第7話 イルヴァーティの勇者(1)
――イルヴァーティの勇者。
それは、人類が自らの手には負えない危難と見え、世界の滅亡が示された時。
救世を願う諸人の想いが結集して世に顕れる、女神セフィリアの代行者のことである。
その背に庇われる者にとっての希望の象徴であり、正面より敵対する者にとっては逃れえぬ絶望の顕現。
耀ける神器を纏いしその姿、あるいは性別、人種、能力は一つに定まることはなく。その存在を定義する言葉もまた、往古より無数に謳われていた。
曰く、目映き希望をその身に纏う者。
曰く、数多の切なる願呪を束ねし者。
曰く、仄暗き絶望の理を虐滅する者。
他にも功績や能力などを極端に誇張し、やたらと華美に装飾された結果。意味不明で荒唐無稽な域に浸かってしまった呼び名など、実に玉石混交だ。
ただ、いずれにも共通するのは『イルヴァーティの勇者』と言う存在が時代の節目、または世界規模での大きな変革期に出現すること。
常識とは隔絶した力を有し、人類史開闢以来最強の名をほしいままにしていること。
そして彼ら、または彼女らが残した功績は比類なきもので、伝承、説話の数以上に多くの憶測を産み出しながら、世の深くに根ざしていることだった。
ただし、『イルヴァーティの勇者』にまつわる事物の全ては〈アンテ=クトゥン〉、または交流のあった世界においてのみ通じる話である。
当然ながらその名前が持つ力が効果を発揮するのも同様であり、この何処とも知れぬ異世界において何の用も成さないだろうことは、論理的に考えればすぐにわかることだ。
いや、逆に全く通じないからこそ単なる虚言妄言として処理された挙句、自身の立場を更なる窮地に追い遣ってしまうことになるのは想像に難くない。
リスクの大きさを鑑みるならば、現時点で『イルヴァーティの勇者』に関する一切の事象は口にすべきではない余計なことでしかないのだ。
しかしそれでも。
ユディトには敢行せずにはいられない理由があった。
それは偏に、現在立っているこの場所が、自分の知っている世界の何処かであると信じたいが故である。
既に自分の中で答えが出ているにもかかわらず、尚そう求めさせたのは、胸の内の片隅に残った染みのようなもの。所詮は感傷の残滓に過ぎないが、それでも、前に歩み出す為の意識の切り替えに必要な儀式でもあった。
そして、望むがまま正面から儀式に臨んだ結果……周囲を支配する沈黙が痛い。いや、沈黙だけならばまだ良いが、失笑、嘲笑といった激情とは別種の冷め切った気配があちこちから感じられる始末である。
数十もの視線はいずれも「こいつは何を言っているのだ?」と、こちらの正気を心底疑っていた。
幾重もの侮蔑や怪訝が、上空の冷たい風と絡み合って織り成される不可視の圧力は、ある意味で研ぎ澄まされた兇器と同義で。
「……うん。なんだか反応が新鮮だなあ」
全身に走るチクチクとした痛痒を覚えながらも、意図的に思考から外したユディトは、どこか遠い目で空を見上げた。
ここに到る直前の〈アンテ=クトゥン〉において、衆人の中で自分が名乗ればまず悲鳴が起こり、続いて恐慌状態に陥った場の方々から心を抉るような罵声や怒声、怨嗟の声、或いは石礫や鉄屑、ゴミを投げ付けられ、終いには刃やら銃弾やら耀術やらといった害意の雨が降り注いだものだ。
そんな散々な反応が、世界を滅ぼしかけた『魔物』を駆逐し、救世という奇蹟の体現者である『イルヴァーティの勇者』に向けられるものとして正しいかどうかは兎も角。
嫌悪を通り越し、憎悪の領域をも軽々凌駕した限りない悪意を向けられるのが常だった。そうなる理由が、己の行動の結果であることを自覚し、だからこそ敢えて真正面から受け止めてきたユディトにして、この場でそういった類のものが感じられない。
それに加えて、嘗て〈アンテ=クトゥン〉と交流のあった世界ならば、断片であれ『イルヴァーティの勇者』についての情報は伝わっていた筈である。しかしながら、周囲からそれらしい反応は微塵もない。
それらの事実が、ユディトの抱いていた切実な願いをいとも簡単に踏み潰した。
「やっぱり……ここは全く未知の異世界、なのか」
