第6話 魔王エルファーラン

 自身の持ち得る力の全てを凝縮し、解き放った闇の波動を前にしてエルファーランは確信していた。

 これで自らの責務を全うできる、と。


 我が身に寄り添いし『魔王』という宿業。

 その逃れられない重責と向き合い、大きすぎる役割を担うことは、短いながらも己が生の中で育てられてきた矜持であり、願いそのものだった。


 つい先程まで行われていた、自らが認めし『勇者』との戦い。それはエルファーランが見据えている希望を実現する為の手段である。


 求めるものを同じくした勇者との、揺るぎなき意志のぶつかり合い。その終局に紡がれたエルファーランの闇と、カリオンの光。

 極限まで加速した闇光が生ずるであろう純色の耀きが、愛すべき民草を、ひいては世界中に住まうあらゆる命にとっての黎明となり、明日を照らしていく。心安らかに生を全うできる世を築く為の礎となるのだ。


 幼い頃より言い聞かされてきた『魔王』の役割と戦いの儀の真意。

 それらを真摯に受け止め、全身全霊を賭して臨むことができたと思うからこそ、そう信じて疑わなかった。


 故に、空気や霧を引き裂いて奏で流れる旋律がどんな美辞麗句より絢爛で、どれほどの讃歌よりも甘美に鳴り響いているように聞こえてくる。

 何者にも代え難い達成感が、エルファーランの胸中に満ち始めていた。


 しかし結局、それは叶わなかった。

 何時の間にか〈星詠の間〉に侵入していた第三者が、魔王と勇者がそれぞれに収斂して放った闇と光の奔流の衝突を阻んでいたからだ。


 エルファーラン達の切なる願いを無慈悲に打ち砕いた第三者は、多くの謎を纏っていた。

 何時からそこに居たというのか。いや、そもそもどうやってこの場に入り込んだのか。

 幾多の疑問が閃光のようにエルファーランの脳裡を過ぎったが、更に問題だったのはその後である。


 闇と光の挟撃を受けた何者かが勢い良く弾き飛ばされ、『天極粋星ステラデウス』と呼ばれる極大の水晶柱に衝突するや否や。その裡に蓄えられていた筈の耀きが消失してしまったではないか。

 それは、この世界の常識を思えば決して考えられないことだった。


 魔王の操る闇と、勇者が振るう光。極限まで昂ぶった両極が互いを貪り合うことで生成する無色の『星灼フォルトゥナ』は、『天極粋星』に満たされ『天色託宣』においてのみ消費される純化されたエネルギーである。


『天極粋星』に収容された無色の『星灼』は自然の移ろいでは減衰せず、基本的に干渉できない。抽出して他に転化しようとする試みはこれまでにも無数にあったが、未だ成功した例はなかった。


 正に文字通りの不滅の耀きは、『天色託宣』という往古より連綿と繰り返されてきた秘儀の根幹を担い、世界に安定を齎してきた不文律の体現なのだ。


 だというのにもかかわらず、理を覆す事態が目の前で起きてしまった。

 そのあり得ない事実に愕然としていると、件の闖入者が自分に向かって落下してきて、躱すどころか身動ぎ一つできぬまま、思いっ切り下敷きにされてしまう。


 背中から床に叩き付けられた痛みと、身に掛かる重みに戸惑いながら目を開くと、エルファーランはその時初めて、不届き千万な侵入者の姿を見ることになった。


 真っ先に目を引いたのは、視線どころか意識さえをも吸い込まんとする、深く鮮やかな瑠璃色のコートだ。

 どのような素材を用いているのか皆目検討もつかないが、その艶やかさは指先で弾けば水面の如き波紋さえ生じそうな程で。惜しみなく織り込まれた銀糸によって高い気品を飾り立てている。

