第2話 光と闇の輪舞

〈その場所〉には、仄暗くおどろおどろしい闇が満ちていた。

 真夜中の水底のように重苦しい夜色の霧は、〈その場所〉に残る僅かな光をも捕食せんとしているのか。空気の一粒一粒に粘着質に絡み付き、虚空に諸手を伸ばして浸蝕している。


 そんな噎せ返るほど濃厚な闇の中に、巨大な『影』が佇んでいた。

 周囲の闇霧よりも深い陰影によって、はっきりと輪郭が認識できる、異形。

 頭部には鋭く二本の角が聳え立ち、後背に根差した蝙蝠の如き両翼は雄大で、展開すれば易々と己が体躯を覆い隠せるのは一目にしてわかる。その四肢に到っては、歳月を重ねた巨樹の幹を思わせるまでに太く逞しい。

 そして何よりも、泰然と在る『影』の印象を強烈なものにしていたのは、爛々と輝く紅蓮の両眼だ。蠢動する黒が総身を覆い、輪郭を除く全てが隠蔽された姿形の中で、血色のような艶かしさは現実感ある生彩を醸している。


 対峙する者に抗えぬ死の絶望を植え付け、否応無く己が終焉を想起させる姿は、神話にて神をも呑み込んだとされる巨竜の如き偉容で、〈その場所〉の最奥から周囲に重々しい威圧を放ちながら、足元に犇く闇を凝視していた。


 深暗の静寂は、しばしば時間の経過を忘れさせ永遠を錯覚させるものである。定められた場所をただ漂泊するだけの闇の中に佇めば、それは顕著だ。


 だが不意に、鬱蒼と浮かんでいた闇霧が大きく揺らめく。

 その様子を見止めた『影』が双眸を細めると、それを合図とするかのような絶妙なタイミングで、耳を劈く金属音が戛然と鳴り響いた。


 甲高い乾音は一度二度のみならず、三度四度、五度……躍動する旋律に合わせて幾条もの閃耀が闇の中で翻り、霧の内側で蠢く何かと激突して眩い火花を飛散させる。

 けたたましく轟いたのは、澄み切った剣戟の音色。

 鋭利な輝きの筋が疾風もかくやという速さで翔け、急峻な円弧を周囲の霧に深々と刻み込んでいく。

 静謐を引き裂く閃光と韻律は弾ける度に烈しさを増していき、膨張する光を押し留め切れなくなった闇霧に無数の亀裂が走ると、次の瞬間。その隙間から一際強烈な輝きが溢れ出し、檻となっていた霧は眩さの中に散華した。


 零れた光があまりにも強く圧倒的だった所為で、〈その場所〉を満たしていた闇が幾許か押し流される。全体から見れば些細な変化に過ぎないものの、闇の檻を脱し、最奥に座す『影』に向かって駆け抜ける者達の姿を露にさせるには充分だった。


 先頭を往くのは、清澄な光を湛えた剣を携え、真銀の美麗な意匠の鎧を身に纏った若者だ。自らが纏う烈気に、その金髪を獅子の鬣のように逆立たせている。


 拓かれた路の先に座す『影』の偉容を双眸で捉え、若者が自らを鼓舞する雄叫びを挙げると、それに呼応するかのように剣が燦然と輝いた。

 白刃に宿りし烈しさは、つい先程、闇の檻を打ち砕いた眩耀そのもの。

 凄まじいとしか言えない速度で光は跳ね、『影』を護らんと周囲の霧より間断無く射出されている影刃の群れを次々と破断していく。


 凶牙の驟雨をくぐり抜け、急激に接近してくる若者達を『影』が紅蓮の両眼で捉えると、その後背の虚空に数十を超える不可思議な幾何学模様が一瞬の内に浮かび上がった。

 金色で記された二重の円の内側に、幾つもの方形と文字らしき模様を擁いた意味深な紋章。明らかに超常の作用で描き出されたそれらは一斉に胎動を始め、金色から赤、黄、緑、青へとその色彩を慌しく転ばせては、〈その場所〉に不吉を撒き散らしていく。


 そして『影』の眼に力が篭ったかと思うと、薄氷を踏み砕いたかのように軽やかな音韻が弾け、陣の内側から焔鎚、雷槍、風矢、氷剣……古今ありとあらゆる武具の形態を象った森羅万象の暴力が解き放たれた。


