第15話 凶獣(4)

「……?」


 来るべき筈の痛みがいつまで経っても来ないことに、エルファーランはきつく閉ざした瞼を僅かに緩める。


 僅かに開かれた視界に飛び込んでくる光は眩く、鮮烈だった。

 輝いてさえ見える空に雲が殆ど浮んでいないのは、今の季節が乾季だからであり、それだけに地上から舞い上がる砂埃は、どこまでも際限なく上昇してくる。それこそ、この魔王殿の屋上庭園にすら、だ。


 故に吹き荒ぶ風は潤いに飢えていて、湿った眼や喉を狙って不躾に撫で回してくる。


「わ、わらわは……いったい?」


 霞掛かった思考は未だハッキリせず、全身の感覚もまた、まるで揺り篭に抱かれているかのような浮遊感に支配されていた。

 足を地に着けた時の確かな反発が感じられなければ、どうしようもない不安に駆られてしまうのは、それが大地に縛られて生きる者の背負った業であるからだろうか。


 現実味に欠ける感覚の覚束なさに、エルファーランの思考は千々と乱れたままだった。


「ええと、もう目を開けて大丈夫ですよ」

「ほへ?」

「間一髪でしたねえ。間に合って良かったです」


 ポツリと零した独白に、まさか返事が来るとは思っていなったエルファーランは驚き、その立場にそぐわない呆けた声を挙げてしまう。


 やけに近くに感じた声は柔らかで、以前にもこんなことがあったと既知感に襲われて目を白黒させたが、実際眼前では、見慣れぬ青年の顔がほっとしたようにこちらをのぞき込んでいたのだから、エルファーランも我に返らざるを得ない。


「は? き、貴様はっ!?」


 エルファーランは、白髪の不審者であるユディトに横抱きにされていたのである。


「貴様は、凶獣に弾き飛ばされて……いや、妾は……生きて、いるのか?」


『凶獣』と相見えた場合、この世界の生物の生存率はゼロである。悠久より連綿と重ねられてきた統計を前にして、望みを持てと言われて持てるほど無知でも、幼くもない。

 もう選択すべき手段がないとの諦念から、せめてもの抵抗として決して声を挙げてやるものかとエルファーランは覚悟を決めたのだったが……こうして見事に肩透かしを食らうことになった。


 いや、寧ろそれは喜ぶべきことなのだが、この世界が延々と繰り返してきた歴史を思えば、そう簡単に受け容れられる筈もない。

 逆に自身は既に凶獣に食われていて、今の体感の全ては、最後の足掻きが潰滅の瞬間に見せた幻なのだと言われた方がまだ納得できる。


『凶獣』に襲われながらも生きている、という事実は、それ程までに重く大きいものなのだ。


 しかし異邦人たるユディトに、その感覚などわかる筈もない。


「はい。間違いなく夢じゃないですよ。試しにほっぺでも抓ってみましょうか?」

「い、いらぬわっ!」


 実に能天気なユディトの様相を目の当たりにして、ようやく思考が真っ当に働き始めたエルファーランは、心底厭そうに表情を歪めて首を振る。

 そうこうしている内に、生きていることの実感が沸いてきたからか、安堵に大きな吐息を零していた。


 その様子を満足げに見つめたユディトは、呆然と立ち尽くしているシエルの前に立ち、腕に抱えていたエルファーランを差し出す。


「はい、シエルさん」

「お嬢様!」

「し、シエルっ」


 引き剥がすようにエルファーランを奪うシエルの姿から、先程まで抱いていた毅然とした麗しき女騎士という印象が、妹を溺愛する過保護な姉、というものにすり替わってしまいユディトは思わず苦笑を浮かべてしまう。

 だがそれを指摘して相手を怒らせることはせず、シエルに支えられてエルファーランが自らの両脚で立ったことを確認し、踵を返した。


「貴様……何故じゃ? 何故妾を助けた?」


 その背に投げ掛ける問いには、戸惑いに満ち満ちていた。

 原因の真相はさて置くとしても、先程から殺しに掛かっていたのは事実である。一応の敵対体勢は解除したものの、そう簡単に割り切れる話でも、解けるような蟠りでもない。


 つい先刻、カリオンが抱いた困惑と同じものをエルファーラン、いや、その場でやり取りを聞いている誰もが思っていた。


「そんなの、決まっているじゃないですか」


 そんな張り詰めた空気の中。ユディトは首だけで振り返り、にっこりと笑う。


「目の前で化け物に襲われている人がいたら助けますよ。それが泣いている子だったら尚更、ね」

「わ、妾は泣いてなど……?」


 指摘され、初めてエルファーランは自らの双眸から止め処なく溢れている涙に気がつく。

 極度の緊張と死の恐怖からの解放。狂死しても何ら不思議ではない『凶獣ぜつぼう』と、間近に対面することで心身に掛かる負荷は余人には想像を絶していて、それが外されたことによる弛緩の程度もまた計り知れない。


