第23話 はじまりの望見

 強靱に発達した脚力によって凄まじい速さで大地を駆け、獰猛な殺気を撒き散らして飛び掛かってくる巨大な三頭狼『ケルベレス』。人間など易々と引き裂いてしまうだろう鋭い爪と牙が、生命を刈り取る死神の鎌を想起させることから、地獄の番犬と怖れられるようになった凶悪極まりない生物である。


 そんな濃厚な死の顕現が幾陣もの烈風を放ってくるも、軽やかな身のこなしで突破して懐に飛び込んだユディトは、がら空きとなったその胴を真正面から殴り付けた。


 爆音染みた大音を発てて拳打の衝撃が全身に余さず伝わったのか、三頭狼は耳の奥に残る不快な悲鳴を挙げたかと思うと途端に宙を舞い、血と肉片を撒き散らしながらゴムボールのように何度も激しく地面をバウンドしては、やがて止まって動かなくなる。


「……ありゃ?」


 ケルベレスが絶命したことをパチパチと目を瞬かせて確認したユディトは、想定していたものと少し違った結果をまざまざと見せつけられて、思わず自身の拳を凝視してしまう。


「そんなに力を込めたつもりはなかったんだけど……見掛けによらず脆かったのか?」


 正直なところ、彼我の体格差を鑑みて、今の一撃では後方に吹き飛ばすのが精々であると予想していたのだ。それに続く追撃を考慮に入れていただけに、全く異なる結果を提示されて些か拍子抜けしてしまう。


 戦闘中であるにも関わらず思わず立ち止まってしまった今のユディトは、銀糸の織り込まれた瑠璃色のコートを纏い、両脚には真銀の輝きを湛える脚絆を装着するという普段の装いだったが、その手に漆黒の剣を携えておらず、代わりに両腕を覆う涼やかな銀色の篭手を身に着けていた。


 全体的な調和をより高めんとするかのような色合いの篭手は流線を基としていて、表面に刻まれた不可思議な紋様が冷青色の光を明滅させている。

 流麗なそれは一種の美術品と見ても何ら遜色のない印象を醸していたが、その佇まいは紛れもなく近接戦闘を主眼に置いた武具であり、戦場でこそ真価を発揮するであろうことに違いはない。


 物騒極まりない戦場の中に在るには軽装も甚だしいが、不思議と危うさを感じないのは、それらを纏ったユディトの姿が板についているからだろうか。

 生身の拳を覆う手甲に付着した青色の血糊を振り払っていたユディトは、唐突にあらぬ方向へと腕を振り上げると、丁度そのタイミングで凄まじい勢いで飛来した何かがその掌に収まる。


 けたたましい音や衝撃を撒き散らしてはいたものの、ユディトが難なく掴み取ったのは、手を挙げなければ確実にその頭部に直撃したであろう、投げ斧の柄であった。


「……びっくりするなあ、もう」


 至極のんびりとした言の葉とは裏腹に、ユディトの視線はこれを投じたであろう者の姿を既に捉えていて、そこには筋骨隆々とした肉体に緑色の肌、左右に長く割けた口唇から鋭い牙を覗かせている大鬼『オグル』が、大きく飛び出た眼球の瞳孔を萎ませて驚きを露わにしていた。


 オグルは見かけ通りに凶暴で、性格は極めて残忍。肉食で野生の獣を喰らい、家畜を襲い、時には同胞すら血に染めて日々の糧にしているが、中でも人類種の特に女性の肉を好む。


 浮遊大陸アガルタだけでなく、セントヴァレス大陸にも広い棲息領域を有し、徒党を組むどころか小器用に道具を作り、使うこともできる知恵を持っている所為か、駆け出しの戦士が野で遭遇してしまえば命はない、とまで恐れられる星魔サキュラの一つだ。


 件の大鬼は今のタイミングで対処されるとは思ってもいなかったのか、投擲した体勢のまま呆然と立ち尽くしていたが、次の瞬間には奇襲の失敗を覚り、踵を返して逃げ出そうと動き始めた。


 それは他の者にすればその反応は十分に即時の判断であったものの、だが『イルヴァーティの勇者』たるユディトには遅すぎだ。


 如何にも本能だけで動きそうな見てくれの割には、逃げを選択するだけの知能があるのかと感心したのも刹那。表情一つ変えずにユディトは大鬼に向かって、たった今受け止めた小振りの斧を放り投げる。

