第17話 流離う者(2)

 突如として現われた正体不明の不審者によって、『凶獣』の討伐、という〈レヴァ=クレスタ〉史上初の事実が呈された場は、静まり返っていた。


 その事自体が人々の悲願かどうかについては議論の余地があるものの、直接相対してしまったのならば己が不運を呪うしかない、と往古より言われ続けてきた不文律に大きな風穴を開けたのだから、その事実を目撃した者達が受ける衝撃たるや想像を絶している。


 それは紛れもなく空前の壮挙であり、同時に、これからどうして良いのか判断に迷うことでもあった。


「一応、当面の危機は去った……のか」


 真っ先に口を開いたのは、討伐者であるユディトを除き、この場で唯一『凶獣』の捕食対象として明確に狙われたエルファーランだ。


『凶獣』の生態など殆どが未知である為、どれだけ思考を働かせても固執された理由などわかる筈もないのだが、過ぎた驚きによって麻痺していた感情も、時の経過と共にやがては動きだす。


 それは安堵や歓喜は元より、感傷に浸るよりも今後どうしなければならないか、という指導者の現実的な責任感をエルファーランに思い起こさせた。


「じゃが結局、天色託宣は行えなかった、か。……これからのアガルタの行く末を思えば、妾はどうしたら良いのじゃろう?」

「エルファーラン様……」


 小さく拳を握りしめたエルファーランは途方に暮れ、力なく天を仰いで呟いていた。


 未だ世界が『凶獣』に滅ぼされていないのは、れっきとした防衛手段があるからであり、その発動には『天色託宣』という前提が必要不可欠。

 そして『凶獣』の出現を予期する『天色託宣』の基点は『天極粋星』と、そこに捧げられた無色の『星灼』である。


 故に至高の器が破壊され、無色の星光を集めることができなくなってしまった今、『天色託宣』が未来永劫実行できないことが確定し、その事実は、魔王領のこれからの立ち位置に大きな影を落とすことを示していた。


『天色託宣』の実施と、その結果を世界に発信することが『魔王』の、ひいては魔王領アガルタの存在意義なのだから。


 だがしかし。身内の安否ばかり気にしたところで、世界全体の行き着く先は知れている。

『凶獣』到来の先読みができなければ、諸刃の刃でもある『消散帷帳』を展開することすらできず、世界は喰い荒らされ存続そのものが危うくなるのだ。


 この〈レヴァ=クレスタ〉の平和を強く望む『魔王』エルファーランは、否が応にも脳裏を掠めてくる最悪に、小さく総身を打ち震えさせていた。


「その天色託宣とやらなんですけど、実際はどうやるんですか?」

「……貴様がぶった斬った天極粋星に格納された星灼を用いて、妾が占うのじゃよ」

「占い、ですか。何と言いますか、意外と古典的な手法なんですねえ」

「なんじゃと!?」


 いまいち事の重大さを理解していないのか、再び屋上庭園に降り立ったユディトは、失意のどん底にある少女の姿を見て首を傾げていた。


 先程から度々耳に届く意味深な単語であったが、どんな事象を引き起こすのか知らないユディトとしては、つい馬鹿正直な感想を口にしてしまっても仕方がないだろう。

 だが今の空気の中でのそれは、少女の琴線を悪い方に刺激するだけだった。


「……ユディト。お前はまた要らんことを」

「……ごめんなさい」


 狙った訳でもないのに、いつもの如く他者の感情を逆撫でしてしまったユディトが更なる墓穴を掘る前に、イヴリーンはふわりと羽ばたいて軽やかにその頭上に停まり、強めの目線で諫める。


