天逍のイルヴァーティ

宮野光宏

第1話 ある物語の終焉

「んんっ、好い風だねえ」 


 吹き抜ける風が髪を梳き、鼻先や頬を撫でていく。

 冷たさと暖かさが程好く絡み合って健やかだが、荒々しい風だ。遮るものが何もないからか、自由奔放に空を翔け、実に無遠慮に総身を弄ってくる。

 しかし、不躾である筈のそれに仄かな心地良さを感じてしまうのは、四肢や五体をくまなく這う風が思いのほか乾いていて、抗い難いまどろみを誘ってくるからなのかもしれない。


「陽射しも気持ちが良いし……ああ、今日は本当に好い天気だなあ」


 降り頻る陽光は刺すように強い。衣服越しであっても肌を痛烈に打ち据えてくる。

 皮膚の下の血肉を躍動させる容赦の無い叱咤は、神経を苛むよりも寧ろ、身体の奥底で眠っている本来在るべき生命の活力を喚起しているかのようだ。


 眸を伏せ、全身で爽やかな慰撫を堪能していたユディトは、身体の芯から滾々と湧き上がる熱を実感し、両腕を天に投げ出した。


 活力が身体の隅々まで行き届いていく充足感と、体中の筋が限界まで引き伸ばされたことで全身の感覚が色褪せていく喪失感。

 相反する感覚の鬩ぎ合いの余波で意識が真っ白に塗り潰されかけたが、ユディトはその泥濘から脱するようにゆっくりと瞼を持ち上げる。


 柔らかな輝きを湛える紺碧の双眸に映るのは、茫洋とした景色だった。

 広大無辺な蒼穹はどこまでも澄み切っていて、まるで世界の深淵にまで続いているかのようだ。

 大空の下でなだらかな稜線を描いている新緑の草原は、大自然の恩寵そのままに青々と生い茂っている。光風に揺られる度に潮騒の如き爽やかな音色を撒き散らし、煌びやかな波紋を広げている様は、さながら草の大海原と表しても決して大袈裟ではない。


 そんな大草海の拡大を阻むかのように連なる断崖絶壁は、その端が遠く地平線で収束していて目視さえ叶わず。眼下に広がる草原がとてつもない規模であることを、ただ雄弁に物語っていた。


「……うん。やっぱり人間って、空の下じゃないと生きている心地がしないよなぁ」


 肺腑の底より零れた感嘆は、心からのものである。


 草海を翔ける風が絶え間なくぶつかっている岩壁は垂直に切り立っていて、覗き込めば足が竦むどころか容易く意識を刈り取ってしまう程の恐ろしい高さだ。

 しかし、そんな崖縁に危なげなく佇むユディトの相貌に浮ぶのは、安らかさ一色で。


 ユディトは、こうした遮るもののない大空の下で、陽光と風を全身で浴びるのが好きだった。昔から少しでも時間があれば木の上や家屋の上、高層建築物の天頂部や世に名立たる高峰の頂上など、高く開けた場所から無限に広がる大空を眺めていたものだ。……そのことで相棒から、光合成でもしているのか、とよく揶揄されたが。


 荒れ狂い、上空に向かって強烈に吹き上げる風には、潮の香りならぬ仄かに苦い緑の香りが漂っていた。それは紛れもなく、眼下にて煌々とした陽気で躍動する大草海から発せられたものだろう。


 清々しく映える空の眩さと重なり、例年に比べて随分と遅かった春の終わりを感じさせた。


「あ、そうか。もうすぐ夏になるのか。ついこの前、春になったばかりだと思っていたけど……季節が巡るのって本当に早いなあ」


 ごく当たり前にある季節の変遷を完全に失念していたことに、自らの頭を軽く小突いてユディトは嘆息する。

 晩春の輝きの背後に潜んだ本格的な夏の到来を垣間見て、今更ながらに、ここ最近の慌しさの所為で碌に空を眺めていなかったことに気が付いたのだ。


(改めて思うと、こうしてのんびり空を見上げるのって、一体何時以来になるんだろ?)


