第18話 まほろばの大地(1)

 緩やかな弧線を描く地平の彼方より、鮮烈な光輝を纏った太陽がゆっくりと顔を覗かせていた。

 放射される眩い光明は、世界が深暗の底に堕ちるのを最後の瀬戸際で阻んでいた星と月のささやかな抵抗を嘲笑うかのように、その拮抗を保つのに苦心していた盤面ごと一気にひっくり返す。


 大地よりも遥かな高きを往く浮遊大陸故か、魔王領アガルタの朝は〈レヴァ=クレスタ〉の何処よりも早い。

 そして暁光の到来を全土に知らしめるが如く、荘厳で絢爛な鐘の音が鳴り響き、擾乱する大気に浸潤していく。


 滅亡した世界の址を想起させる静寂しじまの夜は終わりを迎え、魔王領アガルタの新たなる一日が今、始まろうとしていた。




「――主よ。我らを創りし偉大なる神属フォロスよ。悲しみの大地、レヴァ=クレスタに生まれ落ちた全ての命を見守り給え」


万魔殿シャングリラ〉の上層にある一室。

 夜闇の残滓が濃厚に漂う小さな石室に申し訳程度に備えられた窓からは、そこに填め込まれた色とりどりのガラスを透して、朝陽と共に虹色の光帯が流れ込んでいる。


 清浄さを感じて止まない輝かしき瀑布の中に、『魔王』エルファーランは両膝を着いてその身を曝していた。


 静かに双眸を伏せたまま虹光を仰ぎ、両手を胸の前で組んでいる姿からは、敬虔な信徒が神への祈りを捧げているようで。或いはそれに応えた天からの洗礼を受けているかのようで。

 調度品がほぼない部屋の殺風景さが逆に、光の中に佇むエルファーランに触れ難き神秘性を纏わせているようにさえ感じられる。


「見捨てられし我ら異胚種ゼノブリードに、安らぎを与え給え」


 実際、エルファーランは今、切なる祈りの中にあった。

 毎朝定時に行われるこの礼拝は、エルファーランにとっては欠くことのできない日常の一つである。


 世界の平和を求める者としての願いを抱き、それを実現する為に行動を起こすこと。それだけがこの世に奇跡を呼び寄せる為の儀式であることを、エルファーランは知っている。


 故にその実現に向けて、祈りという名の問いを自身に投げかけるこの時間は、エルファーランに魔王としての活動の始まりを自覚させ、意識を引き締める為の大切な儀式になっていた。

 ……たとえ全身の『星灼フォルトゥナ』を使い切った影響で、身体中が億劫なまでの倦怠感に苛まれていようとも、欠いてなどいられないのだ。


 そんな意気の元で朝の強く爽快な日射しを全身に浴びていると、身体の裡から沸々と活力が湧いてくるのだから、やはりこの行動は正しいのだとエルファーランは毎朝実感するのである。

 夜気によって冷やされた石室の空気は凛としていて、佇むだけで心身を涼やかに引き締められることもあって、その念は一入だ。


「我らが神祖、運命を司りし女神エルリオーネよ。暗闇を彷徨いし我ら異胚種に、光の導きを与え給え」


 朝の到来を告げる乾いた鐘の音は、未だ外で鳴り響いていて、降り頻る朝陽の息吹に粟立った空気を伝い、どこまでも広がっている。


〈レヴァ=クレスタ〉上空を縦横に飛行するアガルタの日照時間は地上とは異なる為、万魔殿上層に設置された大鐘楼による夜明けの告知は、毎朝変わらない時間に自動で行われていた。

 その刻限は往古に設定されて、今では変更する術すら失われているが、その事実が既に常識として溶け込んでいるので、住人の誰一人として疑問に思うことはない。


 いずれにせよ、この艶やかで澄んだ鐘の音を耳にして、アガルタに住まう者達は起床し、日常を紡ぎ始めるのだ。


 やがて、朝餉の賑やかさに引き寄せられたのか、大空を気侭に飛び回る鳥達の軽やかな囀りが硬く厚い岩の壁すら通して聞こえてくる。

 大空を往く地である為か、無数の渡り鳥達もアガルタを羽休めの地として本能的に定めているようで、その多種多様さからなる斉唱は、さながら自由への讃歌と比喩しても何ら大袈裟ではないことだった。