「要は星灼、とやらがあればいいんだな? その天極粋星は、聞いている限り星灼を集めるだけの貯蔵庫のようなものだと推察できるが」

「それだけではない! 掻き集めた星灼を無色にする必要がある。何者にも穢されていない純粋無垢なる輝きが必要だったじゃ!」


 その嘆きの叫びは、事情を知る者ならば誰もが抱く胸中の吐露だ。

 少女から発せられる遣り切れなさは場に満ち、それだけでそこに居る者達の心身に暗澹の影を落としていく。


 ユディトを傍に追い遣り、代わりにそれらを真正面から受け止めたイヴリーンは、尚も淡々と問いを続けた。


「フィルターの役割も兼ねる、と。魔王よ。その占いは、外部に何らかの機構を介在させる、という訳ではなく、お前自身の中で完結することなのか?」

「くどい言い回しじゃが、そうじゃ。それがどうした?」

「ならば都合が良いということだ。――ユディト」

「ん」


 イヴリーンの確信染みた言い方に、エルファーランは露骨に怪訝を浮かべる。

 今のところ、『天極粋星』を修理するなどという言については半信半疑だった。『凶獣』を滅ぼしたという点において、既存の常識に囚われない、という幾許かの信憑性を得てはいるものの、破壊と修復では性質が真逆の事象だ。


 だから『凶獣』を破壊できても、『天極粋星』を修繕できる、とは限らない。


 エルファーランがそんな猜疑に満ちた思考を繰り広げていると、イヴリーンに促されたユディトが掌を差し出し、そこに意識を集中させる。

 すると瞬く間に、淡い霧のような白と、刺すように鮮烈な白とが入り交じった、眩いばかりの耀きが集まったではないか。


「エルファーランさま。これなんて使えます? 太陽光の散乱の所為で少し白く見えますが、この耀――」

「お、おぬし……何故っ!? 人間が体外にっ、それも無色の星灼を収斂できるのじゃ!?」

「いえいえ。これは星灼ではなく耀力と言いまして」


 瞠目しているのはエルファーランだけでなく、シエルやカリオン達も同様だ。

〈レヴァ=クレスタ〉の人間種は、生身のまま生命の裡に潜む星灼を活性化させることはできても、『聖装具』を介さずに体外で事象化することなどできない。獣精種や異胚種ならばまた事情も違っただろうが、生憎ユディトはそのどちらでもない。

 ましてや、色なしの『星灼』の収束など、生命体には不可能とされる行為なのだ。


 眼前で煌々と脈打つ力強い耀きは、そんな常識をも眩ませ、根底から揺るがせてくる。

 その驚きのあまり、否定しているユディトの言葉も、あまり耳には届いていないようだった。


「……あー、やっぱりこれ以上は減衰しちゃって維持できないかな」


 耀力をあるがままに収斂するには、やはりこの〈レヴァ=クレスタ〉の減衰率が激しすぎだ。それは言わば砂漠に水滴を垂らすようなもので、一瞬で世界に溶け消えてしまうのである。

 ユディトの紡ぐ耀力も、一応は〈アンテ=クトゥン〉由来の着色をされている為、他世界のそれを混入させることは環境的にも摂理的にも宜しくない。


 そう判断したユディトは、外套のポケットから取り出した球状の物体を耀きに宛がった。

 すると閃耀はスルリと滑り込むように球体に流れ込んでいき、程なく内部に眩い輝きを灯した宝玉が完成する。


「なんじゃ――!? こ、これは」


 一種の完成形とも言える、無色の『星灼』の結晶化。少なく見積もっても、先刻『天極粋星』に集められた『星灼』の総量を超えているであろうそれを前に、エルファーランは紅蓮の双眸を大きく見開いていた。


 思わずそれに触れようとして僅かに残った躊躇で踏み止まり、ユディトに問う。


「おい。これは一体なんじゃ!?」

「ええと、何と言いますか……あの蜘蛛の身体の一部、多分どこかの臓物です」

「ぎゃあああああああああああ!!」


 期待に反して返ってきた答えのあまりの生々しさに、思わず仰け反って数歩後退するエルファーラン。

 すかさず回り込んでその背を支えたシエルが入れ替わりに、怒り心頭な面持ちでユディトに詰め寄った。


「貴様、お嬢様になんてものを!!」

「な、なぜそんなものを持っておるのじゃ!?」

「あの蜘蛛を真っ二つにしてすれ違った時に、零れてきたんですよね。放っておいたら消えたんでしょうけど、持っていれば何かに使えるかも知れないと思って。……後はまあ、この世界を訪れた記念に」

