第14話 凶獣(3)

 それは、抗えぬ絶望の具現。

 それは、逃れえぬ終わりを告げる足音。

 それは、生けとし生ける者に等しく訪れる不可避の滅び。


 酷烈に匂い立つ死の気配をまき散らしながら、空間の裂け目からそれ・・は這い出るように現われた。


 無機質な輝きを燈した八つの眼は、森羅万象一切を零さず見渡し、鋭く長大な八つの脚は、三千世界のどんな場所でも駆け抜ける。

 光の加減で万色に揺れる体躯は、うつろう世をあるがままに反し、狙い定めた獲物を決して見逃さず、その巨大で凶悪に尖った顎を以って魂魄すらをも粉微塵に噛み砕くという存在。


 この世界における『凶獣アヴサーダス』を示す言葉の総てが、生命の終焉を否応なく想起させるものだと言われているが、出現した存在は誇張ではなく確かにそれに違わぬモノであると、誰もが理解よりもまず納得させられた。


「か、カリオンよ。おぬし、『凶獣』を直に見るのは?」

「これが、初めてだが……まさかっ、ここまで、圧倒的なものだとは、な」


『魔王』としての矜持を総動員して、無意識の根底より溢れ出してくる恐怖に抗うエルファーラン。眼窩から眼球が零れんばかりに見開いて、視界は揺れに揺れている。

 遠巻きに仰ぎ見ているだけで目の奥が熱くなり、喉がカラカラに渇いて、甲高い耳鳴りが意識を苛んでいた。仮にこの場に独りで立っていたのならば、既に恐慌の坩堝に落ちているだろうと自覚させられる。


 そんなエルファーランに声を向けられた『勇者』カリオンはカリオンで、『凶獣』が放つ圧倒的な存在感に完全に中てられてしまったのか、身体の芯から生じる震えを抑えきれないでいた。

 呼吸は荒く激しくなり、額から滲み出る冷や汗を拭うことすらできず。金縛りにあったかのように全身が動かせない。


 いや、唐突な変調は二人だけではなかった。シエルも、その配下の兵士達も。そしてカリオンの仲間達も。


 いずれも戦う者としては第一級に類する者達であったが、『凶獣』という異形を前にした瞬間に抵抗の意を敢えなく削り取られ、そればかりか身体の平衡感覚さえ覚束なくなっている。


 いっそ夢ならば良かった。夢ならば必ず終りが来て、意識の片隅に乾いた泥のような痕を残すことはあれど、覚醒の波に浚われいずれは消えていくのだから。


 しかしながら、これは現実だ。

 逃れられない『死』が、目の前に在る。


 そんな共通の思いから、その熾烈な気配を前にして、誰もが空から視線を外せないでいた。


「アレは……人がどうにかできる存在では、ないっ……!」


 歪み始めた視界の中で渾然と漂う『凶獣』を前にして、カリオンは呻いた。


 この世界の支配種である『神属フォロス』ですら、ただ啄ばまれるだけの糧に成り果てたと伝えられているのだから、神ならぬ身に過ぎない自分達に、一体何ができるというのか。