 自らに問いかけて眼を瞑れば、瞼の裏側に甦るのは激動の日々。

 絶えず血潮と断末魔が飛び散り、数多の怨嗟と悲鳴が渦を巻く、血染めの戦場を駆け抜ける記憶だ。


 凄惨極まりなく、だが前に進むしかない現実は、路の途中で立ち止まることを許さず。自分の傍を通り過ぎていくものを、顧みる猶予すら与えてはくれなかった。


 身に纏った空よりも鮮やかな瑠璃色のコートの裾や、雲よりも儚い白灰色の髪をはためかせながら、風に内包された季節の移り香をゆるりと吸い込んだユディトは、自らの身の上がそれだけ逼迫していたのだとまざまざと実感する。


「……本当に。あっという間だったよなあ」


 万感の吐出は、時として意識の奥底に埋没した辛苦の思い出も引き出してしまうものだ。

 そして都合の悪いことに、その手の記憶というものは一度浮揚すると連鎖的に喚起されてしまい、次から次へとまるで昨日の出来事のように鮮明に溢れ出してくる。


 総身に宿った光と風の温もりが急速に失われていくのを遠くに感じながら、ユディトの意識は、止め処なく湧き出してくる嘗ての時の波間に、ゆっくりと沈んでいった。






                  ※






 青く澄んだ大空と、緑豊かな肥沃の大地。そして、それらを艶やかな季節の彩りで着飾る美しき世界〈アンテ=クトゥン〉。

 空と大地の恩恵を受けし世界に生きる人類は、森羅万象を意のままに操る秘儀『耀術』と、耀術を普遍的な工学技術で再現、行使することを可能とした『耀煉器ユビキタス』によって支えられ、秩序に護られた高度な文明社会を築き上げていた。


 勿論、そこに到るまでの長久を紐解けば、規模の大小問わず人間同士で血みどろの争いを繰り広げたという歴史が無数に確認できる。

 人間が増え活動圏が広がり、社会の複雑化が進めばそれに応じて様々な柵や枷が用意されるのは自明で、どれだけ智を凝らして緻密で整然とした社会を築こうとも、不和や歪みは必ずどこかに生じるからだ。


 往古より綴られる〈アンテ=クトゥン〉の人類史とは、つまるところ人間同士の血塗られた闘争の足跡である。

 しかしそれは同時に、誰もがより良い未来を獲得せんと奔走した結果の、進歩の系譜でもあった。


 数々の争いを経て、実に多くの教訓を得た〈アンテ=クトゥン〉という世界が、調和を重んじ、堅実な歩調で進むことを是とするようになったのは、血脈と共に連綿と受け継がれる凄惨な過去を思えば、無理からぬことである。


 にもかかわらず、永く掲げてきた針路に対して大きく舵を切るに到ったのは、〈アンテ=クトゥン〉とは摂理の異なる世界に繋がる扉『境界門リミニス』を見い出し、その制御術法たる『招喚術』の創造に成功したからであることは疑いようがない。


 それまで想像、妄想の域を決して出ることのなかった異邦の世界。

『招喚術』という夢幻の扉を開く神秘の鍵の出現によって、恒常的に異世界と繋がれることとなった〈アンテ=クトゥン〉は、その歩みを一気に加速させることになる。

 世界という垣根を跨いだ真の意味での異文化交流の始まりに、強く背中を押されたからであった。


 それからの進歩は、めざましいの一言だ。

 理そのものが異なる文化との触れ合いは、新たなる発見の連続で。

 次々と明らかになる未知に人々の興味は大きく沸き立ち、より多くの収穫を得ようと学ぶことに躍起となる。

 既に体系として完成したと思われていた『耀術』、または慎重さに拘泥するあまり、近年眼の醒める成果がなかった『耀煉器』も気鋭の波に例外なく呑み込まれ。

 古からの業に縛られ、どこか保守的だった学問技術は、外からの風に誘われて更なる高みへと昇っていく。


 本来ならば触れ合える筈のない、近くて遠い遥かなる場所との交誼はある種のロマンティズムに溢れていて、停滞に篭っていた人々の心を魅了し、久しく忘れていた進歩への情熱を取り戻させていった。




