第19話 まほろばの大地(2)

 魔王領アガルタの中心、〈万魔殿シャングリラ〉の深部にある〈星詠の間〉は静まり返っていた。


 薄っすらと漂う霧のような闇は、林立する柱に備わった燭台から離れるほど濃く深くなり、その先にある筈の壁や天井の存在を見失わせる。

 陽が届かぬ場所故に冷ややかで淀んだ空気は、この場に立つ者の意識を静かに苛んでいた。


 おどろおどろしくもある場の中心付近に鎮座するのは、二つの巨大な水晶塊だ。

 その周囲の床に敷き詰められた石畳が無惨に砕け散り、ちょっとしたクレーターのようになっている様子から、遥か上方より墜落したであろうことが容易に想像できる。


「これが、件の天極粋星ステラデウスというヤツか。予想よりもずっと大きいな」


 いつものようにユディトの頭という定位置に停まったイヴリーンは、小丘のように座す水晶柱を見上げながら呟いた。


 どれだけの質量を秘めているのかこの場では量りようもないが、表面にまばらにこびり付いた岩や土の残滓が、大地より掘り起こしたままの力強い自然の息吹を感じさせて止まない。

 だが遥か天井を仰いだままの断面は、静かな水面のように艶やかで、まるで見る者の深奥を見透かす鏡のような佇まいである。


「昨日は気付かなかったけど、こうして改めてみると、ここまで見事な結晶体だったんだねえ」

「これだけのものとなると、アンテ=クトゥンでもそうはお目にかかれない。私が知る限り、エリュシオン大天文台に設置されているヤツくらいじゃないか?」

「ん? 君を封印していた『天獄の繭カンタレラ』の方が大きかったけど……いやでも、大天文台の巨大観測装置に使われているのは確かにこれくらいだった」

「いずれにせよ、比較している結晶体そのものは全く異なるが貴重な品であることに変わりはない、ということだな。お前にこれを壊されて、怒り狂った連中の気持ちが何となくわかりそうだ」

「か、勘弁してよ」


 軽い口調で同調の意を示すイヴリーンだったが、冗談にしてはわりと内容が洒落にならない為、ユディトとしては気が気ではない。

 自覚ないまま頬を引き攣らせ、肩を縮込ませてチラリと静かに後背の様子を窺ってしまうあたり、多少なりとも後ろめたさが胸の内にあるのだろう。


 先程からユディトとイヴリーンのやり取りばかりが空気を叩いているが、実際その場に立っているのは二人だけではない。

 その瞬間・・・・を目撃し、ユディト達をこの場に案内した魔王エルファーランや勇者カリオン、彼の仲間達に加え、魔王の側近のシエルが等しく立ち尽くしているのだが、いずれも言葉なく眼前に横たわる水晶を見上げていた。


 外部からのあらゆる術式を弾き飛ばし、あらゆる物理干渉をものともしない〈レヴァ=クレスタ〉における最高硬度の物質。世界最大にして唯一無二の至高の無星燐石クリオ・プリマテリア


 異胚種の総領たる『魔王』が守護することを義務付けられた、魔王領アガルタの秘宝の一つであるが、それが損壊したという事例など過去には存在せず、前代未聞。

 故に、皆が皆こう思う。本当にこれを壊すことが人間に出来るのか、と。


 破壊された現実を目の当たりにしながらも、そんな疑問が一同の双眸に渦巻いていて、特に先頭に立つエルファーランに至っては、『魔王』としての責務を全うできなかった悔悟もあるのだろう。

 物言わぬ水晶塊を見上げる紅蓮の眸は、誰もが声を掛けるのを躊躇ってしまうかのような悲愴感に塗れていた。


「ふむ……ユディト。ここにいるのは全員が当事者か?」

「いや、シエルさんだけが違うけど……」


 昨日の騒動の際。何らかの儀式場たるこの部屋にいたのはエルファーランやカリオン、そして彼の三人の仲間達だけである。多くの兵と共に部屋の外で待機していたシエルは、〈星詠の間〉の異変を察知して雪崩れ込んできたのだ。