「そんな珍しい形の石ころを拾うかのように言うでない!」

「おお、まさにそんな感じです」


 微妙に的確な指摘をしてきたエルファーランに、ユディトは首肯する。


 真剣なのだろうが、傍から聞いていればとぼけた応酬にしか聞こえず、物事の重大さに顔を青くしていたカリオンが二人に割って入った。


「ま、待て! 凶獣の身体の一部に触れて大丈夫なのか!?」

「ああ、うん。触れる者全ての耀力を奪い取る、という因果は、本体から切り離された時点で断たれていたよ。念の為にこっちでも断っておいたし」


 取り敢えず持っても大丈夫ですよ、と言いながらユディトはエルファーランの掌の上に乗せる。


 因果を断つ、などどんな手段を持ってすれば良いのか皆目見当も付かないが、『凶獣』を斃した当人がそう言い切るのだから頷く他ない。

 おっかなびっくり表情を引き攣らせながら、エルファーランはそれをまじまじと見つめた。


「なんという美しくも力強い輝き……こ、これなら」

「できそうですか?」


 問いに、エルファーランは宝玉を両手で包み込んで胸の上で抱きしめる。

 その行動は、恐らく『天色託宣』を行使できる唯一の存在『魔王』にしか理解できないことだろう。


 しばし、場に静謐が訪れるが、誰しもエルファーランの次なる言葉を待っていた。


「恐らく……いや、できる。これ程までに強く輝いた星灼など、見たことがない」

「いえ、だからこれは耀力だと――」

「さ、早速儀に入るぞ! シエル、準備せよっ!」

「はっ」


 そう言って慌ただしく展開させた”影の路”に潜り、エルファーランはシエルを伴って姿を消してしまった。

 余程切羽詰っていたのだろう。周りのことを置き去りにする様からは、必死さと真摯さしか感じられない。


 しかし見事に置いてきぼりを喰らったユディトやカリオン達は、暫く呆然としていたが、後になって寄越された配下のメイドに導かれ、無事に〈万魔殿〉の中に戻れたのだった。






                 ※






「――そうして魔王の小娘は、世界中の都市村落の未来視を行い、且つそれを各国の首脳に伝達した後で、精も根も尽き果ててぶっ倒れた、と」


 夜空の散策を終えたユディトが宛がわれた部屋に戻ってから、イヴリーンは『凶獣』を斃された後のことを思い返していた。


 世界中の危難を、ただの一個人が未来視で予見しきる、というのは無謀極まりない暴挙とも思えたが、『凶獣』という因子に限定するならばできるのかもしれない、と思える側面は確かにあった。


 何せ『凶獣』が出現することを誰よりも早く言い当てていたのは、他ならぬ魔王少女なのだ。


 耀力の探知能力に関して非常に優れているユディトやイヴリーンですら、出現して始めて認識することができた『凶獣』を、エルファーランはなんの予兆もなしに看破していたのだから、やはり『魔王』とは特殊な何かを備えた存在なのだろう。


「シエルさんが言っていたけど、天色託宣というのは全身の星灼を使い切るらしいよ。特にエルファーランさまは今回が初めてだから、色々と気負っていた部分もあるし、その上、今回の騒動もあるって」


 若いのに頑張るねえ、と些か年寄り臭いが素直な賞賛を贈っているユディトであるが、倒れたのはお前の所為でもあるのだ、と言外に言われていることに、果たして気付いているのだろうか。

