第5話 異郷の地にて(2)

「ま、『まおー』……さま?」

「その御方は、我ら異胚種ゼノブリードを統べる王。貴様のような不埒者如きが、その穢らわしい手で触れていい方ではありませんっ!」


 口調こそ丁寧だったが、今にも斬り付けて来そうな烈気を放つシエル。

 さりげなく狼藉者から不埒者に格下げされていたが、切迫した彼女の叫びはそれに気付く暇さえ与えてはくれない。


 眼前で迸る逆らい難い迫力に圧されるがまま、ユディトは自分の腕の中で気を失っている少女を呆然と見やった。


 煌びやかな宝石が鏤められた金の髪飾りと、上等な品であるのが良くわかる白絹のドレスの上に、深く落ち着いた闇色の外套を身に着けた少女は小柄で華奢だ。

 硬く伏せられた双眸から零れる睫毛は長く、形の良い小さな唇は柔らかに濡れている。一見して美しいと感じられる容貌を覆うように綺麗に切り揃えられた艶やかな射干玉ぬばたまの髪が垂れ、少女の神秘的な雰囲気を醸し出すのに一役買っていた。


 意識を手放している面には幼さの残影がちらついていて、年の頃はおおよそ十六前後と言ったところだろう。……もっとも、ここは〈アンテ=クトゥン〉とは異なる世界なので、外見からの推定年齢と実年齢にどれほどの差があるのか、ユディトには判らなかったが。


 顔や首筋といった僅かに露出している肌を蒼白にさせ、ぐったりとしている姿は生気に乏しく、それだけ肉体的にも精神的にも消耗しているのが簡単に想像できる。


 しかし彼女がそうなったのは、他ならぬユディト自身が原因だ。

 深窓の令嬢然とした少女を人質にして、この未知なる建造物内を何の当てもなく適当に逃げ回ったユディトは、通路が交差する度に呆れるほど増えてくる追手を撒く為に、風のように床を駆け壁を駆け天井を駆け……慣性やら重力やら、世界を廻す摂理や常識を置き去りにして、文字通り縦横無尽にあらゆる所を踏み砕きながら遁走したのである。


 だが運がないことに、この城を構成する壁や床の強度はユディトの踏み込みに耐えれる程ではなかった。

 軽々と踏み砕いてはあちこちに穴を開ける結果となってしまい、そんな耳を塞ぎたくなる阿鼻叫喚の破砕音が鳴り響く中。

 己が理解から外れたユディトの行動と、次々に蹂躙されていく己が城内の惨状を目の当たりにして、少女は終ぞ意識を手放してしまった――それが少女の憔悴にまつわる真相である。


 現在に到るまで、ユディトの感覚ではゆうに数十分は経過しているのだが、未だに意識を取り戻す気配はない。つまりそれだけ少女が心身に受けた衝撃は大きいのだろう。

 とはいえ、ユディトはユディトで困惑の最中にあった。


(『まおー』、って……何だ? 上手く意味が伝わって来ないけど……ひょっとして『異言訳出ゼノグラシア』に支障が?)


 神器の環境適応機能が正常に稼動しているからこそ、異世界という理を別にする場所であっても呼吸ができ、相手の言語を理解しての応答ができ、歩くこと、その他諸々の動作を〈アンテ=クトゥン〉と何ら変わらなく行使できる。


 その一つである『異言訳出』は、簡単に言えば相手の言語を翻訳する機能だ。

 言葉の奥に潜む意思を汲み上げ、こちらが理解できる言語に変換するのだが、その精度は神器所有者が持つ知識に依存する。

 つまり、相手がこちらに伝えようとしている意思や概念に相当するものをこちらも持ち合わせていなければ、意思の疎通は完遂されない。


 だから今回のように意味が全く伝わってこない場合は、シエルの言う『まおー』という言葉と同義の概念が〈アンテ=クトゥン〉に存在しないか、単にユディト自身の知識不足である。


(うーん、他の言葉は普通に通じているから、『まおー』という言葉が指す概念が特殊、ってことになるのかな?)


