第10話 再会、そして…(2)

 一方、その頃。

〈天環橋〉に残った面々は、重苦しい沈黙に支配されていた。

 その理由は言わずもがな。

 魔王エルファーランを攫った痴れ者ことユディトが、この場から飛び降りて逃走する、という正気を疑うような行動を完遂した為である。


「まさか、空中を駆けるとは……」


 回廊の縁に駆け寄り、ユディトが降り立った小島を注視するカリオン。

 高低差だけでもかなりの隔たりがあるのだが、それに水平距離も合されば、まかり間違っても跳躍で到達できるような距離ではない。仮に目一杯助走を付けて跳んだとしても、およそ人間には到底不可能だろう。


 実際、助走無しで跳んだユディトも半ば程までしか到達していない。いや、それだけでも充分人間業ではないと断言できるのだが。


 問題視すべき事象は多々あるが、今注意すべきは、ユディトが空中で使用したとされる何らかの術、だろう。急に宙で静止したかと思えば、次の瞬間に高々と跳ねては階段を上るように駆け、悠々と目的の場所に辿り着いたのだから。


 何をしたのか皆目見当も付かないが、その可能性を探る意味でカリオンは、悔しそうに表情を顰めているシエルを仰ぐ。


「信じがたいが、あんな魔印術もあるのか?」


魔印術グリモア』とは、人間種だけが扱える超常を装う為の『聖装具ゴスペル』でも、超常をその身に宿して体現する獣精種の『獣魄神化テオシス』とも異質の、異胚種特有の術体系で、人間種であるカリオンにその知識は多くない。

 祖国の研究機関も古くよりその術式の解明に躍起になっているが、未だに糸口すら見つけられていないのが現状だ。


「私の知る限り、空を飛ぶ術を使用できる者は異胚種で一人だけです。それも個人の特性によるところが大きく、魔印術の体系に組み込むことは不可能と言えるでしょう」

「……そうか」

「それ以前に、あの痴れ者は異胚種ではありません。同胞ならば、我々は感覚でわかります」


 キッパリと断言するシエルに、そういうものか、とカリオンは納得する。

 異胚種の生態についても、人間種国家ではその詳細を掴んでいるとは言えなかった。

 そもそも人間種や獣精種には、古くより異胚種を蔑視する風潮が根強く残っていて、知ろうとすることは禁忌に触れるとして、忌諱されてきたからである。


 しかしながら、異胚種の存在なくして現在の平和はない、と言うのが厳然とした事実である以上、愚かな風潮だとカリオンは常々思っていた。


「あの痴れ者が何の種族であれ、ただの武芸者ではない、ということですね。お嬢様を抱えたまま、我らの攻撃を躱し続けたのですから……認めるのは業腹、ですが」

「それは……確かに」


 神妙に連ねるシエルに、カリオンも同意する。

〈星詠の間〉で、エルファーランも含めた五人の猛攻を悠々と潜り抜けたばかりか、まさか人一人を抱えたまま自分と、自分に匹敵するシエルの波状攻撃を躱し続けられるとは思ってもみなかった。


 随分と無秩序で無駄だらけな動きであったが、あれは恐らく、信じられないくらいに優れた反射神経と、未来予知に限りなく近い勘の良さによるものだろう。

 技術の伴わない、言わば純粋な身体能力だけであれ程のことができるのであれば、どんな形であれ祖国で噂になっていても不思議ではない。


 だが現状、心当たりなど全くなかった。


「シエル殿。貴奴が逃れたあの島は?」

「かの場所は……歴代の魔王様方が入られる霊廟です」

「なんと……立ち入る手段はあるのか? シエル殿の『影の路』で繋ぐことは?」


 自分達を瞬時にこの〈天環橋〉まで導いた恐るべき術があれば、その術理に則る限り不可能な話ではない。晴天の下にある限り、何処であろうと影は生じるのだから。

 カリオンのそんな疑問は寧ろ当然のものだ。


 だがシエルは渋面を浮かべたまま、件の島を見下ろしたまま微動だにしなかった。


「不可能です。あの島には特殊な結界が張られていて、『天色託宣』中の〈星詠の間〉と同様に、外部からのあらゆる術式を拒みます。本来ならば、魔王様以外立ち入ることはできません」