 どちらかと言えば豪奢さよりも清廉さが際立つ、聖職者然とした涼やかな意匠だ。

 それに反して、襟元に垂れる金色の首飾りは積年の怨嗟が積もり積もった呪物かと思しき禍々しい気配を迸らせ、そこにあしらわれた宝珠が裡で橙色の燈を艶然と耀かせている。


 互いの呼吸が届きそうな距離で見つめ合い、パチパチと紺碧の双眸を瞬かせる相貌は線が細く、物腰が柔らかそうだ。

 少年期から脱して間もない若い年齢を想起させたが、その頭髪は長久の年月を積み重ねたかのような、幽鬼然とした白灰色――。


 一見して、何もかもがちぐはぐな青年だった。

 柔和で優しげな風貌であれど、へらりと愛想笑いを浮かべたその面差しはどこか空々しく、万象一切も躊躇なく斬り捨てる無慈悲さが同居しているかのようだ。


 全ての異胚種を統べる魔王にして、物怖じしてしまいそうな気高い品々をその身に纏いながらも、覇気という覇気が全く感じられない佇まいが、その印象を殊更強くしている。


 エルファーランが注意深く観察していると、件の青年は自分を下敷きにしていることに気が付いて慌てて跳び退いたが、はっきり言って状況が呑み込めているような様子ではなかった。


 その証拠に、青年は物珍しげに周囲を見回しているが、その酷く緩慢で暢達な仕草からは、もしかするとここが戦場であることすら把握していないのかもしれない。


 しかし、だ。

 青年についてまず何よりも驚愕すべきことは、あの両極の双撃を直接受けて、未だ人の形を保っていることだろう。


 そもそも魔王と勇者が死力を尽くした破壊の奔流は、人間一人など跡形も無く消し飛ばすどころか、ちょっとした都市の中心で衝突しようものならば、その都市を丸々壊滅に追い込むだけの破壊力が込められていたからだ。

 いかにこの場所の特殊性を考慮したとしても、見かけ上、無傷でやり過すことなど絶対にありえない。何の防御手段の兆候も見られなかっただけに、そのは念は一入である。


 そんな理不尽を体現するモノを前にして、エルファーランの思考は千々に乱れ、ただただ戦慄するばかりだった。


 エルファーランが呆然として黙っていると、不審な青年は困ったように首を傾げ、何かを言葉にしようとしてか口を開きかける。

 その瞬間。

『天極粋星』を支える幾つもの鎖が千切れ飛び、勢いをつけて落下したではないか。

 鉛直下にいた青年は頭上で響いた鈍い音に何事かと仰ぎ見たが、瞬く間に視界を奪い去る巨大な物体を目前にして声を発する暇なく押し潰されてしまった。


 轟音と共に〈星詠の間〉全体を掻き揺らし、石床を砕いて神殿の丁度中央に深々と突き立った巨大な水晶柱は、墓標のように静謐に佇んでいた。

 その裡に湛えていた煌々とした輝きも既に喪われ、今はただ幽冥な気風を漂わせているだけだ。


 水晶柱から『星灼』の耀きを消失させた不審者のことなどどうでもよかったが、代物が代物だけにエルファーランは気が気でなかった。

『天極粋星』はこの世界に唯一つとして存在する極めて貴重な物である。『星灼』が結晶化した物質である『星燐石プリマテリア』の中でも絶対数が著しく少ない“無色”に属する、世界最大の『無星燐石クリオ・プリマテリア』に替えなど当然ある筈もなく、万が一に破損しようものならば、修復の手立てさえない。


 この〈魔王領〉アガルタの至宝とも表される水晶柱の守護も『魔王』の責務の一つである以上、その安否を気遣うのは寧ろ必然であった。


 濛々と立ち上る煙に覆われた偉容に追い縋るよう、エルファーランはよろよろと立ち上がり、その無事を確認しようと覚束無い足取りで近付いていく。


 すると。

 無事であることを痛切に願うエルファーランの祈りを嘲笑うかのように、澄み切った音色と糸状の閃光が縦に走ったかと思えば、『天極粋星』が左右真っ二つに両断されていた。


 やけに澄んだ音を立てて床に転がる水晶柱の残骸を、エルファーランはただ瞬きを忘れて見つめるしかできなかった。

 いや、彼女だけではない。成り行きを見守る立場に追い遣られていたカリオン達も同じように唖然としていた。


 その場に立つ誰しも共通するのは、あまりにも混沌とした状況に思考が動いてくれない、ということだろう。

 ただ冷酷に呈された現実が示すのは、白髪の青年がいつの間にか手にしていた、在るか否やの虚ろな存在感で佇む漆黒の剣で『天極粋星』を断ち斬った、という事実だ。


 件の青年も突然頭上から巨大な物体が落ちてきたのだから驚いて然るべきだったが、しかしエルファーランらはそれを受け容れることなどできはしなかった。

『天極粋星』を破壊できる術など、この世界にはない。

 それは永年の経験則によって世界が結論付けた歴然とした事実なのだ。


 にもかかわらず、それを実現してしまうなど、信じられないのも無理からぬことである。そして同時に、到底看過できることではなかった。エルファーランの目指す平和、この世界の未来の為には『天極粋星』の存在が必要不可欠なのだから。