 嗚咽こそ零さなかったものの、エルファーランは急に熱が感じられるようになった目の奥から、滂沱として零れる涙を止められそうになかった。

 それを自覚した途端に全身が震え始め、手にした宝杖を落としてしまい、掻き抱くように両腕を抱きしめる。


『魔王』が人前で涙を流すなど、弱さを見せることなど平時では言語道断だが、誰しもそのことに否は唱えられなかった。

 王と臣下という立場上のこともあるが、それ以前にエルファーランはまだ少女の年齢域を脱しておらず、何より直面していたのはおわりの象徴である『凶獣』なのだから。


 杖を拾い、そっと後ろから身体を支えてくれるシエルの手に力が篭る。

 エルファーランにはそれが少し痛く、そして温かく感じられていた。


「とりあえず、まだ安全とは言い難いんですよね。あの蜘蛛を思いっきり蹴り飛ばしましたけど、たいして効いていないようですし」


 軽い口調でそう綴るユディトが視線を動かした先では、輝ける結界の一部が破れ、その遥か先の岩山に何かが激突したかのような大穴が開いていた。

 その穴は深く、墨汁でも流し込んだかのように漆黒であったが、よくよく見れば貫通してしまっているのか、黒の中にぼんやりと光の点のようなものが見えている。


 その様は、ユディトが放った蹴撃の威力がとてつもなく高いということを示していて、それを見た者達は戦慄を露にした。

 もし自分があんなものを受けたのならば、命はなかっただろうと否が応にも理解させられたのである。


「お前、一体何をしたんだ?」


 引き攣る頬を無理矢理戻し、カリオンは問う。

 カリオン達が見たのは、『凶獣』がエルファーランに噛み付かんとした刹那。地上に落下して命を落とした筈のユディトが虚空より唐突に現れて、真横から『凶獣』の腹部を蹴り飛ばした瞬間だ。

 それもその蹴撃の一瞬を見極めたのではなく、ユディトが足を振り抜いたままの体勢で現れたことと、ほぼ同時に『凶獣』が彼方へと吹き飛んだという結果を見て、そういう結論に到ったに過ぎない。


 そして誰一人として動けない中。

 半ば失神しかけて力なく背後に倒れたエルファーランを、ユディトは瞬き一つの間で背後に回り込み、抱き止めていた。


「何をって、単純に横から蹴り飛ばしただけですよ。見ていたでしょう?」

「……いや待ってくれ。どうして凶獣に触れられるんだ!? そもそも、お前はここから落ちた筈では?」

「どうして、と言われましても……まあ、色々理由がありますからねえ。どこからどう説明したらよいものか」

「おいっ、ふざけないでくれるか!?」


 のらりくらりと返すユディトに、思わず憤慨するカリオン。

 その怒りにも似た烈しい感情は、眼前で現実に起きた事象を自身の中で消化しきれていないからなのが一目瞭然で、ユディトとしても見覚えのあるものだ。


 いずれも〈アンテ=クトゥン〉において、初めて魔物を斃した時以降。似たような追求を何日も延々としてきた者達と酷似していたのである。


 だが、そんな感情を持つことをユディトは悪いとは思わなかった。

 理解できないものと相対した時の反応など、世界の垣根を越えたところで大差ない。その上、精神の安定にはそういった吐露も必要である、と体験として知っているからだ。


 しかし、懇切丁寧に受け答えするには、今は兎にも角にも時局が悪い。


「まあ落ち着いて下さいよ、カリオン君。君の気持ちはなんとなくわかりますが、今はそんな議論をしている場合じゃないでしょう? 僕はあの蜘蛛を蹴り飛ばしただけなんで、いつ戻ってくるかもわからないんですから」

