第3話 降り立つ場所

「ああ、もうっ!! 何なんだよ、ここはっ!?」


 この世の終わりだと言わんばかりの絶叫が、湿り気を帯びた闇の中に響き渡った。

 逼迫さの中にそこはかとない情けなさを孕んだ悲鳴は、濃密に漂う闇霧の先で何度も反射し、あちこちに残響を広げた末、潰える。


 光どころか音すら呑み込まんばかりの暗黒の回廊を、ユディトは風のように駆け抜けていた。


「暗すぎだろっ! ち、地下なのか!?」


 辺りに鬱蒼と犇く闇は深い。目を凝らして注視しても数歩先の床や壁を捉えることさえ困難なほどだ。

 床を蹴る乾いた足音が長く余韻を残していることから、それなりの高い位置に天井があるのだろうと辛うじて推察できる。

 影が染み付いた石壁には一定の間隔で燭台が備えられてはいたが、そこにくべられた灯火は弱々しいことこの上なく、周囲に犇めく漆黒の帳を掃うにはあまりに心許ない。

 そして、そんな不安を助長するかのように、この回廊らしき場所には外部より光を採り入れる窓の類が一切存在しなかった。


「絶対性格悪いなっ! ここを造った人って!!」


 この場所が実際にどのような経緯で建造されたのか、ユディトには想像もできなかったが、それでも悪態を吐かずにはいられない。


 真闇に限りなく近い屋内では、構造体全体のどこに自分が位置し、今どこに向かっているのか把握するのは凡そ不可能なのだ。せめて窓があれば外の景色の変化から相対的に割り出すことも可能であったが、現状それは叶わない。


 迷い込んだ当初には幾つもあった迂路も、走っている間に徐々に数が減っていき、今となっては前へとただ一本の道が伸びているだけ。感覚的には左右に逸れたり、上下の勾配もあった気がしたが、如何せん現在のような環境下では周囲の変化に確証を持つことができず。


 招かれざる者を陥れんとする、陰湿極まりない設計思想を垣間見て、ユディトはそこに潜在する悪意の深さをひしひしと全身で感じ取っていた。


「な、なんだか、ずっと同じ所を走っている気がして――っ!?」


 果てしなく続く回廊をひたすら前へと走っているつもりであったが、実際は奈落に向けて垂直落下しているのではないかと錯覚してしまうのも、既に見えざる悪意に中てられてしまったからなのだろうか。


 身体的な感覚矛盾がいよいよ時間感覚にさえ浸潤してきたと思い戦慄したユディトは、突如として上体を前に屈める。

 するとその直後。

 何か・・が暗闇の中を凄まじい勢いで通り抜け、そのまま対面する石壁に深々と突き立つ滑らかな乾音が幾つも聞こえてきた。

 連続して響いた濁りのない音韻は軽快で小気味良くさえあり、硬質な壁に突き刺さった何かの恐ろしいまでの鋭利さを否が応にも想起させる。


 直前まで頭があった場所を寸分違わぬ精度で貫いていった事実と、ハラリと髪の毛先が宙に散った生々しい感触に、ユディトは背中に冷や汗がじんわりと滲むのを感じた。


「か、掠ったっ!? あ、危ないっ!」


 実のところ、この闇に満ちた回廊に迷い込んでからこれまでずっと。ユディトは暗闇から絶え間なく射出される鋭い錐体の驟雨に晒されていた。


 漆黒の錐の鋭さたるや石質の壁や天井、床を易々と穿つほどで、一つでも身に受けようものならば重傷は免れないだろう。直感的にそれがわかってしまうからこそ、足を止めることができず回避に全力を尽くすしかない。


 とはいえ、平常時に何ら不自由なく視覚の恩恵に預かれる者が、唐突にそれを奪われた状況下に放り出されれば、回避どころか普通に走り続けることさえ至難になるのは明白である。

