第8話 イルヴァーティの勇者(2)

 魔王を攫った不審者に対して、一切の慈悲も躊躇いもカリオンは持たなかった。


 シエルによって城内に張り巡らされた“影の網”を通して現状の情報を受け、“影の路”を通って賊の背後より奇襲を掛ける。それがシエルとあらかじめ打ち合わせていた作戦だ。


 騎士として性分からか、背後から、という点だけは不本意であったが、魔王を攫うことは言語道断であり、世界のためには自身の幼稚な呵責など呑み込むべきだ、と物事の優先順位をしっかりと見極めて私情を押し殺す。


 狙いは一点。前方だけに注意を払っている様子の不審者の、首。

 両腕に抱えられたエルファーランに届かぬ程度の出力を光浄剣より引き出し、賊を確実に屠る。


 カリオンの意気に合わせて煌く刃が一直線に標的の延髄に吸い込まれ――。


「ありゃ? なんだこれ?」

「ぎゃあ!」


――まるで解けた靴紐を直すが如き気軽さで上体を沈められ、回避されてしまった。

 ちなみに淑女らしからぬエルファーランの叫びは、不意にユディトが覆い被さってきたからである。


「ええい、か、顔が近いっ! は、離れるのじゃ!!」

「……なんだ、石ころか」


 眉を寄せて足元を見つめていた賊ことユディトは、残念そうに溜息を吐いている。


「……貴様、何を期待しておった?」

「いやあ、お金でも落ちてたら幸運かなぁと」

「そんな都合の良い話があるものか! だいたい、こんな辺鄙な場所に金銭が落ちているかもしれない、などという発想そのものが浅ましくて卑しいぞ!」

「それはまあそうなんですけど。貨幣を見ればその地域の文化レベルがある程度推察できるって、以前イヴに言われたことがあって――」


 金貨、銀貨、銅貨といった硬貨ならばその材質となる金属の計量術、精錬技術や彫刻細工の精巧さ。

 紙幣ならば製紙、印刷技術など他にも様々な情報を得られ、ある程度の文化水準を推し量ることができる。そればかりか、貨幣の有無は貨幣経済が確立しているか否かの答えとなり、経済の進歩段階から社会構造の推察も可能とする、思索を深める為の重要な要素が幾らでもちりばめられているのだ。


 平時ならばシエルもカリオンも、これまで飄々とした態を晒してきた賊のらしからぬ物言いに、幾許かの興味や感心を向けたのかもしれない。


 しかし、現状はそれを許さない。

 状況をまるで意に介さず、エルファーランと言い合っているユディトの姿を注視したまま、空を切った剣を引き戻して体勢を立て直すカリオン。その表情は驚愕一色に染まっていた。


「今のタイミングで躱した、だとっ!?」

「まさか」


 見れば『聖剣の勇者』をこの場に導いたシエルもまた、仕留めたと確信していたのだろう。目を大きく見開いて息を呑んでいるではないか。


「シエル殿、すまない。千載一遇の機だったが、無駄にしてしまった」

「……いえ、今の奇襲を回避されたのは驚嘆に値します。私も非は唱えられません」

「かたじけない」


 淡々とした口調で警戒度を一気に引き上げ、改めて鋭い細剣を構え直したシエルに、カリオンは律儀に頭を垂れている。


 今の今まで女性しかいなかったにもかかわらず、いきなり発せられたカリオンの声にユディトは弾かれたように顔を向け、さも当然のようにシエルが言葉を交わしている光景を目の当たりにして思いっきり狼狽した。


「ありゃ? 君はさっきの……な、何でここに? 今までいなかったよねっ!?」

「カリオン!」


 その驚き様たるや、まるで今の奇襲などなかったかのようで……事実、ユディトは自分が攻撃されたことすら気付いていなかった。

 気配に敏感だと自負するユディトにとってこの上ない失態だが、甲冑の摩擦音や衣擦れ音は上空の強い風音に阻まれ、且つそれが伝わるよりも早く、空気を引き裂くカリオンの一撃が放たれたという要因が重なったからである。