 最早、目の前で平和を未来永劫破断した青年には憎悪しか沸かなかった。

 たとえ青年の側にどんなよんどころのない事情があろうとも、決して赦されないことをしてしまったのだ。


 魔王エルファーランだけではなく、勇者カリオン達も事の重大さに気付いて激昂し、怒涛とも言える攻撃を開始する。


 そして、激しい衝撃が幾重にも轟く戦場の中。


――取り敢えず、人質になって下さい。


 苛烈な破壊の雨霰を軽やかに潜り抜け、にへらと胡散臭さ極まりない笑顔を貼り付けた青年は、エルファーランにそう告げた。






                  ※






(ああ……雲一つない空ってやっぱり気持ちが良いや)


 たとえ世界が違っても。たとえ違和感が拭えなくとも。

 思考が行き詰った時に雄大な空を見上げれば、多少なりとも気分が紛れてくれる。


 それが所詮は現実逃避に過ぎないことを自覚しながらも、ユディトは胸いっぱいに空気を吸い込み、慣れない風の薫りに思いっ切り噎せた。


(……うん。針の筵って、こういう状況を指すのか)


 天蓋無き開けた場に充満する威圧感は重い。

 尋常ならざるそれが上空を流れる冷徹な風と絡まれば、途端に空気は鋭利な刃と化し、肺腑に染み入って切り刻んでくるに違いない。

 凡そ常人であれば、呼吸はおろか意識を保つことすら至難だろう。


 そんな心象を抱いてしまうのは、少なからず後ろめたさがあるからだと、ユディトは痛切に実感していた。


(ん? そう言えばこの世界で『真韻ケニング』って、使って大丈夫なのかな?)


 そこではたとユディトは考える。

 力加減は未だに不調和の域を出ないが、それは自分自身の感覚の問題であり、少なくとも神器の環境適応機能は正常だ。だからこそ異世界という理を別にする場所であっても〈アンテ=クトゥン〉と何ら変わらぬ行動ができるのである。


 しかしそれ以上の機能を開放してもよいか、ユディトは判断しかねていた。

 ここに到るまで落ち着いて思案する暇がなかったこともあるが、行使せざるを得ない状況に陥った訳でもない。そして神器を活性化することは、下手をすれば周囲の摂理に悪影響を及ぼしてしまうことになる。


 そんな事情から、無闇やたらと神器の稼動率を上げてはならない、と常々イヴリーンに念を押されているからだ。


(この世界がどこまで耐えられるか判らない内は、余計なことはしない方がいいよな。……まあ、必要に迫られたら考えよう)


 現実から逃れる為に別のことを思索していたユディトであったが、いい加減、周囲の張り詰めた空気を無視できなくなってきたので、小さく息を吐いた。


(……ざっと数えて、二十五、六人ってところか。こんな限られた場所に随分と集めたなぁ)


 周囲に視線を巡らせた限り、この円環回廊の路幅は両腕を目一杯広げた大人が三人並ぶのが精々だろう。

 屋外の建造物としてはそれほど広くはない環状回廊を塞ぐように、整然とした隊列を組んで展開するメイド兵達。

 左右それぞれの最前列が三人で、その背後に二人。そして更に後ろに三人、二人、三人と続いて配置しているが、それぞれが携える武器の間合い、特性を考慮し、攻撃範囲が重ならないように考えられた絶妙な位置取りだ。互いが互いを即時フォローできるよう研鑽を積んでいるのが一目でわかる。


 規律正しく高度に有機的に機能するであろう陣形を、ごく自然に構築できるその練度は、思わず見惚れてしまう程だ。


 そして――。


(このシエルさんって人……全然隙が無いんだけど)