 形相を得た害意はそれぞれの色彩に煌きながら疾走し、立ち込める分厚い霧を貫いていく。爆音を轟かせながら〈その場所〉を構成する床や柱を抉り、削り、穿ち砕き……それは一縷の情も孕まない、嵐の如き徹底した破壊。

 聴覚を苛むおぞましい不協和音を撒き散らしながら、塵芥の一つも残さんという殲滅の意を漲らせ、周囲にある全てを蹂躙していく。


 そんな迫り来る死の顕現を前にして、若者は怯むどころかより一層加速した。

 その表情には絶望はない。ただ前に進まんとする意志だけを昂ぶらせ、両手に構えた剣をしっかりと握り締めて、床石を踏み砕かん程の勢いで前に踏み出す。


 その直後。

 一際強い煌きの奔流が若者の頭上を通り抜け、前方で今まさに殺到せんと展開する暴虐の礫弾を、意趣返しと言わんばかりに正面からまとめて呑み込んだ。


 赫灼かくしゃくたる流れを放ったのは、若者のすぐ後ろに続いていた青き法衣の乙女である。

 絢爛なまでに煌びやかな黄金の髪を靡かせるその容貌は繊細で、破壊が渦巻くこの場所には不釣合いなまでに麗しい。しかしながら、穢れを知らない青碧の眼差しは気丈に前へと向けられていた。


 舞踊を踏むように軽やかに身を翻した乙女は、その優雅な動きの最中で淡い光の残滓を湛えた銀色の弓を構え、弦を引き絞る。外見の印象と違わぬ澄んだ声で清らかな聖句を紡いでは、光そのものが結晶化したかのような矢を産み出し、解き放った。


 疾空する一矢は、一瞬で数十を超えた無数の光芒に分裂し、まるで夜空を駆ける流星群の如く麗雅に飛翔する。

 ただただ圧倒的な光の波濤は、宙を漂う闇霧そのものを次々と押し流し、その先で待ち構えていた影刃の第二陣と衝突。

 極限まで加速された光と闇の粒子が正面から烈しく互いを打ち据え、昂揚のままに喰らい合い鬩ぎ合い。

 行き場を無くした力の奔流が空間そのものを歪ませ、やがて大爆発を引き起こした。




 想像を絶する無色の衝撃波が〈その場所〉全体を大きく震撼させ、そこに存在する一切の者は静止を余儀なくされてしまった。

 光も音も亡失した一瞬の空白によって誰もが忘我の蔦に捕われ、暗闇の空間に沈黙が落ちる。


 目まぐるしく遷移する戦場の中では、一呼吸の間であろうとも停滞が齎す影響は甚大だ。

 そんな中、真っ先に硬直から脱したのは、燃えるような紅蓮の戦鎧に身を包んだ美しき女傑だった。煌きの矢を放った乙女と異なり、この殺伐とした場所でこそ麗らかに映える活潤を漲らせ、鎧と同色の豊かな髪を猛々しく躍らせている。


 獰猛な獣の如き笑みを浮かべながら誰よりも前に出だし、己の頭身以上の長大な戦斧を軽々と振り被ると、その気勢を表わすが如く弧月状の鋭い刃に金赤色の焔が熾った。

 そのまま渾然一体と化した焔刃が、地面から天へと真っ直ぐに振り抜かれると、その眩き軌跡の裡より燃え猛る焔を纏いし鳳凰が具現する。

 それは永遠の象徴たる不死鳥そのもの。

 猛々しくも優雅に顕れたは焔鳥は、闘志を滾らせた女傑が戦斧を勢い良く突き出す動きに合わせて羽ばたき、急降下して獲物を狙い定めた猛禽の如く『影』へと襲い掛かる。


 唸りを挙げて降り注ぐ灼熱は、触れれば岩すら溶解する程の紅蓮の暴力だ。

 しかし『影』とて黙ってそれを待つ愚鈍でも悠長でもなかった。

 迎撃の備えは既に完成していて、肉薄する焔を見つめる紅眼が妖しく閃いたかと思うと、突然床一面に張られていた闇が噴出し、主を護らんとする分厚い壁として屹立したではないか。


