第16話 流離う者(1)
〈レヴァ=クレスタ〉にて最大面積を誇るセントヴァレス大陸。
実に様々な生物が存在している巨大な大地には、この世界の知的生命体の凡そ九割が暮らしていると言われている。
そして〈レヴァ=クレスタ〉の知的生命体は人間種と獣精種の二つに大別され、それぞれは独自の文化圏を形成しながら、柵の多い世界に営々と己が生を刻んでいた。
そんな両種族が、友好的な関係を結べているかについて問われれば、否である。
互いの存在を認めこそすれ歩み寄ることをせず、互いに干渉しないという姿勢を貫くことが、悠久よりこの世界に敷かれてきた暗黙の了解であるからだ。
故に、セントヴァレス大陸を東西に二分する、前人未踏の霊峰ヴァレンスの存在は、両者を隔てる絶対的な壁として君臨し、二つの領域の調和を堅持するのに大きな役割を果たしていた。
大陸の西域は人間種の領域として五つの大国が人々を統治しているが、その内の一つ。
人間種領域東部を版図とするアストリア王国。
霊峰ヴァレンスを後背に飾る首都アルスベルグの最奥に泰然と佇む王城の一室では、夜の帳がすっかり降ろされた刻限でありながら、市井の活潤溢れる喧騒とは別種の熱気に包まれていた。
「今年の収穫祭には、エフィデル教国の聖女殿がいらっしゃる予定だ。現状における開催時期の目処は立っているか?」
「例年通りの時期と日程で行うよう、先方と話を進めております」
「百獣帝国ベスティアとの交誼武闘祭についてはどうだ? 今期はあちら側の主催だが、誰を代表として送るか選定の進捗状況は?」
「騎士団、冒険者ギルドからの推薦を中心に選定作業を進めております。ただ多方面から、『勇者』の抜擢を推す声が強く……」
「それは……厳しいと言わざるを得ないな。不用意に『勇者』を動かすことは、連合内の力のバランスに影響を与えかねん。魔王領に派遣した『勇者』カリオン殿だけでも精一杯なのだ」
「今期の『天色託宣』における選抜でしたね。他の『勇者』達は軒並辞退したと聞いていますが」
「他国の、な。シュレイク殿はこの国の護りの要であるし、カリオン殿は、自ら率先して重責を担って下さったのだ。その事実を間違えてはならぬぞ」
「申し訳ありません」
「武闘祭についても、べスティア側の予定とも併せて話を詰めなくては」
「催事もそうだが、魔境の現状はどうなっている? ガルガンダ王国南方長城への遠征隊はそろそろ交代時期だろう? 新たに派遣する部隊の選定作業は進んでいるのか?」
「軍部に確認したところ、魔境は現在凪期に入っているようで、今は穏やかだということです。部隊の編成作業は順調なんですが……一部の部隊が、過度に増援を要請してきている、と報告が挙がっています」
「おいおい、編成を偏らせる訳にはいかないだろう。どこの部隊だ?」
「マディーレ辺境伯の部隊です」
「かの卿か……少しキナ臭いな。背後関係を洗わせておけ」
「かしこまりました」
巨大な円卓を、八人の人間が囲っていた。
青年から壮年と幅広い年代の者達であるが、いずれも仕立ての良い衣服を纏っていることから、相応に高い身分の者であることが窺い知れる。
事実、彼らはこの国の運営に携わり、それぞれに重い責任を負う高位文官達であり、現在抱えている案件について慌しく言葉を投げ掛け、拾い合っていた。
そんな折。部屋の入口に控えていた近衛兵が、恭しく靴を鳴らす。
すると荘厳な造りの扉が重々しい音を発てながら開かれ、その奥より堂々とした気配が部屋の中に入ってきた。
薄暗い闇を従えて現れたのは、若く精気に満ちている面差しの偉丈夫だ。
豪奢かつ重厚な衣服などものともせず着こなしている様子から、その体躯は筋骨隆々たる逞しさ宿していることを容易に想起させる。
この人物こそ、アストリア王国国王ラリューゼ四世であり、アレスティーナ諸国連合の若き盟主である。