 ただ一人、ユディトの真正面に立つシエルという女性。

 真銀の細剣をごく自然な姿勢で携えただけの、だが優雅な立ち姿から凄まじいほどの剣の使い手であるのは直ぐにわかったが、こうして敵対意識を全開にされて相見えると、抱いた感想がどれだけ稚拙だったのか否が応にも思い知らされる。


 正直、まともに剣で打ち合って勝てる気がしない。きっと碌に剣を交わすことなく切り裂かれてしまうだろう。

 それがユディトの結論だ。


〈アンテ=クトゥン〉において戦火を潜り抜けた仲間達の中にも、武術の技量が自分よりも優れた者達が多数いたが、その彼らに勝るとも劣らない境地に立っている。

 そう感じたユディトの額に、じんわりと汗が滲んでいた。


(あれ? 良く考えたら、この状況で取れる選択肢って一つしかないんじゃ)


 あまりにも八方塞りな現状に、ユディトはようやく覆す術が一つしかないことを覚る。

 階段が相手の意思で自在に消せるのであれば、真っ当な脱出手段など無いに等しく、飛び降りる以外の逃げ道がなかった。

 とどのつまり、たった今先送りした問題の再浮上である。


(うーん、碌に知りもしない世界で『真韻』を使うのって、『耀力フラジール』を余計に消費するからあんまり良くないんだけど――)

「……んっ」

「あ、ありゃ?」


 どうしたものかと眉を寄せて懊悩するユディトの耳に、風に浚われ、簡単に掻き消されてしまいそうな儚い呻き声が聞こえてきた。


 パチリと目を瞬かせて視線を落とせば、己の腕の中で意識を手放している筈の少女が小さく身動ぎ、その白磁の相貌を顰めているではないか。

 それは覚醒の兆し。

 辺りに充満するシエル達の激憤を察してのことではないだろうが、あらゆる意味での騒動の中心が、今まさに目覚めの時を迎えようとしているのだろう。


 そしてそれはユディトにとって更なる窮地へ追い遣られる前兆であった。


「ん、んん……く」

「えっ……ちょっと、今のタイミングだと困――」

「お嬢様!!」

「……ふ、ふ……ふっ」


 シエルの張り詰めた声に反応して、僅かに肩を揺らす魔王エルファーラン。

 その小柄な体躯を抱えている両腕から、少女の早なる鼓動を感じ取ったユディトは眉を寄せ、その正面に立つシエルは抜剣したまま今にも飛び出しそうな体勢で主君の名を重ね連ねている。

 そして、そんな両者の緊迫した様子をメイド服姿の兵達が、固唾を呑んで注視していた。


「……ふっ、ざけるでなあああああああああああああいいいいっっっ!!!!」


 一体何を目的としての集いなのか当事者以外では窺えぬだろうが、その場に立つ者達全ての意識が注がれる中。


 およそ淑女とは程遠い咆哮を挙げて、魔王エルファーランは開眼した。






                  ※






「こ、こは……」


 急激な覚醒と同時に、絶叫によって肺腑の中の空気を全て吐き出してしまったからか、胸の動悸が激しく側頭部がズキズキと痛い。

 全身の血管がけたたましく脈動している所為で酷い倦怠感に苛まれ、心なしか身体が拘束されているような気分にさせる。

 眼窩から眼球が零れんばかりに見開かれた紅蓮の双眸は、視界に差し込む光量が一気に増したことで半ば強引に閉ざされてしまい、再び開くことに躊躇いを覚えさせられる始末だ。


「ゆ、夢……じゃった、か?」


 気力を振り絞って薄っすらと瞼を持ち上げ、エルファーランは自らを顧みる。


 実に不愉快な夢だった。

 内容こそ既に色褪せて思い出せないが、それでも腸が煮えくり返りそうな憤りを感じたのは覚えている。

 そう。夢の中で再生されていた過去の時間が感情を著しく掻き乱し、それに呼応して腹の底で燻っていた怨嗟が爆発。咽喉、口腔と一気に駆け抜けて解放されたのだ。


 そしてその憤りの向かう先は……だが覚醒の波に押し流されてしまい、すぐに像を結ばなかった。

 ただ、今も胸中に漂うねっとりとした靄のようなものは、先程まで昂ぶっていた憤怒の残滓なのだろう。意識を取り戻したからといって簡単に鎮火するような、生温いものではないのだ。