 うんうん、と頷いているユディトの姿から、全く気付いていないのだろうとイヴリーンは確信する。


「……まあ絶対に外れぬ未来予知など、それなりのリスクがあって当然だと思うがな。で、中の耀力を使い切った上で返還された、と」


 その冷めた視線は、ユディトの手元のにある透明な球体に注がれている。

 つい先刻まで、耀力を込めてエルファーラン達に貸し出していた『凶獣』の臓物だ。


「そりゃ、凶獣なんて彼女らにとっては恐怖と絶望の代名詞みたいなものでしょ? そんな物、いつまでも手元に置いておきたくないってのは当然だよ。それに、星灼の補填ができなかったみたいだし」

「結局それ、何だと思う?」

「んー、肝細胞か脂肪細胞、或いは卵か排せ……げふんげふん。い、いずれにせよ、耀力を蓄えることのできる体器官なのは間違いないと思うけど」


 掌の中で透明な球体を玩んでいたユディトは、軽く宙に放り投げ、落下してきたものを掴む。そして部屋に備えられた燭台の光に翳してみた。


「やっぱり……硬さが違う。直接殴り合った時はゴムのような感触だったんだけど、斬った時は硬い岩のような感じだった。今は、見た目通りガラス球みたいで、力を入れたら砕けそうだよ」

「内部にどれだけ耀力を充填しているか、あるいは外部からの物理的な力の質によって変異するのか? ……いや、なんにせよ、あの蜘蛛の破片は、耀力を留める器としては申し分なかった、という訳か」

「そうだね。あの蜘蛛、こっちを殴るのと同時に耀力もそれなりに奪っていったから、蓄えておく性質があるんじゃないかと思ったんだ」


『凶獣』との戦いは、一言で言えば互いの耀力の熾烈な奪い合いであった。

 触れ合えば奪い、奪われる。

 その簒奪量はとてつもなく、耀力準位の低いこの世界の存在ならば、触れた瞬間に全て奪い尽くされて、存在を維持できなくなるだろう。それは偏に死と同義であり、実質的な対抗手段などない為に、絶望なまでに不条理だ。


 最終的にユディトは奪われるリスクを無視して、より大きな耀力で殴り続けることで、蜘蛛に場に充満するだけの量を吐き出させたのだが、加減を間違えていたら事態はもっと泥沼化していただろう。


「結構消費したのか?」

「さっき確認した限りだと微々たるものさ。そもそも僕の中の耀力は、この世界に降り立った時点で最大値まで充填されていたんだよね。……やっぱり、あの光の洪水の所為かな?」

「何だと!? 常に耀力的に腹ペコ状態のお前が?」

「そ、その言い方、なんとかならない?」


 イヴリーンの咄嗟の、色付けのない本心からの反応に、ユディトは頬を引き攣らせる。


 この世界に来てから身体の感覚が馴染んでなかったのは、力が漲り過ぎた所為で、そのままの発露を全力で抑えようとする無意識の制御が鬩ぎ合い、あのような不調和な状態を作り出していたのだ。


「蜘蛛に奪われた分より、寧ろ蜘蛛を殺す為に開放した神器の活性率の方が深刻だと思うよ」

「斬撃の瞬間だけ開放していたな。どの程度だ?」

「僕に割り当てられた分のリソースで、七割」

「!」


 想像を超えた数値に、思わずイヴリーンは息を呑み込む。

 二人にしかわからないが、あまりにも大きすぎる事実に、流石のイヴリーンも深刻な気配を隠すことはできなかった。

 だが――。


「あんまり悩んでいても仕方ないんじゃない? だって僕達、今日この世界に来たばかりなんだし」

「お前は、そんな身も蓋もないことを……」


 本人の実に楽天的であっけらかんとした様子に、詮無きことだとわかってはいても、イヴリーンは疲れたような嘆息を零さすにはいられなかった。






                  ※






〈万魔殿〉というおどろおどろしい名に反して、備えられた調度品は機能的で気品があった。

 王城であるのだから当然の配慮だと言われればそれまでだが、それを差し引いても、城内の美装に携わる者は、よほど目端が利くであろうことが窺い知れる。


 清掃は隅々まで行き届いていて塵の一つも残っておらず、簡素だが品質の良い椅子、テーブルの配置にも隙がない。書棚に収められた書物には解読不能の文字らしき紋様の羅列が連なっていて、本、という物の形質が〈アンテ=クトゥン〉と大差ないことを示していた。