 その巨体を優に隠すまでに聳え立った壁は、焔鳥を敢え無く呑み込んでしまう。

 だがすぐに消えるでもなく、焔鳥は寧ろそこから脱そうと激しくその身を捩じらせ、暴れまわった。

 内側から食い破らんと闇檻を叩く度に、留めきれずに溢れた焔塊が周囲に飛び散り、篝火として〈その場所〉を煌々と照らしていく。


 それを不快そうにした『影』が、遂にその両手を動かして闇檻を握り潰さんとすると、突如として足元より幾つもの雷の槍が一斉に飛び出してきて、『影』の全身を貫いていた。


 巨体をその場に縫い付けるように、深々と突き立った雷楔は、女傑の焔斧よりも長く鋭い。『影』の総身に蔓延る闇を糧にして、その身を更に深く沈めていく。

 焔の眩さを隠れ蓑にしていた為か、そちらにばかり意識を取られていた『影』は、身構えることすらできず全身にそれらを浴びてしまったのだ。


 苦悶に喘ぐ『影』の姿を遠く見上げながら、青き法衣の乙女の更なる後方より青年が悠然と歩み出てきた。

 星明りの夜空のように艶やかな藍色の髪を揺らし、深い知性を感じさせる漆黒の術衣を優雅に靡かせる様子は貴族然としていて、絶対の自信が滲み出ている。

 しかし今は、その気品にそぐわない不敵な太い笑みを口元に浮かべていた。


 青年が肩に担いでいた荒ぶる雷霆を模した意匠の杖を掲げると、『影』に突き立っていた雷杭が膨張し、一層烈しい迅雷の鎖と化す。


 内と外から暴れに暴れて『影』の総身を震撼させた。

 反撃の機を挫く見事な連携による凄絶な波状攻撃を受け、『影』は流石に身をよろめかせる。

 だが、そのまま押し切られることなど、ある筈もない。


 激しき雷を身体中に突き立てたまま、漲る憤怒を全身に行き渡らせ、内側より溢れ出る圧倒的な黒の質量で雷杭を塗り潰す。

 更にはその背に構えた両翼をはばたかせては、風圧だけで闇檻諸共焔鳥を掻き消し、吹き荒れる狂気と共に生者の心胆を凍えさせるおぞましい咆哮を発した。


 目の前で暴れる凄まじい怒号と威圧によって空間は軋み、純粋無色な圧力が鳴動となってその場にある何もかもをも吹き飛ばす。

 乙女も、女傑も、青年も。

 突然に生じた衝撃波に三人は耐え切ることができず、後方へと弾かれてしまった。


 だが我が身に牙を突き立てた者達が遠退く様を見ても、『影』の猛追は止まらない。

 高々と聳える双角の先に、周囲に犇く闇霧など比較にならない濃度の黒を収斂させる。

 闇と影をひたすらに重ねて凝縮し、密度を極大にまで高めて生み出されたのは、漆黒の鎗。それは生命一切を根絶するという“死”という事象そのものだ。


 突如として虚空に顕現した黒鎗の引力に影響されたのか。床に満たされた闇が波打ち慌しく波紋を広げ、そればかりか身の毛のよだつ怨嗟の声を轟かせながら沸々と煮え立ち噴き上がっている。


