第9話 再会、そして…(1)

「ぎゃああああああああああああ」


 一瞬の浮遊感から転じた落下。

 地の底への引き摺り込まんとする重力の鎖は、一瞬で全身に絡みついては自由を奪い、一挙に押し寄せてくる凄まじいばかりの風圧が、無防備な心身を強かに打ち据えてくる。


「お、おおおおおおおおお落ち――」

「……淑女がそんなはしたない叫びを挙げるのは、感心しませんよ?」


 一切を弾き飛ばさんとする濁流の中。

 荒れ狂う激しさをものともしない、実に場違いなユディトの苦言も当然のようにエルファーランには届かない。


 全方位より襲い掛かってくる風は暴虐そのもので、全身の感覚を剥ぎ取らんと振るわれる無慈悲な暴威によって、総身をけたたましく掻き混ぜられたエルファーランは、実にあっけなく意識を手放してしまった。


 そんな彼女の様子に気付かず、その身体が離れないようにしっかりと両腕で固定したユディトは、遙かな地面を凝視して小さく呟く。


「『ヴァーヴズ』」


 その瞬間。

 四肢に、五体に纏わり付いていた重力の蔓が、消えた。

 その代わりに、ユディトの足元の虚空に不可思議な幾何学紋様を無数に並べて描かれた円陣が浮かび上がる。


 滔々と虹色の耀きを湛えたそれを、地面を蹴るが如く強かに蹴り付けては、確かな反動で再び空高く舞い上がった。


「お? おおおっ!?」


 何もない空中で地を駆るよう脚を動かす度に、その足元で虹色が煌いて、前へ上へとユディトを押し上げていく。

 やがて落ちてきた高低差を一気に覆したユディトは、不可視の流れに身を委ね、まるで波に乗るが如く万魔殿外周最外縁を漂う浮島に向かって滑空した。


 だが。ユディトが着地体勢に入り、今まさに降り立たんとする刹那。

 何もない筈の虚空になんらかの力場が生じ、抵抗と化して侵入を阻んできたではないか。


「ありゃ? これはっ!?」


 突然のことに困惑するユディトであったが、こういった場合、下手に避けようとするとあらぬ方角へ弾かれてしまうと判断し、少々強引だが、そのまま力任せに押し進むことを選択する。

 すると想像したよりもずっと抵抗が弱かったのか、容易く蹴散らしてしまい、無理矢理突き進もうとした意気込みが仇となって、勢いを殺しきれなかったユディトは、そのまま浮島の表面に突き刺さってしまった。


「――よしっ、着地成功!」


 爆発音にも似たけたたましい破砕音を轟かせながらのそれが、まともな着地であるかはさておき。

 ユディトは内心で、これまで培ってきた経験による目測が適切であったことに、密かに安堵していた。距離感を間違えて悲惨な目にあったことも、両手では数えきれない程の実績があるからだ。


 そして現状、ユディト自身は下半身どころか胸元まで床にめり込んでしまったが、両腕で抱え上げているエルファーランに影響はない。

 方々に向かって大々的に宣言した人質の安全は保証するとの言葉を、守ることができたのである。……自分一人なら、別に弾かれて落ちたところで何の問題もなかったのだが、という思いは当然のように胸の奥に押し込められたが。


「危うく弾かれるところだったけど、今のは結界か?」


 濛々と立ち昇った煙が冷たい風にすぐさま掃われると、ユディトを中心とした小規模のクレーターが露になる。


 整然と敷き詰められていた石畳は深々と窪み、蜘蛛の巣のような亀裂が無惨にも走っていて、砕けに砕け散った石床の残骸は哀愁さえ漂わせている。

 まるで隕石でも落着したのではと疑ってしまう惨状は、着地の際に生じた衝撃の凄絶さを知らしめていた。


「……そもそも何なんだ、ここ?」


 比較的無事な石床にゆっくり少女を横たえたユディトは、のそのそと這い上がり、久しぶりに両腕が自由になった感触を確認しながら、何となしに周囲を見渡す。


 この場所より更なる高所の〈天環橋〉から見下ろした時。

 特に印象的に映った岩島だが、こうして直接足を着けて観察してみれば、奇妙さが際立っていた。

 特に目を惹くのは、島の表面積に対して本当に僅かな建坪率で築かれた小さな祠らしき構造物である。


 この地に住まう『ぜのぶりーど』たるエルファーラン達は、石材加工に秀でた文化を形成しているのか、一つの岩石より造られたそれは、まるで何かを封印しているかのような、おどろおどろしい気配を放っていた。