 投じられた兇刃は、ユディトに向けて放たれた時とは比べ物にならない速度で空気を引き裂いて飛翔し、オグルの後頭部から背中をまるで熱したナイフでバターを切るが如く容易く断裂しては、その勢いを落とさぬまま遥か先の草叢に突き刺さり、小さくない土煙と鈍重な地響きと破砕音を轟かせた。


「んん、これはまた……」


 投じた刃の突き刺さった遥か先の地面が大きく深く抉れている。その様はさながらクレーターそのもので、空から巨石でも降ってきたのかと、目を疑ってしまう規模であった。


 こうも明確に事実が示されてしまうと、ユディトとしても自覚せざるを得ない。やはり動作の一つ一つに込められる力の具合が、自身の感覚以上に大きいことを。

 そしてそれは、先日の耀力のかつてない充実に由来するものとはまた別種の相違であることを。


 自分自身のことであるが、妙な戸惑いを隠せないユディトは、ふと周りの喧噪に意識を惹かれて目線を動かすと、陣形らしい位置取りをとったオグルやケルベレスの群れと対峙するカリオンや彼の仲間の女戦士レオーネが、勇ましい声を挙げながらそれぞれ剣や斧を振るっては、真正面から易々と撃退している様子が映る。


 そして二人の攻撃の合間を縫うようにアメリアが光の矢を射ち、術師の青年ケヴィンもまた、掲げた杖の先端より直線に迸る雷撃を放っては、カリオンやレオーネに向かう星魔達の反撃を見事に牽制していた。


 見るからに人類とは相容れることがないだろう星魔を撃退する様が、あまりにも慣れたものだったので、襲われ、それを撃退するのは日常茶飯事で起きていることなのだと理解する。

 そしてこの〈レヴァ=クレスタ〉なる天地あめつちが、想像以上に物騒な世界であるのだと、ユディトは改めて認識した。……もっとも、野に蔓延る『星魔』を易々と退けるカリオン達が、抵抗することなく生を諦めざるを得ない『凶獣アヴサーダス』という世界災厄が、相応の頻度で出現している時点で今更ではあったが。


(……見事な連携だ。声を掛け合わなくても、お互いがお互い次にどう動くのか完全に理解しているのか)


 ただ、そんな世情を抜きにしてもユディトの目を奪って離さなかったのは、攻撃の手を緩めることなく、相手に反撃すら許さずに連ねられるカリオン達の攻勢だ。

 まるで事前に綿密な打ち合わせをしたかのように、刻々と変化する戦局に対応せんと迅速に展開されるそれらは、強固な信頼関係と弛まぬ訓練の結実によるものなのは疑いようがない。


 幾多の試練を共に潜り抜けてきたであろう仲間達による環を否が応にも想起させ、それとは無縁の孤独な戦いを続けてきた身にはとても眩しく映っていた。


 それこそ、戦いの手を止め、思わずその先を何時までも見ていたくなる程に。


 そんな明らかに余所見をしているユディトの背後から襲撃してきたケルベレスであったが、それさえも空気の流れや音で察知していたユディトは、軽々と後方宙返りでやり過ごし、フワリと乗り移った巨体の背部で力強く踏み込んでは、その背骨をへし折って地面に縫い付ける。

 三つの口から耳を劈く悲鳴が発せられても、ユディトは表情一つ変えずにそのまま何度か震脚を繰り返していると、終ぞ踏み砕かれた脊椎が内臓に深刻な損害を与えたのか。

 やがて巨体は夥しい量の血を吐き出しては痙攣を引き起こす。


 その反動で勢いよく反り返ってきた両側の頭部は、痛烈な打撃をもたらす鈍器に等しかったが、それぞれの首根っこを掴んでそれさえをも難なく受け止めたユディトは、一気に力を込めて無慈悲にもそのまま握り潰した。


