第4話 異郷の地にて(1)

「……あー、うん、そうか。そういうことだったのか」


 唐突に掛けられた声に虚を突かれたユディトが最初に目にしたのは、空からの光を反して鈍く輝く鎧だった。


 人体を覆い保護する鋼鉄の繭。それは戦舞台で華々しくも豪放に躍るつわもの達の正装だ。

 そのしなやかにして強靭な面に生々しく刻まれる傷の一つ一つが、纏う者達が綴ってきた戦いの歴史であり、己が生を駆け抜けている確かな足跡である。


 そんな謂われもあってか、どのような所であろうとも戦装束の者が一人でもいれば、その場の空気は引き締まるものだが、現状においてのそれは一人や二人どころの話ではなかった。


 一瞥する限り十数……いや、少なくともそれに倍するだけの兵達が、殺風景な円環の回廊に集結しているではないか。

 それぞれの手の中で剣呑に光る剣や斧、小剣や槍といった物騒過ぎる刃の群。全身から迸らせている烈気は今にも爆ぜんばかりだ。

 にもかかわらず、誰一人血気に逸ることなく整然と隊列を維持しているのは、よく訓練された兵であることの証明だろう。


 誰の目からも明らかな臨戦態勢で、くろがねの兵達はユディトを完全に包囲していた。


「よし! 引き返そう――って、あ、ありゃ!?」


 これまで無数の激戦を潜り抜けてきたユディトは、経験によって培われた危機回避本能に従って脊髄反射的に踵を返し、愕然とする。


「か、階段が……無くなってるっ?」


 どういう訳か、今の今まで登っていた筈の螺旋階段が、煙の如く消え失せているではないか。

 咄嗟に足を引っ込めて周囲に目線を走らせるも、大地より遥か上空の空虚な景色が広がっているだけで、憂鬱になるくらい延々と連なっていた姿はどこにもない。


 そんな事実に、ユディトはしばし呆然と眼下の景色を眺めていたが、背後から流れてくる空気の冷たさや刺々しさが増大していることに気付き、慌てて振り返る。

 そして、自分が置かれている状況を改めて認識した。


「……これはもう、笑うしかない壮観な眺めだねえ」


 視界に飛び込んでくる刃、刃、刃。

 行く手を阻まんと立ち並んだ兵士達が身に着けた武装は、ユディトも見たことがある形状の刀剣や甲冑が殆どだ。


 それらは銃火器が戦場を席巻する現代の〈アンテ=クトゥン〉において既に過去の武具で、骨董品や美術品に類されて久しい代物である。

 主だった用途と言えば、富裕層に属する懐古趣味な好事家達の蒐集物。或い時の権力者達が自らの財力と権勢を誇示する為だけの虚栄の写し身――いずれにせよ、決して実用の物ではない。


 しかし眼前に広がる光景はどうだろうか。

 ユディトの温い認識を嘲笑うかの如く、兵士達の実に堂に入った凛とした佇まいには、実戦で使い込んでいるが故の確かな自信と矜持が漲っていた。


(旧時代の武装だからと言って侮っちゃ駄目、ってことか)


 飾り気のないスラリとした漆黒の長剣に、旧き貴族階級の人間が纏うような瑠璃色のコートと、拳大の宝珠をあしらった金の首飾り。

 意匠に限って言うならば、ユディトが装う神器の見掛けは現代の〈アンテ=クトゥン〉の文化水準からすれば随分と前時代的なものである。それこそ眼前のような刀剣甲冑が隆盛を誇っていた時代となんら変わりない。


 だが、ユディトはさらりと自分のことを棚上げにして早々結論付けた。

 文化とは、その発祥起源や生育環境によって進捗度や熟成度合、方向性が千変万化するものである。ましてや世界という舞台そのものが変われば、その変化は語り尽くせるものではなく、一義的な認識で全てを括ろうとするのは愚の骨頂でしかないのだ。


 その認識は〈アンテ=クトゥン〉の人間ならば往々にして持つ常識であり、ユディトとて例外ではなかった。


(さっき戦った人達もそうだったけど、この世界の人達って、外見は〈アンテ=クトゥン〉の人間とほぼ変わらないのか?)