「だが現に賊は――」

「仮にできたとしても、人間種が魔王廟に立ち入ることなど許されるものではありません。いかに貴殿が『七聖の勇者』と言えどもです。……そちらの風習について詳しくは存知しませんが、よもや貴殿の国には、他国の民に王墓への侵入を許すので?」


 改めて指摘されるまでもなく、王家の墓に王族以外の人間が無断で入ることなど、許されていない。

 現実には盗掘者達が埋葬された宝物を求めて幾度となく侵入を試みているが、法を破りし者達は徹底して捕らえられ、尽くが打ち首の刑罰だ。


 それは人間社会だけの常識ではなく獣精種においても同様で、異胚種でも例外ではないのだろう。


 少し考えればわかりそうなことだったが、随分と思考が逸っている自分に気が付き、律儀に頭を下げるカリオン。

 できるできないではなく、シエルにそれを実行する気がないように見えていたのも一因であったが、彼女らの事情と情理を鑑みれば詮なきことだろう。


「……そう、だな。今のは失言だった。申し訳ない」

「いえ、魔王様を心配なさって下さっている貴殿の心はわかっているつもりです」

「しかし、今は悠長に構えていられる状況ではないぞ。魔王の身に何かあれば」

「だからこそ、霊廟に続く本来の経路に部下を配置し、遠視技能のある者達を監視に置きました。今のところ、痴れ者は霊廟の最上層から動いている様子はありません」

「なに?」


 言われてカリオンは周りを確認すると、確かに先程からいたメイド達の数が、幾許か少なくなっている。

 いつの間に、とも思ったが、シエルの持つ技能であれば造作もないのだろう。

『影の網』と呼ばれる意志伝達の術も合わせて、流石は魔王の側近中の側近だと納得せざるを得なかった。


 敬意を込めてシエルを窺うと、彼女は表面上冷静さを装っていたものの、その実、瑪瑙の双眸には苦渋により歪んだ感情の色が載っているではないか。

 そんな彼女の様子を見て、カリオンは自らの浅慮を悟った。

 魔王親衛隊副長の任に就く彼女こそが、今すぐあの地に飛び込んで行きたいのだろう。それをしないのは、その立場による責任だ。


 なまじ手段が自らの手札としてあるからこそ、より一層の自制を促している彼女の真摯な姿に感化されてか、改めて気を引き締めたカリオンも再度下を覗き込む。

 その瞬間、弾かれるような風に晒され、険しく顔を顰めた。


「……改めて思えば、とんでもない高さだな」

「ここは魔王領で最も高きに在る場所です。その理由については、説明するまでもありませんね」

「無論だ」


 この〈天環橋〉が、魔王領アガルタの全景を見渡さんばかりの高さを必要とする理由は、当然カリオンも知っている。

 しかし知識として把握しているのと、こうして体感するのとでは、受ける印象は全く別だ。


 カリオン自身は高所恐怖症という訳ではないが、目眩を催しそうになる程の高さというのはどうにも落ち着かない。ましてやこの僅かな幅しかない縁に悠々と立つことなど、とても真似をする気にはなれない。


 そんなことを考えていると、仲間の一人が、手にした銀弓で眼下の島に降り立ったユディトを射るべく身を乗り出したが、そのあまりの高さに慌てて後退し、小さく身を竦ませている。