「……それは、そうだが」


『凶獣』からの攻撃を受け、『凶獣』に痛打を与えた当人にそう穏やかに返されては、カリオンとしても口を噤むしかなくなる。……納得がいかない、という感情の色は相貌から拭いきれてはいなかったが。


 それに小さく苦笑で返し、ユディトは袖で涙を拭っているエルファーランを見据えた。


「それよりも、エルファーランさま。確認したいことがあります」

「……なんじゃ?」

「さっきまでの君の口振りから察するに、あの蜘蛛は、本来今日という日に現われるものではなかったんですか?」

「う……うむ。先代の『魔王』が執り行った『天色託宣』では、まだしばらくは出現しない予定じゃった」

「その『天色託宣』というのは?」

「魔王様による、『凶獣』の襲来時期を看破する未来予知です。その精度は完璧で絶対。過去に一度たりとも外したことなどありません」

「絶対に外れない未来予知……か」


 シエルの説明を改めて自らの中で反芻し、ユディトは咀嚼する。


 この世界の生命には抵抗すらできない『凶獣アヴサーダス』という存在。

 不条理極まりない化け物が往古より恒常的に出現するのならば、本来この世界の生命などとうの昔に絶滅していたとしても不思議ではない。


 だが実際はそうではなく、こうして営々と生を刻んでいるのだから、何かしらの対抗手段が確立されているのだと思っていたが、そこで未来予知の登場である。

 周囲に展開されている、危険極まりない壊性耀光を発する結界の存在も併せて考えれば、おぼろげながらに彼らの自己防衛の術も見えてくるというものだ。


 そうして導き出された結論に頷いたユディトは、伏せていた瞼を持ち上げた。


「僕は聖人君子でもなんでもないので、ここでの全てを背負うつもりはありません。何度言われても、あの場所に現れたのは事故だと言いますし、君たちの儀式の邪魔をするつもりなんて毛頭なかったと主張します」

「……今はそんな弁明なぞしておる場合ではないぞ」

「そうですね。ですが、既に確定した事象に変化が生じてしまったのなら、その一因がこちらにあることを僕は否定し切れません……僕とは、そういう存在ですから」

「な、なんじゃと!? それはどういう意味じゃ!!」


 あまりにも意味深な言葉に、エルファーランはいきり立つ。

 発せられた言葉が正しくその通りならば、『天色託宣』を覆して『凶獣』が現われたのは――。

 しかし、心底申し訳なさそうに連ねるユディトの、どこか寂しげな影のある笑顔を見て、喉を通ろうとしていた言葉を呑み込んでしまう。


「ですので、その責任は取らせていただきます」

「何を、するつもりじゃ?」

「あの蜘蛛を……殺します」


 自身が蹴り飛ばした方角を見据えながら、何の気負いもなくユディトは綴る。

 そんなユディトの纏う雰囲気が激変していたことで、イヴリーンを除くその場にいる誰もが否定に叫ぶことすらできなかった。


「シエルさん。さっきの影に潜る術は使えますか?」

「……いいえ。先ほどから試していますが、どうやっても使えません」

「やっぱり、あの蜘蛛がこの辺一帯の耀力場を乱しているんですねえ。あの亀裂の方からも、ずっと耀力が流れ込んでいるようですし――ねっ!」


 突如としてユディトが上体を一歩退かせた瞬間。

 何時の間にか距離を詰めていた『凶獣』の、鋭い前脚がユディトを殴殺せんと上方より叩き付けられていた。

 万魔殿全体を打ち揺らさんばかりに唸りを挙げる一撃を、だがユディトは咄嗟に両腕を交差させて受け止めている。


 まるで雷が落ちたかのような大音が轟いたが、質量差からユディト自身がその場にめり込んだ様子はなく、屋上庭園に亀裂も破損も生じてはいない。よくよく見ればユディトの両足には、先程空中を駆けた時に生じた虹色の円陣が浮んでいて、極々僅かだが宙に浮いていているようだ。


 しかし衝撃は周囲に拡散し、大気を強かに揺らして広がる無色の圧力が、その場にいる者達に容赦なく襲いかかり、後退させた。


「なっ!?」


 目の前の現実に、剣を構え直したカリオンは息を呑む。

 驚きは、遥か彼方まで飛ばされた筈の『凶獣』が一瞬にしてこの場に割って入ってきたことか。または、万魔殿そのものを破壊せんばかりの一撃を、ユディトが簡単に防いだことか。