 今更ながらの動揺を露にするユディトとは逆に、エルファーランの声には喜色が滲んでいた。

 そこからは彼の者に対しての信頼がヒシヒシと感じられ、両者の関係性を図ろうとしていたユディトは更なる混迷へと叩き落とされる。


「ああ、ちょっと待って! なんか色々混乱してきた。ええと、そ、そう! とりあえず話を――」

「勇者殿」

「ああ。魔王を奪い返すぞ!」


 制止を求めるユディトを黙殺し、シエルとカリオンの意気が交錯した瞬間。

 二つの刃がユディトの左右から同時に肉薄していた。


「んげっ!?」


 首を刎ねんと閃くシエルの剣と、下肢を断たんと放たれたカリオンの剣。

 瞬く間に距離を詰め、空気を引き裂き、唸りを上げながら真一文字に接近するそれぞれの刃が、ユディトに到達せんとした刹那。


「とおっ!」

「ぐぬ、またかっ!」


 気の抜ける掛け声と共に、ユディトは改めてエルファーランに覆い被さるように上体を前に屈め、そのまま前方へ跳躍することで瞬閃の両撃の隙間に滑り込み、これを躱していた。


 そのまま回廊の真ん中に着地し、左右のどちらかに跳び退こうとするも、その僅かな逡巡を狙っていたのか、カリオンの光を帯びた剣が大きく翻り、追撃としてユディトの背後に襲いかかる。


 たまらず咄嗟に左に跳んで逃げるユディトであったが、そう行動するのを着地体勢から予測してか、洗練された無駄のない動作で回り込んでいたシエルが、ユディトの両肩と顔面の三カ所を狙って、殆ど同時に颶風の如き刺突を繰り出していた。


「ちょっ!? あ、危な――んげっ!!」


 慌ただしく左右に身体の向きを変え、バックステップで三連撃をやり過ごすも、今度は大きく剣を振りかぶったカリオンが踏み込んできていて。

 命辛々別方向に回避したところで、そこにはやはりシエルが待ち構えている。


 どちらかが正面から牽制すれば、もう片方が全力で背後から襲いかかり……その逆もまた然りで。

 即興でありながらも、互いが最大限の効率で動けるよう次に繋げてくるあたり、それを可能とするだけの経験に裏打ちされた実力があるということだ。


 シエルとカリオンの、まさに息を吐かせぬ連撃を前にして、ユディトは回避行動に苦心を余儀なくされていた。それは両者の攻撃が凄まじく洗練されたものでもあるが、ユディト自身、これほどの剣戟に晒された経験はあまりなかったからでもある。


 現代の〈アンテ=クトゥン〉における兵器事情で、兵が手にするのは殆どが扱い易く高威力な銃火器類で、そこに耀術を組み合わせる戦術を執るのが通例だった。勿論近接武器を得意とする者もいるが、活躍の場は白兵戦という限られた場所しかない。


〈アンテ=クトゥン〉は既に近代化が図られた反面、個人の武勇が物を言う時代ではなかったのである。


 とは言え例外というものは必ずあり、その最たる者こそ『イルヴァーティの勇者』であるユディト自身であるのだが、戦闘技術という点において突出して優れている訳ではなかった。

 一般人よりは遥かに武器を扱えるが、正規の訓練を長期間受けた人間に比べると見劣りは否めない。

 眼前のシエルやカリオンのように、技術で遥かに自分の上を行く者など、幾らでも存在したのだ。


 それでもユディトを〈アンテ=クトゥン〉最強の頂に到達させたのは偏に膂力であり、敏捷さである。

 そこに神器の特質も併せ、敵の認識できない速さで接近して斬る、という単純作業を淡々と無数にこなすことで、ユディトは『魔物』に屈した世界をひっくり返したのだった。


 しかし今。

 相手を制圧する気のないユディトは、己の路を支えてきた柱を使うことができないでいた。


 両腕は使えないものの蹴撃は可能だが、それを実行してしまえば、確実に相手を殺してしまうだろう。今まで散々踏み砕いてきた床や壁の強度が、ユディトに警鐘を鳴らし続けているのだ。