 そこに内包しているであろう何か・・を隠し切れていない所為か、周囲の空気は屋外であるにも関わらず重々しく、〈天環橋〉とは似ても似つかぬ息苦しさに満ちている。

 他の浮島のように樹木や苔、草々が生えている訳でもないことから、人の手が定期的に入っているのは間違いない。


 一言で表わすなら物寂しい、という言葉がピタリと当て嵌まるのだが、そんな状況を見たユディトは両腕を組んで小さく唸っていた。


「あの祠っぽいの……明らかに厄介事の雰囲気が出ているよなぁ。これ以上ややこしくなるのも面倒臭いし、近寄らない方が良いか。こういうのって、確か「触らぬ何とかに祟りなし」だったかな?」


 現時点でもそれなりに離れているが、更に近寄れば何らかの干渉が起きて、良からぬ事象が実現化するかもしれない。

 哀しくなるほど自覚している自身の間の悪さは筋金入りで伊達ではなく、神器も併せることでの周辺環境への影響力を鑑みるならば、不意に脳裏に浮かんだこの予感は、寧ろ未来からの警告である。


 故にユディトは、これ以上接近しないことを固く誓った。


「それにしても……念の為に『真韻ケニング』を重ねて発動してみたけど、やっぱり余計だったか。簡単に床石を踏み抜いちゃったし、思った以上にこの世界の強度は低いのか」

「……」

「あ、そうだ、エルファーランさま。ちょっと確認したいんだけど……ありゃ?」


 踵を返してエルファーランに視線を向けるユディトであったが、当の彼女は横たわったまま、ピクリとも動いていなかった。


「気を、失ってる? ……こ、これくらいの女の子には少し刺激的だったのか?」


 命綱なしで高所から飛び降りるのは、自殺志願者か、死と隣り合わせのスリルの味に魅了されて抜け出せなくなった酔狂以外の何者でもない。


 ユディトが宙を駆けれることを予め知っていたならばまだしも、そうでないのならば、無理心中を強いられたと思って意識を閉ざしても大袈裟ではないだろう。

 そこには年齢や性別など微塵も関係がない。ましてや刺激的、という刹那的な感情論で片付けれるような話ではないのだ。


 相棒のイヴリーン以外と行動を共にすることが、本当に久しぶりだった為、他者との感覚の乖離をすっかり忘れていたユディトは、またやってしまった、と小さく自身の頭を小突き、今し方飛び降りてきた遥かな高さの〈天環橋〉を徐に見上げた。


 残った者達がこちらを指差して、何やら慌しく動いているようであったが、開かれた距離と吹き抜ける粗暴な風の所為で、流石に何一つ話し声は拾えない。


「ふむ。影があるのに追ってこない……何でだろう? カリオンって人達を送り込んできた術を使えば、一瞬だと思うけど」


 色こそ違えど晴天の屋外で物体がある以上、影は生じるものである。現に祠であったり、横たえたエルファーランであったり、ましてやユディト自身の影も石畳にその存在を主張しているのだ。

 影を用いた空間移動の術があるならば、周りに何もなく開けただけのこの島は、襲撃には絶好の場所である。


 しかしながら、エルファーランの臣下で実直そうなシエルがそれを使って追跡してこないのであれば、この浮島にはやはり何らかの事情があるとみて間違いないだろう。


「まあ、別にいいか。こっちとしても、状況を整理するには丁度良いしね」


 そう言って、ユディトはエルファーランの傍らに腰を下ろした。


「それにしても……『まおー』って何なんだ? 『ぜのぶりーど』だの『ぞあ・ぷろふぇてす』だの色々言っていたけど、全く意味がわからないんだよなあ」


 神器の言語翻訳機能でも通訳しきれず、だがそういう単語だと片付けてしまうには、あまりにも言の葉に秘められた想念が強い。だからこそ酷く耳に残っている。


「ハッキリしているのは、あの人達にはこの距離を跳ぶことも、空を飛ぶ手段がある訳でもない、ってことか……んん? 『耀力フラジール』は存在しているのに、『耀術エヴォカーレ』は使えないのか?」


『耀術』。

 それは物質の基幹である分子や原子よりも更に深淵で根源的。世界そのものの構成素子である『耀力』を収斂し、加速励起して事象に置換する技術である。


 嘗ては一子相伝の秘儀とされていたが、無数の試行錯誤と研究の果てに原理は解明され、現代に生きる〈アンテ=クトゥン〉の人間ならば、誰もが使えるとまで言われる普遍技術だ。