 掌の中で頸椎が砕け散る不快な感触を覚えたが、眉一つ動かさないまま、ただ無機質に震撼している残った頭部を、拳を振り下ろして粉砕する。


 圧倒的な力で為す術なく蹂躙された巨大な三頭狼の躯は、数分もしない内に淡い光の粒子となって宙に溶け消え、その後には鈍く光る石だけが残されていた。




 周りの戦士達が己の手に馴染んだ武器を持って果敢に立ち回る中、獰猛な獣に徒手空拳で立ち向かうというユディトの戦い振りは酔狂としか言えないものであったが、『凶獣』をも切り裂いた黒剣は佩いたまま使う様子は一向にない。

 しかしそれでも実に悠然とした様子で周囲を眺め、平原を散り散りに逃げ回るケルベレスやオグルの群れの追撃に出ては、迅雷もかくやという速さで地を駆けて回り込み、殴打で、あるいは手刀で次々と敵を屠っていく。


 千切っては投げ、という無双を示す誇大表現を現実のものにして、最も苛烈に惨たらしく敵を迎撃しては、辺りに血肉や骨の破片を捲き散らしていた。


 そんな凄惨な殺戮の場を作り上げる、全くもって容赦の欠片もないユディトの戦う姿を遠巻きに見て、先日刃を交えたカリオン達は微妙に表情を引き攣らせるばかりだ。

 あの時、ユディトからの反撃が一切なかったことの意味を、まざまざと思い知らされているからである。


 とは言え、そこまで残酷な殺し方をしなくとも、という諫言が出ないあたり、あの狼や大鬼の群れは人類にとっては害悪以外の何者でもなく、油断すれば命が危ういのがこちらであることを熟知しているのだろう。

 それは紛れもなく戦いに生きる者故の現実的な意識を持っていることの現れだった。






                  ※






 聖星燐石イレス・プリマテリアを採集するために、ユディトやイヴリーン、カリオン一行、そして案内役兼監視役でもある幾許かのアガルタの者達が魔王殿、そして王都シャンバラから出発して数時間。


 全世界的に見ても希少な聖星燐石の鉱床が存在する、浮遊大陸アガルタの東の最果て〈神護の泉〉を目指して一行は畿内である砂礫の大地を足早に抜け、その先に広がっている雄大な草原地帯に差し掛かっていた。


 魔王麾下の騎士団が常に睨みを利かせている王都周辺の渓谷地帯は安全圏で、そこを往くのは実に安穏としたものであったが、一歩でも外に踏み出せば事情は一転する。


 なにせ不毛の大地を歩いていたかと思うと、唐突になだらかな丘陵がどこまでも連なり、風にそよぐ草々が波紋を描いている様を目の当たりにするのだ。普通ならば環境の変遷は徐々に始まり、景色もゆっくり移り変わることで認識も追い付くのだが、ある瞬間にガラリと様変わりしては、ただただ呆気にとられるばかりである。


 特に心に受ける衝撃が大きいのは、そこに暮らす者以外だ。

 今の面々で言えば、魔王親衛隊副隊長シエルの配下の案内役のメイド達を除いた全員だろう。たとえ事前にアガルタはそういう場所だと聞かされていても、実際に目にしないことには実感が沸かないのは致し方がない。


 世界単位での異邦人そのものであるユディトやイヴリーンは、まだこの〈レヴァ=クレスタ〉の地について無知であることを踏まえればその程度は浅かったが、同じ世界の住人であるカリオン達はただ絶句するばかりである。