 速さを出して動くにしてもこの場は狭すぎ、本気で踏み込むと崩壊しかねない。そもそもその場合、腕に抱えたエルファーランの存在が問題になってくる。


 以前、〈アンテ=クトゥン〉で世界解放の旅をしていた時。

 仲間の一人が怪我を負ってしまい、慌てたユディトが治療術が使える者のところまで背負って運んだことがある。

 生まれ育った〈アンテ=クトゥン〉とはいえ、神器を得たユディトの身体能力は既に異常であった為、ユディトの動きに耐え切れなかった仲間は、術者の所に付いた頃には意識を失っていた。


 腕に負ったほんの掠り傷だったのが、脳や内臓を深刻に掻き回された挙げ句、両大腿骨の骨折、筋断裂という悲惨な結末になってしまったのである。治療術で直ぐに回復したから事なきを得たのだが、背負われた者にとってはとんだ災難だったに違いない。


 現状では、エルファーランも似たような結末を辿ることはユディトにも容易に想像ができてしまう。

 つくづく自分に優しくない環境……もとい、環境に優しくない自分である、とユディトは自嘲したが、力の配分に苦慮しながら回避に専念するしなかった。


「あ、ありゃ!?」


 もう何度目かになる攻撃をなんとか躱したユディトの足先が、不意に石床の継ぎ目に引っ掛かり、その身体を大きく揺らがせてしまった。


 当然その瞬間を二人が見逃す筈もなく。

 シエルとカリオンはこの長く続いた回避劇に幕を降ろそうと、同時に首を狙っての一撃を放った。


「これでっ!」

「終わりですっ!!」


 かつてない速さで繰り出された前後からの挟撃に対し、普通に跳ねるだけでは回避しきれないと咄嗟に判断したユディトは、その場で強めに踏み込んで床板を打ち抜き、敢えて片足を大腿まで埋もれさせて体勢を崩すことで間一髪回避する。


「おおおおっ!?」

「ひぃぃぃぃ!!」


 頭頂の直上を剣の軌跡が走ったことで、腕に抱えたエルファーランと共に声にならない悲鳴を挙げてしまったが。


 止むなしで咄嗟の行動だったが、これまで行く先々で床や壁や天井を踏み抜いてきたユディトの震脚は、自らだけでなく周囲にも多大な影響を齎していた。


 原理は不明だが、現在では完全に浮遊した〈天環橋〉なるこの場所も城内と同様に大きく震撼し、その場に立っていた者達の平衡感覚を一瞬だが狂わせたのだ。無論、それは次動作の準備に入っていたカリオンとシエルの二人も例外ではない。


 誰しもが瞬間的に蹈鞴踏んだその機を逃さず、ユディトは立ち上がって二人の制空権から逃れようと後退で距離をとったが、数秒もしないうちに硬直から回復したカリオンとシエルが、次なる攻撃を今まさに放たんとしているのを目の当たりにする。

 様子見など無いと言わんばかりの気迫を前にして、ユディトは思いついたばかりの打開策を実行した。


「ほいっ、と!」

「ほへ?」


 気の抜けた掛け声を挙げながら、なんとユディトはまるで軽い荷物を投げ渡すように、左右から迫るシエルとカリオンの丁度中間あたりに向けてエルファーランを放り投げたではないか。


「ぎゃあああああっ!!」

「お嬢様っ!!」

「魔王!」


 その効果は覿面で、追撃の最中にあったシエルとカリオンは一瞬の内に制動をかけて止まり、ユディトには目もくれずエルファーランに視線や体勢を移していた。


 そんな明らかな隙を狙って逆に距離を詰めていたユディトは、半ばで中断された攻撃の要である両者の剣の腹を、多少力を込めて上から叩く。すると両者の剣は、まるで巨石でも乗せられたかのような衝撃と共に、床にあっさりとめり込んでしまった。


 剣身が折れなかったのは、それだけ頑丈に鍛えられた名剣だから故だろうが、それらを握るシエルとカリオンは、両腕に信じがたい過負荷がかけられて身体がよろけてしまい、しかも半ば無理矢理に意識から外されていたこともあって、踏ん張りが利かないまま正面からぶつかってしまう。