 であれば単なる音の羅列にしか聞こえない理由も説明が付く。

 どうしたものか、と内心で首を傾げたまま、ユディトは再び腕の中の少女を見やった。


 少女を示す『まおー』なる言葉。それが何なのかユディトは理解できなかったが、それでもこれまでの周囲の反応を見て、少女の身分についてある程度の見当が付いていた。


「やっぱりこの娘……、偉い人だったんですねえ」


 そう。

 最初に邂逅した時に幾らか言葉を交えていたが、その時の様子は随分と横柄で尊大だった。それが自身の地位に裏打ちされたものであったと思えば、確かに納得ができる。

 更に加えるならば、追跡の兵士達一人一人が解き放っていた尋常ならざる気迫や、広大な迷宮を越えてこんな場所にまで執拗に追い回してくる執念。それらはいずれも、この少女の身分の高さを暗に示していたのだろうが、どうやら現実は予想を更に上回っていたようだ。


 ユディトはこの〈魔王領アガルタ〉の指導者の……係累だと予想していたが、力なく気絶した少女を尊ぶシエルの、嘘偽りなどない真剣な表情を見る限りは明らかである。


 そこに疑う余地はないと思えてしまうからこそ、ユディトは表面上平静を保ちながら、内心でがっくりと項垂れるしかなかった。


(……完璧に、人選を間違えちゃったか)


 唐突に見知らぬ場所に転移して混乱の渦中にあったユディトは、それでも状況と情報を整理して心を落ち着かせる為に、丁度その場に居合わせた五人の人間達に接触を試みていた。


 生まれ育った〈アンテ=クトゥン〉の流儀に倣って友好的な姿勢を過剰なくらい全面に押し出し、敵対の意志など微塵も見せず極めて穏やかに話掛けたのだが……どうやら自分の降り立ったタイミングが、その場にいた者達にとって最悪の瞬間だったようで。


 その上、ユディト自身が持つ天性の間の悪さが望まないまま本領を発揮してしまい、彼らとの間に漂っていた一触即発の空気は弾け、なし崩し的に戦闘状態に突入してしまった。


 嵐の如く吹き荒れる怒涛の攻撃を回避しつつ、何度も弁明を繰り返したユディトであったが、口を開けば相手の逆鱗をまさぐり、行動で示せば相手の神経を逆撫でするだけで、当然ながら話は全く進まない。


 それでもめげずに攻撃を繰り出してくる者達の様子をつぶさに観察してみれば、彼らの何かを諦めきれない眼差しと言動、神殿らしき場所の荘厳で張り詰めた雰囲気。そして、それぞれの手にした武装の只ならぬ存在感から、その場に集結した者達は、もしかすると決闘でもしていたのではないか、との考えに到る。


 対立構図こそ不明であったが、仮にそうだとするならば、その場に途中で割って入り、決着を有耶無耶にした自分に怒りを向けてくるのは寧ろ当然のことだ。


 しかし、実際はそう簡単な話ではない。

 その場の全ての敵意をぶつけられるならばまだしも、あまつさえ協調して攻め立ててくる現実を前にしては、ユディトは自身の推論に致命的な欠陥が潜んでいることを思い知る他なかった。


 結局。それぞれの因果関係は判らず、何をしていたのかも不明であり、既に対話が成り立つような状況ではない。

 そう半ば投げやりに判断したユディトは、その場から撤退することにした。


 どこか適当に壁を蹴り破ろうと視線を巡らせていると、運が良いのか悪いのか、丁度出入り口らしき場所から大勢の兵士達が雪崩れ込んできたので、そこから脱出すれば手間が省ける、という楽観のままに。