「……罪深きアガルタの者達が、いつまでも安らかに、幸福でありますように」

「…………」


 小さく祈りの句を紡ぐエルファーラン。

 そんな少女のか細い背を、彼女の側仕えであるシエルは無言で見守っていた。

 その凛然とした揺ぎなき眼差しには、何に代えてもこの少女を護る、という強い決意に満ちていて、それこそが自らに与えた至上の命題であると自覚している為か、その佇まいには油断も隙もない。


「シエル」

「はい」

「妾は昨日、天色託宣ゾア・プロフェテスの後に倒れてしまったが、その後、どうなったのじゃ?」


 徐に立ち上がったエルファーランは、振り向かずに後背に問う。

『天色託宣』で得られた『凶獣アヴサーダス』の出現予定を、諸国の首脳に自ら伝えた後、心身が消耗による限界を迎え、終ぞエルファーランの意識を奪っていた。

 そして次に眼を覚ましたのはつい先程で、自身の寝台の上である。


 天色託宣を覆して出現した凶獣と相対し、魔王領全体の危機を乗り越えた後という、指導者が最も泰然と在らねばならない時に、それを失してしまう醜態を演じてしまったのだから、悔やんでも悔やみきれないのだ。

 王として恥ずべき失態であると考えている以上、それを払拭する為にも、まずは現状の正確な把握に努めなければならない。


 厳然と綴られたエルファーランの問いは、そんな胸中に渦巻く念からの言葉だった。


「は。独断ではありましたが、ロフォカレ殿に全ての経緯、事象を説明しました。当初は魔将の方々にも報告をとも思いましたが、何分不確定な要素が多く、要らぬ混乱を招きかねないと愚考し、まだ伏せております」

「うむ」

「ロフォカレ殿も同じ見解で、先にあの不埒者達に、本当に天極粋星ステラデウスが修繕可能かどうかを見極めさせるべきである、と」


 両者の口々に敬意と共に挙げられるロフォカレとは、このアガルタの宰相であり、先々代の魔王……つまりはエルファーランの祖母の代より仕えているこの国の重鎮中の重鎮だ。

 いかにシエルが魔王直属の親衛隊副長だといえ、頭の上がらない相手である。

 そして、魔王が不在の際の最終的な意志決定者でもあるその存在は、エルファーランにとっては祖父のようなもので、シエル以上に頭が上がらなかった。


「爺やがそう言うのなら、そうなんじゃろう。修繕可否が判明した後に、魔将達には妾が直接沙汰しよう。して、他には? 市井の様子や各国の使節達、カリオン達……そして、あやつらはどうしておる?」

「市井の様子は、今は落ち着いております。凶獣出現前に避難が完了していた為、被災者はありません」

「不幸中の幸いじゃな。本当に……良かった」


 踵を返し、ここでようやくシエルと対面したエルファーランは、ほっと胸を撫で下ろす。

 僅かにほころんだその表情は、心の底からの安堵に満ちていて、それだけ真摯に民を思っていたことの証明だ。


「事態の説明を求める声も挙がり始めていますが、調査中である、という発表のみに留めております」

「爺やの指示じゃな……まあ、仕方あるまい。民に隠し事をするのは心苦しいが、無用の混乱を防ぐ為にも今は、な」

「そうですね。発表は対案を用意してから行うべきかと。各国の使節団につきましては……まあ予想通りですが、百獣帝国べスティアとヴァリガン帝国から、こちらの不手際を糾弾する声明が早速出されました。本国からの指示は仰げない状況を鑑みるに、使節団の者達独自の判断かと」

「派遣された者達から独断でそう言った異議が出ておるのは、それだけ我等と彼等との距離がある、ということじゃな。こちらについても後ほど、各国使節団を集めて会見を開く他あるまい……気が沈むのぅ」


 実際に面と向って何を言われるのか想像が付いてしまい、エルファーランは憂鬱な気持ちになる。


 執拗にこちらの揚げ足を取り、説明と謝罪を高圧的に求める者達の相手は本当に疲れるものだ。何せ事態の説明を求めていながらも、こちらが懇切丁寧に連ねた途端に罵声で阻んできて、更には話題をすり替えた上でそちらの我ばかりを通そうとするのだから。