深く静かに吐き出された言葉には、諦念と落胆が等しく滲んでいた。
今も全方位から投げ付けられているものは悪意に違いないが、そこに潜む感情の根本は自分の期待したものとは全くの別物だ。
それが手に取るようにわかってしまい、改めて自らの立ち位置を明確にさせる。
疑問は尽きないが、この地は完全に自分の与り知らない領域であるのだ、と。
この瞬間、ユディトの腹は括られた。
僅かながらもこの地を駆け廻り、空模様を見て既に確信を得ていた理性に、ようやく感情が追い着いたのだ。
ここで初めて、ユディトはこの名も知らぬ異世界に降り立つことができた。ならばこれまでそうしてきたように、新たな世界を知る為に努力を尽くさねばならない。そう強く自分に言い聞かせる。
「勇者? 勇者じゃとっ!? き、貴様っ……言うにことかいて勇者を騙りおるかっ!」
だが何事にも例外というものは存在するものである。今回の場合、この白けた空気の中で発せられたあからさまな反発だ。
腕の中に収まった少女だけが唯一、ユディトの期待したものに近い反応をしている。
眉間に深い皺を刻み、眼を吊り上げ、憤懣遣る方なしに顔を紅潮させている姿を目の当たりにして、呪怨の声ばかり向けられていた嘗ての喧騒を思い出したユディトは、少しだけ救われた気がした。……懐かしさに由来するものとはいえ、それで救われて良いのかという疑問はさておき。
「騙ると言いますか、ただの事実なんですよね。僕は『イルヴァーティの勇者』です」
「ふざけるでないぞっ! 勇者とは『
「ああ、さっきの強そうな彼ですね」
聖剣と聞いて、ユディトはここではない大広間で、誰よりも速く烈しく切りかかってきた金髪の青年を思い出す。
この少女とどういう因果関係なのかは未だわからないが、確か周囲からカリオンと呼ばれていた若者だ。一番人質に向かないと真っ先に判断を下していた為、逆に強く印象が残っている。
異邦人であるユディトが知らないのは当然だが、カリオン・ラグナーゼは人間種国家間で結ばれた軍事同盟、アレスティーナ諸国連合の盟主アストリア王国より『光浄剣プルガシオン』の担い手として輩出された正真正銘、『聖剣の勇者』だ。
一点の曇りなき眼差しは品行方正、清廉潔白を思わせ、その清冽な気迫は弱きを助け、強きを挫く逞しき意志を感じさせた。
「確かに見るからに英雄、って感じでしたよねえ。なんかこう、自信に満ち溢れていると言うか、纏っている空気というか、オーラが凛として他の人とは違うと言うか」
「ふん、当然じゃ。この魔王たる妾が認めたのじゃからな! 貴様のような胡散臭い輩が勇者を僭称したくなるのも無理からぬことじゃろうて」
どうじゃ、と得意気な表情を浮かべるエルファーラン。きっと四肢が自由ならば両腕を組んで大仰に胸を張っていることだろう。
だが、勇者のことをまるで自らのことのように誇らしげに語るその姿によって、ユディトはますます両者の関係がわからなくなってしまった。
そもそもエルファーランが担う『まおー』という存在が何なのか、ユディトには依然不明なままなのである。
この地の権力者の係累であるらしい、という予想を踏まえれば、なんとなく輪郭も見えてくるが、言動から断定するには不確定要素があまりにも大きい。
しかし少なくとも『勇者』という単語に関しては、神器が自分に理解可能な概念として言語化していることから、似通った性質の存在なのだろうと推測できる。
『イルヴァーティの勇者』……それは人類の手に負えない危難に立ち向かい、世界に平和を齎す存在だ。たった今、盛大に嘲笑されたばかりだったが、エルファーランの言う『聖剣の勇者』もまた、同じような意味を持つことになる。
それに加え、先程からエルファーランは度々『まおー』と『勇者』を対の存在であるかのように語っていたが、まさに両者の関係がそうであるならば、これまで『イルヴァーティの勇者』が出現した時期を念頭に置くと、エルファーランは世界の存続に仇なす脅威、ということだ。
だけれども、ユディトには腕の中でころころと表情を変える少女が、そんな物騒な存在だとは思えなかった。