 その間際に、居合わせた者の身柄を預かったのは単純な思い付きで、出来心だ。

 五人は少なからず連帯感を以って行動していたのだから、その環を構築する誰か一人でも姿をくらませれば、その安否を重要視しこちらの話にも耳を傾けてくれるだろうと一縷の望みに賭けたからである。……勿論、人質という手段を講じることへの呵責が微かに胸裏を苛んだが、それでも対話不能な状況下では致し方ない、と自分に言い聞かせ。


 しかし打算塗れで見通しが甘く、行き当たりばったりで困窮極まった苦肉の策だ。当然歪みを内包していて、適当に選んだ人質はどうやら悪い意味で大当たりだったらしい。


 さもしい小細工が裏目に出た結果。ユディトの掴んだ細く儚い望みは派手に火花を噴いて千切れ飛び、虚空の彼方に消え去ってしまったのだった――。



――そうして今。清々しいほど見事に賭けに敗れたユディトは、地上より遥かな高き所にて、行き場の無い円環回廊の片隅に追い詰められている。

 通路の双方が塞がれた以上、ここから逃げ果せるとなれば、最早宙を羽ばたくしか選択肢がない。


 誰しもに否が応にもそう実感させる、完全に詰みの局面だった。


(そう言えば、僕って運勢とかクジ運とか最悪だったっけ。自分のことながら厭になるよなぁ)


 嘗ての戦いの日々において、『魔物』の軍勢が屯する本陣に奇襲を仕掛ける際。或いは大規模な討伐作戦を敢行する時。部隊配置では当然のように一人あぶれ、最も苛烈で危険だと予測できる戦線に単身で放り込まれた。


 仲間内で気晴らしの余興としてカードやサイコロを用いた簡単なゲームをやらされた時など、周りが気を使ってしまうくらいに負けが続き、半ば伝説と化した程だ。


 他にも、休息に立ち寄った街で戦勝祈願を行えば、それを執り行った神殿は原因不明の出火に遭って全焼し、世界的にも著名な占術師に運勢を見て貰えば、この世の全ての絶望を背負ったかのような表情で延々と自分に降り掛かる苦難を告げられる始末だった。……ちなみにその占い師は、精神が耐え切れなかったのか話の途中で卒倒し、医療機関に搬送されてしまったらしい。


 こうして自らに課した使命を達成した直後に異世界に放り出されてしまったのも、実は幸運を司る女神だか男神だかに毛嫌いされているからではないのだろうか。

 そんな自虐的な考えが脳裡を過ぎり、つくづく自分の不運さを再確認してしまったユディトはあまりの遣る瀬なさに、自らを取り巻く現状そっちのけで虚ろに溜息を零していた。




 自身の境遇を省みて全身から哀愁を漂わせるユディトであったが、しかし周囲からすれば人攫いの心情など一顧だに値しない。

 寧ろその不審な一挙一動を注視し、緊迫感や警戒心を肥大させる結果になっている。


 単なる現実逃避として別のことに思考を傾けていたユディトであったが、眼の前に広がる情景はそれを許すような雰囲気ではなく、否が応にも現実への回帰を余儀なくされてしまった。


(……やっぱり、悪いことってするものじゃないか)


 ユディトはしみじみと実感して反省する。

 まさか適当に攫ってきた少女がこの地の権力者だったなど、いきなりこの地に放り出された身にどうしたら予想できようか。打算で行ったこととは言え、限度がある。


 とは言え、それは相手側にとって見苦しい言い訳にしかならない。現在の窮地を招いた原因が自分にあることは、動かざる事実なのだから。


(話は聞いてくれそうにないし、逃げるにしても何だか一戦交えなきゃいけない雰囲気になってきし……本当にどうしようかな?)