 そうして慌しくも健やかな時間が流れ。

 異世界交流開闢より数世紀の時を経た、現代。

〈アンテ=クトゥン〉は実に多種多様な世界と接続し、それぞれとを結ぶ中継点としての重要な役割を担う世界だと、内外界に広く認知されていた。


 全ての礎となった『耀術』と『耀煉器』、『招喚術』、そして『境界門』……いずれもの技術は世界の隅々にまで浸透し、日常の中で用いられるのが当然となる。

 いやそればかりか、そのことに誰しも何の疑念も抱かないまでに、人類にとって必要不可欠な確固たる存在意義を獲得していた。


〈アンテ=クトゥン〉の各地には次々と『境界門』が敷設され、新たな世界を求め、人々は日夜探求の手を掲げている。

―――未だ見ぬ世界は、自分達にどのような福音を齎してくれるのだろうか。

 未知への門を潜らんとする者達が口々紡ぐ常套句は、それぞれの胸裏で膨れ上がる期待や希望の灯火が、未来への標として進むべき道を明るく照らしてくれるのだと信じ切っている証で、この平和が未来永劫続いていくことを誰もが疑いもしなかった。


 しかし、そんな泰平の終焉は唐突に訪れた。

 最も新たに稼動した『境界門』の先より、〈アンテ=クトゥン〉の常識が通用しない異形の存在が出現し、破壊活動を始めたのである。


 出現した異形達による凶牙は、瞬く間に『境界門』が設置された地域の都市機能を崩壊させ、数多の無辜なる命脈を断絶させた。その爆心地が半鎖国体制中の島国であったことに加え、老若男女問わず徹底的に根絶やしにされてしまった為、外界へ危機を伝える術もなく。


 結局。

『境界門』が奪われたという事実は、耀術と耀煉器による情報伝達網が世界全土に張り巡らされた世にあって、音信不通を訝しんだ隣国が内情視察の使者を派遣するまでの凡そ五日という日時の間、誰一人として気付くことはなかった。


〈アンテ=クトゥン〉の平穏な社会に大きな風穴を開けることになったこの事件は、人々に大きな衝撃を齎した。


 そもそも〈アンテ=クトゥン〉の人類は、“未知”というものに対しての認識が柔軟で、また強靭だ。

 今日に到るまで多様な世界と接触し、幾度となく自らの価値観の限界や様々な問題点と対峙して、その度に人々は対話による解決を何よりも重んじて乗り越えてきたからである。


 だからこそ、この事件が後に世界全体の危難になるだろうと察した人類の対応は迅速だった。

 一切の通告もなしに一国を滅ぼした未知の異形に対し、世界各国は各々の利益や日頃の軋轢を一旦脇に置き、即座に国家を超えた大きな枠組みでの同盟を締結する。

 人間としての生命と尊厳を護ることを是に掲げた、人類史上初とも言える世界同盟の軍勢が結成されたのだ。


 そうして人類の希望を一身に集めた世界同盟軍は、勢力圏の拡大に動いた異形の群と激突し――完膚なきまでの敗北を喫してしまった。


 辛くも生き延びた者達の証言により明らかとなったのは、唯一絶対の敗因。

 それは異形の者達には自分達の攻撃が一切届かない、という無慈悲且つ冷酷な現実だった。


 刀剣、銃火器をはじめとする物理手段は元より、耀術、或いは耀煉器の軍事運用を目的に開発された超物理的兵器を用いても、異形の者達が纏う解析不能の障壁を突破することができず、掠り傷一つ与えられない。