 加えて棚の一つに座した置き時計には、幾つかの数字らしき記号が十二個記載され円を描くよう配されていることから、時間の尺度も似通っているのだと感じさせる。

 それらは、ユディトの硬質に強張っていた意識を解くのに充分すぎる事実だった。


 皺一つなく清潔に整えられたベッドにドサリと倒れ込んだユディトは、どこか満悦の表情を浮かべる。


「……アンテ=クトゥンではもう絶対に叶えられないと諦めていたことが、まさか異世界で叶うとは思わなかったなあ」

「何のことだ?」

「ほら、エル・セフィリア大聖堂に攻め込む前に話しただろ? 僕があの戦いの後にやりたかったこと」

「ああ。不謹慎だから思いっきり黙らせたが、結局何がしたかったんだ?」

「こうしてベッドで横になりたかった」

「ふふ……怠け者のお前らしいな」


 実にユディトらしいのんびりした発言に、ついイヴリーンも相好を崩した。


 今の〈アンテ=クトゥン〉では、ユディトはお尋ね者である。それも最低最悪と唾棄されるまでに、全世界より憎まれ怖れられた、世界の敵であった。


 史上最高の賞金首として指名手配されていた自分が、市井の宿泊施設を利用できないのは当然で、だが目的を果たす為には人目から逃れるように山奥や辺境、秘境を往くしかない。


 そんな生活をずっと続けてきて、且つ諦めてきたのだから、思わぬところで得られたベッドの感触は、正に夢見心地と表しても大袈裟ではないだろう。


「しかしまあ、随分と良い部屋を宛がわれたよね。僕はてっきり、牢獄か何かに放り込まれるかと思ってたんだけど」

「お前……投獄されるような粗相をしていた自覚はあるのか」

「そりゃあ、誘拐が悪いことだってのはわかっていたよ。勿論、器物損壊もだけど」

「……そうか」


 当事者の実に暢達で呑気な発言だ。

 この場にエルファーランやシエルがいれば、さぞ盛大に怒鳴り散らしてくれたに違いない。


 呆れたような眼差しが突き刺さるのを意図的に無視して、寝転がったままのユディトは、当たり前のように自分の胸元に停まっていたイヴリーンを持ち上げ、眉を寄せた。


「やっぱり……イヴ、少し太った?」

「いきなり何をほざくんだ!?」

「いや、だってさ。さっきから首が痛かったんだけど、そういうことかなって?」

「女性に向って正面からそんなことを吐くとは良い度胸だっ!」


 バサリと翼を広げて威嚇するイヴリーン。

 両翼を広げれば、大人一人分の身長に匹敵するので、狭い室内では非常によろしくない。周囲の調度品に損害が出て弁償を求められでもすれば目も当てられないので、ユディトは被害が出る前に彼女の双方の羽を力付くで押え付け、半眼で睨めつけた。


「君、まさかとは思うけど、エル・セフィリア大聖堂に攻め入る前にプリンをたくさん食べたりした?」

「……なんのことだ?」


 拘束から脱そうと身を捩らせるイヴリーンが、瞬間的に目線を逸らせたの見て、ユディトは確信する。


 こちらの気質を看破されているように、ユディトもまたイヴリーンのことを熟知しているのだ。


「あのね。いくら無類のプリン好きだからって、状況が状況だし限度があるだろ? だいたい君、『ヘルブリンディ』の所為でアンテ=クトゥンじゃ誰にも認識されないんだからどうやって調達を……まさかとは思うけど、人知れず店に入って勝手に」