「ぬおっ!」

「くっ!?」


 その隙に悠々と両者の間を抜けたユディトは、タイミング良く落ちてきたエルファーランを両腕でしっかりと受け止めた。


「はい、おかえりなさい、っと」

「ひ、ひええぇぇ」


 ストンと再び両腕に収まった少女にユディトはにっこりと微笑みかけるが、いきなり遊覧飛行させられたエルファーランからすれば、それどころではなかった。

 両腕が拘束される前にユディトの襟首を掴み、エルファーランは憤る。


「き、きききき貴様っ~、な、なんてことをっ。ば、ばばば場所を弁えよ!!」

「あー、ちょっと洒落にならないから暴れないで。特に、下は絶対に見ないようにしてね」


 だが、そう言われれば見てしまうのが人の性である。仮にユディトが同じことを言われれば、即座に足下に視線を投じたに違いない。


「は?」


 随分と素直に視線を下に移したエルファーランが見たのは、空中回廊の床ではなく、その遥か先に広がる地面だった。あまりに距離がある所為かそれなりに白んでいて、現実味が薄い。

 しかし上昇してくる冷たい風が無遠慮に頬を打つことで、紛れもない事実であることを知らしめてくる。


 ユディトがエルファーランを受け止めたのは、円環回廊の縁の上だった。決して口には出せないが、力加減を微妙に間違えて高く投げ過ぎてしまったのだ。


 両足で直立するのが精々である僅かな縁の上で、爪先など完全に飛び出したまま立ち尽くしているのだが、ユディトはまったく危なげなく、のんびりとしているではないか。


 そんな危機感のまるでない様子を目の当たりにして、もしもこの不審者が受け止めてなければ、そのままこの気の遠くなるような高所から放り出されたことになる――その結末を想起して、エルファーランは全身が総毛立つのを実感した。


「た、たたたた戯けがっ! は、早くそっちに戻らぬか!!」

「わかってますって! だからそんなに揺らさないで!!」


 首を大きく揺さぶってくるエルファーランのそれは最早懇願に近かった。見れば紅蓮の目が薄っすらと湿っているではないか。

 確かにこんな場所から落ちたら、死ぬのは免れないだろうから自然な反応だ。


 幼気いたいけ……ではないが、年下であろう少女を苛めて悦ぶような嗜虐趣味などないユディトとしても、涙ながらの彼女の申し出はすんなりと聞き入れ、くるりと回ってゆったりと回廊に降り立つ。

 そして剣を構えたまま、呆然としているシエルとカリオンの二人と目が合った。


「あ、いや……大丈夫ですよ? ちゃんと人質の安全は守りますから」

「どの口がそんなことをほざきよるかっ!!」


 もはや何かの冗談としか言えない空気がこの開けた場に充満しかけていたが、酔狂極まりない現状を前にすれば、いくら忠誠心の高いシエルや義侠心溢れるカリオンとて迂闊な行動をとれる筈もなかった。


「……アレは本当に正気なのですか?」

「魔王を攫う、などという大逸れたことをしでかすんだ。既にまともな精神状態ではないと考えた方がいいだろうな」

「……確かに。一理ありますね」


 忌々しそうに舌打ちをするシエルに、油断なく見据えているカリオン。

 ぶつかった時も決して武器を手放さなかったのは、武人として流石であるが、突拍子もない行動を連ねるユディトには、対処しあぐねているようだ。


「な、なかなかに酷い言われようだ」


 思わず頬を引き攣らせるユディト。

 狼藉者、不埒者、粗忽者、痴れ者と続いて、果てはアレ呼ばわりで精神異常者扱いである。

 随時下限を更新し続けているが、その内、生物ですらなくなるのだろうか。生ゴミだけは止めて欲しい、と嘗て受けた罵声に胸が抉られた記憶が甦ってきて、そんなどうでもいいことが脳裡を過ぎる。


 だがそれは決してユディトに、余計なことを考えるだけの余裕がある、ということではなかった。

 エルファーランを横抱きにしていることの効果は、カリオンとシエルにこの上ない牽制になっているのは間違いない。先程から二人は胴体部分を切り付けるような攻撃を一切繰り出せないでいるのだ。それはつまり狙う箇所を限定し、戦闘の選択肢を著しく狭めることになる。