 攻撃が全く通じない正体不明の相手に対し、戦意を保たせるのは不可能だった。


 軍勢を駆け抜けた動揺は、統制の難しい多国籍軍であるが故の意志の喰い違いを表面化させる。そしてその結果、呆気なく瓦解してしまったのだ。


 希望を懸けた軍勢の大敗、という悲報は瞬く間に世界中を駆け抜け、市井の人々に絶望を植え付ける。

 対話重視でこれまで平和を獲得してきたという矜持を持つ〈アンテ=クトゥン〉の人類にして、破壊と殺戮の限りを尽くす異形は既に人智を超えており、『魔物』と怖れるには充分だった。


 最初の敗戦より時を置かずして、〈魔界〉と称されるようになった異邦からの侵略者『魔物』。

 鮮烈な宣戦布告より始まった進撃は止まることを知らず、勢いを加速度的に上昇させながら〈アンテ=クトゥン〉全土を蹂躙していく。

 その侵攻の跡地には生命の痕跡など微塵も残さない、という徹底した破壊振りは人心に大いなる恐怖として酷烈に刻み込まれた。


 だがそれ以上に人類全体を震撼させ、かつてない危機に直面している現実をまざまざと突き付けたのは、『魔物』が数多の異世界との結節点である『境界門』を、破壊せず占拠しているという事実である。


 世界全土に『境界門』が流布した現代において、『境界門』は異世界交流の基点としての役割もさることながら、それ以上に、異なる世界同士の位相差から生じるエネルギーを抽出する装置でもあった。


 今や『境界門』は〈アンテ=クトゥン〉の社会全体を支える骨子、或いは心臓そのもの。そして無尽蔵とも思えるエネルギーの利用を前提に発展した人間社会にとって、『境界門』を占拠する魔物の行動は、生存に欠くことのできない水源を奪われるのと同義の、滅亡を否が応にも自覚させられる凶事だったのだ。


 しかし、自分達の常識が全く通用しない敵に対して人々は対処しあぐね、最初の大敗が尾を引いて疑心暗鬼に囚われた挙句、碌な協力体制も築くことができず。


 やむなく世界中の国家がそれぞれに個別で兵を挙げ、自らが擁する領土と民を護る為に幾度となく迎撃を試みたが、ことごとく返り討ちに遭い、自らの無力さを痛感させられるばかり。

 対話の糸口を見い出すことすらできぬまま、敗走を重ねる人類が悲痛に泣き叫んでいる間にも、無数の小国や都市村落が滅ぼされ、栄華を極めた名立たる大国も、再起を諦めたくなるような甚大な被害を被る。


 人類の生存圏が刻々と狭まるのを傍目に捉えながら、いつその凶牙が自分達の身に突き立てられるのか、見えない恐怖に怯える日々が続いていた。


 膨れ上がる不和に国同士の連結は途絶し、人同士の交流が断たれれば経済は停滞する一方で。

 暗澹とした不況の中で治安は乱れに乱れ、人心は日に日に荒廃していく。


 既に限界を迎えていたのかもしれない。

 日夜悲報ばかりが耳に届く人々にとって、〈アンテ=クトゥン〉に存在した七十を超える『境界門』が僅か一基を残し全て魔物の手に陥落してしまった報など、既にどこか別世界のことのように聞こえてしまう。


 やがて正気を保てなくなった精神が、楽になりたいとの一心から自らに刃を向けるようになるのに、それ程時間は要しない。

 人類滅亡、世界崩壊の瞬間が、いよいよ現実味のものになろうとしていた。




 そんな窮地に、光は舞い降りた。

〈アンテ=クトゥン〉の旧時代。それこそ現生人類の有史以前より地上に存在していたとされる『三種の神器』を手にした少年が、これまで一矢報いることすら叶わなかった『魔物』をいとも容易く葬り去った。