 地獄絵図さながらの闇色の煉獄に包囲され、ただ呆然と見上げるだけになり下がった者達に向けて、『影』は編み込んだ絶対的な拒絶の意志をいざ放たんとしていた。


 だがその時。

『影』は言いようのない違和感を覚え、ハッとして視線を闇鎗に向ける。

 そして、これまで一度たりとも揺らぐことのなかった紅蓮の眼を、驚愕に染め上げた。


 天が、白い。

 黒鎗よりも更に高き場所が、白という色に塗り固められている。たとえ〈その場所〉が、常に夜よりも深い闇に満たされているにかかわらず、だ。


 白天より細雪の如き燐光がちらちらと舞い降り、荒れ狂う闇を鎮めていく。

 音さえ死んだかと思える白転した世界の中に、唯一つだけ翳る点。それこそがこの白を生み出している原点であり、真っ先に『影』に向かって疾駆していた金髪の若者である。

 若者は何時の間にか誰よりも高く跳び上がり、無垢なる白を喚ぶ剣を振り上げていたのだ。


 毅き意志を灯した蒼穹の双眸が、眼下で今まさに解き放たれようとしている暗黒の鎗を、その先にいる『影』を捉えている。

 乙女、女傑、青年、そして『影』。〈その場所〉に在る誰しもの視線が集まる中。

 落下に転じた若者が、浄化の輝きを燈した剣を全力で振り下ろす。


 一閃。


 天より降り注ぐ白き一撃が、〈その場所〉全体を大きく揺るがした。






                 ※






 光と闇がしのぎを削り、世界の行く末を占う舞台となっているのは、〈魔王領〉アガルタの中心都市である王都シャンバラ。

 その中枢である魔王の居城の最深部だ。


 人間種の多国間軍事同盟であるアレスティーナ諸国連合の盟主、アストリア王国より『光浄の聖剣』の担い手として『勇者』の称号を受けたカリオン・ラグナーゼとその仲間達は、魔王領の君主であり、闇を統べる魔王エルファーランとの決戦に臨んでいた。




〈その場所〉…〈星詠の間〉は、非常に広大な空間だった。

 普遍的な家屋を数十棟建てても余裕がある程で、ちょっとした街ならば丸ごと収めてしまうことだろう。


 常識から外れた規模の閉鎖空間は、幽冥な雰囲気も相俟って、どこか古びた神殿の様相を醸し出していた。

 時の経過によって洗練された蒼古な石柱の群れが、意味深な配置で静粛に林立していることが、その印象を殊更際立たせている。

 蔓延る闇に苛まれながらも黙したまま立ち続け、幽かな焔を燈した燭台を大事そうに抱えている様子は、赤子を擁く聖母像にも似た荘厳ささえ醸し出していて、ある意味、狂おしいまでの祈祷を一心に捧げる、敬虔な信徒の姿にも近い。


 切なる跪拝の集成を思わせる蒼炎が揺らめく中、カリオンは呟いた。


「手応えは、あった……だが」


 ちらちらと雪のように舞い散る闇の残滓が、カリオンの手で昂ぶる刃に触れ、悲鳴を挙げて消え失せている。

 巨竜の如き『影』……魔王エルファーランが纏いし闇の衣を引き裂き、その奥の実体を斬ったという確かな感触を得ながらも、カリオンは一旦後退した。

 勝利を確信したからではない。寧ろ逆に、今すぐ離れなければならないという、ただ胸中に生じた予感に従ったからである。


 油断なき眼差しの先。

 肌を痛烈に打ち据える厳かな緊張感に満ちた神殿の最奥には、眩い金色に染められた豪奢な玉座が構えていた。

 闇の中で艶然と輝き、見上げるまでに巨大な座が放つ存在感は、魔王が座していることこそが世の不変の理だと言わんばかりであり、だが今は周囲の闇とは別種の煙幕に覆われている。


 仲間達との絶妙な連携で魔王の注意を逸らし、カリオンは全力の一撃を最高の形で放つことができていた。それは魔王の操る闇壁が展開する速さをも凌駕し、いかなる回避行動も間に合わぬタイミングで到達した――筈である。