 だがそれに浸る間もなく、どこからともなく巨大な危うい気配を撒き散らしながら近づいてきた星魔の群れと遭遇し、戦闘になったのであった。




「終わったようだな」


  逃げ惑う最後の一匹を手刀で袈裟に引き裂き、その躯が消滅したタイミングを見計らって、今まで上空に避難していたイヴリーンがユディトの頭に降り立った。


「イヴ。別に手伝ってくれたっていいんだよ」

「おまえな。この姿の私に戦闘力を期待するんじゃない」

「……充分イケると思うけど」


 いつもイヴリーンの嘴によって沈められているユディトとしては、彼女の自認に少しばかり異議を唱えたい気分になる。

 実際には『鏡衣』がそれを許しているだけであって、他の者に対しての攻撃力はほぼ無い。同時に、誰もがイヴリーンに危害を加えるのは不可能でもあったが。


「随分派手に立ち回ったな。見ろ、他の連中がドン引きしているぞ。少しは手加減してやったらどうだ?」


 声色にからかいを混ぜたイヴリーンの指摘は、ユディトが駆逐した厳つい化け物達への憐憫にも聞こえる。

 それを受けてユディトは、心底不思議そうに首を傾げた。


「なんでさ? こっちを殺す気で向かってくる敵に容赦なんかして、一体何になるんだよ」

「……そうだな」


 淡々と疑問を呈するユディトの様子に、イヴリーンは内心で嘆息した。

 元々が純粋過ぎた故か、戦闘中のユディトは平時の優柔不断さが消え失せて融通が利かず、一度敵と認識したら全く容赦がない。

 嘗ての〈アンテ=クトゥン〉の戦争においても、『魔物』の正体が人類に限りなく近い存在だったと判明した後だろうがユディトは一切手心を加えず、敵という敵を全力で滅ぼし続けた。


 本人は〈アンテ=クトゥン〉を護る為に必死だったとは言え、苛烈に敵を薙ぎ払い、逃げ惑う者であっても情け容赦なく殲滅するその無慈悲さが、「イルヴァーティの勇者は恐るべき脅威である」という認識を味方側の者達に植え付ける結果となったのだから報われない。


 そんな経緯もあってか、イヴリーンとしてもその是非を問うつもりはなかった。

 そもそも戦いの最中で敵の言葉に耳を傾けてはいけない、と指導したのはイヴリーン自身であり、ユディトは忠実にそれを実行しているに過ぎないのである。


 だからこそイヴリーンもその極端さを諫めることはできず……仮にどうしてもそれが必要になる状況ならば、身を挺してでも阻むつもりであった。

 今のところ、そんな状況には遭遇していなかったが。


「それよりユディト。調子はどうだ?」

「ん? 悪くないよ。昨日もぐっすり眠れたから体調はバッチリさ。大気の組成とか、未知のウイルスとかを警戒していたけど、何ともなかったし」

「アシュロンを纏っている以上、そんな心配は杞憂だ」

「だよねえ。結局アミノ酸とかの関係も、アシュロンが頑張ってくれているおかげで、ご飯が美味しく食べれるしさ。体内に入ろうとする異物を常時浄化してくれて、状態異常無効化が常に効いているようなものだから、僕も安心して居眠りできるよ」


『鏡衣アシュロン』の基本機能である環境適応能力の恩恵を最大限に実感しながら、しみじみと頷くユディト。

 だが、おどけたように語る姿が癪に障ったのか、イヴリーンの声色に険が篭もった。


「真面目に答えろ……私が言っているのは、外部からの耀力吸収の制限と、神器による身体能力拡張を封鎖した影響についてだ」

「うん、影響はしっかり出ているよ。力加減が上手くできないから、常に意識しなきゃダメだと思う」

「やはり、か」


 笑みを消し、握っては開く両手を見下ろしながら綴るユディト。

 そんな様子を見下ろしつつ、イヴリーンは相槌を打った。


「出力制御をアポロイアに任せ過ぎた反動だな。一番相性が良いとはいえ、偏り過ぎはどうかと思うぞ」

「別に贔屓している訳じゃないんだけどね。僕自身の性質がアポロイアと似ている所為だって君も言っていたじゃないか」

「……確かにな。仕方がなかったとは言え、アンテ=クトゥンではとにかく時間が惜しくて、神器を扱う為の習熟にのみ特化したからな。その辺り、私の教育方針の所為でもある」

「あはは。おかげで僕は全力使用か、全く使わないかの二択しかできないよ」


 神器の身体強化が有効の場合、周囲にあまり被害を出したくないというユディトの意志に呼応して、『神璽アポロイア』は神器全体の出力制御とは別に、ユディトの耀力の流れに干渉し制動を掛けることで相対的に力を抑えてきた。

 だがそれすら封鎖した今の現状ではユディト自身の感覚だけが頼りで、力加減が非常にピーキーになってしまったということだ。


 一から順に段階を踏んで育てれば、そこまで深刻になる問題でもない。

 多少の後悔の色を見せるイヴリーンであったが、まったく責める色を出さず、屈託なく笑っているユディトを見て悩むのが馬鹿らしくなり、呆れるように溜息を漏らした。


「お前も極端すぎるんだぞ……そもそもの原因は、お前自身の耀力保有量がデタラメに大き過ぎる点にあるんだからな」

「ええと、それって確かアンテ=クトゥン人は遺伝子的に、保有耀力量に比例して身体能力が向上するってヤツに関することだよね。リベカが言うには、塩基配列が耀術を行使するのに最も適していることの裏付けになっているんだっけ?」