 驚かされてばかりなのは、それだけ常識との乖離が顕著であることの顕れである。


「いきなり……びっくりするじゃないかっ!」


 脚撃を防いだユディトは、逆に凄まじい反応速度で蜘蛛の懐にもぐりこみ、蜘蛛が突き出した脚を戻すよりも、他の脚を動かすよりも早く拳を振り上げ、八つ眼の内の一つを殴打で叩き潰す。


 すぐさま腕を引き抜いて、血液すら出ない眼窩を踏み付けては跳び上がり、充分に捻転させた蹴撃を人型部分の腹部に見舞った。そして同時に、右肩の付け根を力強く掴んでは握り潰し、そこを基点に後方宙返りを行って、ついでと言わんばかりに頭部を蹴り上げる。


 やがてふわりと軽やかに着地しては、その反動を利用して再び前に出だし、蜘蛛の真下に滑り込んでは、その下腹部を思いっきり蹴り抜いた。


 それは一瞬の出来事で、傍から見てれば『凶獣』がいきなり総身を打ち揺らした挙句、大空へと弾き出されたことだろう。


「む、今のも効いていない?」


 空中に高々と吹き飛ばされた蜘蛛は、その鋭くしなやかな八つの脚をピンと広げ、張り巡らせた巣に立つが如く体勢を整えていた。

 その動きに澱みはなく、これまでの数多の連撃も堪えていないようにしか見えない。


「それじゃあ、これなら」


 痛覚が鈍いのか無いのか判断に迷う蜘蛛を見据えたまま、ユディトは徐に手を頭上へと掲げる。

 すると次の瞬間。何も持っていなかった筈のユディトの掌に、漆黒の剣が握られていた。


 絶対的な破滅をもたらす滅びの刃を、そのまま頭上高く構え、振り下ろす。

 それは恐ろしく軽やかに、滑らかに。

 力任せに薙ぎ払うのではなく、ただ空気の流れに沿わせるような柔らかな剣閃だ。


 音すら発てない静かなる閃きの一瞬後。

 ユディトが振り抜いた剣の軌跡から糸状の漆黒の閃光が一直線に発せられ、『凶獣』が出現した亀裂を含めた空や大地に吸い込まれていく。


 そしてそれが何の影響も及ぼさぬまま、風景に溶け消えたかと思った直後。

 世界の深奥にまで到達した黒線が弾け、一気に膨張しては、縦一文字の裂け目を世界に刻み込んだではないか。


 翡翠の大空を割るが如く断裂した空間の先は、先刻『凶獣』が出した極彩色の亀裂とは全く趣も性質も異なる、暗黒の虚無。


 全てを呑み込むかのような無彩にして純然な黒を前にして、大気が恐れ戦き震撼し、大地が叫び喚いて鳴動する。

 周囲の空気が大量に、急激に空に引かれた黒線へと吸い寄せられ、大気に舞う砂塵は元より小さな石礫から巨大な岩塊さえもが、軽々と持ち上げられ遥か天涯へと消えていった。


「く……な、なんという力じゃっ!?」

「まさか、こんなことがっ」


 ただただ尋常ならざる現実を目の当たりにしながら、屋上庭園にいた者達は、自身も吸い込まれないように武器を突き立てしがみつき、その場で蹲ることで抗う他ない。


 やがて、世界の終焉を思わせる悲鳴は数秒もしないうちに収まったのだが、悠然と立っているのはユディトとイヴリーン。そして『凶獣』の三者のみ。

 剣撃を放った張本人であるユディトや、その後背に立つイヴリーンは兎も角。『凶獣』はユディトの斬撃が届くや否やの間際に、動物的直感からか身を捩っていた。


「……おいおい、今のでもあんまり効果がないのか? 断滅等級は”空間剥離”に設定したんだけど」

「空間の表層部分を裂いて、ようやく脚を半数斬り飛ばしただけ、か。お前の攻撃を異相に逃したか?」

「いや、そんな気配はなかったよ。そもそも手応えもなかったしね」

「ならば、あの蜘蛛が現われた亀裂を潰せたことを良しとするか。これ以上、妙な色の耀力が流れてくることはないだろうしな」


 自らが引き起こした事象を前にして、冷静に検分するユディトとイヴリーン。その表情が些か険しくなっているのは、それだけ芳しくない結果が呈されたからだ。


 今の斬撃は世界の根本を大きく揺らしかねないリスクのあるもので、ユディトの中では割と殺意を持って繰り出した一撃だったのだが、それで精々足の半数を切り飛ばしただけである。