 それを悔やむ念があるからか、話題に挙げられた当人からの視線は冷たく鋭い。


「貴様らのような得体の知れない不審者を前にして、魔王様をお一人にすることなどできません」

「こちらが壊したとは言え、それを直そうとしている者に対して些か失礼な口振りじゃないか? 魔王の側役ということだが、いちいち突っ掛かって来るとは……お前は狂犬かなにかか? ああ、弱い犬ほどよく吠えるというが、その通りだな」

「……鳥ならば鳥らしく、ただ静かに囀っていればいいものを。喧しさは品位を著しく貶めますが、人語を弄する分、それが実に顕著ですね」


 言われ方が癪に障ったのか、不愉快そうに表情を歪めるイヴリーンと、返された挑発に、シエルは思わず腰に佩いた剣に手をかけ睨み上げる。

 だがそれは一瞬のことで、両者は同時に不敵な笑みを浮かべていた。


「ふ、二人とも。そんなギスギスしなくてもいいじゃないですか。イヴもお願いだから煽らないでよ!」


 唐突にして起こった凄絶な睨み合いは、場の空気を極めて殺伐としたものに塗り替えていくが、そんな物騒な場の中心に突如として放り込まれる形となったユディトとしては、黙って見過ごす訳にはいかない。……大抵の場合、こんな状況下で割を喰うのは自分なのだから。


「ふん……いつまでもここで無駄話をしても埒があかないし、走査を始めようか」


 そう言ってイヴリーンは、ユディトの頭上でバサリと翼を広げる。

 その動作に併せて首元の首飾りが小さく揺れて存在を主張したが、ユディトの首飾りと同じ意匠のそれは、事前に渡されていた神璽アポロイアそのものである。


 今は猛禽の姿であるイヴリーンに、首輪の如くピッタリとした大きさにリサイズされているのは、所有者に合せて姿を変える神器の基本的な機能で特筆すべきことではない。

 ただ〈星詠の間〉に入る前に、変化の様子を目の当たりにしたエルファーラン達は、目を丸くして驚いていたが、この辺りは普段から接しているか否かの、慣れの問題だろう。


「頼むね。僕が見てもさっぱりわからないからさ」

「……そんな風に、手に負えない問題を直ぐに私に丸投げするのはどうかと思うがな」

「適材適所ってヤツだろ。いつも君だって言っているじゃないか。全幅の信頼を置いていると言うことで勘弁してよ」

「……調子の良いことを」


 ユディトがあまりにも軽い口調で言ってくれたものだから、イヴリーンの眼差しは自然と胡乱なものになった。


 勿論、向けられる信頼を疑うようなことはしないが、それでも少しはすまなそうな顔をして欲しいと思うのは人情というものだろう。何せ、これから調べようとする水晶を破断したのは、他ならぬユディト自身なのだから。


 とは言え、話を聞く限りその状況は不可抗力だとイヴリーンもユディトに同意している為、言葉にはしない。もっと上手いやり過ごし方があったかもしれないと思うが、それは所詮当事者ではない者の、後出しの戯言に過ぎないのである。


「ああユディト。先程も言っておいたが、これ以上近付くなよ。お前の訳のわからん不運っぷりが炸裂してこの石ころに悪影響を及ぼし、修復不能にでもなれば目も当てられないからな」

「お願いだからそんな不吉なことは言わないでっ!」


 不穏当過ぎる言葉を聞かされ、悲鳴に近い叫びを挙げるユディト。

 それを満足げに聞いたイヴリーンは、その頭上からフワリと飛び立っていった。




(言いたいことはわかるけど、なにも今の場面で言わなくても良いじゃないか!)