 そう思わずにはいられない。そんな悔悟に、囚われずにはいられない。

 武者震いとは真逆の感情に、手にした剣がガタガタと打ち震える。


 その場に立っている者達のほぼ全員が、遺伝子の螺旋の深奥より発せられる警鐘に、身も心も屈しかけていた。






                  ※






「……なんだアレ?」


 先程までとはまるで変わった空気の質に、誰もが立ち竦み、呼吸さえままならなくなって小さく喘いでいる。


 集団で何かしらの呪縛に囚われたのかと思われても仕方のない場で、何ら変化がないのはユディトとイヴリーンだけだ。


 しかし両者もまた、違った意味で空に現われたモノから目を離せなかった。


「蜘蛛、だよな? でも、それにしては……んん?」


 空に刻まれた亀裂の先より現われたのは、ユディトの目から見て蜘蛛だった。

 といっても蜘蛛にしては異質な佇まいで、本来ならば頭部であるところに人間の上半身らしきものが生えていて、さらにその両腕部分が蟷螂のような大鎌である。

 体表は甲虫のように艶やかで、だがその質感から非常に硬度が高いことを感じさせて止まない。

 そして極め付けとして、人間の頭部に相当する場所に、巨大な一つ目が無機質に世界を映していた。


「第一印象はそう思えなくもないが……なんか色々余計な要素が付きすぎて既に蜘蛛の範疇を逸脱している気もするな。蜘蛛に食べられた人というか、蜘蛛から生えた人というか、どこかの異世界で研究されていた新種の合成獣キメラとかの類い、か?」

「ああ、なんかそんなのを好んでペットにしている酔狂な連中がいたよねえ……いやいや、待って。この距離で認識できるとなると、大きさがとんでもないってことになるけど」


〈万魔殿〉の屋上庭園から異形が出現した地点までの距離は、〈天環橋〉よりも更に高所であり、直線的な距離にするならば相当のもので、どう少なく見積もっても王都を覆わんとする結界範囲に収まる程度の話ではない。


 にもかかわらず、蜘蛛もどきだと断言できるのは、それだけの巨躯を誇っていることの表れだ。


「そもそもアレって生物なのか?」

「……わからん。耀力の流れが少しも感じられない」

「そんなことってあるの? 世界・・の構成素子である耀力は時空間、物質、生命……森羅万象の全てに満たされていて、それぞれに固有の流れを形成する、っていうのが真理の筈だろ?」

「規模の大小に関わらず、耀力の流れがない、などあり得ない……筈なんだがな」

「じゃあ……ん?」


 珍しく言い淀んでいるイヴリーンの姿から、その可能性に疑念を抱いたユディトが眼を凝らした先で、『凶獣』の人型部位の頭部に開いた大きな眼から眩いばかりの光線が発せられ、大地に突き立っていた光の柱、その中の一つの青き塔を射貫いて消滅させた。……より正確に言えば、青き光塔が立っていた峡谷の一部を丸ごと消し去った、だが。


 唐突に物騒すぎる結果を目の当たりにして、ユディトは慌てた。


「ちょ……目から光線が出たっ!? しかも結構ヤバそうな威力だったよ!?」

「今の消え方……焼き払ったとかの類ではないな。消えた場所から耀力も感じられなくなっているし、消去したというのか? いや――」


 高度に収束された光線が、照射の果てに物質を焼き切るのは通常の物理則から自明で、焼いた周囲から煙が立ち上るのも自然な事象なのだが、今の現象においてはそうではない。

 消し飛ばされた地点は、艶めかしいまでに滑らかに削り取られている。いや、削られたと言うよりも、寧ろ――。


 目の前で起きた事象を冷静に検分するイヴリーン。


「……実は、あれがあの蜘蛛の視線だったりしてな」

「熱烈にも限度があるだろ!? 熱い眼差しで消し飛ばされるなんて嫌過ぎるからっ!」

「この分だと、ウインクで空間圧搾もできそうだな……面白い」

「愉しそうに変な期待持たないでっ!」


 上空に現われた『凶獣』は、何かを探しているのか、亀裂の前から動かぬまま、八つと一つの目線だけをあちこちに忙しなく動かしている。……蜘蛛もどきが目を動かす度に光線が発せられている訳ではないので、ユディトの肝の冷える疑問は晴れたのだが。


 今のところ、『凶獣』がこちらに気付いているという様子は見られなかった。中途半端であるにも関わらず、結界はそれなりの効果を発揮しているのだろうか。

 いつ気付かれるか未知数なのが難点だが、それまでこちらに残された猶予、ということだ。


「でもあの蜘蛛、本当に何なんだ? 『神璽アポロイア』でも看破しきれないなんて」


 胸元の首飾りにあしらわれた宝珠に触れて、ユディトは思う。


 ユディトの持つ三種の神器の一、『神璽』は耀力の貯蔵庫であり、その許容量は極めて膨大、というより無尽蔵だ。副次的に耀力を解析する能力に長けており、例え摂理の異なる世界だろうとも、耀力に触れた瞬間にその組成などを読み解く。