 瞳を閉ざしたまま方向感覚や平衡感覚を維持するのは極めて難しい。勿論、失われた一つの感覚を補填する為に、聴覚や嗅覚といった他の感覚がより敏感になるという逸話は、数多の体験談より実証されてきた事実だが、それでも瞬時に適応できるものではないのだ。


 また、五感が外界の変化を感じ取れなければ、認識に遅延や齟齬が生じてしまう。

 その為、周囲の闇と同化しながら無数に飛び交う刃の群を躱し続けるなど、長い時間を掛けて特殊な訓練を積み重ねるか、幸運の女神の寵愛に縋り付いて克服しない限り、凡そ常人には不可能な芸当だ。


 しかし『皇権イルヴァーティ』を手にして以来、人間の領分から遥かに逸脱する体感覚を獲得したユディトは、それらの例に当て嵌まらなかった。


 神器によって拡張された感覚は、この闇の中を支障なく駆けるだけの必要最低限の視界を確保し、石塵が宙を舞う微細な音、幽かな焔の煤の匂いを拾い、或いは黒錐が飛び交う際の空気の揺らめきや質量そのものが放つ存在感を察知して、躱し続けることを充分可能とさせたのである。


 鋭い黒雨に曝されてから十数分経った現在。

 これまでユディトが一度たりとも被弾していないのは、尋常ならざる知覚が織り成す優れた空間把握力に依るところが大きい。


 だがそれをより確かなものにしていたのは、飛来する黒錐に足止めなどと言う生易しい意図が微塵もない点にあった。


「これって明らかに殺す気だよな――のあああっっ!?」


 首筋に向かって放たれた影錐を、ユディトは紙一重で回避する。

 確実に何者かの意志によって統御された影の錐が、ユディトを殺害せしめんという意思一色に染まっているのは最早疑いようもない。延々と首から上だけを狙い続けている事実がそれを雄弁に物語っている。


 しかしそんな何者かの迸る害意が、ユディトに狙われている箇所を簡単に想像させることとなり、逆に回避の難度を大幅に下方修正させる結果となっていた。

 尚も執拗に頭部を穿たんとしている現状から、この影錐を操っている者はその事実に気付かぬまま臍を噛んでいることだろう。もしかすると、ユディトの常識外れな回避能力に驚きを通り越して呆れているのかもしれない。


 だがそれでも。ユディトの表情から焦燥が消えることはなかった。

『皇権イルヴァーティ』を授受し、たった一人で世界の盤面を覆す超絶的な能力を得たとしても、ユディトの精神の成熟度はそれこそ年齢相応なのだ。

 突発的な事物に対して大袈裟なほどに狼狽えることもあれば、身に降り懸かる災厄に情けなく喚き散らすこともある。全く見えない路の先に不安を隠し通せる程に厚顔でもない。


 現在のような状況は、神経を止めどなく磨り減らすものであったが、ユディトに絶えず情けない悲鳴を挙げさせていた直接的要因は、実のところ全く別であった。


「慎重に……そっと、静かに右足を出して――って、おおうっ!?」


 前に出した右足が軽々と床石を踏み砕き、間の抜けた叫びと共にユディトは前のめりに体勢を崩してしまった。


 この回廊を構成する石材の強度が、老朽化により脆くなっていた為か。またはこちらの踏み込む力が強すぎたのか。

 いずれにせよ、五歩に一度は床石を踏み砕いてしまうユディトは、その度にバランスを崩していたのである。


 転倒しないのは、それこそ優れた反射神経の賜物で瞬間的に片足を前に突き出しているからだが、咄嗟の反応だからこそ力加減が難しく、傾いた体勢を支えようと踏ん張った足が床石を貫通して大腿まで埋もれることもしばしば。