 光を湛えし自らの剣が伝えてきた反動は、確かに魔王の身を切り裂いたのだと言っていた。長年剣を振るい続け、身体に染み付いた感覚もそれに同調している。

 だがそれでも、カリオンはこれが戦いの終局なのだとは微塵も思えなかった。


 相手は魔王、エルファーラン。『魔属ゼノブリード』の頂点に君臨する王なのだ。

 それが如何なる存在なのかを、知識だけではなく直接対峙することで痛感したからこそ、このまま戦いが終るなど在り得ないという予感が心身を引き締める。


 何の確証もなく合理性にも乏しかったが、カリオンは自らの直感を信じて意識を、神経をただひたすらに研ぎ澄ませていた。

 そんなカリオンの警戒を代弁するが如く、眼前で濛々と立ち昇る煙の先に向けられた聖剣の切先は、鋭く冷たい光を発している。

 そして背後に佇んでいた仲間達もまた、いつまでも臨戦態勢を解かぬ勇者の意思に合わせてか、険しい相貌で各々武器を構えたまま、魔王の次なる動きを油断無く見据えていた。




 どれだけの時間が経ったろうか。

 実際にはほんの数呼吸程度の間であったとしても、極限の緊張状態における体感は長久の時に等しい。

 カリオンの一撃によって追い遣られていた筈の闇霧がどこからか漂い始め、いつしか再び夜陰よりも深い漆黒の帳として神殿の中に広がっていた。


『くくく……やりおる。やりおるではないか!』


 幾人もの老若男女が同時に発したかのような、重々しく聴覚にこびり付く声が響き渡る。

 どこか愉しげに轟く声韻はあちこちに反射し、その残響が消えるよりも早く、玉座を覆う煙の紗幕が内側から吹き飛んだ。


 幕間の刻を呈していた闇と煙による緞帳の奥から、威風堂々と玉座の上に姿を現したのは、言うまでもなく魔王エルファーランだ。しかしその姿は、先程まで対峙していた竜の如き雄大な威容ではなく、カリオン達と同じ程の大きさで……人間の姿形をしていた。


『張りぼてとはいえ……よもや妾が、自ら外装を剥ぐことになろうとはのぅ』


 眼下で緊迫感を増大させるカリオン達に意識を向けたまま、己が表層に朧な闇を這わせたエルファーランは、細く縮んだ自らの身体を紅蓮の眼で見検める。


 虚空に顕現させた闇の鎗を切り裂いたカリオンの攻撃が、我が身に着弾する刹那。剣が放つ烈しき光に耐え切れないと判断したエルファーランは、咄嗟に巨竜の形態を維持していた外殻の闇を解放し、その放出圧力で攻撃を受け止め無力化させていた。


 つまり勇者が放った一撃は魔王に届いてはおらず。だが魔王にその手段を選ばざるを得ないまでに脅かしていたのだ。

 その声の調子がどこか嬉々としていたのは、自身の想定以上の結末を示されて心が躍っているからである。


『油断はない。だからこそ……良い! そうこなくてはのぅ!!』

「あの攻撃をまともに受けて無傷とは……やはりっ」


 消耗どころかより一層の昂揚を見せるエルファーランの姿を仰ぎ、カリオンは呟く。

 空気が硬質化したかのように重く、痛い。こうして相対しているだけで、途轍もない重圧が全身に圧し掛かってくる。それは壇上で泰然と立つエルファーランの力が充実しているからに他ならない。


 元来、竜の巨躯に合わせて造られたであろう金色の玉座に、ポツンと佇む小柄な姿は不調和さのあまりどこか滑稽だ。

 しかし、魔王から感じられる圧迫感は竜の時と比べてもなんら遜色はない。巨体に由来する視覚的な迫力こそ失せてしまったが、寧ろその本来の姿に近付いたからなのか、存在感に深みと凄みが増しているようだった。


 その威風堂々とした姿を見て、カリオンは確信する。先程から自分の中でけたたましく響いていた警鐘は、こうなることを予期していたのだと。

 見えない疑問に明確な答えが齎されたことに納得し、そしてこれから更に苛烈さを増すであろう戦端を想起して、自然と剣を握る掌に力が篭った。


「流石は『魔王』。ただ一度の一気呵成では届かないと言うことか」


 魔王に投じられる声や眼に宿るのは、悔しさなどではない。ただ純粋に感心したかのような、魔王という存在への讃嘆に満ちていた。

 そんなカリオンの衒いのない言葉に、蠢く仮面の下でエルファーランは一笑する。


『そう言ってくれるな。分厚いだけとは言え外装を引き剥がし、妾にこの姿を晒させたのじゃ。その事実だけでも、墓碑に刻み後世に語り継がれるに足る栄誉であろう』


 鷹揚なその笑声に、勇者に向ける恨みの濁りなどない。あるのは勇者が投じたものと全く同質の、相手を称える色彩だけ。

 逸らさず、互いに相手の奥底を量らんと両者の視線は絡み合う。


『まずは妾が認めよう。見事じゃ、カリオン・ラグナーゼ。そなたこそ、このエルファーランの前に立つに相応しき『勇者』である』

「……」

『何じゃ? 反応の薄い奴め。感極まって声も出ぬか?』

「いや……この局面で、まさか魔王本人に認められるとは思っていなかった」


 照れるでもなしに、カリオンは僅かに眉を寄せる。不快に感じたのではなく、魔王が勇者を賞賛するという事態に単純な違和感を覚えたのだ。


 今の体躯には不釣合い甚だしい巨大な玉座に立ち、尊大に睥睨してくる魔の王と、それを見上げる人間の勇者。

 状況の表層だけを見るならば、決して相容れない存在同士であるのだと推察するのは容易だろう。


 事実、『人間種ヒュムノイド』と『魔属』の関係は決して良好とはいえない。両者の距離はそのまま『人間種』を統べるアレスティーナ諸国連合と『魔属』を治める魔王領アガルタとの間に開かれた隔たりの大きさを暗に示し、言うなれば現在の世界情勢の縮図であった。