 耀力の組成が明らかになれば原子、分子配列、物質の性質、生物の分類。果ては時空間構造や多重積層の範囲、その世界における既存のあらゆる概念など、世界に包括される万象を解析できるようになる。……実際にそれを敢行するには膨大な時間と耀力が必要で、且つ知識が追い付かず理解しきれないのでユディトは行ったことがないが。


 いずれにせよ、その見破った情報を神器『鏡衣アシュロン』に伝達すれば、装備者を絶対的に守護する聖域を形成し、『滅刃カーネイジ』に送れば、敵性体を確実に屠る刃を創出する。


 今この瞬間。ユディトが摂理の異なる世界で普通に行動できるのは、『鏡衣』の機能の一つによるものだが、元を辿れば『神璽』の恩恵に行き着くのだ。


 つまるところ『皇権イルヴァーティ』を真に扱うことができるのは、三種の神器を三種同時に授受できた者のみである。そしてそれを成し遂げたのは、〈アンテ=クトゥン〉の歴史上で唯一ユディトだけであった。……実際には元始たるイヴリーンもそうなのだが、史上には残されておらず、知るのは歴々の勇者達のみであったが。


 そんな神器の理に従うのであれば、この未知なる世界だろうとも、既に『神璽』はこの世界の耀力に触れて解析し続けているのだが、突如として空に顕現した蜘蛛に対しては、何の走査も効果がなかった。

 様々な帯域で、蜘蛛を形成する耀力への干渉波を発していたのだが、何ら反応がない。となると、空の異形を推し量るには、一つしか手段はなく――。


「ならば、お前が直接接触するしかないな」

「うげ、やっぱりか。……自分より大きい蜘蛛って、なんか気持ち悪いんだよなあ」


 遠くからの観測で効果を得られないのなら、近付いて眼を凝らせばいい。実に単純明快な解決法であり、今回の場合は『神璽』かユディト自身が直接『凶獣』に接触することで、より精度の高い探査が可能となる。


 が、それはユディトにしても相当の覚悟を求められることだった。

 普通の蜘蛛に触れるのならば特に何も感じないが、等身大以上となると精神衛生上それなりに宜しくない。有り体に言えば不気味極まりなく、なまじその生態に似た存在を知っているが故に、気持ち悪さが一入だ。


 そしてそもそも、エルファーラン達は『凶獣』に触れれば死ぬ、と言っている。『鏡衣』を纏う自分にもそれが適用されるかは未知数だが、危ない橋は気分的に渡りたくはないのがユディトの本心であった。……毎度毎度、それを回避しようとして逆に危難の中枢に突っ込む羽目になるのは、最早呪われているとしか表しようがないが。


 生死のかかった状況下で、割りと矮小な懊悩に小さく唸るユディト。

 その姿はやはり緊張感とは無縁で、寧ろ普段通りの様子を横目に、イヴリーンは押し黙ったままの周囲を一瞥して告げた。


「いい加減、呑気に駄弁っている状況でもないな。これ以上、成果の見込めない走査を続けてあの蜘蛛もどきに見つかっても厄介そうだから、そろそろこいつらを戻してやれ」

「ん、そうだね」


 のんびり応酬している間も、空の上では凶獣が何回か目から光線を放っていた。

 八基あった光の柱も、今では三つまで消し飛ばされる始末だ。破滅的な大音が実は先刻よりずっと彼方此方から轟いているのだが、意図的に無視した二人である。


 イヴリーンに促され、頷いたユディトが空の両手を握ると、間を置かずそこにぼんやりとした淡い耀きが集まり始めた。


 光とは異なる粒子状の閃耀は、陽光の下では儚く塗りつぶされてしまいそうなものだったが、敢えてユディトがそう調整しているからである。

 自身の中にある耀力を全力で励起活性すれば、恐らく空の獣に簡単に見つかってしまうだろうことと、この世界をまだ把握し切れておらず、硬直してしまったエルファーラン達にどんな影響を及ぼすか不明であるが故の慎重さからだ。