 裡で沸々と滾る熱と息苦しさのあまり生じた頭痛に耐えながら、エルファーランは貪るように空気を食む。

 霞んだ視界に映る碧色は見慣れている筈なのに、不安を感じさせて止まなかった。


「妾は……いったい?」

「あ、おはようございます」

「う……む」


 未だ靄掛かったエルファーランの意識に、朗らかな声が飛び込んできた。

 柔和そうな男の声韻だったが、その間延びした調子はあざとさの度が過ぎているようで、聞く側の感性によっては真剣味に欠け、不快に思うことがあるかもしれない。

 特に今の場合、声量が耳の側で叫んでいるかのように大きく、意識を取り戻したばかりで思考が混濁から抜け出せないエルファーランにとって、正直好ましいものではなかった。


「ところでこちらでは、起きたら”おはよう”で合っていますか?」

「……そう、じゃな。起きたらおはようは、万国共通の常識じゃ」

「それは良かった! いやあ、共通点が見つかって、なんだか話ができそうな気がしてきましたよ」

「なにをそんなに嬉々として……妙なことを口走る奴じゃ、な――」


 一語一語意識を喚起してくる声に急かされて、エルファーランが気だるげに双眸を動かすと、柔らかく微笑みながらこちらを見下ろす誰かの顔が視界に飛び込んでくる。


 空の明るさが逆光となってその造詣を詳しく確認することはできなかったが、思いの外近い場所にあることにエルファーランは内心ギョッとしてしまった。

 何気なく受け答えをしていたが、その相手が誰なのか。今更ながらに違和感が意識の中を駆け抜けたのだ。


 第一、普段の目覚めを迎えるのは、親衛隊副隊長兼侍女副長のシエルか、今は休暇で里帰りしている親衛隊隊長兼侍女長レアである。そもそもとして、その他の部下も皆女性で親衛隊に男性は在籍していない。


 瞬時に導き出された帰結は、相手の姿をはっきりと判別できるようになると確然としたものになり、夢の世界に置き去りにしてきた筈の激情が甦る。


「きっ、ききききキサマっ、貴様はっ!」

「ええと、まずは落ち着きましょうよ」

「お、おおお落ち着け、じゃと――っ!?」

「そうですねぇ。ありきたりですが、深呼吸をしてはどうでしょうか?」

「たっ、戯けた、ことを――っうぐ!!」

「……だ、大丈夫ですか?」


 怒りのあまり顔を紅潮させたエルファーランは、急に噎せ返って何度も咳き込む。呼気と吸気が喉の奥で擾乱してしまい、言葉がまともに紡ぐことができなかった。


 しかし、心底心配そうに自分を覗き込んでくる青年を前にして、その顔が妙に近いことと、身体に慣れない束縛感があることに不審を抱き、エルファーランはゆっくりと己の状態を目視すると、自分が今どんな状態にあるのか……つまりはお姫様抱っこされている現状を知る。

 そして改めて別の意味で顔を紅潮させ、力のあらん限りに叫んだ。


「は、離さんかっ、この変質者がっ!」

「へ、変質者ぁ!?」

「ぶぶぶぶ無礼であるぞ! わわわ妾に触れるでないっ!」


 素っ頓狂な声を無視して、エルファーランはじたばたと身を捩り、自らを拘束する不審人物の腕から逃れようと試みる。

 だが非情な事に、エルファーランを捕える青年……ユディトの両腕は、あたかも彼女身体のサイズにぴったり合った鋼鉄製の拘束具の様に強靭で、微塵も揺らぎもしなかった。


 身動ぎ一つまともにできないエルファーランは、はしたない行動だと頭の中で理解しながらも、空しく足をバタつかせて宙を漕ぐだけで。

 対してユディトはユディトで、変質者呼ばわりされたことにただ愕然としていた。


「さ、流石にそんな罵倒を受けたのは初めてだけど……状況的に否定できない、のか? う、うーん。鬼畜だの外道だの悪魔だの畜生だのこれまで散々言われてきたけど、へ、変質者かあ……」