「失敬な! この私が食い逃げなどという下品なことをする訳がないだろう! ちゃんとお前の金を置いてきたぞ!」

「僕のかよ! ……いや、僕自身もう街へは入れなかったから別に良いんだけど。結局、食べていたんだね? 何時さ?」

「……お前があの崖の上で眠りこけている時だ」

「周囲を哨戒していたんじゃないの!? ってか、決戦前になんてことしてるのさ!!」

「……あれで最後だと思えばこそ、つい」


 次々と明るみになる事実にたまらずユディトは起き上がり、正面にイヴリーンを見据えたまま、ギリギリと指先に力を込める。

 だがイヴリーンも抵抗しているのか、翼を広げようとする力には少しも衰えがない。


「散々人を呑気者だの、危機感がないだの言ってド突いて来たのは誰だよ……身体を軽くする為に羽でも毟ってやろうかな?」

「ふん、無意味な思考だ。何せ私は幾ら食べても太らないからな。余計なカロリーは全てアシュロンに処分させている!」

「鏡衣になんてことさせているんだよっ!」


 神器授受者をどのような劣悪な環境下でも生存させる為の、環境適応機能を最大限に利用した、実に無駄な試みである。

 そんなことができるなど、思いもしなかったユディトは呆気にとられるばかりだ。


 この後たっぷり数分間。閉ざされた空間で、二人は聞くに堪えない言い争いを演じていた。

 互いに実力行使にさえ打って出たが、実際に行われていたのは、翼を広げようとするイヴリーンをユディトが全力で押さえつけているだけである。


 傍からすれば、ペットの鳥と戯れる青年の図、にしか見えなかったが、そのような微笑ましさは両者にはない。

 二人は泣く子も逃げ出す『イルヴァーティの勇者』であるものの、両者の諍いにおいて神器の能力強化など全く意味を成さない為、生来の身体能力のみで戦わなければならなかった。

 成人男性であるユディトは兎も角、仮初の姿であるイヴリーンの膂力は猛禽のそれで凄まじい。

 よって双方共に一歩も退かず、意地だけで張り合う幼稚で低レベルな争いが繰り広げられることになった。こんな姿を見れば、よもや『凶獣』を滅ぼした唯一の存在だとは誰も思わないだろう。


 しかし、それも長くは続かない。

 やがて力尽きたユディトはベッドに身を投げ出し、その傍らでイヴリーンもバタリと倒れる。


「や、やるように、なったじゃないか……」

「な、何で僕ら……こんな無駄なことで、体力を浪費して……いるんだ?」

「お前が……いつものように、要らんことを……口走る、からだ」


 息も絶え絶えに悪態をつき合うが、両者はお互い一歩も退かない譲らない。


「でも……こうして横になれるのも、何時以来だろう? もうずっと昔の気がするよ」

「正確には魔界……いや、キルリ=エレノアから戻り、十四基目の『境界門』を破壊して、賞金首として全世界に公布されて以来だから、七カ月程だな」

「うへえ……流石に、僕も疲れたよ」


 思った以上に長かった野宿生活に目眩を感じ、ユディトはゆっくりと瞼を落とす。


 心地良い沈黙が、両者の肌を叩いていた。


「長い、一日だったな」

「そうだねえ。慌ただしくて考える暇もなかったけれど……アンテ=クトゥンから異世界に放り出されて、結局まだ一日も経っていないんだよね」

「ああ。エル・セフィリア大聖堂に攻め込んで、そのまま神苑に突入し、天帝を斃した。その後での今回の騒動だから、中々に濃密な時間だったな」

「感覚的には、キルリ=エレノアでの皇帝のおつかいで、十五日間徹夜した時と似ている疲労度なんだよねえ」

「……あれは、色々と酷かったな」


 懐かしいと思えるまでに遠く離れた記憶だったが、言われてつい思い返してしまうと、総身に鉛の塊を乗せられたかのような倦怠感が甦ってきて、イヴリーンは疲れたように溜息を吐く。


〈魔界〉と称した異世界に突入し、そこの最高指揮官と出会ったユディトは、〈アンテ=クトゥン〉への侵略を止めさせる為の一環として彼に協力し、未知なる地で西へ東へ奔走した。