「これくらいなら、あの蜘蛛に気付かれないかな?」


 微細な粒の一つ一つが結合して、眩き帯と化す瞬間に、胸の前で拍手を打つ。

 すると束になりかけていた耀きの群れが弾け、周囲一帯へと一気に散華した。






                 ※






 思いのほか空気が乾いていたからか、澄んだ音が高らかに広がったが、音波に同調したそれに曝されたユディトとイヴリーン以外の者は、さながら夢から醒めた様にパチリと目を瞬かせて我を取り戻す。


「はっ!? わ、妾達は……いったい? そ、そうじゃ! 凶獣はっ?」

「あの蜘蛛については、今のところ動きはありませんねえ。あちこち吹っ飛ばしてますけど、出現点から移動はしていません。君達が陥った状態についてですが……まあ、麻痺、みたいなものだと思います」

「貴様は、なにを……言っておる?」


 その声が震え擦れていたのは、未だ全身の感覚が不調和だからか。

 だがそれも仕方がない、とユディトは思う。

 ユディトから見てエルファーラン達の状態は、〈アンテ=クトゥン〉でも存在するある症状に酷似していて、実際にそうであると半ば確信を持っていた。


「あの蜘蛛が発している耀力が、君達の許容量を大きく上回った所為で、感覚不全を起こしてしまったんだと思いますよ。例えばそうですねえ……突然強い光を見たら、眼が眩んだりしますよね? 簡単に言ってしまえばそれと似たようなものです」


 耀力中毒と呼ばれるそれは、異世界同士が常時接続した場合において、双方の世界の耀力準位に大きな開きがある場合に起こるショック症状である。

 具体的には呼吸困難、意識の混濁、全身の麻痺などの身体機能の不全であり、定説として、〈アンテ=クトゥン〉に満ちる耀力の包括する情報量が膨大すぎて処理しきれなくなり、脳機能がオーバーフローして起きるものだと語られてきた。


 元来〈境界門〉は、そこを通る者に耀力平衡化の術式を問答無用で施す為、あまり表立ったことにはならなかったが、ごく稀に耀力許容量の低い者が、耀力が豊富な〈アンテ=クトゥン〉を訪れて体調不良に陥った、というケースがあったという。

 当初は、原因不明の奇病とされ医療関係者を悩ませたものだが、〈アンテ=クトゥン〉の人間は一般人であろうとも許容量が大きかった為に気付きにくく、対応策を講じるのに時間が掛かった、らしい。


 今日では外部から平衡化を促してやるか、停滞した耀力場の流れを敢えて乱してやることで劇的な症状の緩和ができるとして、普遍的な対処法になっていた。


 そして今回の場合、空にあの蜘蛛が出現した瞬間から、周囲の耀力が爆発的に上昇したからである。と言っても、増加量は〈アンテ=クトゥン〉の遺伝子を持ち、『イルヴァーティの勇者』であるユディトにとっては、差を測ろうと心掛けなければ気付かない程度の微々たるものでしかなかったが。


「取り敢えずこの場の耀力分布は僕が攪拌しましたから、暫くは大丈夫かと――」

「ユディト。〈アンテ=クトゥン〉でのものと同列に断ずるのは早計だと思うぞ。この世界には『耀力』ではない『星灼』という概念があるんだ」

「そうなんだよねえ。でも、そもそも違いって何なの? 直接喰らった感じだと、大差ないと思うんだけど……」

「『異言訳出』がわざわざ違う単語を使って翻訳しているということは、本質的な部分に異なる要素を孕んでいるのかもしれない。その辺り、この世界を知れば判ることだろうが……今は、そんな局面ではないな」