 その様は、さながら新雪の雪原を漕ぎ進むが如く。


「い、今のは危なかった……ひいぃぃぃっ!」


 背後から影錐が飛来する気配を感じて頭を下げるも、それに引き摺られて踏み込み加減を間違え、完全に両の下肢が埋まってしまった。

 だがこの場においての停滞は死に直結する為、形振り構わず床石を掻き分けて漕ぎ進むしかない。

 無理矢理に体勢を整えたユディトは、そのまま一息吐きたい衝動に駆られたが、雪崩が背後に押し迫ってきているような状況下で、そんな暇などある筈もなかった。


 諸々の悪条件が重なり合って襲い掛かってきたとあっては、ユディトとて情けない叫び声を絶えず発してしまっても無理からぬことだろう。

 とは言え、建造物を著しく損壊させていくユディトの都合など斟酌する気のない影錐は、相も変わらず無情に降り注ぎ、石の壁や床の中に吸い込まれていくばかりだった。


「一体……何なんだよ、ここは!?」


 そう叫ぶのも、もう何度目になるだろうか。

 空しさしか沸いてこないので十を超えてから既に数えてはいないが、確かなのは、今やこの回廊は見るも無惨な状況になっていることだろう。

 もしも充分な明かりがあり、抉られて隆起した石床の残骸と散乱した土嚢による惨憺たる様が示されれば、自らの産み出した惨状に強烈な罪悪感を覚えたに違いない。


(……この迷宮の持ち主って、一体どんな人なんだ?)


 ほんの少しだけ余裕ができたからか、ふと、そんなことを考えた。

 この地がどういう場所かは知る由もないが、これまで見た限りでは、この場所は、ある程度の水準に達した文明を持つ大勢の知的生命体が共生している集落、といったところだろう。

 ならばそれらを指揮する指導者が存在し、この物騒極まりない迷宮を所有していたとしても不思議ではない。


(こんな物騒な場所を許容しているのだから、相当に嗜虐思考の強い人なのかなあ)


 内心で失礼なことを考えるユディト。

 周囲の闇から影刃が射出されるタイミングに合わせて首を動かし、左右に蛇行し、加速を付け緩め、軽く跳躍し旋回しては埋まり……傍からはいい加減で適当にしか見えない動きで、ユディトは完璧に回避し続ける。


 影刃の軌道が直線的で追尾性がなかったことに安堵しつつ、少しでも先を見通そうと眉を顰め、目を細めた。


「あ、あれは……扉だ! よしっ、これで外に――――うげっ!?」


 ようやく回廊の先に薄っすらと現れた金属の大扉。重々しく鎮座する頼もしい姿を見とめたユディトが、歓喜に咽ぶのも一瞬。

 背筋に走った悪寒に思わずチラリと後ろを振り向くと、回廊をびっしりと埋め尽くす量の黒錐が、一斉にこちらに向かって放たれていた。


「ちょっ……こ、れはもうっ! 躱すどころの話じゃ――っ!!」


 影錐の操者が業を煮やしたのか。一分の隙もなく、清々しいまでに整列した黒錐の群れが同時に迫っていた。それは一面に巨大な鉄刺を敷き詰めた壁が押し寄せて来ているのと同義で、実におどろおどろしい迫力だ。


 追い着かれれば全身が穴だらけになるどころか、もっと無惨な結果になってしまうのは想像に難くない。

 実際にどうなるかはさておくとしても、そんな目に遭うのはユディトの心情的には全力で拒否したいところである。


 しかし一律に並び、矢の如き勢いで迫る壁を回避できるだけの余剰な空間は――無い。


 それを確認し、最早残された手段が一つしかないことを自覚したユディトは、床や壁、ひいては回廊そのものに与える損害。そして何より、未だ見ぬここの所有者に対する後ろめたさなどの感情一切をかなぐり捨てることを決意する。