 半年がかりで全ての依頼を終らせ、ようやく〈アンテ=クトゥン〉に戻ってみれば、既に五年の月日が流れていて、時間の流れに大きな差があったことを初めて知って愕然としたものだ。


 復興期における五年という時間は実に多くの変化を呼び起こすもので、ユディトが帰還した時には実に多くのものが様変わりしていた。そして、何処にも自分の居場所がないことを悟らされたのだ。


 しかし、ユディトはそれで構わなかった。

 辛い記憶などいつまでも引き摺らず、明るい未来に向けて笑顔を浮かべている方がずっと良い。

『魔物』という辛苦に直結する『イルヴァーティの勇者』の記憶など、慌しい復興の波に押し流されて消え失せて、代わりに多くの笑顔が生まれるのならば、ユディトとしても願ったり叶ったりなのだ。

 ……結局、それも束の間の安息に過ぎなかったが。


「ここの人達も、いい人ばかりだよね」

「……後日懲罰されるかもしれんがな」

「あはは」


 辛辣だが現実的な言葉に、ユディトは苦笑を浮かべる。


「この世界での厄災、凶獣を倒せるのがお前だけなのだから、今後色々な面で騒がしくなるだろうよ」

「……平穏の邪魔はしたくないけどなぁ」

「…………」


 その望みがとても儚いものだとイヴリーンは知っている。

 ユディトが現れなければ、エルファーラン達は恙なく儀式を終了させ、予定された日常を謳歌できていたのは間違いないのだ。


 しかし、それは〈レヴァ=クレスタ〉側の言い分である。こちらとて、望んで儀式の邪魔をした訳ではないのだから。


 その辺りの蟠りを、ユディトは解く気がなかった。

 大き過ぎる力は、平穏にとって最も厄介なものであることをユディトも理解していて、それをこの世界に持ち込んだのは変わらぬ事実。そして既に世界に示してしまったのだから。


「ねえ、イヴ」

「なんだ?」

「アンテ=クトゥン……どうなったかなぁ?」


 不意に発せられた言の葉に、普段の柔和さまるでない。その声色も、胸中の不安を覗かせる弱々しいものだ。


 この〈レヴァ=クレスタ〉に降り立ってから、なるべく考えないようにしていた事実。それはユディトが自分の人生の全てを賭して駆け抜けた、戦いの日々の結末。


「全ての境界門リミニス、それに連なる招喚技術、そして全てをコントロールしていた神苑は間違いなく消滅した。もう二度と、アンテ=クトゥンが世界単位で異世界群に常時接続することはないだろう」

「そう、なのかな?」


 それこそが全ての解決に繋がるのだと信じて、駆け抜けてきた。

 あまりにも多くの悲しみと憎しみを全身で受け止めながら、それでも一歩も退かず前進してきたのだ。


 だが全てをやり遂げた後に、自分は今こうして異世界にいる。話が違う、と叫びだしたい衝動は少なからずあり、しこりとして胸の奥に残っていた。


「我々がこの世界に流れてきたことと、あの屑が画策していたことは別次元の問題だ。そんなに心配しなくとも、お前は自分に課した使命を果たしたんだよ」

「じゃあ……未来に起こるアンテ=クトゥンの崩壊は、免れたんだね」

「ああ」


 心より信頼する相棒にそうハッキリと言葉で告げられ、安堵からユディトは深く長く溜息を零す。


『魔物』から〈アンテ=クトゥン〉の未来を守る為、揺ぎ無い意志を抱いて魔界に突入し、そこで垣間見た真実。

 ユディトは自分が英雄でも何でもなく、ただの大量殺戮者にすぎなかったことを否応無く理解させられた。


〈魔界〉に棲息する獰猛且つ凶悪極まりない『魔物』と信じていた敵の真実の姿は、自分達と何ら変わらない、人間だったのだから。

 そして、崩壊しかけた〈魔界〉を護り、真の意味で数多の世界を救うべく『魔物』は〈アンテ=クトゥン〉に侵略したのだから。


 全ては、数百年後。〈アンテ=クトゥン〉に確実に訪れる不可避の滅びに収束する。

〈アンテ=クトゥン〉から始まり、連結した七十を超える全ての世界群を一度に崩壊させる多元世界同時崩壊現象『カルドロン』。その際に生じる莫大な耀力エネルギーを全て独占しようとする、おぞましき陰謀。