 相手に聞く気がない以上、まさに時間の無駄なのだとわかりきっているのである。


 とは言え、それで避けてはならないのが為政者としての責務だった。


「カリオン殿の存在とアストリア王国の方々が間に入って、随分と宥めていただけたようです」

「……ふむ。カリオン達には後で礼を言わんとな」


 現在の世情において魔王領アガルタは、アストリア王国という存在なくして他の人間種国家群、或いは獣精種国家と対等に渡り合える訳ではない。それは過去に起きたある事件・・・・に端を発しているのだが、その際に双方の間に刻まれた溝は深く暗いからである。


 この魔王領アガルタという浮遊大陸を”監獄島”と蔑如し、『凶獣』という空より現われる災厄の最前に差し出し続けているのだから、それは自明だ。


 そんな溝を少しずつ埋めていくことも、歴代の魔王に課せられた業であるとエルファーランは考えている。


「当人らはどうしておる?」

「各自思い思いに過ごされているようです。カリオン殿から練兵場の使用申請が出されておりましたが、如何致しますか? 第五練兵場ならば、利用しているのが我ら親衛隊だけなので、軍との接触は避けられますが」

「そう計らってくれ。彼らは国賓じゃが、軍の内情を知られるのは問題じゃ。とは言え、丁重にもてなすことを忘れてはならぬぞ」

「心得ております。他の人間種国家群は、基本的に静観の立場を堅持していますね。今回の天色託宣は出現時刻まで記されたことで、冷静な者はその意味を気付いて行動を控えているようです」

「うむ。ならば――」


 誰にも聞かれることのない会話は、なおも続いた。

 この小さな礼拝堂は万魔殿上層に位置し、『魔王』のプライベート領域の中にある。故に一般の兵が近付くことはなく、世話役でもある親衛隊の中でもごく限られた者しか立ち入ることを許されていない。


 その上、異胚種の中でも最高位の『魔印術グリモア』の使い手である魔王が、自らの手で施した特殊術式による防音結界が形成されている為、中での会話が外部に漏れることなど絶対にありえないことだった。


 そんな性質を利用して、他の者には聞かせたくないようなことや、全体に打ち出す今後の方針の草案、または重責に対しての弱音などを親衛隊副長のシエルや、この場には居ない隊長のレアに相談したり、説教をされたりしている。


『魔王』を継承してそれ程日が経っていない初心者魔王であっても、一つの種族の王であるのだから、極力弱い部分を外部では見せてはならない。それが、エルファーランが自身に定めている小さな意地でもあった。


 そんな場の慣わしに従い、訥々と連ねられる報告をエルファーランは一つ一つ頷いて聞いていた。

 そして。


「では、あのユディトとイヴリーンとか言う奴らはどうじゃ?」

「……貸し与えた客間に留まっています。監視の者によると、外に出た形跡は無い、と」

「……だと良いのじゃがな」

「何か懸念が?」

「あやつ、空中を駆けておったじゃろ? 窓から逃げることもできるのではと思うてな」

「勿論、外からの監視もつけておりますが、変化なしとの報告があります」

「……そうか。じゃが用心しておくに越したことはない。あれらは我らが常識の埒外の存在じゃ」


 空を自由に駆ける術式など、エルファーランは知らない。いや、空中を飛翔するだけならば、配下の将に一人、行使できる者が存在している。だがそれは血統というか個人の特質によるところが大きく、そもそも先日ユディトが用いていた術は、その現象からして異質だった。


 魔印術のエキスパートとして、その体系全てに通じている魔王の目から見て、物理法則を完全に無視しているように感じられていたのだ。それがどの範囲までかは、流石に推し量りようもなかったが。


「本人は異世界の存在だと言って憚らぬが、シエルはどう思う?」

「……少なくとも、凶獣を滅ぼしたという点において、レヴァ=クレスタにおける既知の存在ではないと思われます。過去、どのような術を以ってしても凶獣に一矢報えたという事実はありません。神属ですら凶獣には何もできぬまま蹂躙され、神界域フォウビィトンに隠棲してしまったのですから」