 背後から肉薄する剣山の壁をそれ以上の速度で撒く為に、ユディトは本気・・で床を蹴った。

 すると落雷に見舞われたような衝撃と破裂音が閉ざされた空間に轟き、踏み込みの威力に耐え切れなかった床や壁の一部が断末魔を挙げて弾け跳ぶ。


 飛散した石礫が宙を滑空する影錐に穿たれ、掘削される嫌な音が回廊に響き渡っていたが、それらは既にユディトの耳に届くことはない。


 まるで爆撃されたかのような、阿鼻叫喚の惨禍を背後に置き去りにして、勢いのまま強引に扉を蹴破ったユディトは、あわや大空の下へと躍り出たのだった。






                   ※






 結論から言って、どうして自分があんな場所に迷い込んだのか、ユディトはまるで理解できていなかった。


 そもそもユディトは、この何処とも知れぬ地に降り立つ直前まで、〈アンテ=クトゥン〉を破滅に導いていた“敵”と戦っていたからである。


 地上から遥か天涯にまで続く塔を登り詰め、その先に君臨していた不倶戴天の怨敵を激闘の果てに討ち滅ぼした後。

 大気圏を越えし場所で行われた天上の戦いの余波で、星々の煌きが鏤められた漆黒の宇宙に放り出され、あてもなく漂っていた。


 総身に負った無数の傷は深く、度重なる戦闘と、それに伴う神器の出力制御によって消耗しきった精神は静かな闇の海に吸い込まれ、今にも溶け消えんばかり。

 立っているのか、或いは横たわっているのか。己の状態を把握することさえままならず、酷烈に臭い立つ死の気配が五体に纏わり付いて離れない。


 しかしそれでも。

 自らの命脈が今にも尽きようとする潰滅の瀬戸際にありながら、ユディトの胸裏は穏やかだった。


 自身に課した使命を果たせたことへの充実感と、捨ててきた過去への寂寥感。

 世界解放の旅を重ねて得たもの亡くしたものを数え、嘗ての慌しい喧騒の日々を想うと幾多の感情が次々と湧き出してきたが、そのまま昇華して暗黒の虚空へと消えていく。


 やがて空っぽになった心と眼で生まれ育った青き惑星せかい、〈アンテ=クトゥン〉の美しい艶姿を眩しげに眺め、これから先の世で人々の笑顔が溢れる平和がいつまでも続いてくれることを切に願いながら、遠く離れ行く故郷の面影を胸にゆっくりと双眸を伏せた。


――その直後。

 ガラスが割れるような音と共に、突如として眼前の空間に亀裂が奔り、隙間から眩いばかりの光輝が溢れ出したではないか。


 思いもよらない突然の事態に、ユディトは何が起こったのかと思考を広げる暇なく、ただ瞠目して呆然とするばかり。


 そして次の瞬間。

 裂け目から一気に解き放たれた光の瀑布に、傍らにいたイヴリーン共々呑み込まれてしまった――。




 全てが白に染まった世界に落ちたのは、ユディトの感覚で一瞬。

 喪失した視界が甦るよりも早く、聴覚が再びパリンと小気味良い音を捉えたかと思うと、気が付けばどこかの屋内に両足・・で佇んでいた。


 強烈な放射光から眼を庇うように、反射的に両腕を顔の前で交差させてユディトは立ち尽くす。

 全身に負った筈の傷は、身に纏う神器の賦活機能によっていつの間にか修復されていて、痛みどころか疼きすらない。

 一刹那の間に膨大な量の光に曝されてしまった所為で、視界が依然眩んだまま。気圧に大きな変化があったからか、甲高い耳鳴りが神経を痛烈に苛んでいたが、それらは寧ろ五感が正常に働いているが故の影響で、瀕死からの快復として本来ならば喜ぶべき要素だろう。


 だが、五体満足でかつてなく力が充実していたユディトは、それらを問題しない程に忘我の蔓に囚われていた。


 異世界渡航が日常茶飯事の中に組み込まれた世界〈アンテ=クトゥン〉の住人であるユディトにとって、全く未知の場所に転移したという事は驚愕に値するような事態ではない。


 嘗て〈アンテ=クトゥン〉全土を巡る『境界門』奪還の旅路の最中。

 灼熱の砂漠地帯に敷設された『境界門』を『魔物』から解放し、その稼働状態を確認しようと試しに通った先が、別の異世界における極寒の雪原だった――そんな極端な場所から極端な場所への転移現象を体験していたからこそ、その程度のことは常識の範疇から逸脱するものではないのだ。