「だよね。えーっと、とりあえずここに長居するのは危険なんで、移動した方がいいですよ」


 のんびりつらつらとエルファーラン達に退避を促すユディトであったが、当の彼女らは未だに呆けたままで、動こうとしなかった。

 ただそれでも、チラチラと目線を上空の『凶獣』に投じているのは、魂魄にまで浸潤した恐怖がそうさせているからか。

 今の今まで『凶獣』の放つ存在感によって死に掛けていたのだから、それが尾を引いていたとしても何ら不思議ではない。


 とは言え、このまま放置しておいても、いずれ蜘蛛に見つかって襲われるだけだろう。人間に敵意があるかは定かではないが、ユディトの勘が、あの蜘蛛は生命体にとって歓迎すべからざる存在であると言っていた。


「エルファーランさま」

「な、なんじゃ!?」

「あの蜘蛛ですが、『消散帷帳』とやらが展開すれば退治できるんですか?」

「ク、クモ? 何のことじゃ? 『凶獣』と何か関係があるのかっ!?」

「へ?」

「貴様、『凶獣』を知らぬとぬかしておったではないか! アレと何か関係のある存在を知っておるのか!?」 


 アレこと凶獣は、未だに出現箇所から動かない。

 相変わらず周囲の光の柱に意識を寄せられているのか、巨眼から光を放って破壊活動に勤しんでいる。

 光柱も既に二本まで減らされているが、凶獣の注意を未だ展開しきれない『消散帷帳』から逸らせているのだから、間違いなく囮という名を冠するだけの役割は果たしている、ということだ。


 しかしながらユディトはユディトで、エルファーランからの見当違いの返答と、こちらの胸倉を掴んで揺すってくる取り乱した姿に、思わず気の抜けた声を零してしまう。


「いえ、『凶獣』なんて知らないですよ。ただ空のアレに似た外形の生物なら、知っているってだけで」

「あのようなおぞましき姿に似た生物を知っておる……この世界に、他にも存在するというのかっ!?」

「いないと思いますが……まあいいや。それより『消散帷帳』であの蜘蛛はどうなるんです? 見た限りだと、とても斃せるようには思えませんが」


 何の感慨もなく淡々と告げられてしまえば、エルファーランも逸る気勢を抑えざるをえない。


「……そうじゃな。『消散帷帳』は『凶獣』にこちらの存在を察知できないようにするだけじゃ」

「目眩ましが精々、ってことですか。僕は部外者だからそう見えるんですが、随分と消極的な対応策ですねえ」


 小さく嘆息するユディトであったが、その様子を侮辱されたと受け取ってしまったエルファーランは眦を吊り上げた。


「貴様は雨が降れば雨雲を消し飛ばそうとするのか? 傘を差すか雨宿りでやり過ごすしかあるまい」

「それはまあ、そうですけど」


 一般的に言えば、そうだ。その辺り、〈アンテ=クトゥン〉と何ら変わりがない。

 しかしユディトの場合、雨が降ってきたら、その雨雲よりも上空に逃げることにしている。雨雲の上に何処までも広がっている蒼穹は格別で、足元に広がる白き雲海と共にユディトのお気に入りの光景であるからだ。……話があらぬ方向に行きそうなので、それを口にすることはしなかったが。