「……そうじゃな」


 この世界の創世期より〈レヴァ=クレスタ〉を支配していた上位種族『神属』は、『凶獣』を怖れるあまり別の空間を造り出し、その中に逃げ隠れてしまった。

 そう史実に謳われるが故に、この〈レヴァ=クレスタ〉は神に見捨てられし地、なのだ。


 実のところ、エルファーラン達が”異世界”というものの認識を持ち、すんなり受け容れられたのには、そんな背景がある。


「現在、解析班に命じて彼の者が使用していた術が何なのかを調べさせております」

「ほぅ……それは何を目的としてじゃ?」

「仮に彼らが本当に神界域とは別の世界の者ならば、その未知の知識、技術を手中にすることは、我等異胚種の繁栄に繋がると思うからです」


 新しいものを取り込み、現在あるものを新たな地平に押し上げる。それは世界の垣根を問わず、また技術という範疇に限らずあらゆる物事において、進歩という名の大義の下で行われ続けてきた普遍的行為だ。


 だからこそ、自分達にないものを積極的に取り入れ、更なる繁栄を目指そうとするシエルの姿勢は至極当たり前のことで、それに理解を示して一つ頷いたエルファーランは、だが一抹の不安を面に載せた。 


「お主の言いたいことはわかるぞ、シエル。妾も同じことを考えたからのぅ。じゃがな、あやつらがレヴァ=クレスタにとって異物であることに変わりはない。それを受け容れて生じるであろう歪みが、この世界にどのような影響を齎すかを考えると、妾は空恐ろしくもある」

「お嬢様……」


 宝杖の飾りを掌で玩びながら、紅蓮の双眸を伏せたエルファーランは小さく頷く。


「とは言うても、既に奴は凶獣を多数の目の前で討ち滅ぼした。当然、各国の使節も挙って本国に連絡を入れているじゃろうなあ」

「そうですね。苦肉の策としての星導伝信制限でしたが、抑えきれたと思わない方が良いでしょう。寧ろ各国には、凶獣を討伐せしめる者の存在が伝わっている前提で今後を策定すべきです」

「こぞって使者を送りつけられると思うと、頭が痛いのぅ……次の最接近地点は、アダルフィードじゃったか?」

「はい。続いて霊峰ヴァレンスにあるリヴェリアの塔です。地理的な考慮をするならば、最初の接触があるのはアダルフィードになりますね」


 次第に増していく頭痛の種に、エルファーランは渋面を浮かべながら天井を見上げた。

 そんなことをしたところで何の解決にもならないのだが、大事にしかならないだろう確信めいた予感に、意識が小さく打ち震えているのだ。気を紛らわせる以外の何者でもない。


「……それまでにこちらの体勢も整えておかなくてはな。少なくとも、『天極粋星』については結論が出るまで完全に隠蔽しなくてはならぬ」

「そうですね。あの者達が直せる、と言っていたようですが、どこまで信じて良いのか」

「ああ……後で連中を星詠の間に案内せぬとな」


 それこそが今日の一大行事であり、今後の先行きを占う重要事項だ。本音ではもう少し体調を整えたいところだが、事が事だけに泣き言を言ってはいられない。


「スケジュールの変更ばかりで、調整するそなたらには苦労ばかり掛けてしまうの」

「いいえ、お気になさらずに。こちらこそお嬢様の御意向をお伺いせず予定を組んでしまいましたので」

「構わぬよ。気を失った妾に非があるのは明白じゃ」


 考えなければならないことの膨大さに、軽く目眩を覚えたエルファーランは、同じことを考えていたシエルと同時に深く溜息を吐いていた。






                 ※






「……んあ?」


 礼拝堂でエルファーランがシエルと、外では話せないような秘密の報告会を開いたしばらく後。

 客間に放り込まれ、久々の文明人らしい寝心地を堪能していたユディトは徐に眼を覚ました。


「てんじょうが……ある――ッ!?」


 そう。目の前にあるのは、見知らぬ天井だ。

 それをそのまま言葉にするのは何故か憚れたが、所々寸断し混濁した思考では、どうして自分が今、凝った造りの天井を見上げているのか、いまいち理解できない。


 だからこそ、ユディトは目覚めについて自身がこれまで重ねてきた経験を思い返す。


 魔界〈キルリ=エレノア〉より帰還し、各地の『境界門リミニス』を破壊して廻る最悪の逆賊として、〈アンテ=クトゥン〉中から追われる身であった頃は、当然人里に近付くことなどできなかった。