「ええい、なにをごちゃごちゃ言っておる! さっさと妾を下ろさぬかっ!!」

「あ、そういえばここって結構風が強いから、そんなに暴れていると危ないですよ」

「暴れ回っているのは貴様――って、な、なんじゃここはっ!?」


 城内にいた筈が、気が付けば眼前は一面いつもの翡翠の空。

 見慣れた空模様は、心を落ち着かせてくれるのでエルファーランは好きだった。


 しかし今はそんな感傷に浸っていられる状況ではない。

 横殴りの冷たい風が頬を打ち、否が応にもエルファーランに現実の無情さを突きつけてくる。


「えっと……ここは、君の城の屋上っぽい場所だと思うけど」

「て、〈天環橋〉じゃとっ!? な、なぜ妾はこんなところに……」

「城内を適当に逃げ回っていたら、いつの間にかここに追い込まれちゃって」

「貴様の仕業かっ!」


 あはは、と朗らかに笑うユディト。もしも両手が塞がっていなければ、軽く自らの頭を叩いておどけるような様だ。


 それを力の限り殴り付けたい衝動に駆られながらも、現状両腕は動かせそうにない。その代わりに有らん限りの怨嗟を双眸に載せて、エルファーランは睨み上げた。


「そ、そうじゃ貴様っ! 祖先より受け継ぎし妾の城をあれ程までに踏み荒らしおって! 修理にどれだけの費用と時間が掛かると思っておるんじゃ!」

「……あー、それについては、申し訳ありませんとしか」

「謝って済むなら法など要らぬっ!」

「弁償するにしても、今、持ち合わせがちょっと」

「金銭の問題ではないわっ!!」


 ふい、と視線を逸らせて曖昧に返すユディトにエルファーランが吼えた。


 魔王であり城主であるエルファーランが気を失った理由の大半は、次々と大穴を開けられていく我が城の惨状を目の当たりにしたからである。

 魔王の居城〈万魔殿〉は歴代の魔王達がその生涯を通して護り抜き、後の世の為に連綿と繋いできた誇りそのものだった。それが無残に破壊されたとあっては先代達に申し訳が立たず、同時にその修理費用やらを計る理性的な思考が働き、やがてそれらが意識の処理限界を突破した結果。エルファーランは意識を手放してしまったのだ。


「それに加えて、こともあろうか『天極粋星』まで――」

「お嬢様!」


 一喝するシエル。主君を慮ってのこともあるだろうが、それ以外の意図も孕んでいるように聞こえた。


 パチパチと目を瞬かせたエルファーランは、ここでようやく声を張り上げたシエルに気が付く。


「し、シエルかっ!?」

「今暫しお待ちください、エルファーラン様。この城に愚かにも忍び込み、不遜にも御身を攫わんとした粗忽者は、必ずや我が剣の露としてご覧にいれます」


 そう言ってシエルは恭しく跪き、彼女が秘めたる絶対の忠誠を示す。

 囚われの主君と、それを助けださんとする騎士の姿。それは古今東西、往古より詠われ続けている叙情詩の定番とも言える一幕だ。


 確かな繋がりのある麗しき主従愛は、それを見る者達に深い感銘を齎すものだったが、残念ながら現状はそれへの賛辞を許さなかった。

 この場にいるほぼ全ての者の主君に当たる少女エルファーランが、何者とも知れぬ者に囚われたままなのだから当然だろう。


 だが唯一ユディトだけが、今の主従のやりとりを取り乱すどころか微笑ましげに眺めていた。……ごく自然に不埒者から粗忽者へと貶められたことを、意図的に聞き流して。


「え、と……そんなに意気込まなくても、何度も言っている通りこの子の安全は保障しますよ? 人質として身柄を預かっている以上、その安全を確保するのはこちらの義務ですからね」

「咎人は皆、窮地に立たされれば自身に都合の良い言葉を吐くものです。しかしそんな浅はかな自己弁明が罷り通るとは思わないことです」

「全くもって仰るとおりですが、こちらも本心なんですよね。僕の誇りに誓って、この子に危害は加えません」

「貴様、真性の阿呆かっ!? 自分の立場を理解しておらんのかっ!?」

「粗忽者の誇りなどに、塵芥の価値も無いことを知りなさい」


 えへんと胸を張り、自信を持って言い切ったユディトであったが、あまりにも状況を解していない言動にすぐさまエルファーランは噛み付かれ、冷たい眼差しのシエルに切って捨てられる。