 そして当然、エルファーランを抱えているユディト自身にも負担となっていた。

 重さ自体は気にする程のことではないのだが、やはり両腕が使えないという制限は極端に動作を阻んでいて、且つ自身よりも格上の剣士二人からの挟撃に晒されているのだから、ユディトとしても気は抜けない。


「魔王が人質である以上、『光浄剣』を本気で振るう訳にはいかない……もどかしいな」

「悠長な発言は許さないと申し上げたいところですが……同意しましょう。こちらも魔王様を傷付ける訳にはいきませんので、『魔印術グリモア』が使えません」


 闘志を跳ね上げさせながらも、一層慎重さを増しているカリオンとシエル。


 未だ両者が余力を残しているという発言を耳にして、ユディトは眩暈に襲われた。勿論、余力を残しているのはこちらも同じだが、これまでよりも苛烈な攻撃を両者の闘志の高まりから予感したのだ。


「うーん……このままじゃ、ちょっと厳しいよなあ。影からなんか出てくる可能性もあるし、逆に呑み込まれるってことも考えられるか」


 周囲の床を一瞥して、独りごちる。

 闇の回廊で影錐を操っていたのがシエルだという確証が得られた上、カリオンをこの場に導いたというのであれば、戦乙女然とした彼女は影を操り、その中を通して生物や物体を転送できる、と考えた方が自然だ。ならば錐どころかそれ以上に危険な代物が飛び出してくることも想像できる。


 ただこうしてエルファーランを人質にしている以上、その頻度は抑えてくると考えていたが、当人からの直接的な攻撃が加わるならば話は別だ。

 使い手による意思が直接介在した剣撃は、その習熟度によって変幻自在。そしてユディトの目から見て、シエルとカリオンの剣の腕は充分に達人の域なのだ。剣だけの戦いならば、まず自分に勝ち目はないと確信している。


 だからこそ、彼らを打倒する気など全くないユディトは、本気で困った。


「まいったなぁ。こんなに大事にする気はなかったんですが」

「ふん。いきなり現れて儀式を台無しにした挙句、この魔王たる妾をかっ攫おうなど、前代未聞で不遜も甚だしいぞ!」


 ユディトの弱音とも取れる発言を耳にして、逆にエルファーランはここぞとばかりに両腕を組んで胸を張った。


「儀式? 君達って戦っていたんじゃないのかい?」

「ふんっ! 貴様なんぞに説明してやる義理なぞないわ!」

「いやまあ、そりゃそうなんですけど……問答無用で攻撃されたんですから、どういう理由からかを訊く権利ぐらいはあると思うんですよね」


 結果論として被害者であることを主張しても、カリオンもエルファーランも、おそらく自分の出現など想定もしていなかっただろう。正に不運な事故と言うしかない。


「いい加減観念してお縄に付け。四肢をもぎ取って、何故あの場所に現われたのかを洗いざらい吐かせた後、首を切り落としてくれるわ! まあ、妾は悪魔ではないからのぅ。辞世の句くらいは聞いてやる」

「あはは、それじゃあ充分悪魔ですって」

「んな物騒なものと並べるでない!」


 どうやらこの世界にも悪魔という概念はあるようだ。

 ユディトは一つ、この世界を知る。


「……何を笑っておる!?」

「いえ、俗に言うお姫様抱っこで抱えられたままふんぞり返っているんで、可愛いらしいなあと思っただけです」

「なぬ!? か、可愛いっ!?」

「はい。何だか小動物みたいで。種を食べているリスって言えば伝わるかなぁ」

「齧歯類と一緒にするな!」


 この世界にはリスないし齧歯類が存在しているという言質を得られた。

 全く以って、この場では役に立たない知識ばかりが増えていく。


「ええいっ、このっ!! 馬鹿にしおって。馬鹿にしおって!!」

「あはは。痛い、痛いですって」


 あまりにもいいようにあしらわれているエルファーランが、身を捩じらせては両腕を動かし、ポカポカとユディトの上体……主に顔を殴っている。


 誘拐犯の拘束から脱しようと抵抗する被害者の図、としては特に違和感がないのだろうが、あまりにも当事者に緊張感がない所為で、周囲からは我侭を言って兄か父親を困らせる子供のような光景に見えてしまい、対峙しているカリオンは微妙な気分になった。