 その為、野宿が基本になり、更には数多の追手から逃れるよう木の上や茂みの中、断崖絶壁に走った岩棚の亀裂の隙間や掘り返した土の下など、人間としてそれはどうなのか、と正気を疑われるような色々な場所で就寝する羽目になった。……そうなるに到ったのは自業自得であることを、流石にユディトも自覚していたが。


 そんな色々な経験をしていると、当然、目覚めの折に中々鮮烈な光景に遭遇する事態も多々あった。


 印象に残っているのは、人身未踏の森林地帯で野宿していたら人食い虎に頭から噛み付かれていたり、人を余裕で丸呑みにできる大蛇に絡み付かれ締め上げられていたり、果ては巨大なワニに喰らい付かれ水中に引きずり込まれたりと、凶暴かつ獰猛極まりない野生動物達との触れ合いだろう。


 だが散々な日々の中でとりわけ悲惨だったのは、世界最高額の賞金首でもある自分を打倒しようと、功績の獲得に逸り暴走した何処かの国の軍人だか傭兵達に、潜んでいると疑わしき地点を爆撃された時だ。

 森林の茂みの中に隠れて寝込んだ筈だが、朝起きたら冷たい土の中に頭から突っ込んでいて、何事かと這い上がってみれば、森林地帯だった辺り一面が焦土になっていたのだから我が目を疑ったものである。


 いずれの事態も、『鏡衣アシュロン』による絶対的な防御性能がなければ確実にそのままあの世行きだったのは間違いない。


 そこまで思い返して憂鬱な気分に陥り、ユディトははじめて異世界の魔王の居城の一室で寝泊りしたことを思い出した。

 そして、こうして真っ当な屋内で穏やかな目覚めを迎えることができた事実に、言葉にならない歓喜が肺腑の底から競り上がってくるのを感じる。


「空じゃない……虎も蛇もワニも虫も、爆撃機もミサイルも、ない。天井だっ……!」


 天にも昇る気持ちとは、このことを言うのだろうか。

 止めどなく溢れてくる喜びが意識に浮遊感をもたらし、体中の血液を沸騰させては全身の筋に活力を漲らせていくのだから。


 天井を向いてぽかんと口を開けたまま一人感動に浸るユディトは、心からの安堵を誰にでもなしに呟いていた。


「……なかなか斬新な起床だな。どう取り繕っても色々と危ない奴にしか見えないから、私以外の前ではしない方がいいぞ」


 この場において、歓喜に打ち震えている者に水を差せるのは一人しかいない。

 窓際に置かれたテーブルの上で、外から射し入る光を受けながら本を眺めているイヴリーンである。


「あ、イヴ。おはよう」

「ああ、おはよう」


 陽光を反して白いほどに眩い瑠璃色の羽先で本を軽く扇ぎ、浮き上がった僅かな隙間を狙って羽先を滑り込ませて紙を捲っている様は、器用さに感心するよりも行為の異様さへの戦慄を呼び起こす。


 だが真剣に紙面に目を走らせている姿を前にすれば、そんな指摘などできよう筈もない。


 下手なことを言えば、手痛いしっぺ返しが待っていることを経験則で知っているユディトは敢えて触れず、代わりに彼女が執心している本に注意を向けた。


 しっかりとした装丁のそれは、元々この部屋に配置されたものであるが、昨晩寝る前にユディトもパラパラと眺めてみたものの、やはりと言うべきか記された言語がまるでわからず、読書をしてみようという試みが五秒で頓挫したという記憶が甦る。


「僕はどれくらい寝ていたんだい?」

「ん、八時間ほどだな。我々の感覚で言えば、今は丁度午前九時頃になるだろう」

「うへえ……ずいぶん寝たねえ。僕って眠りが浅い方だし、元が元だからこんな遅くに起きたのなんて数える程度しかないよ」


 元来、ユディトの朝は早く、毎朝日の出と共に起床するのが常だった。それは名家に使役されていた奴隷故に、屋敷の誰よりも早くに起きて己が業務についていなければ折檻される、という日常によって心身に刻まれた習性のようなものだ。