 にもかかわらず、どうしてこうも無防備な状態を晒してしまったのかと言えば、偏にユディトには、異世界渡航現象の引き金となる『招喚術』が今後もう二度と発動することはない、との確信があったからである。

 しかもそれが自らの手で成し遂げたことだと自覚していたからこそ、思考が停止してしまったのだ。


 しかし、刻々と流れる時間というものは、個々人の情などいちいち汲んではくれない。

 その一瞬が仇となり、いつの間にか眼前に肉薄していた、おどろおどろしい唸り声を挙げる光と闇の波動への対応が遅れてしまった。

 ハッとして顔を上げたユディトであったが、気付いた時には既に遅く。二つの災厄は呆気なくユディトを呑み込み、その勢いを少しも弱らせないまま正面から衝突した。


 轟音、そして衝撃。


 全く正反対の性質で、且つ同等の破壊力を秘めた力場が干渉し合い、均衡が崩壊したことによって引き起こされた大爆発は、その場に立つ者全てを薙ぎ倒さんとする圧倒的な爆風を撒き散らした。


 周囲に群立する蔟柱や床に小さくない皹を深々と刻み込み、水のように張られていた高粘度の闇を押し流しては、その場所…〈星詠の間〉全体を震撼させる。

 その場に轟いた鳴動は、さながら世界の終焉を思わせる絶叫のようで。


 爆心とも言える零距離でその叫喚に巻き込まれたユディトは、高々と弾き上げられる。

 そしてそのまま、〈星詠の間〉の天井付近で清浄な光を湛えていた巨大な水晶柱の底部に勢い良く激突してしまった。……その際、まるで水の入った皮袋が叩き付けられて破裂したかのような、いつまでも耳につく不快な悲鳴がその場に撒き散らされたが、轟音の余韻と、水晶柱を支える巨大な鎖の鈍い軋み音に掻き消され、誰の耳にも届くことはなく。


 衝突の反動で水晶柱は大きく揺れ動き、その底面に潰れた蛙の如く不恰好に張り付いていたユディトは哀れ引き剥がされ、丁度その場で状況の推移を唖然と見上げていた、闇で全身を着飾った人間・・に向かって放り出されてしまった。


 質の悪い喜劇のような一連の出来事は、当事者であるユディトとしては冗談ではなかったが、その場所に満ちていた緊張感を徹底的に破壊することになる。

 そしてそれ以上に、ユディトの佇まいが無傷であった事実によって、一堂に会していた五人・・の人間達から驚愕と警戒の視線を一身に受けることになってしまった。


 その後。慌てながらもこちらの事情を説明しようと、誠実に臨んだつもりの交渉はものの見事に決裂。

 終ぞ警戒を通り越して戦闘に突入してしまい、紆余曲折を経て辛くもその場を脱したユディトは、土地勘も見通しも何もない状態のまま、闇が犇く回廊を縦横無尽に逃げ回る羽目に陥ったのだった。