 あまりにも唯我独尊で、子供の我儘とも言える幼稚な全てを取り仕切っていた元凶は、〈アンテ=クトゥン〉と最初に接続した異世界〈神苑〉。その支配者として長らく〈アンテ=クトゥン〉を裏で牛耳っていた、天帝だ。


〈アンテ=クトゥン〉中興の祖とも、現世神とも言われる真に討つべき巨悪の存在を知り、自分の足跡が何を導いてきたかを知ったユディトは、心を決めた。


 崩壊を防ぐ為に、駆け抜けようと。


 世界の連鎖崩壊の引き金となる全ての『境界門』を破壊し、〈アンテ=クトゥン〉を数多の世界群から完全に切り離す。そして裏で全てを操ってきた天帝を殲滅する為に、仲間と共に築いてきた一時の平和を、自らの手で覆そうと。


 例えそれが〈アンテ=クトゥン〉全てを敵に回すことだとしても。

 帰るべき場所、力を求めたその理由。今までの全てを失うことになろうとも。


 それを成せるだけの力が自分にはあり、そもそも自分が望んでいる平和というものは、世界が存続することで初めて成り立つものなのだから。


 だからこそ、魔界……〈キルリ=エレノア〉から〈アンテ=クトゥン〉に戻った時。〈キルリ=エレノア〉と繋がっていた最新の、第七十二號境界門『アンドロマリウス』を破壊した瞬間。故郷たる世界で送れる筈だった人生は捨てた。

 ……それがまさか、まったく別の異世界で再び拾うことになろうとは夢にも思わなかったけれど。


「例えアンテ=クトゥンの者が未来永劫その事実を知ることがなくとも。誰にも理解されることはなくとも……お前は紛れもなく、アンテ=クトゥンを救った。私は、私だけはそれを知っている」


 自問と、それに対する回答を思考の中で巡らせていたイヴリーンは、ベットに横たわったユディトがウトウトしていることに気が付く。


「少しは寝ておけ」

「でも」

「神器の調律は私にもできる。なにせ私は最初のイルヴァーティだぞ」

「そう、だったね……じゃあ、任せるよ」

「ああ、おやすみ」

「おや……すみ……」


 優しげな声韻に誘われるがまま、程なくして寝息を立てたユディト。


 意識が覚醒している間は、常に神器を調律し続けなければならない。そうしなければ、溢れ出る大きな力が世界の摂理を駆逐してしまう可能性があるからだ。

 それは過去の勇者達の誰もが通った路で、そして誰もが脱落していった茨の道。

 神器への適性が、元始たるイヴリーンを除いて最たるユディトとは言え、未だ途上であるが故に心身に掛かる負荷は余人には想像できないし、共感も理解もできないだろう。




 やがて部屋の中の明かりは消え、静寂が訪れる。

 だがそれを由としないのか、僅かに開いたカーテンの隙間から、冷たい二つの月明かりが静かに射し入ってきた。

 無粋極まりない光の帯が動き、規則的な寝息を漏らす幼さを残した顔に飛び掛からんとすると、不意に割って入った影によって遮られる。

 代わりにより深い陰影に覆われた頬に瑠璃色の髪が垂れ、輪郭に沿ってハラリと滑り落ちた。

 そしてその軌跡を、白くスラリとした指先が労わるようにそっと撫でる。


「……今は少し休みなさい。眼が覚めたら、また再び終わりのない流離いヴァーヴズの時間が、はじまるのだから」


 夜闇に落ちた部屋の中で、二つの絢爛な金色の眼は、慈しむようにユディトを見守っていた。

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