 そんな生活から離れて既に十年近くの年月が経過しているが、未だにその習慣が廃れる様子は無い。


「確かに……どんなに昼寝をして夜更かししても、毎朝きっちり決まった時間に目覚める羨ましい体質のお前にしては、珍しいな」

「イヴって朝弱いからねえ」

「……当初の勤勉だった子供が、今ではすっかり怠け者が板に付いているとは、実に嘆かわしいことだな」


 嫌みにどこか悔しさを滲ませるイヴリーンに、ユディトは苦笑を浮かべた。


 神器を得たということは、人間の限界という箍が外れた身体になったことを意味するが、精神は従来のままであり、その不調和さから何時自己崩壊を起こしたとしても不思議ではない。


 だからこそ『イルヴァーティの勇者』として完成された存在になる為には、ゆっくり時間を掛けて双方を調律しなければならないのだが、保有できる耀力量も生物の常識的な範疇から冠絶した域に達してしまう為、厭が応にもそれに引き摺られて精神に影響を受けてしまう。


 それを癒やす意味でも、睡眠という精神の安寧は必要不可欠なものであるとイヴリーンはユディトに伝えていた。


 そしてそれを素直に受け容れたユディトは忠実に、いやそれ以上に体現してしまい、今では怠惰の化身の一歩手前辺りを彷徨う体たらくである。

 にもかかわらず起床時間だけはきっちり夜明けと同時というのだから、寝起きが良くないイヴリーンとしては面白くないのだ。


「ん、でも本当に久しぶりに寝坊したよねえ……あでで、寝過ぎた所為か、身体がちょっと痛いや」


 ベッドから降りたユディトが全身の筋肉を動かしてみると、少し動作にぎこちなさと痛みを感じた。

 それほどまでに深い眠りだったのかと思い返したが、これまで著しい環境の変化に曝され続けたのだから、そういうこともあるか、と帰結する。加えるならば、全身に漲る耀力と神器の力を抑えようと、無意識下で心身に多大な負荷を強いていたに違いない。


 そう考えたら倦怠感が溢れてきて、ユディトは無自覚に欠伸を一つ零してしまうが、それを目敏くイヴリーンに察知され、冷たい目線を向けられた。


「……本当に呑気な奴だな。こっちは徹夜して天体の運行や日の出時刻の計測、太陽の軌跡と高度から緯度経度を計測していたというのに」

「ごめんごめん。でも、色々と任せろと言ったのは君だよ」

「私が言ったのは神器の調律については、だ」

「ん……そういえばそうだったような? でも、手間としては何にも変わらないんじゃない?」

「居直るな」


 本気ではないだろうが、言葉の端々に棘を含ませるイヴリーンの耳にしながら、軽くその場で屈伸運動で全身を動かし、四肢五体に血液が行き渡るのを感じると、ユディトは力強く両手で顔を叩く。

 パチンと小気味よい音と共に完全に意識が覚醒したことで、ようやく今を知る気構えができあがった。


「イヴ。状況は変わらないかい?」

「ああ。ドアの外に二人、窓の外に浮いている岩から三人、そして天井裏に一人。監視体勢は昨晩と変わらぬ人数だな。途中、何度か交替していたようだが――」

「皆さん、おはようございます! お勤めご苦労様です!」


 イヴリーンの言葉を遮って、ユディトは殊更明るく声を挙げていた。


 見事なまでの気配の消し方から、恐らくはその路に長年従事しているだろう熟練の者達に違いない。事実、壁の先に潜む彼らは、危険因子たるユディト達を最大限に警戒して、つぶさに注意を払っていたのである。


 しかし、その監視対象者にしっかり気付かれていたことに、ましてやいきなり挨拶を向けられたことに彼らは動揺してしまったのか。何処から何かが動く気配と音が響いてきた。


 ざわめく天井裏の隠者達にささやかな同情を向けつつ、イヴリーンは小さく嘆息する。


「……そこは気付かない振りをしてやるのが、大人の対応というものだぞ」

「無理。いるのがわかっているのに無視なんて、僕にはできないよ」

「む……」


 笑みを消し、真剣な表情でイヴリーンに向うユディト。

 柔和さが潜んだ紺碧の双眸の、深奥に秘められた想いがどんなものなのか。イヴリーンには痛いほどにわかるが故に、それ以上言葉を紡げなくなる。


 イヴリーン=ヘルブリンディは元始のイルヴァーティの勇者であり、『ヘルブリンディ』の願呪の影響で、〈アンテ=クトゥン〉でその存在を知覚できる者は同じ勇者以外に存在しない。そしてそれは、神器が構築する内在世界においてのみの話である。