 しかしそれであっても、蜘蛛に傷みを感じている様子がない。


 出現点である亀裂は敢えなく黒線に塗り潰されて消滅していたが、未だ体勢は崩れたままにも関わらず、七つと一つの眼は、こちらの出方をつぶさに窺っていた。


「しかし厄介だな。これ以上の攻撃を繰り出すとなると、神器を本格的に稼働させなければならないぞ」

「確かに、今はマズいよね。これ以上神器の出力を上げると、こっちが逆に悪い影響を残してしまうし……かと言って、今のを無闇やたらと繰り返しても、周りを滅茶苦茶にするだけで倒せないし、本末転倒だ」

「この世界にしろ、あの蜘蛛もどきにしろ……情報が少ないのが致命的だな。こうなったら、『神璽』が解析し終わるまで、殴って対処するしかないぞ」

「……結局、そうなるんだよねえ」


 胸元の宝珠に指先で触れてみて、計測の進捗状況を感じ取り、諦念に小さく頭を振る。

 そしてユディトは意識を切り替え、手にした剣を虚空に消してからその場で屈伸運動を始めた。


 言葉通り、肉弾戦を挑むつもりなのだろうか。傍からすれば暢達もいいところだったが、当人は到って真剣な表情である。


「じゃあ、イヴ。こっちはお願いするよっ!」


 何度か、拳同士を打ち付けながらそう告げたユディトは、イヴリーンの返事を待たぬまま、空中で体勢を整え始めた蜘蛛に向かって疾駆した。






                 ※






「『ヘルブリンディ』」


 ふわりと石床に降り立ったイヴリーンは、間を置かずにそう唱える。

 すると周囲の床に、ユディトの足下に頻繁に浮かんでいるものと同系統の円陣が浮かび上がった。

 明確な違いを示すならば、円陣から発せられる光の色彩が、ユディトの虹色に対して目の覚めるような蒼銀、という点だろう。


「ふん、今の私ではこの程度の規模が精々か……まあ、全員は入れるし十分か」


 淡く揺らめく光は、地熱で掻き消える雪のように、儚げに明滅している。

 どのような効果があるのか定かではないが、その範囲内に自分達も収められているのを、倒れたまま確認したエルファーランは、自身の目の前で泰然と立つ瑠璃色の隼を見据えた。


「これは……結界、か?」

「似たようなものだと認識しておけば問題ない。ああ、一応忠告しておくが、今はそこから出るなよ。下手に出たら……死ぬぞ」

「そ、そうなのか?」


 誰よりも先に立ち上がり、円陣の外に手を伸ばそうとしていたカリオンは、慌てて引っ込める。

 鳥が言葉を弄する、ということはこの世界の常識からあまりにも外れていたが、今、結界の外では人間らしき青年が『凶獣』を殴り飛ばして翻弄しているのだから今更だ。


 そう。ユディトは地上で行うのと同じように、何もない・・・・空中を軽やかに駆け、『凶獣』の脚撃を潜り抜けては殴り付け続けていた。

 圧倒といかないのは時たまに逆撃を受け吹き飛ばされているからだが、弾かれる度に虚空に生じた円陣に着地し、再び駆け回って攻撃を繰り出している。


 不屈とも言えるその姿から、ユディトがダメージを受けている様子はあまり感じられない。けれども、その真剣な相貌を見る限り、楽に討伐できる敵ではないというのがヒシヒシと伝わってくる。


 ユディトの内心の動きをよく知るイヴリーンは、黄金の双眸を細めた。


「ユディトがあの蜘蛛もどきを殴る度に、莫大な耀力が周囲に流出している。既にここ一帯に満ちた耀力濃度は尋常ではない程に高まっているだろう」

「そのヨウリョクというのがよく判らぬのじゃが」

「お前達の言う『星灼』に似て非なるもの、とでも言うべきか。こちらもまだ実態を把握し切れていないから断定はできないが……いずれにせよ、あの蜘蛛もどきが出現した時よりも多いだろうから、お前達にとっては致死量を優に越えているだろうな」


『凶獣』が現れた瞬間にも耀力量が増大し、この空域一帯の凖位は強制的に上昇させられた。その中でエルファーラン達は耀力中毒を起こしたのだから、それ以上の濃度になっているだろう場に足を踏み入れるのは、自殺行為に他ならない。