 耀術体系には飛行術も存在し、実用のものとして術式は一般レベルで公開されている。


 そして〈アンテ=クトゥン〉と連結していた無数の世界群を調査した結果。呼び方に差異はあれど、全ての世界に共通して耀力が存在する、と実証されてきた。


 ユディトの疑問は、この名も知らぬ異世界でも耀力の存在を確かに感じていたが故のものである。


「いや待てよ。さっきこの子達が使っていたのは耀術、だよな?」


 この世界に降り立った直後に喰らった、カリオンやエルファーランの一撃。

 カリオンの仲間達がそれぞれの武具から放った攻撃の数々。

 そして、闇に満ちた回廊で降り注いできた、シエルの操りし影錐。

 多少違和感もあったが、いずれもその内側で荒ぶる耀力の波動を感じたものだ。


 この島に降りる直前。余力があることを匂わせたカリオンやシエルは、また別の単語を用いていた気もするが、おそらくはそれに類するものなのだろう。


 とは言え、気になる言葉が多すぎて、正直ユディトは自分の中で整理しきれていなかった。


 うーん、と唸りながらユディトは意識を失ったエルファーランの顔を凝視する。

 完全に意識を失っているが、顔色を蒼白にして険しく顰められたその面は、悪夢に苛まれている少女のそれだ。


 しかし情報収集するには、やはり現地の人間との対話を行うべきだと初心に返り、目覚めさせようと彼女にそっと手を伸ばす――。


「小娘の寝込みを襲うのは、関心できることではないな」

「うわあっ!?」


 指先が少女に触れる寸前。淡々とした声が、ユディトの耳朶を打つ。

 突然のそれに吃驚して思わず仰け反り、大袈裟にもそのまま倒れてしまったユディトの視界に、フワリと影が舞い降りた。


「ようやく合流できたか、ユディト」

「イヴ!」


 仰向けに倒れたユディトの胸に、心地よい重みと共に降り立ったのは、一羽の鳥。

 威風堂々と、まるで玉座に座した王者の如く泰然と君臨するその体躯は、ユディトの頭ほどの大きさだったが、獰猛さを感じさせる嘴と、どんな獲物をも逃さない鋭い眼差しが等しく周囲を威圧している。

 種類としては猛禽に類別される隼になるのだろうが、その羽毛の色彩は波打つ蒼海の鮮やかさで、超然とした黄金の双眸が一際ただならぬ存在感を主張していた。


 この麗鳥こそが、ユディトが三種の神器……『皇権イルヴァーティ』を手にした瞬間から共にいる相棒、イヴリーン=ヘルブリンディである。

 彼女は適合者であるユディトに神器の扱い方を叩き込み、様々な知識を授けてくれた存在で、『元始』のイルヴァーティの勇者だ。


 神器を得てからずっとイヴリーンに教導されてきたユディト=ヴァーヴズにとって、彼女は師であり相棒であり、運命共同体とも言える最大の理解者。

 ある意味、ユディトの精神安定剤のような役割さえ担う存在であるが、彼女にまつわる事物でユディトにとって負の要素があったとすれば、〈アンテ=クトゥン〉において、イヴリーンの存在は神器を拝したユディトにしか認識できなかった、と言う点だろう。


〈アンテ=クトゥン〉解放の旅の最中。

 その姿や声が他者には感じられなくとも、自身の傍らで確かに実在しているイヴリーンを、いないものとして扱うことのできなかったユディトは、当たり前のように彼女に話を振って意見を仰ぐことを躊躇わなかった。

 そんなユディトの行動は、傍目からは何も無い虚空に突然話しかける奇行そのもので。

『魔物』の討滅と『境界門』の奪還という目的を同じくした旅仲間とはいえ、ユディトは幾度と無く奇異と怪訝の視線を向けられていたのだ。……ただし、本人は一度として周囲から向けられる視線を気にしたことはなかったが。