今ですら四十代前の若さであるが、更に若かりし頃は王太子でありながらも騎士として先頭に立って戦場を駆けてきた勇将であり、その豪放磊落な性格は力を信奉する獣精種にさえ受け容れられ、古くより反目し合っていた両種族の融和に一役買っていた。
間違いなく歴史に名を残すであろう名君たるラリューゼは、一様に立ち上がり敬礼を行う文官達を威厳ある眼差しで一瞥し、ゆっくりと手を翳す。
楽にしてよい、という無言の意思表示に文官達が応じたのを見計らうと、上座にゆっくりと腰を下ろし口を開いた。
「遅くなってすまぬ。議事は恙なく進んでおるか?」
「は。概ね予定通りです」
「そうか。では続けてくれ」
コクリと頷いた壮年の男性は、この国の大臣で実務を取り仕切る中心人物だ。その彼に促され他の文官達から各種の報告が再開し、忙しない声が縦横に宙を舞う。
王はただジッとそのやり取りを見据え、聞き入っていた。
報告と議論が終りの気配を漂わせた頃。
一同の中で最も若い青年が、遠慮がちに王に視線を送りながら尋ねた。
「ところで陛下。今回の参集に遅くなったのはやはり、最新の『天色託宣』に絡んだことでしょうか?」
「うむ。皆に話さなければならないことであるが、方々に少し確認を取っていてな。それで時間が掛かってしまった」
本来ならば臣下が王に遅刻の理由を尋ねるなど、言語道断な不敬に当たるが、ラリューゼはそんなことで一々咎める気などない。この場でそんな吊し上げなど、時間の無駄でしかないと考えているからだ。
ラリューゼは懐より取り出した羊皮紙の束を解き、順に広げて円卓の中央に並べていく。
「まずはこれを見て欲しい。先刻、アガルタの『魔王』殿から星導伝信によって送られてきた、此度の
「こ、これは……」
「な、なんだこの多さは!? 尋常ではないぞっ!」
「ちょっと待ってください! こんな短期間に何度も『消散帷張』を展開したら流通に悪い影響が……いや、各種の産業に重大な支障がでる可能性がっ」
「それだけではない。農作物、或いは人体そのものに影響がでるやもしれん」
言われて紙面を覗き込んだ面々は、即座に次々と顔色を変えて悲鳴を挙げていく。
しかし、王はそれを咎めなかった。無理からぬことだと思えるのは、実際に自身も通った路だからである。
紙の上には表のようなものが描かれ、その中に数字とまばらな間隔で数字に丸が記されていた。
それらは暦で間違いなく、丸で囲われた数字は、魔王によって予測された『凶獣』が現われる日程である。よくよく見れば細かく数字が書いてあり、それらが時刻であるとその場に居る全ての者が即座に察した。
「『凶獣』の出現回数は途轍もない多さになっていますが……陛下。これは一体?」
「一体も何も、今期の『凶獣』は、その周期で現われる。それだけのことだ」
「それだけ、とは……陛下! 明らかにこれは異常です。数年分が今期に一挙に押し寄せているようではないですか! こんな出現率の高さなど、過去に例を見ない!」
「まさか誤りがあるとっ?」
「た、確かに。今期からは新たな『魔王』が、『天色託宣』を執り行うと事前に通達があった」
「そ、そうだな。その新たな『魔王』もまだ齢十六の少女と聞く。その若さ故に見誤った、という可能性はないとも言えんだろう」
「何を悠長な! 『天色託宣』に失敗など許される筈もない! これは早速抗議の声明を出すべきです!」
加熱する文官達の口々から、些か聞き逃せない過激な発言が多々見られた。
平時は理詰めで物事を捉え、冷静に対処することのできる専門家であるが故に、ある種の箍が外れた現実を前にして、思考が飛躍してしまっているのだろう。
「鎮まれ、皆の者」
だからこそ王は配下を宥めるように手を翳し、一言冷静に発した。
声色に威厳を込めれば、それだけで場は水を打ったかのように静まりかえる。
「何か勘違いをしているようだが、これまでの例に準えて『凶獣』が現れてくれると誰が決めた? ……そのような事実はない。改めて確認しておくが、前提として『凶獣』は我ら人智が及ばぬ領域の存在である。それを魔王殿の予見を以ってして、ようやく我らにも
