第12話 凶獣(1)

 例えるならば、それは横一列に並べられた釣鐘を一気にかき鳴らしたかのような。

 或いは、巨大な生物が蹂躙による苦悶の果てに発する断末魔のような。

 暗澹や憂いとは無縁に思える澄み切った翡翠の空に、耳を劈く噪音が鳴り響いていた。


「鐘の音? どこから?」


 生物の本能的な危機感を煽り立てるような乾音は、この場にただならぬ危難が差し迫っていることを予感させて止まない。


 空気を伝って地表全体を覆い尽くすよう轟いていることから、遥かな高き場所から奏でられているとユディトは推測したが、眼を凝らして辺りを見回しても音の発生源は見当たらなかった。 


 今立っている〈魔王廟〉なる場所が、丁度この岩山城塞の天頂部と、更なる上空に存在する〈天環橋〉の中間にあるのだから、轟音から想像できる大きさの鐘楼など見逃す筈もなく、不可解という他ないだろう。


「ん、なんだか夕餉の時間を思い出すなあ」

「……それはお前の故郷の話だろうが」


 歓迎すべからざる鐘の音を聞きながら、怪訝もそこそこに、ユディトは小さく嘆息した。


 ユディトの故郷である〈アンテ=クトゥン〉の地方都市では、日の入りが始まる時間になると、その旨を市中に知らせる鐘の音が流れる。それを目処に人々は帰路に着き、街は夜の帳を纏っていったものだ。


 実際にそれを体験したのは、幼少の数年間だけという僅かな期間であったが、過酷な生活環境の中にありながらも、確かな幸せな時間だったと記憶するユディトには強く印象付けられている。


 そんな機会が再び巡ってくることは、もはや未来永劫に叶わぬだろうが、それでも胸に郷愁を呼び起こすには充分だった。


「うん、ちょっと懐かしくなっちゃってさ」

「お前という奴は……流石に今は、そんな悠長なことを言っていられる雰囲気じゃないぞ」

「あだっ!?」


 だが、こちらの気質を知り抜いているイヴリーンには、ユディトの抱いた懐郷の念など当然のように見抜かれていて。

 時と場所を弁えず、見当違いの感想をのほほんと吐いたユディトの頭を、条件反射的にペシリと羽で叩いていた。


「ぼ、僕だって一応わかっているんだよ!」

「……とてもそうは見えないがな」


 半眼で見下ろしてくるイヴリーンに、ユディトは首を横に振る。

 彼女に指摘されるまでもなく、ユディトとしてもそのまま懐古には浸るつもりはなかった。

 状況が状況であることもそうだが、それよりも、目の前のエルファーランがこれまでになく動揺を露にしていた、という理由の方が大きい。


「ま、まさか……ありえぬっ! そんな、馬鹿なっ!?」


 一人愕然とした表情を浮かべ、紅蓮の双眸を大きく見開いてエルファーランは空を見上げていた。果てなく広がる大空の中を漠然と眺めるのではなく、ある一点を注視しているではないか。

 つられてユディトやイヴリーンも同じ方角を仰ぐも、そこにはやはり見慣れぬ翡翠の空が続いているだけで、何もない。何も感じない。


「おい、どうした?」

「今のユガは、まだ大丈夫の筈じゃ……じゃが、何故っ!? く、覆るというのか? まさか……『天色託宣ゾア・プロフェテス』がっ!?」


 その悲鳴には絶望に近い感情が込められていた。

 見れば、エルファーランは小刻みに全身を震わせ、唇は何度も開閉を繰り返し。顔からは血の気が失せていて病的なまでの蒼白になっている。それはとても正常な状態とは言えず、極度の恐慌状態だった。


 そんな姿から発せられる緊迫さが尋常ではなかった為、ユディトもイヴリーンも魔王少女の豹変振りに眼を瞠る他ない。


「だ、大丈夫ですか? エルファーラン、さま?」


 心配色を載せたユディトの声にようやく我を取り戻したエルファーランは、その胸ぐらを両手で掴む。


「お、おい貴様! 早く妾をあちらに戻すのじゃ!!」

「それは良いんですけど、まだ今後の口裏合わせとか終わってないですし……あ、いえ。心配せずとも、ちゃんとお送り届けますよ?」

「んなことは後回しにせいっ!! 今は、今はっ……! は、早くしなければ大変なことになるのじゃ!!」

「大変な、こと?」


 その言葉を意味をユディトは考える。

 確かに今、空を満たしている鐘の音は焦燥を煽りに煽る響きだ。こうも間断なく次から次へと逸り立てるように掻き鳴らされれば、何が起こっているのか判らない不透明な不安を胸中に植え付けられても、なんら不思議ではない。