「……まあ、別にいいですか。僕には関係のない話ですし」
「お、おい!」
そこまで思い至ったユディトは、結局はこの地が異世界であることを思い返して、湧いた疑問を全て丸投げすることにした。
「僕のいた場所には、「郷には入れば郷に従え」って諺があってですね。いきなり他所に現れておきながら、自分の価値観のままにそこの常識に一々牙を突き立てるのは傲慢だと思うんですよ。僕は、そんな面倒臭い火種をばら蒔くつもりはありません」
世界が擁するルールというものは、それこそ世界の数だけ存在するものだ。故に、この世界における勇者の役回りも、〈アンテ=クトゥン〉で語られるものと全く異なるのかもしれない。
まず前提として『まおー』についての解釈が間違っている可能性もあるのだから、ユディトとしては自身の知識と価値観だけを基準にするのは危うい、との結論に到ったのである。
このユディトの思考は、〈アンテ=クトゥン〉の人間ならば往々に擁したものだ。
歴史から得られた教訓が思想の奥底に確かに根付いている証なのだが、ユディトがやけにあっさりと引き下がったことで、これから目の前の不審者に対して勇者と魔王が如何なる存在なのかを教示してやろうと算段を立てていたエルファーランは、出鼻を挫かれてしまった。
鮮やかな紅の双眸にあからさまな不満を燈らせたエルファーランに、ユディトは小さく苦笑する。
「ええと、取り敢えず誤解しないで欲しいんですけど、僕は君の言う『聖剣の勇者』を僭称したつもりはないですし、するつもりもありません。僕は『イルヴァーティの勇者』。ただそれだけの存在です」
「イル……なんじゃと?」
「はい。『イルヴァーティの勇者』です」
往古より先人達が積み重ねてきた尊き称号の価値も、今となっては地に堕ち、最低最悪のものとして唾棄されるまでに成り果ててしまったが、それでも自分は正統かつ
それこそが己を支える唯一無二の存在理由だ。
その認識は決して揺らぐことはない。
地に足が着いた今ならば、例えこの世界で誰も知らなくとも構うことではなかった。
「聞いたことがないのぅ」
「まあ、そうでしょうね。聞き覚えがあると言うのなら、逆に吃驚してしまいますよ」
「……貴様、言葉遊びで煙に巻こうという魂胆ではあるまいな?」
「いやいや、そんなつもりはないですって」
だがしかし。
どうにもエルファーランにとって『勇者』とは特別な想い入れのある存在らしい。ユディトとしては懇切丁寧に説明しているつもりであるが、感情が納得を阻んでいるようだ。
とは言え、双方の『勇者』に対する価値観が決定的に違う以上、どんな説明を尽くしても既に話がまとまる筈もなかった。その証拠に、エルファーランの双眸には剣呑な猜疑心しか浮んでいない。
「煮え切らん奴め、もうよいわ! 最早これ以上貴様と話しても埒が明かぬっ! いい加減妾を解放して、捕えられるがいい!」
「つくづく人質が言う言葉じゃないですねえ。や、後でちゃんと解放しますけど」
「くぅーっ、侮りおって! 完全に舐めきっておるなっ!!」
「まあまあ。そんなに興奮しないでくださいよ」
言いながら、赤子をあやすように両腕を軽く揺らすものだから、エルファーランの怒りは際限なく高まるばかりだ。
激高し、腕の中でジタバタと暴れるエルファーランの姿は、子供が駄々をこねている様子に酷似していて、過去の彼方に置いてきたの嘗ての情景を思い起こしたユディトは、無意識に表情を綻ばせていた。
(……こんなことがあるなんて、ね)
この少女と話していると、随分と頻繁に昔の記憶が呼び起こされてくるが、その原因など改めて思索する程のことでもない。ついつい話しかけてしまうのも、同じ理由である。
胸中から込み上げてくる郷愁はくすぐったく、仄かに宿る暖かさに思わずユディトは翡翠の空を見上げていた。
しかし当のエルファーランの心象は全く逆のものだ。
既に幾度となく繰り返してきた暖簾に腕押しの問答にいい加減忍耐が切れかけ、その身を捕らえる拘束から逃れようと何度も身体を捩らせていたが、無情なことにユディトの両腕はピクリとも動いてくれない。