 何をやっているのだ、とカリオンは思ったが、寧ろそれが普通の反応だった。

 この恐ろしさしか感じない高さで軽やかに跳び回るなど、翼なき身にとっては狂気の沙汰なのだ。

 今にして思えば、賊はその術を得ていたからこその、破天荒な動きだったのだろう。


「カリオン殿。貴殿に尋ねたいことがあります」


 思惟を深めるカリオンであったが、ふと視線を感じてそちらを振り向く。

 シエルの怜悧な眼差しが、真剣な光を帯びてこちらを捉えていた。


「何だ、改まって?」

「『イルヴァーティの勇者』なる言葉に、心当たりはありますか?」

「イルヴァーティ……勇者、だと?」

「はい。痴れ者はそう自称しました。だからこそ私は懸念を抱いています。かの賊は、人間種国家のいずれかが秘密裏に派遣したのではないか、と」

「馬鹿なっ!」


 寝耳に水とはこのことだろう。

 こちらを疑うような言葉に思わずカリオンも激高しかけたが、彼女らからしてみれば、平時より蔑視されている世界情勢を自覚しているのだから、あまり信用が置かれていないのも頷かざるを得なかった。


 この距離感は、未来の為にも少しずつ縮めていかなければならない命題である、と改めて認識する。

 そして今は、何よりも魔王の身を取り戻すことが急務だと自らに言い聞かせ、カリオンは荒ぶった意識を宥めた。


「……勿論、お嬢様が認めた『勇者』である貴殿のことは信用していますし、貴国アストリア王国についても同様です。ですが『七聖の勇者』、もといアレスティーナ諸国連合は一枚岩という訳ではないでしょう?」

「それは……」


 人間種の国家間で結ばれた軍事同盟、アレスティーナ諸国連合に存在する『七聖の勇者』。

 それは『聖芒の七光アルカンシェル』たる七つの聖装具、つまりは聖剣、聖盾、聖鎧、聖環、聖杖、聖珠、聖典のいずれかの使い手として選出された者達である。


 そのうちシエルが見えたことがあるのは、今、言葉を交わしている『聖剣の担い手』カリオン・ラグナーゼのみ。

 彼ら、あるいは彼女ら個人の気質はどうあれ、結局のところ各国からの選抜による集団である以上、当然それぞれの輩出国の思惑に追従する。


「特に諸国連合の中でも大きな発言権を有するヴァリガン帝国は、『真血派』が主導する人間種至上主義国家。七人の内、三人の勇者を抱えている彼の国は、事ある毎に『天極粋星ステラデウス』の引き渡しを要求してきますので、今回の件も一枚噛んでいると思えてなりません」

「て、帝国はそんなことを言っているのか……」


 政治に関与する立場にないからこそ、連合の中で大きな力を持つ帝国の言葉には、カリオンも耳を疑わずにはいられなかった。


 人間種国家の中で最大の版図を擁するヴァリガン帝国は、生粋の人間種のみで構成された国家で、連合の中心的存在だ。その極端と言えるまでの主義主張は、古くより獣精種との交流を断絶させることで体現している。


 カリオンの祖国であるアストリア王国は、確かに連合の盟主という座にあるが、それは獣精種との融和政策を推し進め、更に異胚種との交流も少なからず持つことができる寛容さ、中庸性を見込まれてのことだ。

 もっとも、人間種、獣精種問わず、異胚種に対しての差別意識はあるのだが。


 いずれにせよ、『天色託宣ゾア・プロフェテス』は魔王のみが執り行うことのできる未来視の儀式であり、この世界を普く覆う災厄・・を回避する為に必要不可欠なものである。

 そして『天極粋星』はその要として、魔王と共に在らねばならない。それは往古より世界が定めた決定事項だった。


 そんな『天極粋星』を接収しようというのは『天色託宣』の否定であり、ひいては魔王、異胚種全体を拒絶していることである。しかし現実的には、世界全体を危険に晒しかねない深刻なことなのだ。


 とは言え、それを表立って糾弾することがカリオンにはできなかった。

 政治とは別軸の立場であると自覚しているが、その手の思惑は水面下で蠢いているものである。ここで下手な言動をすれば、祖国であるアストリア王国をも巻き込んだ外交問題になりかねない。