 しかし、ユディトは一つの世界を覆した『イルヴァーティの勇者』である。肉体的にも精神的にもまだまだ未熟ではあるが、ただ騒がしく鐘の音が擾乱している程度のことなど、怯えるに値しない。

 そしてその彼からして自然物理的な、より根源的な耀力の変化の予兆など、感じられなかった。


 だからこそ、エルファーランの取り乱しようが理解できず、怪訝に眉を寄せるしかなかったのだが、真正面から自分を見上げてくる少女の真剣な眼差しに、記憶の中の恩人の面影が合致してしまい、ユディトは小さく頷いてしまった。


「色々と事情があるんですね。わかりました……では」


 言って片膝を着いて跪き、両腕を広げ構えるユディト。

 その仕草を見て、どう運ばれるのか察したエルファーランは一歩身を引かせた。その頬は若干赤く、どこか引き攣っている。


「ま、またそれなのかっ!?」

「ん? 人を運ぶならこうだって、イヴが」

「肩に担いだら人攫いか何かだろう?」

「……あははは」


 そう連ねるイヴリーンは既にユディトの頭に陣取っていて、ここは譲らん、と眼光鋭く主張していた。


 イヴリーン以外にそんなことができるかは兎も角。カリオンとシエルの猛攻を潜り抜ける際、回避の為にエルファーランを肩に担ごうと一瞬考えただけに、ユディトは乾いた笑い声を挙げる他ない。


「……ええいっ、背に腹は変えられぬっ!!」


 心の底から嫌ではあるが、そんな我侭を言っていられる状況ではない。そう思い返したエルファーランが、悲壮な決意を胸に前に踏み出る。


「あれ? エルファーランさま、なんだか顔が赤いですよ? ここって塔の上層だから風が冷たいのかなぁ」

「……お前も相変わらずだな、ユディト」

「やかましいわっ!」

「?」


 ユディトの天然を熟知するイヴリーンはエルファーランに憐憫を向け、それを察した魔王少女は苛立たしげに吼えている。

 ただ一人、周りの空気を解していないユディトは、不思議そうに首を傾げるだけだった。






                  ※






「ま、まさか……」

「そんな、どうしてっ!」

「う、嘘でしょう!?」


〈天環橋〉に取り残されたメイド達が口々に囁いていた。いずれも碧空を見上げ、何かを探しているのか、あちこちに視線を走らせている。


「……『凶獣アヴサーダス』っ!」


 この場にいる誰かが、悲鳴染みた声韻を発する。

 それは静かな水面に小石を放り込んだ時のように、波紋が広がるが如く、弾けた。


『凶獣』――それはこの世界において、決して逃れられぬ死の運命の顕現。

 今も空を荘厳に迸る鐘の音は、否が応にも己が終焉を自覚させる、『凶獣』という名の世界厄災の到来を告げる宣告だ。


 言葉によって明瞭な解が示されたことで、場は一気に狂騒の坩堝にへと叩き落とされてしまった。 

 先ほどまで完璧に近い規律を体現していた兵士達の統率は一瞬にして瓦解し、年相応の脆さで混乱する彼女らを宥めんと幾人かの者が声を張り上げているが、喧噪の中に空しく潰えるだけで。


 この場にいる各々の表情に浮かぶのは、はっきりとした絶望だ。

 確定した死を前にして、ただ無様に右往左往するしかないという、遺伝子に刻み込まれる呪縛に囚われた姿。

 誰が一番先だったか、に然程の意味はなく。一つ生じた絶対的な恐怖の感情は、連鎖反応を起こして瞬く間に広がり、周囲を呆気なく呑み込んでいた。


(凶獣ともなれば……致し方なし、ですか)