のほほんと空を仰ぐその顔を殴りたくなる衝動に身を委ねながら、エルファーランは上半身が動かない代わりに両脚を捩って曲げて、踵で何度もユディトの胴を打つも、痛みが生じている様子は全くなかった。
こちらの本気を見せる為に、攻撃意志と共にそれなりの『星灼』を両の踵に収斂させて打っていたにもかかわらず、だ。
その事実が、少しだけエルファーランを冷静にさせた。
「……貴様はなぜそうも落ち着いていられるのじゃ? 続く先のない〈天環橋〉に追い込まれ、あまつさえ完全に包囲されて逃げ場など既にないではないか」
「ん? ああ、正直に言いますと、逃げ場がなくなった、という訳ではないんですよね」
「なぬ!?」
なんてことのないような返しに、エルファーランは思わず素っ頓狂な声を挙げてしまった。
現状は、城主たるエルファーランの目から見ても詰みの局面であることに疑いの余地はない。
だというのに、この危機感のまるでない様相。神経が太いとかそれ以前の話で、正気の沙汰ではない。
「……貴様は、一体?」
「まあ手段さえ選ばなければ、という前提がつきますが……と、そこの貴女。飛び道具は止めましょうね。貴女達の『まおー』さまに当たりますよ」
視界の端で前衛に立つ兵達の影から、密かに弩らしき兵器でこちらを狙っている者を目敏く見止めたユディトはさらりと釘を差していた。……ごく自然な動作で腕の中のエルファーランを射線上にさりげなく晒しながら。
そのことに噛み付いたのは、当然エルファーランだ。
「さらりと脅すでない! 何が人質の安全を護るじゃ! 完全に盾にしているではないかっ!」
「それでも撃って来るようならちゃんと対処しますよ。まあそれはそれで、新たな問題が発生しそうですが」
「ぐぬぬ……」
エルファーランとしては、会話の中から少しでも多くの情報を引き出そうとして言葉を交わしていたのが、こちらの期待に添うような応えが得られず、結局は何もかもが徒労に終わってしまった。
自然と臍を噛んでしまうのも無理からぬことだろう。
「……エルファーラン様」
「し、シエル」
そんな中で静かに名を呼ばれたものだから、エルファーランはビクリと肩を震わせた。
エルファーランの思惑とは裏腹に、傍から見れば彼女と緊張感のないユディトとのやり取りは、誘拐犯とのんびり茶番染みた応酬を繰り広げているようにしか見えず。誘拐された者を主と仰ぎ、救出に来た者達からすれば対処に困ることこの上ない。
特に生真面目で融通の利かない性格のシエルからすれば、その心労は計り知れないものだろう。
ただ淡々と名を呼ばれただけなのだが、エルファーランは例えようのない脅迫観念をひしひしと感じていた。
「これより賊に攻撃を仕掛けますので、今暫しの間、窮屈をお掛けします」
ゆっくりと剣を動かし、正眼に構えたシエルは目を細める。
その鋭く冷たい眼光が彼女の本気を感じさせ、威嚇などではないことを覚ったユディトは苦笑しながら、その実、内心で冷や汗を掻きながらささやかな抵抗を続けてみた。
「ええと、わざわざ申告してくれる気遣いに対して、こんな風に返すのは非常に不本意なんですが……人質という言葉の意味、理解していますよね?」
「勿論です。貴様が魔王様を抱えている以上、私達は迂闊に手を出せません。魔王様とのやり取りの間に隙ができるか窺っていましたが、どうにも隙だらけで逆に怪しい」
「警戒はしていましたが、やっぱりバレてましたか。それなら、ここは大人しく――」
「死になさい」
ユディトが実に悪役らしい言葉を呟いた瞬間。
厳かな宣告と共に、いつの間にか石床に縦横無尽に張り巡らされていた影の線が一斉にそそり立って肥大化する。
「おおおっ!?」
突如として林立した影の塔の群れ。一瞬で展開されたある種の幻想的な光景を前にして、さしものユディトも呆気にとられてしまう。
そして、林立した影の塔の内の一つ。
ユディトの背後に屹立した影の中から音もなく金髪の若者が飛び出してきて、その手で眩く光り輝く剣をユディトの頸部に向かって真一文字に振り抜いた。
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