユディトは、伝えられた数字の思った以上の少なさに目を丸くした。


「そんなものなんですか? 結構進んだと思ってたんですが」

「星魔の襲撃も多かったことを考えると、上々かと」

「はあ……整備されていない広野を往く、というのは想像していたよりもずっと大変なんですねえ」

「大半があの土着生物の処理の所為だからな。土地柄……いや、世界柄という奴だろう」


 故郷の〈アンテ=クトゥン〉でも人目から逃れるように人身未踏の秘境を突っ切ってきたが、神器を存分に活用し、地理的な方角と現在位置は常に把握していた為、それ程の苦を感じたことなどなかった。


 だが今回の旅路では完全に現地の者に任せきりで、導かれるがままに着いて行っているだけなのだ。


 正直、『神璽アポロイア』の特殊機能、真韻ケニングの『ヴァーヴズ』で空を駆ければ直ぐに辿り着く距離であるものの、実行に移すには、環境への負荷や世界への影響を考えなければ、という付帯条件が付き、そんなつもりなど毛頭無いユディトとしてはその選択肢は一番最初に消していた。

 その為、こうして他の者と足並みを揃えて向かうしかない。


「うーん、単身でいつも突っ走ってばかりだったから、なんだか新鮮だ」


 しかしそんな経験も、ユディトにとっては殆ど初めての体験と言っていいだろう。

 嘗ての戦争中は輸送機で戦域に放り込まれ、先陣を切って縦横無尽に駆け回っただけなのだから。正直、周りに歩調を合わせたことなどなく、それが他者との亀裂を致命的にしていたのである。……それを知ったのは、全てが手遅れになってからだったが。


 記憶の底から浮揚してきた悔悟を呼ぶ場面を、頭を振って散らしたユディトは、休息場所一帯に埋め込まれた木杭と、それらを繋ぐ綱。そしてそこに吊され夜風に揺れている鈴を見やった。


「メリィさん。あの鈴って何か意味があるんですか? なんか微妙に光っていますし、獣が近付いてきたら音で知らせる結界にも見えますが」

「その通り、攻撃性を秘めた結界ですね。あの鈴は星導具プロスフォラの一つで、その音色は星魔除けの効果を示すんです」


 聞き慣れない単語とその効力に、ユディトは首を傾げる。


「星魔は、鈴の音色が苦手なんですか?」

「いいえ、あれらには聖星燐石が組み込まれていまして、鈴の音色に乗って広がる聖の波動が星魔の星灼活性率を著しく低下させるんです。その効果は確かなもので、活性率が高い傾向にある強力な星魔ほど減少の幅が大きく、それこそ間近で浴びれば生命活動すら停止させます」


 だからこそ本能的に危険を悟った星魔は近寄ってこないのだと語るメリィ。


「へえ……そんな便利なものがあるなら、普段から使っていればいいんじゃないですか? 荷車に取り付けて常時鳴らしていれば、あの物騒な獣達に襲われる頻度も減ると思うんですが」

「単純な話、あれらは長時間の使用に耐えられません。動力となる聖星燐石自体はこのアガルタならば入手難度は高くないですが、あの鈴型の星導具を製造する術がアガルタにはないんです」

「……ソフトはあってもハードが無ければ、ってことか」

「その表現が何を意味するのかいまいち判りかねますが……逆に人間種国家では、星導具を造る術はあっても、動力源となる星燐石が入手し辛いと言います。シエル様が言うには聖星燐石は希少価値が高く、必要充分な量を賄うには相当量の財貨が必要になる、とのことです」

「ふん。結局のところ、地獄の沙汰も金次第と言う奴か」

「イヴ……そんな身も蓋もない」


 ただ、と一言添えてメリィは続ける。


「今日のように星々の煌めきが強い夜は、星魔も活発になります。現状、今回の旅路に持ち出しを許された量が直ぐに枯渇することはないですが、あまり長く時間をかけられないのも事実ですね」


 元々のんびりできるような目的の旅路でないのだが、ここで明確な制限が示されてしまった。


 このアガルタの人々も星魔に後れを取ることはないと自負はあれど、あまりに遅すぎると滅びの獣『凶獣』が出現して、全てを無に帰してしまう。

 その事実を自覚しているからこそ、今回の旅に同道する者達一人一人の意識が高いのだ。


 それぞれが胸に秘めた決意の一端を垣間見て、ユディトは頷いた。


「そもそも星魔って、結局何なんですか? 凶獣の類似品とかですか?」

「星魔とは、大量の星灼を体内に溜め込んで変異した動植物というのが一般論ですね」

「変異した動植物……」


〈アンテ=クトゥン〉では考えられない事象に、ユディトは両腕を組んで唸る。


「これをご覧下さい」

「宝石……ですか?」


 メリィのスラリとした掌に乗っていたのは、指先でつまみ上げれる程度の宝石だった。その色彩はくすんだ青色で、透明度が低いのが見て取れる。

 地層から掘り出したばかりの原石とは言わないまでも、加工を行っている途上のような、宝石としての商品価値が高くないもののようにユディトには見えていた。


「これは星燐石です。星魔を斃すとその亡骸は宙に消え失せ、この結晶が遺されるのです」

「……ああ、だから皆さん、撃退した後に収集作業をしていたんですね」


 ここに到るまで多くの星魔を退けてきたが、戦闘にかけた時間は全体の割合では低く、より時間を費やしていたのはこの宝石を集める方であった。

 勝手がわからないユディトは、時間をかけて一帯をくまなく調べている周囲の者達を不思議そうな目で見ていたのは記憶に新しい。


「この星燐石の純度は鉱床から採れる物と比較にはなりませんが、それでも人間種国家では充分すぎる資源になります。星導具の動力にもなりますので、彼らにとって星魔討伐後に獲れる星燐石は貴重品なんです。なんでも地上では、星魔討伐を生業にする者達も多いと聞きますし」