 そもそもイヴリーンは、神器の内在世界に囚われてからユディトが現れるまで、〈アンテ=クトゥン〉に現界することすら叶わなかった。

 今、こうして光を浴び、風を感じ、世界の鼓動を実感できるのは、ユディトが本来得るべきであった力の一部を譲渡してでも、不自由を強いられたイヴリーンを救いたいと願ったからである。


 それは不遇の極みにあった自身の境遇と重ねたからだ、とイヴリーンは予想しているが、真実はユディトの心の中にあり、イヴリーンとてそれを窺い知ることはできない。


 しかしそれでも。

 力を求めた理由からすれば余計なことでしかないにもかかわらず、手を差し伸べてくれたユディトの気持ちを思えば、救われた側であるイヴリーンとしては、その主張に対して強く出れないのだ。


「……まあ、監視は連中の都合だから、我々が気にすることではないな」

「イヴは気にしいだね」

「お前が脳天気すぎるんだよ」

「かもねえ」


 恩義を感じているからこそ、イヴリーンは不安定さの残るユディトに厳しく接し、成長を促そうと決めているのだが……最近ではそのやり取り自体が、ユディトの精神安定剤になりつつあり、余計に目が離せなくなってしまったのは余談である。


 イヴリーンが一人思考を巡らせていると、ユディトは手馴れた手付きで、テキパキと乱れたベッドと整え始める。

 城の者の仕事を奪ってやるなとも思ったが、それをしてやる義理もなく、イヴリーンは注意するのを止めた。


「ありゃ? ねえイヴ。これって?」


 ベッドメイクなど本当に久々過ぎて出来るか微妙だったが、意外にも上手くいき内心で自画自賛していたユディトは、部屋の中央に置かれたテーブルの上にあるトレイに気付く。

 そこにはパンやミルクといった、ユディトの知る限りあまり胃の負担にならないような軽食が用意されていた。


「ああ、朝食だそうだ。さっき我々の世話係になってしまった可哀相なメイドがやってきてな」

「ふうん?」


 正直、〈アンテ=クトゥン〉でもこの世界でも、メイドという存在にユディトはあまり良いイメージがなかった。

 嘗ての世界においては完全に動物以下の扱いだったし、こちらに至っては物騒な武器を手に、剣呑な目つきで追い回されたのだから当然だろう。ただこの〈レヴァ=クレスタ〉においては、そうなるに至った理由が自分にあり、仕方のないことだったが。


「お前は寝ていたから、改めて持ってきますと言っていたんだが、断った」

「なんでさ? 温かい食事なんて、僕、すっごく久しぶりだから食べてみたかったんだけど」

「……良く考えろよ。ここは、異世界だぞ」

「?」


 パチリと眼を瞬かせ、首を傾げるユディト。

 その朴訥な様に、イヴリーンは嘆息を吐く。


「神璽アポロイアで、この食物の構造を解析させろ。主にアミノ酸と糖類の質についてだ」

「ああ、そういうことか。うん」


 目線でイヴリーンに促され、言わんとしていることを理解したユディトは首飾りを握り締め、トレイの上の食事に向ける。

 そしてそこにあしらわれた宝珠の表面を静かに撫でると、今は内部に虹色の光を揺らめかせていた宝珠から、同色の光が外へと解き放たれトレイの上の食事に降り注いだ。


 滑らかに色彩を変える麗らかな光は、用意された食事を満遍なく包み込み浸透する。そして瞬きを三つする間に、まるで何事もなかったかのように消え失せていた。


「ん、一応基本構造が右型アミノ酸に酷似しているな……あれ? 糖類は左型だよな、これ」


『神璽』の機能の一つで、物質の組成を解析する為に耀力波を放ったのである。照射された物質への耀力波の浸潤の様子を測定し、その組成を看破するのだが、広義で言えば昨日『凶獣』を推し測る為に行った走査と同義であった。……今回は調査対象が対象なので放射する耀力波は極めて弱い力で行われていたが。