                  ※






「……そりゃあ、日頃の行いは良い、って自信を持って言える訳じゃないけどさ」


 呆然と空を見上げたユディトの口腔から、心底辟易したような声と溜息が零れ落ちる。


 闇の巣窟から脱した先は幸いなことに屋外で、視界いっぱいに広がる大空は艶やかなエメラルドグリーンの色彩で満たされていた。

 均一に布かれたその色味には斑がなく、意識が吸い込まれてしまいそうなまでに深い。まるで不純物の無い透明な湖の底を覗き込んでいるような気分になる。


 膝下に威光を轟かせる太陽は直視できないほど白く、その輪郭は光の粒子が波打ち際の水飛沫の如くキラキラと舞っていて、とても綺麗だ。

 そんな圧力さえ秘めた眩さに追いやられてか、空の端で二つ連なる蒼と紅の光を帯びた月が、居心地が悪そうに浮かんでいた。


「いくらなんでもあんまりじゃないか……何処なんだよ、ここはっ!?」


 胸中に生じた憤りを、ユディトは吐き出さずにはいられなかった。例えそれが、物言わぬ壁に向かって悪態をつくような真似であろうともだ。


 多勢に無勢の戦いを重ね、怨敵との死闘を越え、世界を救った代償に世界から弾き出された先で今回の騒動。

 波乱万丈と表するにはあまりにも慌しく目まぐるしい環境の遷移には、ユディトでなくとも文句の一つを零したくなるだろう。


 だがしかし。そんな不満の声など、冷徹で粗暴な風が舞う大空の下では羽虫の羽音にも等しい。

 燦々と降り頻る陽光が眩い空中には、不思議な力の作用なのか無数の小さな島……というよりも巨大な岩塊が浮遊していて、点在するそれらを結ぶようにアーチ状の橋が架けられていた。

 虹の如きたおやかな弧線を描く橋が無数に連なり、更なる上空にへと伸びていく様相は、さながら天上への螺旋階段である。


 幻想的な光景につい目を奪われそうになったが、ふと何となしに足元を見やれば、この場を支えている筈の地面が遥か遠くに構えているではないか。

 神器の補助も併せ視力がすこぶる良いユディトにして、地表付近が薄っすらと白んで見えているのは、それだけの隔たりがあるということなのだろう。

 万が一足を踏み外して滑落でもすれば、その時点で人生を諦めなければならない――ユディトが迷走の末に辿り着いたのは、そんな危険極まりない場所であった。


「うへえ……天国と地獄を同時に見る、ってこんな感じなのかな?」


 いくら高所が苦ではないとは言え、何の気構えもなしにこんな所に迷い出てしまっては、流石のユディトといえど穏やかな心境ではいられない。

 だが、色々な意味で恐ろしく見晴らしの良い場所に出たことで、ようやく自分が何処にいるのかを覚ることになる。


 今現在ユディトが佇む傍らには、天を衝かんと高く聳える岩山が鎮座していた。

 いや、天然の峻峰と言うには山肌が削られ、整然と均された姿はあまりにも人工的だ。

 表面に穿たれた幾つもの四角い孔はいずれも深い闇を湛えていて、自身もそれらの中の一つから脱出してきたからこそ、ユディトは直感的に理解した。

 この岩山は内部に巨大な迷宮を擁する城塞なのだと。

 そしてそれが、地面より岩石を積み上げて一から築き上げられたものとは違い、自然の岩山の内部を直接削って造り上げたということを。


 岩肌に点在する大小様々な穿孔は、窓ないし出入口に相当する扉なのだろう。よくよく見れば孔の間隔は一定で、そのうちの幾つかから外界へ跳ね出すように橋が架けられ、四方八方へと連なっているではないか。


 宙を漂う岩塊共々、橋はいずれも途中で交錯しないような絶妙な位置取りで展開し、岩城の外周を這うように取り囲んでいる。

 その様はまるで優麗な羽衣を羽織っているかのようで。陳腐な感想など寄せ付けぬ、至高の芸術品にも等しき巨大な彫像とも言えた。


「こんな建築様式、〈アンテ=クトゥン〉でも見たことがないぞ。〈魔界〉……じゃなくて〈キルリ=エレノア〉のものとも似ても似つかないし」


 いずれも目にしただけで高度な文明の息吹が感じられたものだが、現状それを感じない。いや、正確には、かつて感じたものよりも随分と劣っているような印象を受ける、だったが。


 普段ならば、このかつてない景色を前にして興奮も禁じ得ないユディトであったが、しかし眼前の路を踏み締める現在の気勢は秒刻みで沈んでいくばかりである。これまでの愚痴でも始めようものならば、きっと何時までも続けられるに違いない。