 イヴリーンの淡々とした声が示すところを察したエルファーランは、身体中から血の気が引いていく感覚に襲われてしまう。

 そして同時に思った。

『凶獣』が出現した亀裂が地上より遥か高所に現われたのは、不幸中の幸いだったのかもしれない、と。

 仮に地上付近に亀裂が生じたのであれば、その被害は甚大どころか目も当てられない惨憺たるものになっていただろうことが、容易に想像できたからである。


 常識を超えた現実が目の前に展開されると、受け容れられなかった者は極端に口数が減るものだが、例に漏れずエルファーラン達も口を噤んで、空を見上げていた。


 一方、空中で熾烈な争いを繰り広げているユディトと『凶獣』であるが、その存在に課せられた務めがいつまでも果たせないことに業を煮やしたのか、残った全ての眼を一斉に輝かせ、『凶獣』はそれぞれの眼から光線を発射する。


 触れればあらゆるものを消し去る滅びの光には追尾機能でも備わっているのか、空中で軽やかなステップで避けるユディトを逃すまいと、執拗にその背を追い掛け続けていた。


 流石にマズいと感じたユディトは、宙を駆ける速度を早め、急旋回やら急停止を繰り返し、およそ空を飛ぶ生物には不可能な軌道をとり続けて回避に専念する。


 正しく常軌を逸した動作を行うユディトを見上げ、カリオンは息を呑んだ。


「な、なんて動きだ。空中を駆けれるということは……大地の鎖からの脱却は、あれ程の動きを可能とするのか?」

「そんな訳ないだろう。いかに飛翔術を行使したとしても、世界を律する物理法則からは逃れられん。あんな極端で減加速の際だった動作を繰り返せば、内臓に甚大な被害が出るわ、三半規管が壊れるわで悲惨なことにしかならない。普通に死ねるぞ」

「…………」


 抑揚なく連ねるイヴリーンの言葉に聞き入って、エルファーランやカリオンは絶句する。

 ならば何故あいつは大丈夫なのか、と目線で訴えていたが、イヴリーンは敢えてそれを無視した。

 説明したところで理解が得られる筈もなく、今はそんな無駄話に興じていられる場合ではないのだ。


 光線はいくら躱しても追尾を止めず。それすら次の布石に過ぎなかったのか、『凶獣』はその口腔から追撃として糸を放出した。


 直線的なそれを、光線の回避に専念していたユディトは紙一重で躱したものの、糸の粘着性が想像以上だったのか、視認できないほどのミクロ単位でユディトの衣服を捕らえており、そこから一気に絡みつく。


 一瞬にして繭の如く全身を覆い尽くされたユディトは、身動き一つ取れないまま空中に放り出されてしまった。

 そしてその時を狙い図ったかのように、宙を羽ばたいていた無数の光線が殺到し、上下左右前後よりユディトを貫く。


「お、おいっ!」

「あれでは……流石に」


『凶獣』が放つ光線は、着弾した箇所を魂魄領域から完全に消滅させる。それがこの世界の常識であり、つい先刻目の当たりにした事実。


 誰かが悲鳴を挙げ、場はどよめいた。

 この万魔殿を滅茶苦茶にして『魔王』を攫った全く歓迎できない不審者だが、現状、ユディトはただ一人『凶獣』に対抗できている存在だ。


 誰しも死にたくないと思うのは当然であり、寧ろ、一度『凶獣』と見えて陥った絶望から引き揚げられてしまっている以上、厭でも『凶獣』の討伐を期待してしまうのは、無理からぬ心理状態である。


 そして今。数多の光線に晒されて穴だらけにされてしまったユディトの行く末は、ただ一つ……少なくとも、イヴリーン以外の者達が見た現実はそうだった。


「要らん心配だ」


 が、少しも疑いもしないイヴリーンが、力強く言い放った瞬間。

 糸繭の中で絶命したと思われたユディトが、イヴリーンの傍らになんら平然と立っているではないか。


「いやあ、びっくりした! 蜘蛛もどきだと思っていたから、糸を吐き出す可能性をすっかり忘れていたよ」

「なんだか面倒そうな糸だったな」

「うん。こっちの耀力をごっそり持っていかれた。あれ、多分こっちの人達が触れたら、それだけで魂魄全部吸い取られるね」

「それは物騒極まりないな」


 ユディトを見失った『凶獣』が、虚空のあちこちに視線を彷徨わせている。イヴリーンの張った結界のすぐ傍にいる影響からか、屋上庭園に立っている事実を眩まされているようだ。