そう。『凶獣』に対処する手段はたった一つ、『消散帷張』による自身の隠蔽でやり過ごすことである。
しかしこのバリアは、リスクを同時に抱えなければならない機構であり、展開し続けることはできない。
人間に稼働エネルギーたる『星灼』を無制限に用意できる訳でもなく、よしんば用意できたとしても、『消散帷張』を張り続けることでの世界への悪影響は免れないのだ。
ならば展開のタイミングを絞る他に手段はないのだが、それを実現のものとするのがこの世界で『魔王』のみが行える『天色託宣』である。
『魔王』の持つ未来視、『天色託宣』による『凶獣』出現時期の予測には疑いの余地がない。
この事実は、『魔王』こそがこの世界を水際で支えている事実に他ならなかった。
「新たな魔王殿の予見を、我は疑っておらぬぞ。今回のは出現時刻まで記しているではないか。それはこれまでにない我らにとって有益な点である。『凶獣』はその予定で現われる。故に、それに対処すべく万事を調整せよ」
「し、しかしこれではあまりに急な」
「それを行うのがそなたらの務めであろう? 重要な祭事を除いた全ての国事を休止しても構わん。可能な限り、民の為になる調整を我は望む」
「はっ!」
王に頭を下げられては、臣下としては頷く他ない。それだけ王に信頼を寄せているならば尚更だ。
「陛下はこの経過を見て、遅れた、と?」
「それもある。この点について、他国の首脳とも星導通信で臨時で会談したが、いずれも同じような状況であった。特にヴァリガン帝国では新たな『魔王』のまやかしだとして大々的に糾弾しようとしていたな。勿論、同盟盟主として思いとどまって頂くよう説得はしたつもりだが……」
あまり納得されている様子ではなかった、と続ける王。
「エフィデルの聖女殿の見解は?」
「……いつも通り、全ては
「それは……」
「現地にいる勇者カリオンからの報告はございましたか?」
臣下から王へ矢継ぎ早に質問が重ねられるが、通常では不敬と取られ、処罰の対象になるだろう。
だが『天色託宣』の結果は、各国の首脳自らが受けると古からの条約により定まっていて、それに纏わる事由ならば不問に処されるのが、人間種国家の中での常識であった。……常識を抜きにしても、ラリューゼは罪に問う気など更々ないのだが。
「いや、カリオンからは何もなかった。気になるもう一つの点がそこにある」
「と、仰られますと?」
「アガルタは今、極端な通信制限をしているようだ。魔王領に常駐している諸国の通信士に、今回の『天色託宣』の結果を本国まで転送する、以外をさせないようにしているらしい」
「それは……どういうつもりでしょうかね? 彼らは、その立場を忘れてしまっているのでは?」
「そう目くじらを立てるものではない。情報を秘匿、あるいは制限しなければならない理由ができた、と思えばな。その程度のことなど、どの国にも多かれ少なかれあるだろう?」
「それは、そうですが……陛下はその理由をご存じなので?」
「ああ。通信士が機転を利かせ、暗号化した文面を『天色託宣』の結果に織り交ぜて送りつけてきてな。そこにはただ一文、こうあった――凶獣が討伐された、と」
場は一瞬静まり返り、誰かが乾いた笑い声を挙げる。
それに引き摺られ、他の者にも伝播していき、先程まで充満していた火急の緊張感が霧散していた。
「へ、陛下。ご冗談を」
「そ、そうですよ。流石にそれはあり得ない。公の通信でそのような戯れを許すなど、許されませんぞ」
信じたくない、という面々の本心が如実に表情に浮んでいた。
だがラリューゼは至って真剣なままで、笑み一つどころか表情そのものが抜け落ちているかのようだ。
「皆の動揺は良く判る。我も暫く目を疑ったからな。それとなく他国にも尋ねてみたが、その点については報告を受けていないようだった」
勿論、言葉通りにそれを信用するつもりは毛頭ない。相手は隠してとぼけている、とラリューゼは確信している。腹芸の一つでもできなければ、国を治め、他国と渡り合うことなど到底かなわないのだから。