「すごく心配したんだよ。どこに行っていたんだい?」

「その言い方では、まるで私の方が迷子になっていたかのように聞こえるが……まあいい。私は今、この世界に辿り着いたんだ」


 ようやくの再会に表情を綻ばせたユディトは、イヴリーンの言葉を受けてパチリと目を瞬かせる。


「へ? いやいや、僕がこの異世界に来たのって、二時間位前だよ」

「そうなのか? 私は結構な間、あの光の洪水の中を彷徨っていたんだが」

「僕の方は一瞬だったのに?」


〈アンテ=クトゥン〉外の宇宙空間に突如として発生した、光の洪水。

 確かな質量による圧力を伴った眩いばかりの瀑布に、ユディトはイヴリーンと一緒に、同時・・に呑み込まれたのは間違いない。


 押し流された果てに、一時的に彼女とのリンクが遮断するという前代未聞の事態にも陥ったが、自覚した瞬間に再度復旧してことなきを得たのは記憶に新しい。

 そしてそれは、胸の奥底に払拭し難き違和感を残していた。


「『ヘルブリンディ』を使った、という訳じゃないよね?」

「当然だ。使う必要がないし、おいそれと使って良いものじゃないからな……何故そう思った?」

「君の気配は感じていたんだけど、位置座標が全然割り出せなかったんだ。その時の感覚が、君が『ヘルブリンディ』を使っている時と似ていたからさ」

「それは……確かに妙な話だな。私の方は、ずっとお前の位置座標はわかっていたんだが、空間跳躍ができなかった」

「……どういうこと?」


 ユディトとイヴリーンは、神器を介して共存している為、互いの位置座標が判明しているならば、瞬時にどちらかの方に空間的距離を越えて移動ができる。もちろん、相応の耀力や体力、精神力を消費するので気軽に使えるものではないのだが。


 次々と明るみになるイヴリーンとの認識の違いに、ユディトは首を傾げた。

 不可解としか言えない事実群の中で判然としているのは、全ての原因はあの光の洪水にある、ということだろう。


 ユディトがおぼろげにそんなことを考えていると、思考を深めるかのように、イヴリーンは翼の先端を嘴に当てていた。

 それは人間で言うところの、顎に手を当てる仕草と同義なのだが、なかなか違和感のある姿で未だにユディトも慣れていない。


 しかし彼女がそうしている時、ユディトは余計なことを口にしないようにしていた。

 一緒に行動する中での最終的な決定権を握っているのは自分であるが、考えた上で率先して動くと、何故か厄介事に巻き込まれる割合が非常に高くなるので、自然と同道する彼女に意見を仰ぐようになり、そのまま頭脳労働を任せるようになったのである。


「情報が少なすぎるから、現時点では何も言えないな。後で神器にも環境値の変動を確認してみるから、少し時間をくれるか?」

「ん、了解」


 慎重すぎるくらいに慎重を重ねるのはイヴリーンの性格で、ユディトとしてもそこに異を唱える気など更々ない。寧ろ頼もしいので、思う存分思惟に耽ってくれても構わないとさえ思っている。

 そんな気楽な態は偏に他人任せな姿勢にも映るが、それもまた二人の間で結ばれた信頼の形だった。


「それより、この娘は気を失っているのか?」

「あ、うん。あっちから飛び移った時に気絶しちゃったみたいで」

「ふぅん……」


 ユディトが指さした遥か上空をチラリと一瞥し、イヴリーンは意識を手放した少女の面をジッと見つめる。そして振り向き、ユディトに意味ありげな視線を投げつけた。


「なぁ、今どんな気持ちだ?」

「どんなって……な、何がだよ?」

「この娘を見て、という意味だ」


 ふわりと軽く跳んで、寝転がったままのユディトの顔の側に近寄ったイヴリーンは、耳元で吐息混じりに囁く。その声色はどこか艶かしく挑発的。そしてこちらの反応を愉しんでいるかのような気配さえ醸している。


 どこか粘着質で詰問染みたそれに、何故だか追い詰められた気分になったユディトは、やがて問いの意味を察し、気分を害したのかジト目でイヴリーンを睨み返した。


「……それを聞いてくるなんて、随分と悪趣味じゃないか?」

「そうか? これでもお前の心痛を慮っているんだがな」

「……傷口に塩を塗り込んでいる、の間違いだろ」


 だがイヴリーンの黄金の双眸に揺らぎはない。

 誤魔化しなど無駄だと言わんばかりの眼差しに、早々に音を上げたユディトは深々と溜息を吐き、どこか遠い目で翡翠の空を見つめた。


「確かに……ビックリしたのは事実だけど、さ」


 ユディトには、叶えたい願いがあった。

 嘗ての〈アンテ=クトゥン〉は、打倒不能な『魔物』の侵略によって暗澹の渦中にあり、人々は日々絶望を謳い、明日も知れぬ身に自棄になる者も頻出して、治安は乱れに乱れていた。


 ユディトが住んでいたのは、『魔物』の侵攻目標であった『境界門』敷設地点から遠く離れていた地方都市で、比較的まだ穏やかな状況であったが、いつそれが崩れるかもわからない。

 そんな不安を人々は潜在的に抱えて過ごしていた。


 その地方都市を治める領主家で下働きをしていたユディトは、元々は〈アンテ=クトゥン〉最大の都市にある奴隷市場で、商品価値がないとして廃棄処分される寸前に、屋敷の者の同情によって身買いされてきた奴隷である。