 どうしようもない空しさを覚えたユディトは、徐に石造りの架橋が行き着く先を見上げ、ウンザリしたように嘆息する。その双眸は疲労に暗く濁りきっていた。


「……この階段はどこまで続いているんだ?」


 この天翔ける階梯が何処に向かっているのか。そんな先行きの不安は最初から当然胸裏に渦巻いていたが、追われている身上を顧みればそれに足を掬われて躊躇などしていられなかった。






                 ※






 そうして、悶々としたまま摩天楼の外周を翔ける螺旋階段を登り始めて数十分。既に岩城の天頂部分を超える高さにまで到ってはいたが、未だに終着ではない。

 しかしながら終端は既に目視できていて、視線の先では巨大な円環構造体が待ち構えていた。


 明らかに人工物である巨大円環が、何かしらの意図を持って建造されたのは一目にして瞭然だ。その用途など、自分の中の知識を総動員しても皆目見当も付かないが、この地の者達にとってとても重要な何かであるのが雰囲気からヒシヒシと感じられる。


「流石にあんなのを見せ付けられたら、もう認めない訳にはいかない、よなぁ」


 上天を仰ぐユディトの双眸には隠しきれない失望が載り、声色にはあからさまな諦念が滲む。


「ここは……〈アンテ=クトゥン〉じゃ、ない」


 その結論を口にするまでには、かなりの逡巡と抵抗があった。


 限りない広さを誇る碧色の天蓋は無垢で、宝石のような輝きを燈した双月も確かに綺麗だ。涼やかな翠緑の中、白と蒼と紅が織り成す空模様はとても幻想的で、思わず魅入ってしまうのも吝かではない。


 赤銅色の大地から巻き上げられる風には、砂礫の粉塵が多く含まれているのか、舌先がざらつき、休む間もなく逃げ続けてきた身に、暫く忘れていた渇きと疲労を思い起こさせる。


 しかしユディトが永年連れ添った常識において、空の色とは気が遠くなるまでの蒼穹であり、時によってその姿を移ろわせるものなのだ。

 翠緑の色合いも、日の出入りに際して朱暁から深藍に塗り替えられていく刹那に、ごく稀に現れることはあるが、こうして一面染まりきることなど決してない。


 更に加えるならば、大空を這う月という天体は、しばしば太陽と対比される一対の存在で、各々がそれぞれの軌跡を辿るが如く大地を周回しているものだ。この碧空のように、一つの太陽に対して二つの月が同時に存在するなど、それこそ天地の理がひっくり返らなければ有り得ないだろう。


 肌を撫でる乱暴な風、燦々と照り付ける強烈な日差し。総身に貼り付いた疲労感……自身に接する万象の全てが、自分の知る常識や摂理とは異なる法則で形成された環境であると物語っている。


 故に、ユディトも認めざるを得なかった。

 自分は、あの強烈な光の洪水に押し流されるがまま、全く知らない異世界に漂着してしまったということを。


 虚飾など一切ない事実が突き付けてくる無慈悲な現実によって、ユディトは絶望した。


「……一体、どうなっているんだよ? 『招喚術』は、もう誰も使えない筈なのに。これじゃあ、これまで僕がやっていたことは――」


 思わず眩暈を覚えたユディトは小さく頭を振り、その先の言葉を無理矢理呑み込む。


〈アンテ=クトゥン〉において『招喚術』とは、世界のいたるところに設置された『境界門』という装置を起動、制御する術法のことだ。そして『境界門』によって位相の異なる彼我の世界を物理的に接続することで両界の往来が可能となり、異世界渡航が実現する。

 とどのつまり〈アンテ=クトゥン〉で異世界渡航と定義される転移現象、『招喚術』によって導かれる万象一切は『境界門』が存在しなければ成立しない。


 この何処とも知れぬ異邦に放り出される直前まで、自身の未来の全てを投げ打って臨んでいた行動を思えば、悲願を達成した直後にこの現実を受け入れるには、まだ時間が足りないというのがユディトの偽らざる本心である。