 隣ではシエルも苦虫を噛み潰したように顔を歪めている。

 だが、シエルは内心で戦慄していた。

 ユディトを子供染みた仕草で叩いているエルファーランであるが、その両手は薄っすらと闇に覆われている。


 それはエルファーランが星灼を集約させて本気で攻撃していることであり、そこに秘められた威力たるや石の壁など容易く砕くどころか、足場である〈天環橋〉を一撃で粉砕せしめるものなのだ。


 魔王第一の臣であることを自他共に認めるシエルには、それが手に取るようにわかった。


 それをほぼ無抵抗に受けながらも、苦悶どころか顔色一つ変えておらず、苦笑さえ浮かべている始末だ。

 それはやせ我慢とかそういった次元の話ではない。エルファーランの攻撃が、全く効果を成していないことになる。


 直接対峙した経験からそれに気付いたのか、ユディトを油断無く見据えるカリオンも緊迫感を増した表情に変わった。


「ん?」


 静穏を望むユディトに反して、周囲はピリピリと肌に痛い緊張が高まっていく。


 そんな折。

 いよいよ手詰まりになってきて、どうしたものかと思案するユディトの視界に入ってきたのは、環状の回廊の反対側に先程一戦交えたカリオンの仲間達がそれぞれに武器を掲げている様子だった。

 いずれも長距離からの攻撃に適した武具を用いていて、先刻の〈星詠の間〉なる場所での戦闘でも手を焼かされたものだ。


「カリオン君のお仲間、か。これはもう潮時だねえ」


 状況から察するに、彼女らもシエルに導かれ、カリオンと同じくこの少女の救出に来たのだろう。武器を携え狙いをこちらに定めた彼らの眼差しが、周囲のメイド兵達と何ら変わらないことから、同様の理由であると予想できた。

 こうして遠距離から狙われ、近距離で狙われ、中距離も抑えられている。

 完全な包囲網が完成してしまった。


「はあ……結局、この状況を脱するにはこれしかないのか」


 名残惜しく溜息を深々と吐いたユディトは踵を返し、軽やかに跳び上がっては再び縁石の上に立つ。


 すると、その場にいる全員が動きを止めた。


「ち、ちょっと待つのじゃ!?」

「はい?」

「何でまたここに立つのじゃ!? 遂にとち狂ったか!?」

「僕は正気ですよ」

「で、では何をするつもりじゃ!?」


 こうなると最早一つしか想像できないのだが、エルファーランは問わずにはいられない。自分の生命が掛っているのだから当然である。


「はい。さっき丁度良い感じの浮遊島を見つけたので、一時的にそちらに避難しようかと思いまして」


 ユディトが視線で示した先には、小さな祠が建立された浮遊小島があった。浮いている岩は周囲に幾つもあるが、あそこだけ微妙に離れていて、何故かおいそれと立ち入ってはいけない雰囲気が醸し出されている。


 示された岩島がなんなのかを熟知するエルファーランは、心底慌てた。


「ば、馬鹿者っ! あ、あそこは……」

「なんかあそこだけ気配が違いますよねぇ。隠れるにはもってこいな感じがします」

「どれだけの距離があると思うておるっ! いや、宣言している時点で隠れる気がないじゃろうが!」


 だが天頂部に位置する〈天環橋〉からの跳躍では、高低差を加味しても確実に届かない。精々半ば辺りまでの到達が関の山だろう。 


「そうではないっ! 追い詰められて自棄になったのであれば一人で跳べっ! 妾を捲き込むなっ!!」

「先程も申しましたが、ご安心を。貴女の安全は保障します」

「できるかっ! し、シエル! カリオン!! たすけ――」

「行きますよぉ!」


 気の抜けるような掛け声と共に、両腕にエルファーランを抱えたユディトは、翡翠の空に向けて跳んだ。

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