〈アンテ=クトゥン〉と繋がっていた数々の異世界には、実に多様な形態の知的生命体、ひいては人類が存在していたが、この異世界においては、どうやら外見に自らとの大きな違いは見られないようだ。


 その事実は、ユディトにとっては僥倖だった。

 第一印象を大きく左右する外見に明確な差異が見られなければ、まず違和感よりも親近感が勝るものだ。

 身体構造が似ていれば、武術による身体運びもある程度は想像でき、文化の様式に通じるところがあるならば、相対する際の認識齟齬が減り交流の円滑化が図り易くなる。


 想像を絶するかのような異形とコミュニケーションを取らねばならない状況に比べれば、相手が見知った姿形であることは不幸中の幸いだった。……もっとも、異世界に放り出されて間もなくそこの住人達に武器を向けられ、包囲されている時点で不運の極みに到っているのだが。


(いや、そんなことよりも気にするべきは――)


 次々と湧き出してくる疑問を一旦思考から外し、ユディトはより一層の真剣な面持ちで目を凝らしてゴクリと唾を呑み込む。

 どうしても無視できない光景が、眼の前に広がっているのだから。


「……なんでメイドさんが武装なんかしているんだ?」


 そう。

 逃げ道を封鎖し、踏破不能な鉄の壁だとユディトに幻視させた兵士達は、尽くが女性だった。それも自分と同年代である十代後半から、少し上下する程度の。

 目鼻立ちがはっきりとした面差しで、生命の躍動感に溢れる可憐さをそれぞれが宿している。


 うら若き乙女達が、瀟洒なドレスを着こなし貴金属や宝石で身を飾るが如く、無骨な胸甲キュイラス腕甲ヴァンブレイス篭手ガントレットといった防具をそつなく身に着け、その下に濃紺の侍女服らしき衣服と真っ白なレースエプロンを纏っているのだから、はっきり言って異様過ぎる光景だ。

 兜の代わりに頭部を彩る白いフリルカチューシャは眩しく、一際異彩を放っている。


 だが武器を手にした姿には隙という隙が全くなく、彼女らが武芸に秀でているのが一目で判った。


(待てよ……ここは〈アンテ=クトゥン〉じゃないんだから、あの格好がメイドさんって認識するのは早計なのかな?)


 お世辞にも戦闘向きとは言えない意匠であるが、もしかするとそれがこの世界における普遍的な戦闘装束か、恐るべき特殊機能満載の兵装なのかもしれない。


 型に嵌め過ぎて考えるのは問題だが、極端に度外視するのもまた問題なのだ。

 物事を多角的に柔軟に捉えることの重要性は、これまで相棒のイヴリーンに散々叩き込まれてきたことである。

 もっとも、ユディトの思考が柔らかすぎで突飛過ぎて、それを矯正する為に注意されたことの方が圧倒的に多かったが。


 いずれにせよ、状況を鑑みれば無意味な逡巡である。


(それにしてもこの状況って……やっぱり誘導されていた、ってことだよなぁ)


 ユディト自身、周囲の警戒を怠ったつもりはなかった。

 しかし、唐突に見知らぬ異世界に放り出されてしまったことにかなりの衝撃を受け、注意が散漫になってしまったのは否めない。

 そして改めてこれまでを顧みれば、誘導を匂わせるだけの要素は確かに多々あったのだ。


 今にして思えば、勝手気ままで適当な逃走劇も、実は相手にとって予定調和の範囲内にすぎなかったということだろう。如何なる手段で先回りをしていたか見当もつかないが、こうやって手薬煉引いて待ち構えていたのだから、最早疑いようがない。


(ああ……こんな事態に陥ったなんてイヴに知られたら、また油断してたのか、ってどやされちゃうなぁ)


 無意識に小さく身震いしていたのは、そうなってしまった時のことを考えたからか。

 いかに普段からのほほんとしているように見られがちだとしても、戦いの中に身を置く以上、ユディトとて最低限の時と場合は弁えているつもりである。

 だが、いかにユディトがそう声高に主張したところで、現在はぐれたままの相棒イヴリーンがこちらの心意気を汲んでくれるかどうかは別問題だ。これまでの経験上、聞き入れられた例ない。


 実に暗澹しか見えない帰結に、一人慌しく感情を動かすユディトであったが、傍から見れば、そんな様子は極めて暢達としたものに他ならず、周囲の警戒心を煽るには充分だった。


「この〈天環橋〉に連なる道は全て封鎖しました。もう逃げ場はありませんよ、狼藉者」


 清潔感を想起させる声韻が空気に染み渡ると、間も無く兵達が一斉に動いて列が割れる。そしてその奥から、一人の女性が踏み出して来た。


 歴戦の将さながらに威風堂々と現れたのは、細緻な装飾が施された金色に輝く装甲で上体を包み込み、腰まである緩く波打つ黄金髪を優雅に靡かせている美しい女性だ。

 清廉で実直な性質が滲み出る、強靭な意志を秘めた瑪瑙の眼差しは、ただ真っ直ぐにユディトの姿を捉えている。


 峻烈な風に眩い長髪をたなびかせ、背後に多勢の兵を従える女性の姿は凛然としていて、世に数多にあるであろう叙事詩サーガに登場する、戦乙女と評されても何ら違和感はない。