 他の者と同じように胸の奥底から湧き出る狂おしいほどの恐怖を、強烈な意志の力で押さえ込んでいたシエルは、配下達の慌てように小さく嘆息する。

 もちろん、配下の者達を咎める気も、叱りつける気にもなれない。凶獣が相手であれば仕方がない、という諦念は、シエル自身の中にも確かにあったからである。


(かといって、このまま手を拱くのは愚の骨頂ですね)


 とは言え、今はまだ出現段階ではない。猶予があり、足掻く暇が与えられている。

 それがどの程度の長さなのか、推し量ることができるのは『魔王』たるエルファーランだけだが、見通しが悪かろうとも抗う為の機会があるならば、最後まで生を全うする為に全力を尽くさなければならない。


 例え生き汚いと罵られようとも、潰滅の瞬間まで全霊を以って抵抗するのが異胚種の誇りであり、生き様である。

 自分達に優しくないこの世界で生きると言うことは、そういうことなのだ。


「『消散帷帳バニシュカーテン』の展開準備に掛ります!」


 故に、シエルは毅然とした声で配下に命じた。

 シエル自身に与えられた権限において、この状況でできることは限られているが、それでも動かなくてはならない。

 自分はただ恐怖に恐れ戦き、泣き叫んで済むような小娘ではなく、そんな体たらくでは魔王親衛隊副長は務まらないのだから。


 その意気を表すが如く、彼女の声は混乱の最中にあった場において不思議と良く通り、右往左往していた兵達の恐慌を一瞬で押し流していた。


「で、ですが完全展開に必要な時間を考えると……」

「『隠伏紗幕インビジブルヴェール』も併せて五重展開しなさい。それほど時間稼ぎにはなりませんが、ないよりはマシです。そして同時に城下の民に、屋内に入るよう急がせるように。知ってのとおり、『消散帷帳』展開中は外に出ることは厳禁……それを徹底なさい」

「か、かしこまりました!」


 矢継ぎ早に重ねられる指示に、兵達は次第に落ち着きを取り戻していき、再び統制が甦ってくる。

 自身の補佐役が恭しく敬礼するの見止めたシエルは一つ頷き、手にした剣先で床を小突いた。すると足下の影が一斉に回廊中に広がり、配下達を呑み込んでいく。

 人が石床に沈んでいく様は壮観の一言に尽きるが、それに今更感嘆を零す者などこの場にはいない。


 言うが早いが、影を操るシエルの特殊技能の一つ、『影の路』の発動である。

 異胚種の中でもシエルだけの固有技能である『影の路』は、影の中に特殊な回廊を造り出し、別の場所に生じた影と繋ぐことで空間転移を可能とする技だ。その道に物理的障害はほとんどなく、出入口の生成もわずかな影があればそこを拡張することで可能な為、利便性は際立っていると言えよう。


〈天環橋〉に集っていたメイド兵達の大半を、それぞれが役割を果たすべき場所へと転送したシエルは小さく嘆息した。


『影の路』は自分の中の星灼フォルトゥナを多量に用いる術の為、気軽に頻繁に使えるものではない。ましてや大勢の者を一度に転送するなど、些か無謀すぎる行為なのだ。

 それでありながらも難なく完遂できたのは、長年に亘る修練の賜物であり、今回に限ってはエルファーランの捜索という大義の為である。

 そしてそこに追い討ちをかけるように、『凶獣』の到来。

 ただ座して死を待つつもりなど毛頭ないシエルとしては、出し惜しみなどできる筈もない。


 送り出した部下達が、無事に任務を果たせるか否かについては、心配はしていなかった。危難に見えた際の対処策はいくつか存在していて、それに基いての訓練を配下達には十二分に積ませているのだから。


 残った僅かな者達を振り向き、シエルは口を開く。


「さて、あなた達には宰相ロフォカレ殿に――」

「どいてくださああああいっ!!」

「!?」


 緊迫感をぶち壊す声が響いたかと思うと、〈天環橋〉に凄まじい衝撃が走った。

 エルファーランを抱えたユディトが、いきなり〈天環橋〉の下方から現われ、そのまま着地したからである。……〈魔王廟〉に降り立った時と同様に、床石をしっかり踏み抜いて胸元まで埋まっていたが。