 いやそればかりか、最後の『境界門』を奪い取らんと結集した『魔物』の精鋭達を、こともあろうかたった一人で殲滅してしまったのである。


 俄かには信じられないこの事実は、抵抗の術がないと諦念に項垂れていた人類にとって、根本的な敗因を取り除く大いなる光明となった。


 こうして颯爽と歴史の表舞台に現れた少年を中心に、戦う意志を最後まで棄てなかった者達は決起する。

 今や魔の手中に奪われてしまった全ての『境界門』の奪還を目指し、侵略者への反攻を開始したのだった。


 世界の最後の希望として、耀ける神器を纏った少年は誰よりも前を征く。

 死地を前にしても決して退かず、どんな過酷な逆境であっても決して諦めることはなく、立ち止まらない。

 数え切れない『魔物』の群れを単身で駆逐せしめる力は、一騎当億という度が過ぎた誇張表現さえ生温く、不条理で理不尽。

 相対する敵は元より、連れ添う味方にさえ恐怖を撒き散らしながら、少年は勝敗の決した盤面を覆し続けた。


『魔物』を討滅して各地の『境界門』を解放し、世界の趨勢を塗り替える勢いは、乾いた布地に水が染み込んでいくように急速で、夜を鮮烈に引き裂く曙光に等しい。

 世に漂う暗影を祓い、輝かしき希望を人々の心に導く様は、数多の物語で語られし英雄の到来そのものであった。


 常に戦いの中心で誰よりも多く魔の手勢を斃していく少年は、やがて人々に救世という奇蹟を見せ付ける。


 そして。


 讃えられ、同時に恐れられ。それでも歩みを止めず突き進んだその果てに。

 少年は争いの日々に真の終止符を打つべく、侵略者達の領域である『魔界』に単身乗り込んだのだった。






                  ※






 滅亡の瀬戸際まで追い詰められ、絶望が世界を覆う情勢の中。

 希望を胸に三種の神器『皇権イルヴァーティ』を手にし、世界の未来を守る為に『魔物』との争いの日々に身を投じてから、もう何年経っただろうか。

 ただひたすらに前を向き、立ち止まる時間さえをも惜しんで駆け続けてきたから、その辺りの感覚は実に曖昧だ。


 皆を傷つけまいと誰よりも先陣を征き、何人もの、それこそ数え切れないほどの『魔物』を斃し続けてきたが、己の背に向けられる視線が『魔物』に投じられるもの同種だったことに気付いたのは、いつだったろうか。


 平和と言う願いただ一つを胸に、真っ直ぐ駆けて来たつもりであったが、その歩調も方向も。他の人々が目指すものと乖離していたのか、今となっては確かめる術はない。

 同じ志の下に集い、共に戦火の中を走り抜けた多くの仲間達も、それぞれの立場や思想、動機、その他様々な理由で離別していき、気が付けば神器を授受した当初より連れ添う相棒一人を除いて、今はもう誰もいないのだ。


 しかし、こうなってしまったのも一言で表せば自業自得である。

 全ては、狭窄した視界で前だけを見て走り続けた結果だ。自らの願いだけを一途に捉え、それ以外をあまりにも蔑ろにしてしまったが故に、実に多くのものが指の隙間から零れ落ちてしまった。

 そして、離れたあらゆるものは、二度と手には戻らない――。




 どれくらい、そうしていたろうか。

 一片の雲影もない天蓋の中心で太陽は燦然と輝き、活潤に溢れた無数の生彩全てを抱え、世界を普く照らし出している。

 肌に宿ったジリジリとした熱と、鼻腔を擽り意識にまどろみを誘ってくる芳醇な空気。雄大な自然の鼓動を肌に感じ、果てしなき世界を当てもなく眺めていると、時間の経過さえつい忘れてしまいそうになる。


 不朽の空を見上げたまま、無意識に翳していた掌をユディトはギュッと握り締めた。


 もう戻れない時間の残滓は、そこに悔悟の余地があればある程、孤独や哀痛、寂寥……脆く儚く苦々しい暗褐色の感情の群を強く呼び起こしてくるものだ。それらはしばしば心身を縛り上げる蔓と化して、前に進もうとする意志を挫いてくる。