故に、諸国も既に同じ情報を得ている、という前提の下で今後の対処を進めていくことをラリューゼは決めていた。
「これは、尋常ではない事態、ですね」
「ああ。『凶獣』を討伐した存在……そんなものが実在するならば、この世界の盤面は根底より覆りかねないことになる」
「故に、その真偽を確かめる必要が出てきた、と」
「然り」
「現在の魔王領アガルタが辿るだろう予測航路は……絶海ゼラクデスの上空ですね。この領域は通信圏外でもありますし、新たな諜報員を送り込む手段がありません。今後、彼の地が人類圏に接触する予定は、三週期後のガルガンダ王国の海上都市アダルフィードになりますね」
「そうだ。そこで――」
丁度その時。計ったかのようなタイミングで、会議室のドアが小気味よいリズムで叩かれた。
間を置かずして開かれた扉の先から、今度は麗しい少女が実に堂々とした佇まいで入室してくる。
仕立ての良いドレスに似合わぬ美しい細剣を佩く少女の目元は、ラリューゼとの血縁を強く感じさせ、やはり強い意志の力が秘められた青碧の双眸が、まっすぐに王に向けられていた。
「第二王女、アトルミリア。招致に応じました」
「うむ。アトルよ。汝に命じる。魔王領が補給の為にアダルフィードに停泊した際。勇者カリオンと接触し、この凶獣を討伐した者についての調査を行ってまいれ。可能ならばこちら側に引き込み、もしもこちらの仇となるのであれば、その時は――」
「御意のままに」
恭しく傅いた王女アトルミリアは、凜然とした声で揺らぎなく答えていた。
※
「まさか……こんなものまであるとは、ねえ」
(流石は異世界といったところか)
『凶獣』と熾烈な空中戦を繰り広げていた時。
どうにも重力による鉛直方向とは別の、水平方向へのベクトルを感じていたユディトは、〈万魔殿〉が今日という史上最悪の日を乗り越えたことでの事後処理で慌しくなり、監視の目が薄くなった今を使って確認に来ていた。……具体的には〈天環橋〉よりも更なる上空の遙かな高きに登りつめて、魔王領アガルタ全域を見下ろしたのだ。
そうしてすぐに生じた疑問は氷解し、魔王領アガルタと呼ばれる場所が、洋上を飛行する浮遊大陸だった事実を知る。
(浮遊大陸、か。なかなかどうして、ロマンがあるじゃないか)
「ロマン……ねえ」
紅と蒼の二つの月明かりで、艶かしく夜光に彩られた大地は広大だ。
〈万魔殿〉を有する王都は浮遊大陸中央の渓谷地帯にあるが、その外側に視線を動かせば、大陸の果てまで鬱蒼とした森林地帯が続いていた。他にも規模の広さで劣るが、砂漠地帯やなだらかで緑豊かな平原地帯、大陸中心とは違った毛色の山岳地帯など……実に様々な表情を夜空の下に呈しているではないか。
まるで一つの世界の縮図のような在り方であったが、それらの中で一際異彩を放っていたのは、〈万魔殿〉を中心に丁度東西南北四方の端点に位置する場所に、巨大な尖塔が建立されていることだろう。
遠巻きに見る限りは単なる石塔なのだが、それだけには留まらない雰囲気を纏っていて、ユディトにして警戒を抱かせる程の
「ロマンがあるかは兎も角、浮遊大陸といっても、あの粗大ゴミの〈
(あんな穢らわしい屑の住み処と一緒にするな)
「まあ、その感想には同意するけど、さ」
眼下で夜闇を彷徨う大陸を見た時、あまり思い浮かべたくない存在を記憶の底から浮揚させてしまったユディトは、つい渋面を浮かべてしまう。
今、自分達が立っている世界〈レヴァ=クレスタ〉に来る直前までいた、最終決戦の地、〈神苑〉。
それは惑星〈アンテ=クトゥン〉の大気圏境界上に出現し、四百年以上も接岸し続けた、最初の異世界大陸である。
その規模は、〈アンテ=クトゥン〉の世界地図上の大陸の一つ丸ごと切り抜いたかのように巨大で、凡そ地上の者が空を見上げれば、必ずと言っていいほど視界に入ってきたものだ。