 ただ、やはりとも言うべきか。

 その女性もまた、周囲の兵達と同じ規格の侍女服を纏っていた。色彩は濃紺ではなく気高い真紅で、その高貴さは彼女が周囲の女兵士達とは一線を隔した存在であることを如実に物語る。


「あ、あのですね」

「随分と城内を好き勝手に荒らし廻ってくれたようですが、それもここまで。この場所が終生の地だと知りなさい」


 バツが悪そうに口を開いたユディトを遮っての、いきなりの死刑宣告。

 どうやら相手側の心象は、悪いを通り越して修復不可能域に到達しているのだろう。彼女から発せられる烈々とした気迫は、既に交渉の余地などない、と雄弁に言い放っているようだ。


 とは言え、自身の生命がかかっているのだから、ユディトも退く訳にはいかなかった。


「いやいや、言い訳の一つくらいはさせてくれたって良いじゃないですか!」

「…………」

「と、兎に角ですね。城内の惨状に関しては本当に申し訳ありません。何というか、まだこっちの重力とか慣性とかの環境に慣れていなくて、力加減があやふやだったんですよ」


 神器の機能によってこの異世界の摂理に適合できはしたが、ユディト自身の身体の感覚がこの地の環境に順応できたかは別である。

 何をするにしても力加減が未だに不調和の域から抜け出せれないのは、今も意識と感覚との間に生じた微妙なズレの為であるからだ。


 そして力加減が非常に不安定なまま動き回った所為で、床に穴を開け、壁に穴を開け、天井に穴を開け……ユディトの通った後には、死屍累々とした惨状が生み出されることとなった。

 ちなみにユディト自身は知らないが、城内の美装に務める者達……つまりは眼前で武器を構えて展開するメイド兵達の一部が件の惨禍を見て、悲鳴を挙げて卒倒したという。


 そんな裏事情もあってか、ユディトの真摯な弁明にも麗女は眉一つ動かさなかった。いや寧ろ、触れれば切れてしまいそうな凄みのある眼差しは、まるで蛇蝎でも見るかのように嫌悪に染まり、冷たく、鋭い。


「この〈万魔殿シャングリラ〉への侵入をはじめとする、数々の暴挙。もはやただ一つの死程度で贖えるものとは思わないことです」

「人間、一回死ねば終わりだと思うんですけど、この世界では違うんですか?」

「……減らず口を」

「あ」


 しなくてもいい疑問をつい口にしてしまったユディトに、赤いメイド服の麗女は底冷えする笑みを浮かべる。

 全く笑っていない双眸に物騒すぎる剣呑な光を湛え、ゆっくり静かに手を上げると、配下であろう兵士達が刃を構え直し、一斉に動き始めた。


「あ、あの、もうちょっとお話を聞いていただければ、助かるんです……けど」

「……」


 流石に軽率だったと後悔したユディトの哀願に応じるのは、無言の圧力と無慈悲な冷たい風のみ。

 一気に襲い掛かってこないのは、混戦を避ける為だろう。

 足場が著しく制限された場所での混戦は予測外の隙を生じさせ、そこから脱出の糸口に繋がる可能性も充分に秘めているからだ。


 密かにそこに期待していたユディトを嘲笑うように、メイド兵達は逃げ道を封鎖しながらジリジリと確実ににじり寄り、包囲網を刻々と狭めていく。

 床を踏み抜かぬよう慎重にユディトも摺り足で後ずさるが、数瞬の後にコツンと踵が縁石にぶつかったことで、これ以上退けない現実を自身に、そして周囲に知らしめた。


「……まだ、そんな余裕を見せますか」

「へ?」


 金色の麗女の声韻には、慎重と警戒が幾重にも入り混じっていた。

 その言葉が示す通り、確実に追い込まれている筈のユディトの表情には少しの焦燥も浮かんでいないからだ。それどころか、冷静沈着に間合いを詰めてくるメイド兵達の様子に感心さえしているような佇まいでさえある。