 ともあれ、解析された結果は直ぐにユディトの意識に伝えられる。


「あからさまな有害物質は確認されないようだけど、この構造だと、アンテ=クトゥンの人間である僕は栄養価を摂取できないんじゃないか? 下手をすれば味も感じないよ?」

「まあ、アンテ=クトゥンの生物は左型アミノ酸と右型糖類で構成されているからな。異世界であることを併せて考えると、食べた後に体内でどんな組成変化が起きるかは、口にしてみないとわからない、ということになる」

「……なにそのギャンブル。僕のクジ運が最悪なのはイヴだって知っているでしょ? ここの人達にその気がなくても、呑み込んだだけで死ぬのって流石に嫌だよ」


 席に着きながら若干顔を青褪めさせるユディト。そうなってしまった時のことを考えてしまった故か。


 だが、異世界転移現象とは本来その危険性を常に孕んでいるものだ。

 単純に訪れた異世界の大気組成が〈アンテ=クトゥン〉と異なる場合、それが自身に合わなければ一呼吸しただけで死ぬ可能性は充分ある。大気の成分に限らず、摂理の異なる世界に降り立つならばその範囲が恐ろしく広いことになり、危険度が増すのは当然だった。


 その辺りの事情について、〈アンテ=クトゥン〉の人間は実のところ認識が甘いと言わざるを得ない。『境界門』がその辺りの理を自動で平衡化し、環境に適応する耀術を潜る者に強制的に仕掛けていたからである。……そう言った危険感知の甘さは、利便性を追求したが故の弊害とも言えた。


「そんなに怯えることでもないだろう。装備者の生存環境を最適に整えるのはアシュロンの管轄だからな。毒があれば事前にそれを駆除し、体内に溶け込むのを防いでくれる筈だ」

「まあ既に呼吸が出来るし、こうして普通にしていられるから、頑張ってくれているんだろうけど」

「何がお前にとっての毒なのか薬なのかを判断するのは、あくまでもアポロイアだ。このレヴァ=クレスタでは常に周辺環境の解析を忘れない方が良いな。いや、寧ろ習慣付けろ」

「……ただ生きていくだけで、相当に耀力を使いそうだねえ」


 神器を起動させるのには相応に耀力を使うものだ。日常生活レベルでの適時消費はたかが知れているとはいえ、恒常的に蓄積されればその量は侮れない。


 ただそんな労苦を念頭に据えれば、目の前にある食事がやけに美味しそうに見えてくる。それに伴い、これまで無かった筈の食欲が湧いてくるのは、人としての欲求が正常に働いているからだ。


「しかしまあ、こうして改めて考えると人並みの食事って久しぶりだ。最悪、味さえあれば栄養価はいらないか」

「基本的に我々は、神器の力で飲まず食わずでも死なないからな。消化と循環に消費されるエネルギーを考えると、逆に食べない方がリスクがないと言えるな」

「いやいや。食事、という行為は大事だよ。お腹だけじゃなく気持ちも満たされるしね。君だってプリンが大好きじゃないか」

「……まあ否定はしないが」


 効率を重視するならばイヴリーンの言う通りなのだが、それでは実に味気ない話である。


「先に食べてても良かったのに」

「一人で食べても美味くないだろう?」

「……イヴって時々、可愛いことを言うよねえ」

「う、うるさい! 四の五の言わず、さっさと食べろ!」


 ユディトが無自覚に放ってしまった一言に、イヴリーンが吠えた。

 翼を大仰に羽ばたかせ威嚇しているが、傍から見ればそれは照れ隠しにすぎず。だが、それを指摘できるものは残念ながらこの部屋にはいなかった。


「この後、星詠の間とやらに行って、お前が叩き切った天極粋星を修理する予定なんだ。最悪それが終わるまでは毒殺されることはないだろうよ!」


 イヴリーンのどこか捨て台詞的な口調と言葉に、今まさに、スプーンで掬ったスープを口に含もうとしたユディトは固まる。

 静かに口元から匙を離し、そこに湛えられた琥珀色の透明な液体と、黄金の双眸で力強く睨んでくる相棒の顔を交互に見つめた。


「……食欲失せるようなこと言わないでよ」


 スープを一旦皿に戻し、改めて掻き混ぜながら、ユディトは渋面を浮かべて深々と溜息を吐いた。

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