「よし、そろそろ決着を付けるか」

「そうだな。場に耀力は充分に満ちた。これくらいならば、まともに神器を起動させても影響は少ないだろう」


 今まで、ユディトは神器の能力を開放していなかった。

 この名も知らぬ世界の保全という理由で、授受者であるユディトの生存に必要な最低限、断片的にしか稼動させていない。

 しかし『凶獣』と直接殴り合った上で『神璽』が看破した事実より、殺しきるには相応に神器の力を発揮させなければならなかった。


 そしてそれは、この世界に多大なる負荷を要求することになる。耀力に満ちた〈アンテ=クトゥン〉とは異なり、今、足を降ろした世界は強度が劣るようなのだ。


 だからこそユディトは、場を高度な耀力で満たす為に『凶獣』を殴り続けるという、非効率的で泥臭い戦いを強いていたのだ。


 全ての準備は整い、後は実行するだけだ。

 そう意気込んで、ユディトは大きく息を吸い込む。


 そんな後背に、イヴリーンは神妙に声を掛けた。


「その前に……改めて聞くぞ。本当にいいのか?」

「何が?」

「この世界の脅威を、余所者のお前が倒す、ということだ。それが何を意味するか、判らないお前ではあるまい」


 それがどれだけ大きく思いものを抱え込むことになるのか、ユディトは知っている筈である。イヴリーンは、その全ての時間を誰よりも間近で見てきたのだ。


『魔物』の掃討を十六にも満たない子供が一身に背負って、先頭を駆け抜ける。

 それがどれだけの神経を摩耗させることになるのか、〈アンテ=クトゥン〉の人間に説いても理解しようとはしなかった。

 なぜなら彼らにとってユディトは救世主という偶像であり、『イルヴァーティの勇者』という超越者であり、自分達とは異なる化け物、なのだから。


 あの『凶獣』という存在が、この地の誰にも討伐できない者であるならば、ユディトはまた〈アンテ=クトゥン〉での孤独な戦いを繰り返すことになりかねない。

 イヴリーンはそれを阻止したかった。


 だが寄せられる心配を余所に、当の本人は実にあっけらかんとしていた。


「別に、改まって覚悟を問うことでもないだろ? 困っている人がいるから助ける。僕が助けたいと思ったから、助ける。当然の話じゃないか」


 自分が動くことで他の人が少しでも笑顔になるのなら。

 それはどこまでも自分本位で身勝手、独り善がりと取られることもあるが、ユディトに最初から備わっていた願いの根幹だ。


「それに今回の場合、色々と不可抗力な部分はあるけど、『ヴァーヴズ』である僕が現われたことで、この世界の在るべき歯車に狂いが生じてしまったのなら、それを正す努力はしないと、ね」

「……愚問だったか。ならば忠告しておこう。お前が熟考した上で打算に動いた場合、ほぼ間違いなく裏目に出る。だったらお前の感覚で、お前はやりたいようにやればいいさ。その方が厄介事に巻き込まれる確率は減るからな」

「ど、どんな信頼の仕方だよ」


 容赦のない言の葉は、だが信頼に充ち満ちていて。


「だから、さっさと斃せ。あの蜘蛛もどきは視界に入れておくにはあまりにも醜悪だ」

「ん、了解」


 やがてユディトの居場所を見つけた『凶獣』が、魂を喰らう光や糸を、万魔殿屋上という広範囲を一度に薙ごうと触手の如く伸ばしてきた。

 一本一本が高度に制御されているのか、それら全てが複雑怪奇な軌道をとりながら縦横無尽に駆け巡り、降り注いでくる。


 その煩雑さは既に予測不能の領域で、どう動こうとも回避は不可能だ。そしてそれに捕らえられたが最後。魂魄をまるごと吸い取られて、物質は形を維持できず、生命は存在の基盤を奪われて、崩れ落ちる。