その偉容にある種の神性さを感じた人々が、信仰の対象として崇め奉るのに然程の時を擁しなかったが、真実を知っている今のユディトからすれば、目障り甚だしい汚物にしか見えなかった。
彼の地にて、天帝という裏で全てを牛耳っていた存在を滅ぼした時に、地上に極端な被害が及ばぬよう大半を破壊したのだが、その崩壊の余波に巻き込まれてユディトは〈アンテ=クトゥン〉の重力圏より弾かれ、無限に広がる宇宙に放り出されてしまったのだ。
……その後、こうして未知の異世界に流れ着くなど夢にも思わなかったが。
「ここまで自然を抱えている浮遊大陸って、存在し得るものなのかな? 〈神苑〉なんて単なる岩の塊だったけど」
(異世界だからと言ってしまえばそれまでだが、明らかに通常の物理法則とは異なる超常の作用が働いているな。大地から離れた時点で、その土地の
「完結する流れ、か……そもそもこれ、推進力とか浮力とかどうなっているんだろうね?」
(流石に現時点では私も何も言えないな)
「そりゃあ、まあそうだけど……」
全景を眺めれるよう、かなりの距離を取ることで気付いたのだが、眼下に睥睨できる大陸の地盤部分は、大地を直接スプーンで掬い取ったかのような、非常に滑らかな曲面を成している。
何のしがらみのない風が常に暴威を振るっている上空を高速移動しているにもかかわらず、地盤部分から岩塊やら砂が零れ落ちる様子がないのは、やはり何らかの不可視の作用によるものだろう。
「案外、超巨大な飛行戦艦とかの類いだったりして」
(可能性は……ある。あの『消散帷張』とかいうバリア装置の存在を考えれば、な)
「やっぱりあれって、オーバーテクノロジーって奴なんだよねえ」
(ああ。あれらはこの世界で自然に成熟して生まれたものではないのかもしれない……まあ、我々はこの世界に来たばかりだから全てが憶測の域を出ないが)
天使兵器によって発せられる『壊性耀光』のバリア転用。
〈アンテ=クトゥン〉では未だ実用化さえされていない技術だ。いや、『魔物』に対抗する大量破壊兵器の創造を第一に据えた研究開発であった為、防御機構としての利用法など、そもそも発想さえなかったことだろう。
その点、この世界では既に実用化していて、かなりの年月が経過しているとのことだ。
どこまでが真実かは知らないが、それを日常の一部に完全に取り込んでいる事実に、ユディトもイヴリーンも瞠目するばかりである。
「いったい、なんなんだろうねえ。この世界は」
(細かいことはこれから少しずつ調べていけば良いだろう。今の我らには、時間は有り余る程にあるのだから)
「それはまあ、そうだけどさ」
夜闇の中で一際輝く虹色の円陣の上で胡坐を掻きながら、嘆息するユディト。その姿は、傍目からは当人一人だけであり、発している言葉の全ては独り言に過ぎない。
しかしユディトが呟く声は余さず空間的な距離を越えて相棒であるイヴリーンに届いていて、二人は最初から念話で応酬をしていたのである。しかも遠く離れた場所にいるイヴリーンに、より正確な状況理解を促す為に、ユディトの視覚を共有さえして、だ。
今この場にいないイヴリーンは、城の者達に怪しまれぬよう〈万魔殿〉で割り当てられた部屋の一つに留まって、周囲の様子を窺うことに努めていた。
(ん?)
「どしたの?」
(巡回の兵が近付いてきている。すぐに戻ってこい)
「ん、わかった」
円陣の上で立ち上がり、一度大きく全身の筋を伸ばしたユディトは、虚脱する意識の端で何かに気付いたのか、徐に夜光に満たされた空を仰ぎ、そのまま数呼吸分の間ジッと見つめていたが、やがて踵を返す。
流れる風に運ばれてきた雲が夜天とユディトの間に割って入り、空を遮ること、数瞬。
再び双月の明るさが地上を照らし始めた頃。
既にその場には誰の姿もなく、いや、初めから何も存在していなかったかのように、冷たく凜とした風韻だけが悠々と夜空を駆け回っていた。
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