 そんな背景事情がありながらも、だが邪念や忌諱とは無縁の、カリオンの生真面目が過ぎる位の朴訥な様を見下ろし、エルファーランはさも愉快そうにくつくつと肩を揺らせる。


『つれない奴じゃのぅ……平時の禍根など今は捨て置き、素直に受け取るがよい。妾が『人間種』を褒めるなど、まずあり得ぬからな。その不文律を壊したのは、そなたが初めて、と言ってもいい』

「それは……光栄だ」


 魔を統べる王が人間を褒め称える。人間社会の常識と歴史に照らし合わせると、確かに考えられないことだ。そしてそれは逆の立場であっても違いはないだろう。

 にもかかわらず、この場において他ならぬ王自らがそんな言葉を投じてきた。そこに篭められた真意の重さに、カリオンはエルファーランの眼差しの中に背負う者としての矜持の輝きを見出す。


 魔王という存在が背負うもの。それが何なのかを理解し、決して退かないことを熟知しているからこそ、カリオンは臨戦態勢のまま剣先を外さない。

 寧ろ今の一言で気が清冽に引き締まったのか、毅然とした相貌で一心に魔王を見据えた。


「だが……ならばこそ。その言葉、言われるとおりこのまま傍に置かせてもらおう。世の行く末を賭したこの戦いを、俺個人の感情で穢すような真似はしたくない。それはそちらとて本意ではない筈だ」

『ふ……ふ、ふははははっ! このエルファーランの賛辞を袖にするとは、不遜な奴め。じゃが、その愚直さ……気に入ったぞ!』


 光輝く剣を手に見上げてくるカリオンの姿からは、自身に課した使命を真摯に果たそうとする気概しか感じられず。

 闇霧を越えてひしひしと肌に伝わる勇者の真剣な気迫は、光の加護を受けた剣の輝きも相俟って純粋で清々しく、エルファーランには好ましく映っていた。


 勇者が、自らと同じものを目指していることを感じ、魔王は呵々大笑する。


『好い、好いぞ勇者よ! そなたの言うことは正しい。ここ・・に立っている以上、全身全霊を賭することこそが礼儀というもの。余計な感傷なぞ不要じゃ!』

「言われるまでもないっ」

『妾も些か興に乗り過ぎたようじゃ。そのことは詫びよう。そして――』


 風圧を伴う怒号染みた笑い声に周囲の空気は擾乱し、金色の玉座に立つ魔王の全身より深い漆黒のオーラが発せられる。

 迸る黒色の霊光は辺りに犇く闇霧を次々と捕獲していき、渦を捲いてその身に取り込んでいく。だが姿は先程までのように肥大する事はなく、闇と重なる度に影はただ純然とその深みを増し、魔王の放つ威圧感を急激に膨張させていた。


『これより先こそが真の戦いじゃ。勇者カリオンよ!!』


 それはまるで、巨壁が自分に向かって倒れてきたかのような絶望的な圧迫感。

 思わず顔を覆いたくなる圧力を前に、しかしカリオンは屈しなかった。

『勇者』を名乗る以上、臆して逃げるなど許されず。ましてや自分の使命を思えば、それは世界に対する裏切りになるのだから。

 吹き荒れる凄絶な闇嵐を前にして仲間達の先頭に立ち、カリオンは聖剣を高く掲げた。


『いくぞ、魔王エルファーラン!』






                   ※






「――おおおおおおっ!」


 裂帛の気合と共に正面から跳び掛ったカリオンは、振り被った聖剣を袈裟に払った。

 獣染みた叫びと共に振り抜かれた白銀の剣身が鮮烈な軌跡を描き、そこから生じた形ある閃光の刃がエルファーランに降り掛かる。


『ぬんっ!』


 しかしエルファーランは躱すでもなく、こともあろうか闇を収束させた掌打で受け止めていた。

 金属同士が打ち合う硬質な激突音を聞きながら、腕を圧してくる衝撃を受け流し、空いているもう片方の掌を空中のカリオンに向けて突き出す。すると瞬時に金線の円陣が編まれ、そこから闇色の衝撃波が漆黒の穿突となってカリオンを襲う。