 それが逃れられない、死の形だ。


「『ヴァーヴズ』」


 だが、誰よりも前に出して眼前に手をかざしたユディト。

 その声に導かれるように、触手の群れはユディトの眼前で止まり、勢いを逸らされて上空へと一様に流れていく。


「な、なんじゃ……これは?」


 それは有無を言わせない圧倒的な光景だった。

 例えるならば、世を濯がんと押し寄せる大海嘯をただの一人が押しとどめるかの如く。

『凶獣』がもたらす全ての事象は、世界の終りに直結し、それを覆す現象など、この世界では未だかつて見たことがないだろう。


 眼前で起きている現実に、息をするのも忘れて見入っていたエルファーランは、イヴリーンに詰め寄った。


「貴様らは……一体、何者なのじゃ?」

「先程ユディトも言ったと思うが、我らは『イルヴァーティの勇者』。この世界とは別の世界の存在だ」

「…………」

「信じられないか?」

「……いや、凶獣とまともに戦い、圧倒できるのならば、この世界の存在でないのは納得せざるを得ぬな」


 価値観が全く違う者を納得させるには、強制的に現実を突き付けてやることだ。それがある意味異世界交流に長けた〈アンテ=クトゥン〉における相互理解の極意である。


 否定が一切思いつかないほどの凄烈な現実は、幾多の言葉にも勝るのだ。百聞は一見に如かず、とはよくいったものだとイヴリーンは思った。


「ユディト……あいつに関して一言で表わすならば、度の過ぎたお人好しだ」

「お人好し?」

「たった一人の笑顔を守りたいという理由で、ほぼ死が確定するような試練に望んで神器を手に入れ、同じ理由で世界を滅ぼそうとしていた敵対勢力に挑んでいった。そして、平和という壊れやすいものを求めるが故に、たった一人で救った筈の世界に敵対した……大馬鹿者だ」

「…………」


『凶獣』が引き起こす死の大海嘯を弾き返しながら、ユディトは前へと踏み出した。

 やがてそのまま屋上部分から離れても、変わらずに空中を、いやその足下に明滅する光の円陣の上を悠々と歩いている。


 そんなユディトの後背は、先程とは異なっていた。

 纏っている装備品は何一つ変わらないのだが、そこに潜在するだろう存在感がまるで違う。


 言うなれば、目映き希望をその身に纏ったかのような。

 言うなれば、数多の切なる願呪を束ねたかのような。

 言うなれば、仄暗き絶望の理を虐滅せんとするかのような。


 その背に庇われる者にとっての希望の象徴は、遥か上空へと向かって歩む。


 そして同じく、正面より敵対する者にとっては逃れえぬ絶望の顕現が近付いてくることに、『凶獣』は短い距離での瞬間的移動を繰り返し、その場からの離脱を試みていた。

 実際、見る間にその巨体が小さな点になっていき、距離が空けられてしまう。


 しかしユディトは驚かない。

 しかしユディトは慌てない。


『ヴァーヴズ』で擾乱させた流れの果てを、『凶獣』そのものに設定する。

 すると四方八方に飛び散っていた触手や糸が、なにかの意志を持ったかのように在るべき場所へ還らんと一斉に動き、瞬時にその巨体を絡め取って拘束したではないか。


 その成果を見届けたユディトは、空中に眩く揺らめく虹色の光を残しながら走り出す。




 その瞬間を、誰もが見上げていた。

 忠臣シエルは。

 彼女の配下の兵士達は。

 勇者カリオンは。

 彼の仲間達は。


 そして、魔王エルファランは、見た。


 往古より、神すらをも飲み下したとされ、怖れられてきた天災の獣『凶獣』。

 討伐不能とされ、ただ隠れて震えながらやり過ごすことが、唯一の対抗策にして不変不動の摂理である、と。

 そう敗者の常識が深奥に溶け込んだ世界〈レヴァ=クレスタ〉において、そんな天壌の理そのものを打ち砕く存在を。


 天の涯てに到らんと昇る、虹色の軌跡。

 その実態は、空を垂直に駆け抜けるという、単純にして不可解の極み。


 輝ける軌跡を〈レヴァ=クレスタ〉の空に刻み付けながら、その先端を突き進むユディトは、再び取り出した漆黒の剣を携え破滅の権化に肉薄する。


 そして――。


「カーネイジ」


 交錯は、一瞬。

 縦二つに分断された巨体の隙間をユディトはすり抜け、更なる上空に到り、ようやく停止する。


 恐ろしく静かに破断された『凶獣』は、断末魔どころか一切の音を発てることなく、吹き荒ぶ風韻の中に儚く消え失せていた。

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