(…………)


 イヴリーンの背に向けて掲げていた手を引っ込めながら、ユディトは小さく嘆息する。

 背後からの幾つかの視線が厳しくなったのを確かに感じたので、慌てて念話で抗議の意を示してみたが、水晶塊の観察に意識を集中している為かイヴリーンからの返事はない。


 逆にこれ以上しつこく文句を言ったとしても、彼女の走査の妨げ以外の何者でもなく、結局はこちらの不利益に繋がる。そう思い至り、ユディトは諦念のあまり心の中でガックリと項垂れた。


(……絶対、わかっていて言ったよなあ。声だって笑っていたし)


 そこはかとなく悪意を感じる言葉の選び方から、今のやりとりの意趣返しかと勘繰ってしまったが、その声調がおどけるように軽かっただけに肯定としか受け取りようがない。


 何を懸念してイヴリーンがこれ以上の接近を禁じたのか、この〈星詠の間〉に案内される前に予め言われていたことなので理解できてはいたのだが、何分、状況が状況なので正直冷や汗ものだ。


 その理由とは、ユディトの中の耀力が充実している事実を、イヴリーンが重く見たからである。


耀力フラジール』。

 魔元素マナ根源因子オリジン霊魂素エーテルなど、世界によって呼び方に差はあれど、どんな舞台においても普遍的に存在し、物理法則や森羅万象の概念を構築する世界素子。

 それを更に多元的に紐解いていくことで初めてその片鱗を見せる、全ての根幹となるものだ。


『耀力』は、その世界が属する枠組みによって千差万別の色付けが為されている。

 その為、色の違う二種類の水を器に同時に注ぎ込むと、両者が混ざり合い全く別の様相に変化するように、異なる世界の色付けをされた耀力同士の接触は、その世界の摂理を大きく歪ませる要因になり得るのだ。

 ……ユディトが生まれ育った世界と敵対してでも防ごうとした多元世界同時崩壊現象『カルドロン』は、その最悪の究極形である。


境界門リミニス』による平衡化が徹底されていたとは言え、〈アンテ=クトゥン〉のように無数の異世界と常時接続している環境だと、強大な耀力は存在するだけで世界を不安定にさせることになるのは明々白々。


 だからこそユディトは『皇権イルヴァーティ』を得てからというもの、寝ている時も起きている時も。

 常に厳しく自身の裡の耀力を制御することに苦心してきたのだが、現在はそれが順当にできているとは言えない状態にあった。


 それは偏に、ユディト自身が保有している耀力量が増大し、嘗てない程に満たされているからである。


 これまで充実を実感した日であっても、体内の”器”に収まる六割程度が精々であり、それが常態としてユディトの中で固定されていたので、いきなり器が限界まで満たされてしまい加減が掴みきれていないのだ。

 この見知らぬ異世界に現われてから、まだ一日も経っていないという身も蓋もない現実が、それを更に助長させている。


 よって、耀力に似て非なる『星灼』を周囲から掻き集める特質を持った『天極粋星』に、今のユディトが近付くことでどんな影響を及ぼすか、イヴリーンにすら予測できないのであった。


(そういえば……前にもこんなことがあったっけ?)


 それは嘗ての折。この〈レヴァ=クレスタ〉よりも耀力濃度の高い〈アンテ=クトゥン〉において、神器を得た直後の、ユディト自身の耀力制御が今よりも未熟で杜撰だった頃。


 人類を救わんと立ち上がった当時、境界門解放軍で使用していた精密な耀力探査を行う『耀煉器ユビキタス』に近付いた時、ただそれだけで機器が誤作動を起こし、煙を吐き出して壊れたという事態に遭遇したことがある。それも一度や二度ではなく頻繁に、だ。


 他にも、一般家庭に広く普及していた清掃用の耀煉器のスイッチを入れただけで爆発させ、街灯に寄りかかっただけで周囲一帯が停電になり、軍兵移送用の空輸機に同乗すれば、それだけで動力を破損させてしまい墜落の憂き目に遭う……いずれの怪現象も耀煉器の暴走が原因だったのだが、その元凶はユディトが無自覚に垂れ流していた膨大な量の耀力にあった。


 真相が発覚して周囲から随分と怒りや不満の矛先を向けられたものだが、激化する戦端の最前線の最先鋒を突き進む『イルヴァーティの勇者』にあからさまな糾弾などできる筈もなく。