 だが、今この時に限り。

 ユディトの胸裏は、自分でも驚くほど静かに凪いでいた。


「晴れた空を見ていると心が洗われる、って言うけれど……こんな感じなのかな」


 大空は痛い程に青く、眩い。闊達に巡る光風は、どうしようもなく無機質だ。

 徐に見つめていると、胸の内にへばり付いた穢れが残らず刮げ落ちていくような錯覚にさえ囚われてしまう。

 それはきっと、果てなく広がる晴天が、裡に余計な情想など一切孕まないからなのかもしれない。そこから流れ出る冷徹な鎮撫が、苦しみや哀しみ、憂いや恐れといった心の暗澹を根こそぎ濯いでいくのだろう。


 不思議な人心地を感じたユディトは、穏やかな面持ちのままゆっくりと双眸を伏せた―――。


『寝るな』

「んごふっ!?」


―――が、突如として後頭部に奔った凄まじい衝撃で、顔面から大地に沈んでしまった。


 一陣の風が駆け抜けるが如く、轟然と脳天を突き抜けていった衝撃は、まるで巨岩を背中に叩き付けられたかのようだ。しかも完全に意識の外側から飛んで来た為、ユディトは碌に受身も取れなかった。


「――ッ!? ――ッッ!?」


 強かに打ち付けた鼻頭を押さえたまま、ジタバタと地面をのた打ち回るユディト。

 元々景色を俯瞰する為に断崖絶壁の崖縁付近に佇んでいたこともあって、その位置取りは非常に危うかった。もしもあと一歩前で立っていたならば、そのまま崖から放り出され、遥か下方の地面に向かって垂直落下していただろう。


 自由気侭に伸びきった草叢の上で悶絶するユディトであったが、まさかこんな頓珍漢な事由で死線を越えかける羽目になって生じた動揺は、そう簡単には払拭できそうにない。


 しかしそれでも。思考の冷静な箇所は、この事態を招いた元凶を正確に捉えていて。


「い、いきなり何するんだよ、イヴっ!」

『……お前こそ何をしている』


 地面に倒れ伏したまま憤るユディトに降り注いだ声には、抑揚がなかった。


『予め決めていた合流地点にいないから、凡そ考え付く最悪の可能性の場所に来てみれば……案の定、お前はそこで立ちながら眠りこけている。お前の為を思い周囲を哨戒してきた私としては、そんな場面に出くわした時、どんな反応をすれば良いのだろうな?』

「ご、誤解だよ! 僕は決して眠ろうとしていた訳じゃなくて」

『だが私の接近を察知できないまでに、思考を内側に向けていたのは本当だろう? 大方、過去を振り返って憂鬱になったところを、気持ちの良い風に梳かれて払拭されたと思った挙句、そのまま陽気に当てられて意識が遠退いたんだろうが』

「うっ」


 こちらの思考を読めるのか、と言いたくなるくらい見事に図星を貫かれて、ユディトは声を詰まらせる。それどころか不可視の圧力の前に、猛っていた怒りの勢いも瞬く間に潰される始末だ。


 一語一語、確実にユディトを追い詰めているのは、凛とした声だった。

 空気を伝わるその響きは高く澄み切った玲瓏のようで、紛れもなく年若い女性のもの。清楚と表するに相応しい涼やかな声色は、人の波に溢れる街角で歌でも歌っていたら、さぞ聴衆の喝采を浴びるに違いない。


 しかし良く通る声韻であったが、その口調は彼女自身の生真面目さや厳格さが色濃く反映している為に雄々しく。その上、疑惑塗れのユディトに対して苛立ちがあるからか、昏く抑揚がない。


 ユディトとしては後ろめたさが少なからずあるだけに、鋭く、だからこそ冷たく感じられていた。


『これから敵の本拠地に殴り込もうとしている奴が、その目前で居眠りをかましている……まるで見つけて下さいと言わんばかりだが、油断か? 余裕か? それとも敵を陥れる為の高度な作戦の一環か? お前は一体どういうつもりなんだ?』