 そこに在るのは、強者の余裕。絶対死地に追い込まれても尚、そんな状況など容易に覆せる術を保持しているということの表れ。

 当人に自覚があるかはさて置き、それを飄々とした風体の青年から感じ取った麗女は、目を細めた。


「逃げ場を失いながら取り乱すことのない精神の屈強さ。よほど己の力に自信のある猛者か、或いは状況を解せない底抜けの阿呆か。果たして、どちらなのでしょうね?」

「えっと……こちらとしては、見くびってくれると助かるんですが」

「〈常闇回廊〉の中での、常軌を逸した回避行動を見る限り、己の力に自信のある底抜けの阿呆、ですか」

「な、なんだか酷い言われようですけど……でもやっぱり、あの影を操っていたのは貴女だったんですね。ええと、シエルさん、でしたっけ?」


 先程から自分を見る視線、というか意識の向け方に既知感を覚えていたが、どうやら直感は正しかったようだ。

 ユディトが小さく納得に頷いていると、将軍の如き存在感の麗女……シエルの眉がピクリと動く。


「……気安く呼ばないで頂きたい。貴様に名乗った覚えはありません」

「ありゃ、そう言えばそうでしたね。これは申し訳ない」


 確かに言われてみれば、互いに自己紹介をした記憶などなかった。

 ユディトがその名を知っていたのは、最初に降り立った部屋から脱出する際。数多の兵士達と共に雪崩れ込んできたシエルの名を、誰かが呼んでいたのを耳にしただけにすぎないのだ。


 相手の名前を知っているとは言え、一方的にその名を呼んで会話を進めるのは些か礼を失している。特に、ほぼ初対面の女性ならば顕著に感じるに違いない。

 そう考えたユディトは、心底申し訳なさそうに頭を下げる。


 だが、追い込まれつつある状況を少しも気にしていないマイペースな様子のユディトに、いちいち神経を逆撫でされる気分に陥っていたシエルは、自らを宥めるよう深くゆっくり溜息を吐いた。


「……成程。これは性質が悪いと言わざるをえませんね。自らの非を理解できない者に、その罪の重さを自覚させるのは非常に骨が折れる」

「え!? あー……いや、そんなに警戒しなくてもいいですよ。あなた達と敵対する意志なんて、僕にはこれっぽっちも無いので」


 刻々と悪くなる場の雰囲気にようやく気付き、言い訳がましく弁明を重ねるユディト。


 咄嗟の、だが本心からの一言で、いよいよシエルの顔から冷静さが消え去った。


「……よくも、そのような戯言を、口にできたものですね!」


 つり上がる柳眉と憤怒が燃え盛る双眸。そして、胸裏で煮え滾る激情が込められた声。

 平静を装うことを放棄したシエルは、腰の鞘からスラリと細剣を抜き放ち、鋭すぎる切先をユディトに突き付けた。


「その御方を返して貰いましょう!」


 憎悪を爛々と滾らせるシエルの指摘するとおり、ユディトはその両腕で少女を抱えていた。片腕を背の後ろに、片腕を両膝の下に通した横抱きに……俗に言うお姫様抱っこである。


 細緻な刺繍が施された高貴さを漂わせる白絹のドレスに身を包み、その上から気品ある深い夜色のマントを羽織った少女が、意識を無くしてぐったりとしているではないか。

 僅かに露出している肌は抜けるように白く、肩で綺麗に切り揃えられた艶やかな黒髪が、風に煽られてか今はその整った相貌を覆い隠している。


 腕の中にいる深窓の令嬢と呼ぶに相応しい少女を一瞥し、ユディトは諦めたように虚空を仰いだ。


「ええと、うん。その、返しはしますよ。ただちょっと、ほら……人質、ですし」

「その御方を誰と心得ての狼藉かっ!」

「おおっ!?」


 怒髪天を衝くが如きシエルの気迫に、ユディトは思わず仰け反る。

 そもそもユディトがこれまでずっと追われる羽目になったのは、それなりの理由に基くことであり、徹頭徹尾被害者、というわけではなかった。

 いや寧ろ、現実的には完全無欠な加害者である。


 ユディトがシエルをはじめとするこの城の者達に追われ続けた理由。それは最初に降り立った神殿らしき部屋から逃亡する際、腕の中で意識を閉ざしている少女を人質として攫ってきたからである。

 そしてその少女は、追う者達にとって無視できない貴い存在だった。


「その御方を……魔王様を返しなさいっ!!」


 そう。ユディトが抱える異世界の少女こそ、闇と影を統べる存在。

〈魔王領アガルタ〉の君主、魔王エルファーランその人であった。

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