 個人の権利が既に世界的に確立していた〈アンテ=クトゥン〉において、奴隷制度は前時代的で多くの国々で人類史の悪しき側面として廃止されていたが、需要があるからこそ供給が生まれるもので。

 完全に衰亡することなく、そういった仕組みは日陰の中で細々と存続していた。


 ユディトが解放されたのは、ひとえに親代わりとなった使用人の老爺と、領主の息女のおかげである。老爺に連れ添われて歩いていた息女が、偶然奴隷市場の牢獄の前を通り、その中でただジッと座っていたユディトと目が合い、可哀相だと駄々を捏ねた結果だった。……情理の面を抜きにすると、ユディトが身買いされたのも、需要が発生したからであるのは皮肉としか言いようがないが。


 ともあれ、死の香り漂う牢獄より解き放ってくれた恩人たる領主の息女は、その立場や背景に固執しない柔軟な考えの持ち主で、使用人達にも平等に接し、その出自が出自である為に、屋敷の者とは目を合わせることすら許されなかったユディトにも気軽に話しかけてきたものだ。


 花鳥風月の麗雅さを以て、いつも多くの人々に囲まれ、朗らかで可憐。大輪の向日葵のように屈託なく笑う彼女。

 しかし、世界全体に病のように蔓延していく暗澹は、そんな彼女から笑顔を奪っていく。


 子供だからこそ顕著だったのか、日に日に色濃くなる怯えを面に貼り付けた彼女を、ユディトは見ていることができなかった。

 だからこそユディトは、彼女に笑顔を取り戻すべく、生還率がほぼゼロという『三種の神器』解放の儀式『聖贄の儀』に挑むことを志願する。


 そして。

 その幼く純粋な願いを胸に、見事それを果たして『イルヴァーティの勇者』となったユディトは、『魔物』を掃討し〈アンテ=クトゥン〉を救ったのだ。


――そこで終るならば、立身出世の物語として一角のものになっただろう。

 しかし現実は、そんなに都合良くも甘くもなかった。


 なんにせよ、今となってはもう二度と会うことも許されないその女性が、エルファーランと瓜二つなのだ。驚くなというのが無理というものだろう。

〈星詠の間〉から脱出する際にとった人質の二択で彼女を選んだのは、もしかするとそんな無意識下での葛藤があったからなのかもしれない。


(……まさか)


 ふと自らの歴史を顧みて小さく自嘲するユディトの耳に、イヴリーンの溜息が聞こえてきた。


「世界には良く似た人間が三人はいると言うが、まさかここまで瓜二つとは……因果というのも随分と残酷なことをする」

「残酷かどうかは別にしても、そもそもここは異世界だし、似た人間が何十人いようが構わないよ。年齢だって違うと思うし、気にしたところで意味がないんじゃないかなあ」

「む!?」


 そこがお気に入りなのか。再びユディトの胸の上に乗ったイヴリーンは、意識をなくしているエルファーランの姿を凝視している。

 特にその顔立ちから想像できる年齢にそぐわない、ふくよかな双丘を見下ろしては、驚愕を漏らして溜息を嚥下していた。


「……侮れんな。流石は異世界、ということか。いやしかし、私とてまだまだ――」

「イヴ? 何ブツブツ言ってんの?」

「お前には関係ない」


 相棒が懊悩する姿が珍しかったので思わず尋ねてみたが、こうもとりつく島もなくバッサリと切られては、ユディトとしても口を噤む他ない。

 ただ、どことなくイヴリーンの機嫌が急転直下しているのを経験より察知し、早々にその話題に見切りを付けることにした。


「でも、こうして無事に合流できて良かったよ。君に何かあったらと思うと、僕も気が気じゃないからね」

「なんだ? 形振り構わず、色々なところを壊してでも探してくれるのか?」

「勿論。必要なら、世界そのものをひっくり返すよ」

「……まあ、それはお互い様、とだけ言っておこうか」


 屈託なく笑うユディトに、イヴリーンは、ふい、と身体の向きを変えて羽ばたく。

 照れ隠しかと勘繰ってしまうタイミングであったが、岩島の周囲を一度大きく旋廻してから真正面に仰々しく降り立つという、イヴリーンらしからぬ勿体振った行動にただならぬ気配を感じ、起き上がったユディトは背筋を伸ばした。


「この世界については追々調べていくことにして……ユディト。さあ語ってもらうぞ。今、お前の置かれた状況がどういうものなのかを」

「あー、うん。それはね――」


 どこか逆らいがたい雰囲気を解き放つイヴリーンに向けて、ユディトは言葉を紡いだ。

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