 刻々と狭まる包囲網と、際限なく増大する敵意。肌に触れる空気が痛く、戦場の中に佇んでいるのだと錯覚してもおかしくはない。

 しかし、シエルをはじめとするメイド兵士らと争うつもりのないユディトとしては、この綱渡りにも似た状況をどうやってやり過すかが目下の悩みどころであった。

 流石に、相手の怒りの原因がこちらにあると自覚しているだけに、その相手を打倒して窮地を脱せるほど神経は図太くはないつもりである。


(まあ外には出れたし、これ以上この子を連れていく理由もないから解放するかな……ん? 良いのか? いや、待てよ――)


 正直なところ、手段さえ選ばなければユディトには現状を覆す術がある。

 それはこれまで絶望的な戦場を駆け抜けてきた経験に由来する絶対の自信に満ちたもので、実際に敢行するのであれば今すぐこの場で少女を解放しても全く問題ない……と思えたが、すぐさまその考えを棄てた。


 確かに単身ならばどうとでもなる状況下なのだが……どう取り繕ってもこの地における権力者を誘拐したという事実は歴然としていて、当人も含め他の者達が無礼を働いた自分を逃すことはないだろう。

 逆に陣頭指揮を取ってより一層の苛烈な追跡が始まっても不思議ではなく……いや、それどころか城内を散々踏み荒らしてしまったことも鑑みれば、追跡どころか大々的に討伐部隊が組織され、差し向けられる可能性の方が遥かに高く現実的だ。


 当面、ユディトが何よりも優先させなければならないのは、離れ離れになったイヴリーンとの合流である。

 彼女の陥った状況が今の自分では推し量りようがない以上、周囲の現状をしっかりと把握して探索し、色々な事物を精査した上で対応しなければならない。


 ならばその為にもまず必要となるのが、腰を据えるこの地の情報だ。

 これまでに培った知識が通じるならばまだ救いがあったが、残念なことにここは何処とも知れぬ異世界である。神器の機能のおかげで辛うじて意思疎通が可能とは言え、この地の常識や習慣までは補完してくれない。


 従来ならばそれを補う為に、現地の存在に尋ねるのが簡潔で最良の選択と言えるのだが……既に最初の一歩で正道から足を踏み外してしまっているユディトには厳しいことこの上なかった。

 寧ろ悪手悪手を差し続け、その果てに到った現実は最早正道への回帰が望めないことを示唆している。


 こうなってしまっては、いっそのこと邪道を貫き、こちらの用件が終了するまでこの少女には近くにいてもらった方が精神的に安心というものだ。

 少なくともこの世界でも、権力者に連なる者は兵にとってこれ以上ない牽制の切り札になることが、取り囲みながらもそれ以上踏み込んでこない現状が証明しているのだから――。


(――って、いやいや! 何を考えているんだ、僕はっ)


 実現性の高い危難を回避する為とは言え、思考の方向が完全に開き直った悪党のそれになってしまったと自覚して、ユディトは小さく頭を振った。


 悪い方向にへと逸りそうになる心を祓う為、徐に周囲を一瞥してみると、視線で人を射殺せるほどの憎悪を滾らせたシエルと目が合ったので、ユディトはつい条件反射的に愛想笑いを浮かべてしまう。


「っ!」

「あ、ありゃ?」


 周囲の温度が低下したのと共に、堪忍袋の緒が切れる音を聞いたような気がして、ユディトは狼狽した。


 誰かと目が合ったら取り敢えず笑顔を返してしまうのは、対人関係において無用な諍いをやり過す手段の一つで、ユディトが出自の関係で身に付けた習性のようなものだ。

 それがこれまでに如何ほどの成果を挙げてきたかはさておき、無自覚の愛想笑いは真剣味に欠け、相手と状況によっては不快に受け取られることもある。


 そして今回は……ものの見事に激怒させてしまったようだ。

 実際、シエルはより一層の烈気を全身から放出させ、更に間合いを詰めようとしているではないか。


 その様子を目の当たりにして、流石にこれは不味い、と思ったユディトは、半ば無駄だと予感しつつも弁明の為に口を開く。


「ええと――」

「何故、魔王様を攫った?」

「はい?」


 だがそんなユディトを遮ったのは、他ならぬシエル当人だった。


 今にも爆ぜそうな感情を強固な意志で押さえつけた硬質な声韻が朗々と響き、動揺していたユディトは口を噤んで言葉の意味を反芻する。


 実際問題、人質の人選そのものに大した意味などなかった。

 神殿で邂逅した五人の人間のうち、難度の高そうな者や目に見えてわかり易い重武装の者、或いは人質としての効果が薄そうな者を選択肢から外すと対象となるのは二人しかおらず。その内、一番近くにいた方を選んだに過ぎないのだ。