 そんな隠し切れない落胆に染まった声韻が、上空の粗暴な風に乗って周囲へと流れ、呆気なく潰えた。


「イヴは……本当に、どこに行ったんだ? 色々と意見を聞きたかったんだけど」


 こんな時、イヴリーンが居てくれたら、とユディトは切に思う。

 細かいことを気にしない剛毅な心胆の彼女ならば、自分の抱いた不安や恐れの感情など瑣末なものとして一笑の下に吹き飛ばし、路を踏み外しかけたならば半ば実力行使で正してくれるに違いないからだ。


 その確信は全幅の信頼の表れであり、神器を得た瞬間から共に同じ道を駆け抜けてきただけに撓みや揺らぎなど微塵もない。例え世界の垣根を越えようが、決して変わらないものだった。


「……駄目だ。存在は感知できるのに、やっぱり場所が特定できない」


 瞑目して意識を集中させていたユディトであったが、程なく開眼し、溜息と共に小さく頭を振る。


 基本的にユディトとイヴリーンは神器を介して共存し、物理という領域を超えて強固に結ばれている為、互いに大きく離れることができない。だがその制約が転じて、空間的な隔たりとは無関係に互いの位置情報を感知させ、思念による会話さえ可能とさせていた。


 しかし今。この何処とも知れぬ地に降り立ってからというもの……いや、正確にはあの光の洪水に呑み込まれてから、ユディトは唯一無二の相棒と離れ離れになっていた。


「神器の機能は正常なのに、念話は相変わらず繋がらない……どうなっているんだ?」


 イヴリーンが居ないことに気付いたのは、ユディトが命辛々屋外へと逃げ出せた時だ。

 自分の傍らに当然いるものだと思い込んでいた彼女の姿が見られず、本来呼吸をするのと同じように、ごく当たり前にできる筈の思念交信が行使できないことに初めて気付き、愕然とした。


 念話の不通とは、つまりイヴリーンが自分の感知できる範囲内に存在しないことである。そんな不測の事態に陥るなど神器を手にしてから一度もなかっただけに、ユディトは言い様のない不安に駆られてしまった。


 神器をかすがいとした関係が破綻することの意味。

 その実現性が脳裡を過ぎり、焦燥の極致に陥ったユディトは現状・・そっちのけで形振り構わず捜索に乗り出そうとし――だがその瞬間に彼女の存在を察知できたことで全てが杞憂……いや、未遂に止まることとなった。


 しかしそれは新たな疑問を呼び起こすことになってしまう。


「この感じって、存在次元がズレている状態に酷似しているけど、イヴは『ヘルブリンディ』を発動させているのか? ……いやいや、それならその負荷は僕が負うことになっているし。んん、訳がわからない」


 周囲を見回して眼を凝らし耳を澄ましても、相変わらずイヴリーンの姿はない。しかしそれでも、確かに彼女の存在を感じることができる。

 そんな不可解な事態に直面したユディトであったが、いくら考えても答えを導き出せそうにない。

 だからこそ明確な行動指針を打ち出すことができず、当面は迫り来る追手を撒く為に逃走するしかなくなってしまった。


 だが――。


「……やっぱり、誰も追い掛けてこないな」


 チラリと後ろを一瞥し、ユディトは再び上天を仰ぐ。

 現在、城内での執拗さを思えば些か拍子抜けしてしまうまでに追討の影がない。前方は元より後方からも同様で、そんな奇妙な事実に違和感をユディトは覚えていた。


 もどかしさを胸中に抱えたながらも、ようやく終着たる円環構造体に一歩足を踏み入れたユディトは、一先ずの安堵からかポツリと呟く。


「はぁ……どうしたら良いんだよ?」

「ならば、いい加減諦めて大人しくすることです」


 途方に暮れて悄然とした声に被せるように、求めているものとは別の、凜然とした声が空中に高らかと響き渡った。

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