「貴様に求められているのは、エルファーラン様の御身を解放すること唯一つ。それさえ済めば、即座に死んでいただきます。犯した罪の重さを思えば、四肢を断ち、五体を切り刻まれることも温すぎる処罰だと理解しなさい」

「うええ、物騒な話ですねえ。そんなこと真正面から言われたら、余計にこの子を手放せなくなるじゃないですか」

「はあっ!?」

「ん? 待てよ。今の言い回しは何だか色々と誤解を生みそうだなぁ。イヴに聞かれたらどやされそうだし……あー、今の発言は保身的な意味ということで。いや、いっそ聞かなかったことにしてくれます?」


 首を傾げて伺いを立ててくるユディト。

 その仕草がいちいち癪に障り、エルファーランの苛立ちは募るばかりだ。


「ば、馬鹿にしておるのか! 妾を何と心得る!?」

「『まおー』さまなんですよね? いやはや、畏まる思いです」

「だらしなく語尾を延ばすでない! そもそもその胡散臭い顔の何処に畏敬の念があるのじゃ! 嘘を吐くでないわっ、白々しいぞっ!」

「いやあ、良く言われるんですよね。やっぱりこんな髪の色だからでしょうか? お前は第一印象で損をしているって、よく相棒に言われるんですが。うーん、染めるのって、なんだか自然に反しているから気乗りしないんだよなあ」

「わざとじゃな!? 貴様、絶対わざと言っておるな!!」


 緊張感がないどころか、本気で自分の立場がわかっていないかのようなズレた反応を示すユディトに、エルファーランは終始声を張り上げっぱなしだった。

 人目を憚らず大声で怒鳴り散らすなど、淑女の行いとして相応しくないと腹心のシエルに諫められそうなものだが、現在進行形で昂ぶる憤りの前では止められそうにない。


「……貴様は、つくづく人を愚弄するのが得意なようですね」

「へ? いえいえ、そんなつもりは全く」


 不意に、地の底から轟くようなシエルの静かな声が聞こえてきた。

 どうやらユディトの自覚なき間の悪さが再び発揮されてしまったらしい。目の前で現状そっちのけの子供染みた茶番が展開されたのだから、当然だ。


 シエルの中で膨張していた怒気が一気に開放される。それは殺気と化して弾け、彼女の周囲に控えていた兵士達は発せれられた威風に恐れ戦き、数歩後退させた。

 主君である少女、エルファーランでさえも驚きに表情を凍らせ、その身体を硬直させる程の気魄だ。


 だがシエルの殺気の直撃を受けた相手である当のユディトは、こともあろうか苦笑を浮かべていた。


「とんでもない殺気を放つ方ですね。仮にも主君と仰ぐこの子がこちら側にいるのですから、そういった力付く、という姿勢は良くないと思いますよ。ほら、彼女だって怯えているでしょう?」


 平然としているユディトと、引き攣ったエルファーランの表情を見比べて、シエルは美しくも獰猛に嗤った。


「ふ、これだけの氣魄をぶつけても受け流しましたか。これまでの身のこなしといい……痴れ者には違いありませんが、名のある武人と見受けました」

「ええと、こちらでは無名というか何というか」

「我が名は魔王親衛隊副隊長、シエル・アルフレッド! 騎士の情けとして、名前くらいは記憶の裡に留め置いてあげましょう。痴れ者よ、名乗りなさい」

「これはどうもご丁寧に」


 当たり前のように粗忽者から痴れ者にされてしまっていたが、名乗る機会を与えられたのは、ユディトとしても渡りに船だった。

 一方的に相手の名前を知っているというのは、交渉に際して心象が悪くなるものだ。加えて、痴れ者よりも更なる下限を更新することになるのは避けたい気持ちも密かにある。


 そんな内心の動きなどおくびも出さず、身の証を立てられることに揚々と喉を鳴らし、ユディトは片足を半歩引いた。


「改めまして……僕はユディト=ヴァーヴズ。『イルヴァーティの勇者』です」


 両腕に少女を抱えながら恭しく頭を垂れる様は、まるで苦難の旅路の末に囚われの姫君を救出し、凱旋を果たした英雄のそれだった。

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