「そ、それは……」

『私も鬼ではないからな。こちらの一方的な見地からお前の意見を封殺するつもりはない。だから是非ともお前の考えを聞かせて欲しい。なに、私とお前の仲だ。遠慮せず、心置きなく思いの丈をぶちまけるといい』


 イヴと呼んだ彼女……イヴリーンの淡白な迫力にすっかり圧倒されてしまったユディトには、論理的な弁明どころかまともな言い訳一つ紡ぐこともできなかった。

 その双眸が涙目になっていたのは、頭部に奔った激痛が今も尾を引いているから、というだけでは決してないだろう。


 図らずも、伸びきった草叢に身を隠す体勢にされてしまったユディトは、倒れた拍子に舞い上がった草々がハラリと背に落ちてくるのとは別の、大きな重圧を感じずにはいられなかった。






                   ※






 倒れながらも見渡せる視界の中では、緩やかに描かれた地平線が空と地を別つ絶対の境界であることをこれみよがしに見せ付けていた。

 誇示している色鮮やかな階調は、その丘陵の先にはいったい何があるというのか、見る者の探求心を擽って止まない。


 だが、そんな青と緑の調和が織り成す大自然の景観の中に、それを破綻させるかのように聳え立つ、無粋で巨大な暗き影がある。

 それは大地から空へと豪快に引かれた黒線。

 世界を二分せしめんと伸びる物々しき黒影は明らかな人工物で、大小無数の尖塔が密集した塔の群れだ。


 一つ一つが超高層ともいえる高さでありながら、離れることなくしっかりと絡み合って佇んでいるのは、緻密な設計と高度な技術が合わさったが故だろうか。その様は、巨大な樹木の幹のようにも見える。

 互いを支えながら天涯を目指して屹立する巨塔は、のどかな平原にただならぬ剣呑な威風を撒き散らし、己こそがこの地に君臨する覇者であると厳かに宣言していた。


「……ようやく、ここまで辿り着いたか。長かったよなぁ」


 背後で刻々と強大さを増すイヴリーンの存在感から逃げるように、視線を虚空に投じていたユディトは誰にでもなしに小さく呟いた。

 その声が妙に感極まっていたのは、ここに到るまでの苦難の数々を思い返しているからである。


 出会いと別れを繰り返し、失くしたものの大きさに震えながら、それでも平和と言うただ一つの願いを胸に自らを奮起させ、駆け抜けてきた。その果ての終着がこうして目の前に現われたのだから、感慨が湧かない筈がない。


『それはそうだろう。実際に世界中を駆け回って来たんだからな。時間が掛るのは当然というものだ』


 静かな感動に浸るユディトに冷や水を浴びせるが如く、その背に投射された声には温度はない。

 神器を手にした瞬間から自分に同道し、苦楽を共有してきたイヴリーンであるが、その反応はあまりにも冷然としていた。


 これは相当機嫌が悪いな、と彼女の憤りの原因が自身であることをさらりと棚上げにし、ユディトはのそのそと起き上がる。


『一応忠告しておくが、ユディト。これからという時にこれまでを顧みて万感に浸るのは止めておけよ』

「なんでさ?」

『それは往々にして失敗の予兆、と言われているだろうが。ただでさえお前の間の悪さ、運の無さときたら見ていて憐憫しか誘わないというのに……』

「ひ、酷い言われようだけど……あれ? その格言って確か、目的を果たそうという時に、果たした後でやりたいことに想いを馳せる、とかじゃなかった? ああ、そういえば僕はこの戦いが終わったらさ――」

『忠告している側から、要らんことを口走るんじゃない!』


 使い古された格言は、過去に実在した数多の英傑達が、悲願達成の目前で儚く命を散らしたという事例からの教訓であり、まったくもってありがたくないものだ。

 にも拘らず、無自覚に自分からそんな墓穴に飛び込もうとしたユディトを、イヴリーンは一喝していた。


「そ、そんなに怒らなくてもいいじゃないか」

『……誰がそうさせていると思っている?』

「……ハイ、ゴメンナサイ」


 冷たい声色の追求に、ユディトはさっと視線を明後日の方に逸らす。

 合流してからというもの怒鳴られてばかりだが、神器を介して常に傍らに存在し、いつも自分を見つめていてくれる相棒のイヴリーンが怒るのは、こちらの身を案じてくれているからだ。