「そうだ。あの世界の普遍的な人間ならば、どれだけ大気中から常に耀力を吸収していようが、生命維持の根本機能として溜め込みすぎないよう無意識下での微弱放出、或いは耀術を用いた際に均衡の調整を行っているんだ。しかしお前は、生まれつき耀術を使えない変態だろ? 加えて許容量が人外どころのレベルじゃないから耀力を幾らでも溜め込めて、結果としてアホみたいな身体能力を発揮することになる」

「へ、変た」


 確かにユディトは幼少から化け物染みた身体能力を備えていて、従事していた屋敷に近しい少年少女達からは、完全に疎まれていたのが現実だ。

 そもそも奴隷で最下位の使用人という立場上、本来ならば同じ場所にいることすら許されるものではなかったのだが、恩人である令嬢が頻繁にユディトの様子を見に来て、あまつさえ連れ出して回るものだから、すっかり目の敵にされていたのである。

 ……幸いなのは、向けられる悪意に、当時のユディトは全く気付きもしなかったことだが。


「……酷い言われようだけど、そうだね。僕は神器を手に入れるまで耀力を外に放出できなかったから、屋敷の設備を使うことは出来なかった。だけど力だけは異常に強かったから、備品や施設を壊すばかりで皆に怒鳴られてばかりだったねえ」


 耀術と耀煉器技術の発展した現代の〈アンテ=クトゥン〉では、日常のあらゆる場面でその恩恵を受けられるようになっていた。一般生活レベルで言えば、広く普及していた自動扉は、接触センサーに触れた人間の耀力に反応して開閉し、水道の蛇口も触れた人間の生体耀力を動力として稼働していたのである。

 それだけには留まらず、照明や冷暖房、ありとあらゆる生活雑貨も、駆動力の源泉として人間が当たり前のように放っている微弱な耀力を前提に設計されていた為、当たり前のことができないユディトにとっては、生き辛いことこの上ない社会であったと言えよう。


 まさに社会不適合者とバッサリ切られてもぐうの音も出ない環境であったが、それでもユディトにとっては懐かしい日々の面影だ。

 歳を重ねて世間を色々知った今で振り返ってみても辛い日々だったという印象が沸かないのは、自分にとって大切な人達が存在していたからなのは間違いない。


 ふと胸中に沸いた郷愁を意図的に押し殺し、ユディトは訥々と連ねているイヴリーンの声に意識を戻す。


「今、お前の中の耀力の器はどういう訳か満たされている。その状態で神器の身体強化なんぞ適用させたら、歩く災害にしかならないぞ。そんな物騒で傍迷惑な奴を野放しにするほど、私は人でなしではないつもりだ」

「……ひ、人を天使兵器みたいに言うのは止めてくれよ」


 天使兵器とは、『魔物』という脅威に曝され続けた〈アンテ=クトゥン〉の人々が、苦難と苦渋の決断の下に開発、実用化された史上最悪の耀術兵器群のことである。

 使用した際の環境汚染が尋常ならざるものであった為、今では口にするのも憚れ、所有することさえ忌諱される、忌むべきものの代名詞だ。


 それでも先日の戦いの際に躊躇なく投入されたのは、ユディト自身がそれ以上の害悪だと、〈アンテ=クトゥン〉の人々に認識されたからだろう。

 わかっていたとは言え、それを改めて思い返すと胸にくるものがあった。


「そうならないように、この世界で活動する上で周囲に迷惑を掛けない為の最低限の措置だ。しばらくはお前自身の中にある耀力を用いて行動しなければならないが、その辺りは納得して貰うしかない」