 ユディトからしてみれば壊すつもりなど毛頭なく、本当にただ興味本意で何気なく見ていただけだったとしか答えようがなかったものの、それは子供の言い訳でしかない。


 解放軍は高価な機材を幾つも失い、ユディトはそんな彼らからの信を落とし。

 双方共に失うものしかなかったが、それでもユディトは、周囲に多大な迷惑を掛けたということで、自身の耀力制御を真剣に考えるようになった。……その後、無くしたものを取り戻せたかどうかは、〈アンテ=クトゥン〉中を敵に回して、誰一人として協調する味方がいなかった時点で考えるまでもないが。


(……嬉しかった、ってのもあるんだよなあ。僕って、昔は耀煉器が使えなかったし)


〈アンテ=クトゥン〉の人類は遺伝子配列上、耀術行使に最適化された人類だ。それは誰もが耀術を扱える可能性を秘めていることを示唆し、その源である耀力の操作に秀でていることを意味する。


 そんな人類からすれば、耀力を流し込めば起動する耀煉器を動かすことなど、空気を食むことや手足を動かすことと同様に、敢えて意識をして行うほどのことではない。……もっとも、より複雑で高度な制御を求められる物ならば、その限りではないが。


 いずれにせよ、素養次第では赤子でも耀煉器を起動させることは可能だった。

 本当に発育の遅い子供であっても、統計的に二歳くらいになれば耀力の初歩的な制御ができるようになり、玩具として作られた耀煉器を稼動させては馴染み親しみ、やがて生活の一部へと昇華していくものである。

 才能のある子などは生後六ケ月で操れるようになることもあり、〈アンテ=クトゥン〉史上最高の耀術士として名高い友人、リベカ・アークハイネに至っては、生後間も無く計測器を破壊した、という伝説を残していた。


 しかし。

 先天的に何かしらの原因があるのか定かではないが、ユディトは何歳になっても耀煉器を起動させることすらできなかった。


 それは〈アンテ=クトゥン〉の人間ならば当たり前のことができないことに他ならず、奴隷として労働力を見込まれて買われた身にとって致命的である。なにせ現代の〈アンテ=クトゥン〉では日常の至る所に耀煉器が配置され、人々の生活の基盤を支えていたのだから。


 家財道具一式を扱うどころか、耀力を込めて蛇口を捻れば出てくる水汲みさえまともにできない。家屋の出入り口を耀煉器による自動開閉装置に頼っている場合など、扉を開けることすら適わないのだ。


 何の存在価値もない愚図として、屋敷中の者達からも蔑まれるようになるのは、自然なことだった。


 そんな来歴があるからこそ、耀煉器には並々ならぬ思い入れとコンプレックスが入り交じっていて、結果がどんな形であるにせよ、耀煉器が自分に反応を示したことを密かに喜んだこともあったのだ。


(そういえばイヴが、それは承認欲求の現れだ、って言っていたっけ……まあ、今となっては取るに足らない感情だけど)


 見上げるほどに巨大な水晶塊の残骸の周囲を旋回するイヴリーンを見つめながら、ふとユディトは昔の自分を思い返していた。


 そして過去を省みた上で今をしっかりと見据え、だからこそ思う。

 こちらの内心はどうあれ、ただ居るだけで耀煉器を壊したという事実が明るみになりでもしたら、本当に冗談では済まされないだろうと。


(流石に部屋から放り出されるよなあ……いや、それで済まない可能性の方が高いか?)


 その辺りの不安は当然ある。なにせこの世界にとっての天地をひっくり返すような騒動は、つい十数時間前のことなのだ。この地の者達の人となりなど判る筈もなく、信を置くには到らない。

 今は、互いの利益不利益を秤に掛けた上で並び立っているに過ぎないのだ。


(……止めよう。悪い方に考えると、本当に現実化しそうだ)


 実際にそれが経験則からのものであることが、ユディトにとっての哀しいところだ。

 もっと陰惨な未来を脳裏に描きかけていたユディトは、渋面を浮かべて口外しないことを決意する。そして逸る保身の意気込みのままに、静かに不自然にならないようジリジリと水晶塊から距離を取るために後ずさっていた。

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