「くっ!」


 器用にも空中で身を捩じらせ、カリオンは即座に引き戻した剣身で痛烈な闇の一撃を受け止める。だが足場がなかった為か突き抜ける勢いに抗うことはできず、後方に弾き飛ばされてしまった。


『まだまだっ、この程度ではなかろう! 『勇者』と呼ばれし者よ!』


 エルファーランは待ちに徹する選択肢を棄て、追撃に玉座の上より飛び降りる。落下の最中に両腕を開いて空を切り、半円状の軌跡に幾つもの円陣を描き出しては、具現させた十数の闇槍をカリオンに向かって射出した。


「当たり、前だっ!」


 持ち前の優れた体感覚で強引に体勢を整え、宙返りで着地したカリオンは、その際の反動を利用して再び前に駆ける。

 眼前に迫った闇槍を一閃し、更に一歩前に出ては光の剣で打ち据え。未だ衰えぬ電光石火の剣捌きで、襲い来る闇槍の雨を弾き返す。


「おおおおおっ!!」


 昂ぶるカリオンの気勢に合わせて剣も輝きを増していた。

 触れる闇のことごとくを粉砕し、何者をも寄せ付けず突き進む姿は、まるで一つの彗星。

 数歩の跳梁で間合いを詰め、粘状の闇が敷かれた床に降り立ったエルファーランに向けて光の剣を突き出す――。



 まるで、荘厳な一枚絵のような光景だった。

 世にある数多の物語で語られる、巨悪の闇と正義の光が激突する死闘。

 魔王城の最深部、〈星詠の間〉で繰り広げられている戦いは、まさにその場面を抜き出して描いたかのようだ。

 目まぐるしく攻守が転換し、加速する光と闇が何度も、何度も烈しく交錯していた。



――そんな両極の舞踊を観覧する存在が一つある。

 勇者と魔王が対峙する場の丁度真上の天蓋に吊るされた、巨大で透明な水晶柱だ。

 見かけこそ原石から削り出したままの、手入れの施されていない粗雑で不恰好な岩塊であったが、それだけにどこか触れ難い厳かさを漂わせている。


 立ち並ぶ柱の間を縫うように張り巡らされた無骨な鎖によって、雁字搦めに捕らえられている姿は、何か途轍もない咎を背負った罪人のようで。

 射し込む光が殆どない中で、その懐裡に宿した色とりどりの淡い光がぼんやりと揺らめいていた。

 戦いの当初においては、水底から見上げる夜明かりのように弱々しかったが、勇者と魔王の戦いが加速するにつれて輝きが増し、いつしか直視できないほどの神性ささえ放射しているではないか。


 孤高に佇む唯一の観覧者は、自らに集う耀きに喝采を挙げ、この戦いが迎えるべき終局をまだかまだかと待ち焦がれていた――。



 エルファーランは猛り、カリオンは吼える。

 連なる光と闇の鼓動は重ねられる度に躍動していき、けたたましい残響が場を更なる昂揚へと囃し立てていた。


『お前の手にある、お前の全てを見せよ! この魔王、エルファーランに!!』

「刮目するがいい。我が剣の不朽の輝きを!!」


 至近距離で振り下ろされた光の刃を、エルファーランが闇を重ねた掌打で正面から弾き返す。

 その反動さえも利用して、カリオンはその場で身を翻し、遠心力を乗せた逆撃を真一文字に放ったが、エルファーランに到達する瞬間。床より放たれた闇槍によって弾かれ、強制的にその軌跡を変更させられてしまう。