 もし仮にこの少女が傍にいなかったら、その対象はもう一人の候補であった、青き法衣の女性になっていただろう。

 確率で言えば二分の一でしかない数字の意味するところは、結局どちらでも構わないという程度のもの。

 本当に、ただそれだけの話だった。


 だからこそ、何故攫ったのかと問われても、ユディトにまともな回答など用意できる筈もない。

 何となく、が動かざる真実なのだが、それを馬鹿正直に口にしてしまえば相手の憤怒が更なる境地へと昇華しかねないのが目に見えてわかり、危機感の薄い傾向のユディトであっても自分からそんな愚を冒すつもりはなかった。


「……貴様は『天色託宣ゾア・プロフェテス』を邪魔する為に放たれた他国の間諜ですか?」

「は?」

「だとすればそれは極めて愚かな選択です。そんなことをすれば自らの首を絞めることにしかならない簡単な結末を、何故想像できないのですか?」


 独り煩悶するユディトに向けて詰問を重ねるシエルの表情は、これまで以上に真剣そのものだ。

 その双眸に燈った冷たく鋭い光からは、こちらの真意を冷徹に推し量らんとする意図がありありと伝わってきたが、ユディトとしては初めて耳にする単語に眼を瞬かせるばかりである。


 勿論、『異言訳出』でも翻訳しきれないことから、〈アンテ=クトゥン〉には存在しない概念であるのは間違いない。ただ、ここが全く未知の異世界である以上、何もかもが初めてだという事情を差し引いても耳に残る印象的な単語だった。


「ちょ、ちょっと待ったください。話が全然見えないんですが……そもそも何ですか、それ?」

「……白々しくとぼけるつもりですか。〈星詠の間〉で行われていた儀式が、『天色託宣』を実行する為に必要な儀式だと知った上で忍び込んだのでしょう? それを邪魔する以外、あの場所に近付く理由は存在しません」

「いえいえ。故意に近付いたというより、いきなり放り出されて右も左もわからない、というのが本当なんですが……うーん、この場合、なんて説明すれば良いんだろ?」


 ここが異世界だと確信しているユディトであるが、それをそのまま伝えてもよいものか判断ができなかった。

 そもそもこの地に異世界・・・という概念があるのかすら不明なのだ。もしも通じなければ、自分はただ支離滅裂な妄言を吐くだけの不審者に見られるだろうし、そうなってしまえば対話どころではない。


(いや、もう何を言っても通じない気がするけど……)


 心のどこかでそう帰結してしまっているからこそ、余計なことは言えず。だが状況は、ユディトの内心などお構いなしに釈明を求めていて。

 結局。懊悩がそのまま曖昧な弁解として発せられてしまい、相手の悪感情を煽るだけに留まってしまう。


 何もかもが悪循環で、しかしどこまでも自業自得だった。

 誠実に対応したところで、貴人を攫ったという不誠実の極みが白日に晒されている限り、ユディトの呈するあらゆる一切など、側仕えだろう眼前の麗女の裡で燃え盛る焔をより昂ぶらせるだけの助燃物でしかない。


「……まともに答える気はない、ということですか。忌々しいことこの上ないですが、おおよその見当はつきます。『天色託宣』の邪魔などという愚行を由とするのは、我ら『異胚種』の存在を疎ましく思っている『人間種ヒュムノイド』の”真血派”しか考えられません。やはり貴様はヴァリガン帝国の――」