 だからこそ、カリオンは口を噤むしかなくなってしまう。


 しかし自身の立場を抜きにしても、シエルの人間種国家……特にヴァリガン帝国への疑心が強いことをひしひしと感じ、人間種の一人として、真正面から向き合わねばならない問題だという意識が萌した。


「……そのイルヴァーティ、という言葉については、生憎と聞いたことがない。地名か何かなのか?」

「いえ……そう名乗っていただけですので、詳しくは」

「そうか。では『七聖の勇者』筆頭として断言させてもらうが、俺達の中にあんな賊のような奴はいない」

「騙っている、という可能性については?」

「それも常識に則るならば、考えがたいな。アレスティーナ諸国連合で『勇者』を名乗ることが許されるのは、『聖芒の七光』に認められた者だけだ。それに在らざる者が僭称した場合、重い罪を課せられることになっている」


 いかに政治に関与しないとは言え、『勇者』という称号が持つ影響力が大きいのは、歴史を鑑みれば自明である。


 その名が導くであろう様々な利得恩恵を得んが為に、私利私欲に走った者が、資格が無いにもかかわらず『勇者』として名乗りを上げたという事例は、いつの時代も存在していた。

 だが『勇者』に与えられた役割を思えば、ただ虚栄の為に僭称する者など世界にとって害悪以外の何者でもない。


 そんな偽者対策として諸国連合では厳正な法を布き、人心を惑わし、世界の秩序を脅かしたということで僭称者を相応に厳しく罰することになった。その悪辣さの度合いによって、死罪になったという前例さえある。


「そうですか。全員の顔を知る貴殿の言葉ならば、信じない訳にはいかないのでしょうね。……疑ってしまい、申し訳ありません」

「いや、気にしない欲しい。こんな状況だからな。それに、そちらの疑念は尤もなことだ。実際、同じ勇者を冠する者達の中にはも、名誉欲に取り憑かれている者や良からぬ野心を抱いている者も確かにいる」


 自身と同格の勇者達を脳裡で思い返し、渋面を浮かべながらカリオンは連ねる。

 出身国であるアストリア王国から選ばれた勇者は、自らも含めて二人だ。

 親友ともいえる勇者は今、祖国の守りの中心として国元を守護している。自身よりも柔軟な性質の彼ですら、異胚種に対する感情は良いものではない、というのがカリオンの見立てだからである。


 現実的には、カリオンのように異胚種への偏見がない方が少数派なのだが。


「……魔王が世界の平和を支えている事実に疑いようはなく、その助力ができることは限りない栄誉だと俺は考えている。そして、この任に就けたことは俺の誇りだ」


 聖装具『光浄剣プルガシオン』の柄に触れながら、自らの内なる思いを吐露するカリオン。

 それは聞き手の立場によっては、態のいい言い訳とも取られかねなかったが、カリオンの真剣な姿からはそんな謀りや誤魔化しなど一切感じられない。


 ただ不器用で、どこまでも朴訥で真摯な姿勢を見たシエルは、小さく頷いていた。


「……ならば、アレは何なのでしょう? 異胚種でもなく、人間種でなければ、獣精種くらいしか考え付きませんが」

「だが、貴奴の外見は人間だ。獣精種はどの氏族の者であろうとも、身体的特徴が顕れるからな」

「そうですね」


 獣精種は半獣半人の生態を取る種族である。その特徴は顕著で、人間種には考えられない尻尾や獣耳が生えていたりと種族毎の特徴が最も多岐に亘っていた。

 その観点から論ずるのであれば、魔王を攫った不届き千万極まりないユディトには、いずれの特徴も見られなかった。


 故に、この世界の常識に基づいて検討を重ねても、答えは得られそうにない。全ては根拠に乏しい可能性の話でしかないのだ。


 カリオンは知らず強く握りしめていた拳を解き、深々と嘆息する。


「突入できないのであれば、見張るしかないのか。もどかしいな」

「……認めたくはありませんが」


 苦々しく呻くカリオンに、シエルは悔しげに頷いた。

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