「大丈夫だよ。イヴは僕のことを考えてやってくれているんだし。君のことは信じているから、僕は指示通りにするよ」

「信頼してくれるのは嬉しいが、お前自身のことなんだ。もっと重く考えてくれ」


 どうにも楽観視が過ぎるユディトの姿には、付き合いが長いとてイヴリーンも懸念を隠しきれない。


「神器所有者のお前が日々にどれだけの耀力消費が起きるかは、今後の経過を観察しなければならない。不測の事態も鑑みて、神器の稼働率も著しく下げることになったが」

「日常生活に支障がなければ問題ないよ。とりわけ急いで何かを為さなければならない、なんて状況でもないしね。一応、気を付けなきゃ駄目なのって、あの蜘蛛……じゃなくて凶獣くらいでしょ?」

「アレは例外だ。舐めてかかればこちらが被害を被る可能性がある以上、全力で殲滅しろ。斃せば耀力が世界に散布されるから多少の誤魔化しにもなるだろうしな」


 普段は制限を掛け、危険になったら全力を出す。

 なんとも緩く都合の良い現状に一抹の不安を覚えつつも、両手に装備したガントレットを見下ろしてユディトは口を開く。


「そうなると、しばらくカーネイジはこの形態で行くしかないか。まあこれなら殆ど耀力消費がないし、省エネの観点でいくならこれ以上の選択はないから良いけど」

「……それにした時のお前が一番性質が悪いんだがな」

「え? なにか言った?」

「いいや」


『滅刃カーネイジ』の三形態の内、最も耀力の消費が少ないのが、現在ユディトが身に着けてる腕環形態である。様々な特殊効果を斬撃に付与できる刀剣形態や他の形態に比べれば耀力の消耗が著しく少ないが、その分威力は他の二形態に比べるべくもない。


 とは言え手数の多さで補えるので、実はユディトはこの形態が一番自分に馴染んでいると思っていた。ただ『滅刃』そのものの基本性質である所為か、殴った箇所が斬れる、という不可解な感覚には未だ慣れなかったが。


「いずれにしても、お前の素の身体能力を考えれば、この未知なる世界でも充分にやっていける筈だ。基本的にこのレヴァ=クレスタという世界は、アンテ=クトゥンよりも耀力準位が低いようだし」

「まあ、さっき襲ってきた程度の獣なら幾らでも対処できるよ」


 少しも危機感を載せることなく淡々と頷くユディト。

 実際にそう信じて疑わない確かな自信がそこには秘められていた。


「カリオン達が星魔と言っていたな。なんでもそこら中に蔓延っている土着生物らしいが、聞きしに勝る厄介そうな面構えだったな」

「そうかい? 確かに見かけは結構迫力があって怖かったけど、行動そのものは単純な獣だったよ。それなりに知能を持っているのもいるみたいだけど、基本的に力任せに襲ってくるだけし。数が揃うと面倒ではあるけれど……それだけさ」

「厄介ではなく面倒、か。それだけハッキリ断言できるなら問題はないな。流石のお前も、戦闘中の油断はないだろうしな」

「それだけの戦闘経験は積んでいるつもりだからね」


 戦闘経験は敵性体の撃破数に比例する。〈キルリ=エレノア〉との戦争で誰よりも先頭に立って駆け抜けたユディトのそれは、他の追随どころかそもそも次元が違っていた。


 ユディト自身がそれをどこまで自覚しているのかはイヴリーンでも定かではなかったが、それでも今後の戒めとして敢えて口にする。


「環境として温くなったとしても、くれぐれも慢心だけはしないようにな。自身を絶対強者だと頑なに思い込み、戦闘中に雄弁に自身の能力を語りまくった挙句、対策を練られて滅ぶような愚か者は後にも先にもあのクズゴミだけでいい」

「了解。絶対にそうならないようにするよ!」


 先日滅ぼした不倶戴天の怨敵の影を匂わせるイヴリーンに言葉に、その目論見通りユディトは表情硬くしてしっかりと頷いていた。




 ふと遠くを見やれば、戦闘の終了を察してカリオン達が荷馬車を囲うようにして陣取り、出発の準備を進めていた。


 星魔の殲滅に没頭し、馬車から一番離れてしまったユディトは、あまり彼らを待たせる訳にもいかないと思い、全員の視線を集める中、悠々と草原を歩き始める。


「しかしまあ、異世界で初めての冒険も随分血生臭い門出になっちゃったねえ」

「まったくだ。ロマンも風情もあったものではないな」


 溜息交じりにそう吐露するイヴリーンに、ユディトは小さく頷くのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る