「ち、違いますよ! 本当に偶然なんですっ。僕もどうしてあの場所にいたのか、全然わからないんでっ!」


 苛立ちを募らせてか、殊更鋭くなったシエルの眼光を受けてユディトは慌てた。

“真血派”とは、言うなればこの世界の『人間種』国家群に根付いている思想体系の一つで、『異胚種』を『魔属』たらしめている要因の一つである。


 勿論、いずれの単語の意味も今のユディトには与り知らないことであるのだが、シエルの厳しい眼差しと口調から察して、彼女らにとって受け容れ難い不愉快なものであることが伝わっていた。

 それだけに自分個人への疑念が強まるのならまだしも、なにやら怪しげで全く身に覚えのない思想集団らしき枠に組み込まれそうになっている妙な流れには、ユディトも慌てざるを得なかったのだ。


〈アンテ=クトゥン〉において、人類史よりも旧くから存在していると云われる三種の神器、『皇権イルヴァーティ』を手にしたユディトは、ある特定の人間達に現人神扱いされて行動を著しく制限され、要らぬ諍いに巻き込まれた経験がある。

 当時、一刻も早く『魔物』を打倒せねばならない世情であったにも拘らず、妙な足止めを喰らって随分と迷惑を被ったものだ。


 その為、背後にややこしそうな因習やら思想やらが絡んだ集団に関わると、碌なことにならないことを、ユディトは身を以って知っていた。

 だからこそ、“真血派”なるよく解らない者達とは無関係であることをしっかり伝えようとしたのだが、当のシエルは胡乱な目でユディトを射貫いているだけで。


「……これが最後です。貴様は“真血派”の手の者ですか?」

「いやいや、誤解ですって! 僕はその“真血派”とやらとは全く関係ないんですっ!」

「それを証明する手立てが貴様にはありますか? 魔王様を攫った時点で儀式は失敗に終わり、彼らの望みは達成されてしまったというのに」

(か、完璧に人選を間違えたっ!)


 近い場所に居た方などという、安直な選択をしてしまったことをユディトは大いに後悔した。しかし元を糺せば、人質を取ろうとした選択そのものが誤りであるのだが、動揺しきったユディトは既にそのことに気付けない。


 煮え切らないユディトにいい加減痺れを切らしたシエルは、美しくも鋭い細剣を振り払い、真紅の侍女服の裾を揺らして一歩一歩詰め寄ってくる。

 その揺るぎなき凛とした立ち姿から解き放たれるとてつもない威圧は、大気を震撼させ、こちらの言い分の尽くを清々しいまでに弾き返していた。


 もう後退しようのないユディトとの距離が著しく狭まり、剣を扱うシエルにとっての間合いギリギリに到った時。

 だが彼女はピタリとその歩みを止める。


「……いえ、そもそも儀式の最中は、〈星詠の間〉は完全に閉ざされた空間になる。外部からの干渉など、我らの『魔印術グリモワ』を用いても実質不可能」

「あの……シエル、さん?」

「ましてや人間種にそんな術などある筈が……まさか! 我々の知らない何らかの方法で空間を越えて侵入したとでもいうのですか!? だとしたらっ――」


 剣の切っ先をユディトから外さぬまま、自問自答の末に目を見開いたシエル。

 その眼は、これまでの罪人を見るものとは違った、より厄介で対処し難い天災に見えてしまった時のような驚愕に染まっていた。


 そして、上役と仰ぐ彼女の動揺が周囲に伝播してか、メイド服の女兵士らもまた、高まる緊迫感から一斉に息を呑む。


「お、お願いですから話を聞い下さいっ!!」


 穏便を望む意思とは裏腹に、急速に周囲から脅威認定されてしまう現実を目の当たりにして、この後に続くであろう、めくるめく事態悪化の既知感に、ユディトは心底泣きたくなった。

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