 突如として現われた者が誰なのかを察したシエルは、抜き放ったままの剣で即座に斬りかかる。


「貴様っ!」

「待て、シエル!」

「お嬢様!!」


 だがユディトの腕から降りたエルファーランの制止により、即座に足を止め、跪いた。


「シエルよ。『消散帷帳』は?」

「『隠伏紗幕』と併せて展開を始めさせました。ですが、それ以上のことは私の権限では……」

「ん……よし。ではロフォカレと六魔将には、各々が担当する『偽贄香炉デコイプラント』に星灼を注ぎ込むよう妾が命じる。シエルよ、網を用意せい」

「仰せのままに」


 再び頷き、立ち上がったシエルは抜き放っていた剣を鞘に収めると、口腔で小さく何かを呟き、身体の正面で両手を柏手を打つように合わせる。そして膝を折って石床に手を着くと、掌中から深い影が染み出してきて、それは人の形を象りながら瞬く間に肥大し、やがて屹立したではないか。

 その様はまさに影法師そのもので、シエルの前には計七体の影が出現していた。


 これもまた、シエルだけが扱うことのできる『影の網』。『影の路』の応用で自らが生み出した影と、対象者の影とを繋ぐことで直接意思の疎通を可能とする特殊技能だ。

 つい先刻、〈天環橋〉にてエルファーランを拉致したユディトを追い詰める際、カリオンと奇襲のタイミングを合わせる為にも用いたものである。ちなみに、自身の意思を通す場合は、逐一影法師を用意する必要はない。


 エルファーランの前に横一列に並び、陽炎の如く揺らめきながら直立する様は、知らぬ者が見れば異様極まる光景だ。事実、床に埋まったままのユディトや、その頭上に陣取ったイヴリーンは目を丸くしている。


 だが既に見慣れているエルファーランにとっては、その有用性に舌を巻く以外の感想はない。そして今は、そんな羨望さえ抱く暇はなかった。


「我が親愛なる魔将達よ。まずは心配をかけたことを詫びよう。皆の尽力のおかげで、妾はこうして無事である」


〈天環橋〉に集ったのは、シエル麾下の親衛隊に属する者達であるが、それ以外の兵士達も当然、王たるエルファーランを攫って逃げ失せている賊の行方を追跡し、より広い範囲を捜索していた。

 それらは魔王領に存在する六つの軍団に所属していて、各軍の長たる魔将の指揮の下に行動していた。


 だからこそエルファーランは、自身が無事であることを殊更鷹揚に綴る。こうして『影の網』を用いて言葉を発することができるのは、既にシエルと共にいることの証明になるのだから。


「しかし安堵に浸ってはおれぬ状況であるのは、既に諸君等も知っておるじゃろう。終末の鐘の音が掻き鳴らされてしまった。このままでは、我らがアガルタの存続さえ危ういのは、今更語るまでもあるまい」

(あれって、僕達の念話に似ているのかな?)

(……どうだろうな。取り敢えず、今は黙って聞いておけ。なんだかキナ臭くなってきたぞ)


 影法師達を通して見知らぬ誰かに語りかけるエルファーランの姿を眺めながら、ユディトはその特異な能力についてイヴリーンに念話で意見を求めたが、諫められてしまった。


 確かに周囲のピリピリとした様子を見れば、より厄介な方へと事態が遷移してしまったのだと頷かざるを得ない。

 ならば今は余計なことをせず、つぶさに状況を窺っていた方が良いと感じていた。


 ユディトがそんな逡巡をしているとは露知らず、エルファーランは真摯に、滔々と続けている。


「抗う為に、諸君等の力を頼らせてもらう。各々、『偽贄香炉』を起動させるのじゃ。使用する『星燐石プリマテリア』の量に制限は設けぬ故、全力を以て事に当たって欲しい。今、この時こそが。滅びに瀕した瞬間であると心得よっ!」