「というと、各所に換金を行う施設がある、ということか」

「属性によって価値が大きく変動するとも」

「その中でも聖は非常に貴重だ、と」


 ユディトが小さく頷いたところで、他のメイド兵に呼び出されたメリィが一礼をして場を辞していく。

 それをにこやかに見送ったユディトの頭上で、イヴリーンが溜息交じりに口を開いた。


「化け物を斃せばそれに見合った報酬が得られる、か。実にわかりやすい世界だな」

「なんだかファンタジーだねえ。獣の骸が勝手に消える、というのも併せてさ」

「まったくだな。大気中に星灼が満ちているのは間違いないとはいえ、人間種やら異胚種とは異なり、獣共だけがこういった変異を起こすのは、アポロイア曰く、星魔には大気中の星灼を掻き集める独自の器官が組み込まれているようだぞ」

「進化の過程でそんな能力を手に入れていったってことか」

「……それはどうだろうな」

「?」


 イヴリーンのどこか含みのある言い方にユディトは眉を顰めるも、不意に浮かんできたアイデアに表情を明るくして柏手を打った。


「あ、そうだ。換金施設があって星魔討伐を生業にしている人がいるってことは、僕達でも星魔を斃しまくって行けばお金を稼げるんじゃないの?」

「……まあ、そうなるな。そういった需要と流通経路が既にあるということだし。この世界の道理に則ったことではある」

「じゃあ今後の稼業になるか検討しておこうよ」


 要するにあちこちで星魔に戦いを挑んで全てを殲滅する、ということだ。

 検討とは言ったが実際はそれしかない、とでも言いたげな眼差しと、涼しい顔で割と物騒なことを提案するユディトに、イヴリーンは嘆息する。


「この世界に何ら寄る辺のない我々には妥当な選択だが、些か血生臭いな。もっと建設的なことをしようとは思わないのか?」

「僕に出来ることなんて破壊か殺戮だけだよ」

「…………」


 それは純然たる本心からの言葉。

 ユディト自身それしかできないと自覚しているからこそ、微塵も自虐の色を載せていない。


 ユディトのこれまでを知るイヴリーンは、無色の感情で綴られた言葉を受けて何も言えなくなってしまった。


 一瞬の沈黙。それは風に乗って流れてきた喧噪に敢えなく呑み込まれて終わる。

 見れば、陣の中心に熾した焚き火の周りで、同行者のカリオン一行やアガルタの者達が穏やかな雰囲気で親交を深めている様子が窺えた。


 特に、藍色の髪の術師風の青年ケヴィンがこっそり酒類でも持ち込んだのか、器用に羽目を外しているところをカリオンに窘められている。

 それを呆れた様に眺めるアメリアと、苦笑を浮かべる赤髪の女戦士レオーネ。

 そんな環に、一通りの仕事を終えた案内役兼世話役のメイド達に荷馬車を操る御者達、搬入を行う予定の者達も加わり、和気藹々とした環を何時しか形成していた。


「……向こうの雰囲気って、なんだか楽しそうだねえ」

「何だ、寂しいのか?」

「ん、そういうのじゃないよ。ただこれまでそういうのって無縁だったなあ、ってちょっと思ってさ」

「……まあ、仲間と呼べるような連中はいたが、それでもお前は怖れられていたからな。平然と絡んできたのは、せいぜいあの女リベカくらいのものだったか」


 何時、誰が言い出したのかはわからないが、嘗て戦争中の〈アンテ=クトゥン〉の人心安定の為に、魔物討伐数ランキングなるものが全世界的に公布されていた。

 それに記録される膨大な人数の中で不動の一位と二位を独占していたのが、『イルヴァーティの勇者』ユディトと『世界最高の耀術士』リベカ=アークハイネである。


 二十にも満たない少年少女が、他の追随を許さない結果を目に見える形で提示し続けてきたのだから、それに対する世間の反応は非常にわかりやすかった。

 嫉みや恐れを込めて、化け物同士が連んでいると影で囁かれていたことも知っている。ユディトはそんなことを気にしたこともなかったが、勝ち気であるものの実は繊細なリベカにとってどうだったか、今となっては知る術はない。


 最後に会ったのは敵としてだったが、それでも友として、彼女の幸せを願わずにはいられなかった。


「……なんか、いいよね。ああいうのも」


 小さく口腔内で呟かれた言の葉は、近くにいるイヴリーンにすら届かず、ひんやりとした夜気に満ちた空気に溶けて、消えた。

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