「……亀裂自体は未だに消えない、か。あそこからもっと出てきそうな雰囲気があるけど、一匹だけなんですね」

「あ、侮るでないぞ。一体で嘗て十の都市を滅ぼしたという話がある。数十万人もの住人が、一夜にして全て失われたのは歴史的な事実じゃ」

「それは……穏やかじゃないですね」

「天に唾を吐くことなどできぬ。『凶獣』は、天災。我らには太刀打ちすることなどできぬのじゃ」


 悔しさよりも諦めに近い感情でそう綴るエルファーラン。

 先ほどまで随分と勝気だったのだが、『凶獣』が現れてからの転調振りを目の当たりにすると、些かユディトとしても拍子抜けするのを禁じえない。


 しかし、それだけ『凶獣』という存在が、この世界の人々にとって抗えない脅威であることが、ひしひしと感じられていた。


「それならやっぱり、早々に城内に退避することを……ありゃ?」

「ど、どうした!?」

「……なんか、あの蜘蛛と目が合っちゃった」

「な、なんじゃと!?」


 微妙に表情を引き攣らせているユディトに言われるがまま、空を再び仰いだエルファーランは、九つの眼で一斉にこちらを捉え、八つの脚を動かして詰め寄ってくる姿を目の当たりすることになる。


 まるでそこに地面があるかのように、虚空を這うように迫ってくる様は、恐怖しか感じさせない。


 瞬く間に顔色を青くさせたエルファーランが辺りを見回すと、再度混乱に陥った他の者達の姿と、その遥か先で光の塔が一基、白く眩い輝きを灯しているのが映る。

 そう。僅か一基。自らが担当するものを除いて、全てが消え失せているのだ。

 気が動転しているとは言え、そんなことに気付けなかったことに、エルファーランの混迷は深まっていく。


「そ、そんな馬鹿なっ!? 『消散帷帳』の完全展開には程遠いとは言え、効果は既に発揮され初めているのじゃぞ!」

「現にこっちに向って一直線に来ているじゃないか!」

「た、たわけがっ! 貴様、何をやらかしおった!!」

「君を人質にしてあちこち壊しながら逃げ回っただ――」

「万死に値す――っ!?」


 突如としてユディトの姿が目の前から消え、入れ替わりにゾクリとした感覚が背筋を這う。

 冷たく、粘度の高い泥が直接素肌を垂れるかのような、怖気。

 心臓が破裂してしまうのではないかと思えるほど早鳴り、意識が打ち震えているのか視界が大きく揺らいでいる。


 シエルやカリオンをはじめとする、この屋上庭園に残っていた者達の顔に絶望しか載っていないのが良く判った。そして恐らく自分も同じような顔をしているであろうことも。


 強張った全身の筋に渇を入れながら、意を決してゆっくり振り返ると、すぐ目の前には見上げるほどに巨大な『凶獣』が至近距離にいて、無機質な八つと一つの眼でこちらを見つめていた。


「ひっ……!?」


 人の腕の部分に当たる長鎌が振り抜かれたかのように宙を漕いでいることから、今の今まで目の前にいたユディトは、弾き飛ばされたのだろう。

 この屋上庭園の何処にもその姿が見当たらないのだから、既にこの居城の頂点より遥かな地面に向けて落下しているとしか考えられない。


 そしてそもそも、凶獣に触れてしまったのだから、既に命はないのだと確信を抱いてしまう。


 もう少しエルファーランが冷静ならば、何時の間にか羽ばたいて凶獣の襲撃から逃れていたイヴリーンが、深々と嘆息していることに気が付いただろうが、それも叶わず。


 否、凶獣を前にして、この世界の者が取れる行動など、二つしかなかった。

 つまり、何をしても無駄だと知りながら抗って凶獣に食われるか、自らの尊厳を護る為に自刃するかである。

 そしてエルファーランが選んだのは、前者だった。


「あ、ああ……あああああああっ!!」


 眼前に屹立する絶望に、意識が狂奔する。その荒れ狂う烈しいうねりが生への希求となってエルファーランを突き動かし、咄嗟に翳した杖から白い光の球体が放たれて、『凶獣』を頭部から全身へと丸ごと呑み込んだ。