 手を振りかざして厳粛に発したエルファーラン。そんな彼女の前に立つ影法師達は一斉に跪く。それはつまり、影の先に在る魔将達が恭順の意を示したと言うことだ。


 そうして『影の網』が役目を終了したのか、溶けるように虚空に消え、風韻だけが残される。


「……エルファーラン様。お見事でした」

「う、うむ」


 長く深く嘆息して脱力したエルファーランに、シエルは駆け寄る。

 泰然と構えていたのは、実は見かけ倒しもいいところの単なる強がりであり、虚勢であった。

 部下の前で不甲斐ない醜態を晒してはならぬと言う、王としての矜持と意地が彼女をそう動かしていたのだ。


 そんな内心をこの場で知るのは、幼少より側仕えだったシエルだけだろう。

 優しげな微笑を浮かべてエルファーランを見つめるシエルの面には、嬉しさと誇らしさが浮んでいた。


「魔王様。次のご指示を」

「うむ。魔将達だけに働かせる訳にもいかぬからな。城の保有している『聖属イレス』の星灼がどれだけ保つかわからぬし、このアガルタの航行分を最低限確保するとなると、妾も『偽贄香炉』を起動させねばならぬ」

「私もお手伝いできれば良かったのですが……」

「無茶を言うな、シエル。『聖属』を操れるのは異胚種の中でも『魔王わらわ』だけじゃ」

「……仰るとおりですが――」

「あのぅ……聞いても良いですか?」

「後にせい! 今は貴様なんぞに構っている暇はないのじゃ!」


 一応彼女らの指揮の邪魔にならぬよう、遠慮がちに声を挙げるユディトであったが、脊髄反射的に返ってきたのは痛烈な非難だ。

 直接言葉に発したのはエルファーランだけだが、その場にいる者全員の意思が一致しているのか、黙っていろ、と目線で訴えてきている。


 迸る悪意を目の当たりにして、えらい疎まれようだ、とユディトは他人事の様に思った。

 確かにこれまでを顧みれば、印象は既に最悪に振り切れていて、好転する要素がまるでない。取り敢えず、直接的な敵対行動が避けられていることを良しとするしかなく………。

 それを自覚していたのだが、こうも露骨に嫌悪感をぶつけられれば、もはや言葉を呑み込むことしかできなかった。


 が、そんな程度でめげるユディトではない。

 今更他者からの悪意の奔流に曝されたところで、これまでの経験からその辺りの感受性が著しく衰退しているのだ。そしてそもそも基本的に、ユディトは空気が読めない。


 衆目を全く気にしないユディトは、軽快に這い上がっては改めて周囲を見回していた。


「なんかとっても物騒な雰囲気ですが……何が起きているんですか?」

「き、貴様……本気で言っておるのか!?」

「ええまあ」

「……」


 おそるおそる発せられた疑問に、エルファーランとシエル、カリオンと、その仲間達。現在、〈天環橋〉に残っている者達は、一斉に怪訝を深めていた。

 いずれも心底正気を疑う眼差しであったが、ユディトが何の躊躇もなく頷いたことで、それが本心であることを覚りエルファーランは当惑する。


 現状を理解していないのは、『凶獣』という存在を知らないか、或いは侮っているということである。後者は愚昧甚だしいこと故に一考の価値もないが、しかし前者については、そんなことが現実に起こり得るのかエルファーランには疑問だ。


 凶獣はこの世界の生けとし生けるもの全ての天敵であり、熾烈極まる天災にして逃れ得ぬ死の運命そのものである。人間種だろうと獣精種だろうと、そして異胚種であろうとも例外はない。


 その事実は、この世界に住まう者ならば誰もが知っている事実であり、親から子へと悠久より連綿と語り継がれてきた真理である。


 そんな常識があってか、何処の僻地でどんな風に生きてきたのならば、これ程の無知蒙昧な輩が生まれるのか、エルファーランには不思議でならなかった。

 先程は一笑に伏したが、まさか本当に異世界の人間なのではないか、と荒唐無稽さを肯定してしまいそうになる。


 まじまじとユディトの相貌を見つめるエルファーランであったが、今はそんな疑念を追及している場合ではないことに気付き、小さく頭を振った。

 今は兎にも角にも動いて、足掻かなければならないのだ。


「……貴様のことなぞ、後回しじゃ。シエル。場所を移すぞ」

「はっ」

「こやつらも連れて行く」

「……御意」


 エルファーランに言われて一瞬だけ目を瞬かせたシエルは、だが主君の言葉に背く訳にもいかず。

 忌々しげに殺意を載せた視線をユディトに放り投げた後。主の言葉を実行すべく再び抜き放った剣を床に突き刺す。


 シエルの足下より一様に広がった影は、〈天環橋〉にいる全ての者達を『影の路』に引きずり込み、その場から一瞬で掻き消えた。

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