『もっとじゃ。もっと聖剣の耀きを昂ぶらせよ! 妾も相応しき闇を以って応えようぞ!』


 後方に跳躍すると同時に、エルファーランは振り被っていた掌から三つの闇の球体を解き放ち、正面、左右からの三方向より同時にカリオンを射抜こうとする。

 だがカリオンは、持ち前の優れた動体視力と勘を以ってしてタイミングを合わせ、一振りで全てを一度に叩き落した。


「まだ……まだだっ!!」


 跳び上がり、前方に宙返りを交えたカリオンの凄まじい一撃に対し、エルファーランは足元より噴出させた闇で防ごうとするも、拮抗は一瞬で壁は呆気なく切り裂かれていた。


 しかしその刹那を狙って更なる後方に退いていたエルファーランは、高らかに芝居がかった様子で仰々しく両腕を掲げる。揚々と発せられた号令に合わせて、神殿の間に存在する闇の全てが大きくどよめき、沸騰した。


 エルファーランの背後で一列に並んだ間欠泉が一斉に噴き上がる様は、さながら巨大な一枚の壁を現出させたかのようだ。

 留まることを知らない勢いは尚も喝采に沸き立ち、天を衝かんと高く高く上昇する。


 そしてこの場の限界である天井に到るか否やの瞬間。

 魔王の背後には数十、数百を越えんばかりの無数の円陣が同時に展開され、黄昏色の不吉な色彩で輝きながら〈星詠の間〉を塗り替える。


『さあ、勇者よ! これにはどう応えてくれる? お前の力を、その意志の輝きを見せてみよっ!!』


 描いた全ての円陣を束ねて一つにし、エルファーランが高々と掲げた掌の上に出現したのは漆黒の星だった。

 おぞましい程の闇が大渦を描きながら収斂され、その身を更に肥大させている。


「なんという力の波動……これが、魔王かっ!」


 深淵を具象化させたかのような暗黒の太陽が、刻々と闇を貪り増大していく様子は、目にしただけで己が破滅を思わずにはいられない。

 眼前に出現した球体から発せられる力の波動は、自らが貪るべきえものを探すが如く貪欲で危うく、気弱な者ならば一目で狂死しても可笑しくない迫力があった。


 興奮か、怯懦か。どちらとも取れる微かな身震いを感じながらも、しかし正対するカリオンの心は折れなかった。


「俺に力を貸してくれ!」


 前から目線を動かせないカリオンは、ただ声だけを後ろに投じ、背を預けている仲間達に願う。

 そして眼前より押し寄せる威嚇を全て受け止めんと、誰よりも突出した位置で、光の恩寵を受けし聖剣を頭上高く構えた。


 そんな勇者が求めるものを正確に理解しているからか、一様に頷いた仲間達はそれぞれに持つ弓、斧、杖をカリオンの背に向けて翳し、意識を集中させる。

 すると徐に各々の武器がぼんやりと光を燈し、あっという間に自らの器に留めきれなくなって溢れ出しては、強く清冽な光の帯と化してカリオンに流れ込んでいく。


 集約した黄、赤、青の光が幾重もの光帯となって全身を包み込み、聖剣は自身に注がれる力の奔流を受けて歓喜に吼え、より強大な光を発現せんと激しく身を奮わせていた。


「……ありがとう、みんなっ」


 カリオンは今にも光が弾けそうな愛剣を腰溜めに構え、力を込めた。

 するとその刃から直視出来ないほどの圧倒的な光が放出され、辺りに漂う闇霧を容易く駆逐しては〈星詠の間〉の真の姿を暴いていく。


 煌めきの極致に至った剣。いや、既に輪郭さえ亡失したそれを構えるカリオンこそが光の化身だった。


『ほぅ……それが聖剣の真の力、か。伝わるぞ、そなたに集いし尋常ならざる力の鼓動を……ふふふ、それでこそ勇者! 妾が前に立つ資格を持つ者よ!!』

「世界の未来を護る為、この一撃に俺達の全てを捧げるっ!!」


 場に満ちる凄まじいばかりの極光と深淵の波動。絶対的に相容れない白と黒の奔流。

 互いに究極にまで高めた一を放つ為、カリオンとエルファーランは真正面に対峙する。

 一心に見つめるエルファーラン。

 壮烈な気迫を浮かべるカリオン。

 そして、この場に在る誰もが戦いの終局を予感していた。


「これで決着だっ。魔王!!」

『来るがいい、勇者よっ!!』


 数瞬の睨み合い。

 両者は示しを合わせたかのように同時に地を蹴る。


 そして――――。

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