『魔王』が最も得意とする”聖属”の『魔印術』で、他を圧倒する無慈悲で清冽な力の奔流だ。

 本来ならば城外では使用してはいけない取り決めになっていたが、エルファーランの頭の中に、そんな柵は既にない。


「お嬢様っ!」


 床に展開した影という影から、質量を持った影の刃が無数に生じ、その全てを駆け出しながら掲げた自身の剣へと集約させて、シエルは『凶獣』に向けて大上段から斬り降ろす。


「輝きを以て魔を灼き、煌めきを以て邪を雪げ! プルガシオン!!」


 そしてシエルとは逆方向から、手にした聖剣の力を解放し、立ち昇る浄光の刃で逆袈裟に斬り上げるカリオン。

 絶対的な恐怖という呪縛に呑まれながらも、戦う者としての本能から、彼の仲間達も、それぞれの『聖装具』を起動させて攻撃を繰り出していた。


 轟く爆音。弾け跳ぶ石礫。

 飛び交う悲鳴に、裂帛の雄叫び。


 光量も熱量も、先程の〈星詠の間〉で繰り出していたものとは比較にならなかった。

 それらは総て、必滅の一撃。

 対象が野にある生物ならば、仮に幾つも生命の予備を持っていようとも全てを殺しきるまでに高められた攻撃だ。


 いずれも、死にたくない、という極めて自然な拒絶反応からか。ほとんど反射に近く、だからこその加減なき攻撃の乱流は、もしもこの場にユディトがいたならば、顔を歪める程に喰らいたくない熾烈なものであった。


 周囲に与える被害など一切考慮しない壮絶な攻撃の驟雨に、『凶獣』がいた場所は大きく抉れ、噴煙に包まれる。


「やった……か?」


 誰かが切に願うようそう呟く。

 しかし上空の冷めた風がすぐさま煙を掃っていったが、そこに佇むのは何一つ様子の変わらない『凶獣』だけ。

 エルファーラン達の胸裏に絶望が色濃くなる。


「く……ははは。こちらから干渉できない、というのは真実じゃったか。ならばもう、最早ここまで、か」

「……エルファーラン様。無念です」


 わかりきっていたことだった。

 知識として、経験として。そして今、それが新たに更新され、胸中に沸くのはどうしようもない無力感と、虚脱感。

 誰もが戦う意思を失い、手にした武器さえ下げてしまう。


 だがそれが、この世界では普通の反応だった。

『凶獣』と見えたら死を覚悟しろ。『凶獣』とは死の具象化であり、見えた時点で既に手遅れ。会ってしまった時の対処法よりも、会わないようにどうするのかを悠久より連綿と考え続けたが故に、その手段が花咲かなかったこの局面では、既にどうすることもできなかった。


 充満する絶望を好んで貪ろうとしているのか、殊更ゆっくり『凶獣』はエルファーランに近付いていき、その凶悪な顎角を広げる。


 狭間に開かれた口腔には身震いしてしまう程に鋭い牙が整然と生え並んでいて、その刃筋の完全さたるや、世のどんな名剣ですら太刀打ちできないだろう。

 人間部分の両腕二本の大刃で、丁寧にエルファーランの背後を塞いで退路を断つ徹底振りだ。


『凶獣』は最初からエルファーランを狙っていたのか、その動きに澱みはなかった。

 そしてそんな様子から、自身が狙われたのだと覚ったエルファーランは、遂に己を諦める。

 逃げることも、抗うことも。泣き叫んで暴れ回っても、結末は何も変わらない。

 もう、どうすることもできない。

 それが、ストンと心の中に落ち込み、嵌まってしまったのだ。


「シエル、カリオン、皆……すまぬ」


 ならばせめて、立ったまま逝こう。無様に泣き叫ぶのではなく、『魔王』としてのささやかな意地から、悲鳴など漏らしてはやらない。

 そんな最後の決意など斟酌することのない凶獣の、迫りくる顎角にエルファーランはギュッと双眸を塞ぐ。






 その瞬間、一陣の風が流れるのを感じた。

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