 それが解っている為か、ユディトも彼女にあえて甘えているという自覚がある。

 少し歪んだ持ちつ持たれつの関係は、二人の絆が強固であることの証であり、こんなやり取りは常日頃から繰り返されている一幕……つまり、決戦を前にして、二人に何ら気負いがないことに他ならなかった。


『まったくお前ときたら……手の施しようのない能天気な性格とは言え、緊張感は常に持っておけと何度言わせれば――』

「大丈夫だよ、イヴ」


 言外にいい加減にしろと語る相棒を半ば遮って、ユディトは改めて眼下を見渡した。


 翠緑と蒼穹が横這いに重なる大地から突き立った塔の先鋒は、遥か上空に呑み込まれていて、その全容が知られることを拒んでいる。

 ユディトの立つ場所から直線的な距離にして相当な隔たりがあるにもかかわらず、遠巻きに一望しても視認しきれない。その偉容がどれだけ常識外れの高さを誇っているのか推して知れるところだろう。


 建造するのに用いられた技術と労力、歳月を思えば感銘の一つを零すことさえ不自然ではない。


「なんだか、天を支えている樹、みたいだねえ」

『ほぅ。ならばあの先には、この世のあらゆる金銀財宝を擁した神なる巨竜が君臨していて、地上の全てを見渡しているとでも? 実にロマン溢れることだな』


〈アンテ=クトゥン〉で広く伝わる童話に準えた皮肉を聞きながら、ユディトは塔を捉える眼差しに力を込めた。


 あの塔より行き着く先に存在するのは、〈アンテ=クトゥン〉を脅かす不倶戴天の敵である。

 永く続いた戦いの日々に終止符を打つ為、それを討ち滅ぼすことを自らに課し、世界中を駆け回ってきたのだ。

 己の心にそう言い聞かせていると、ユディトは胸の底に沸々と熱が兆すのを感じる。それは目指していた場所が眼前に現れたことへの昂揚であり、ずっと大切に抱いてきた希求の灯火が猛っていることに他ならない。


 ユディトは徐に掲げた掌を、遠く地上から空に伸びているきざはしの塔を掴むように重ね、握り締めた。


「もうすぐ、掴めそうなんだ。ずっと求めていたモノが。だから、手放すつもりはないよ。これでも僕は我が儘なつもりだからね」

『知っている。おまけに頑固一徹で意地っ張りで頑なで、意固地な上に執拗で粘着質ときている。まったくもって人生で損をするタイプだな』

「いやいや、それ全部同じ意味じゃないか……と、とにかく! こうして目の前に終着点が現れたんだから、あとは迷わず突き進むだけだよ」


 それは、戦火に身を投じた当初から全く変わらないユディトの姿勢。ただ純粋に、愚直なまでに前だけを見据え、他のあらゆる思惑を跳ね除けてでも初心を貫き通そうとする、強靭な意志の在り方だ。


 何者をも寄せ付けず突き進んだその結果。運命の悪戯と一言で片付けるには随分と悪辣で陰湿な因果によって、あまりにも多くのものを失ってきたが、結局は自らの我欲に従ってきただけなのだから、それを悲しんだり侘しく思う資格など最初からない、と自らに言い聞かせる程である。


 たった一つの命題を改めて自らの中で反芻した双眸には、恐れも迷いも、前へ踏み出す足に躊躇を孕ませる要因など一つもなかった。

 柔和で頼りない印象が潜み、精悍に引き締められた面差しには、願いを果たさんとする気概が満ちており、静かに昂ぶるユディトの意志に呼応してか、胸元を飾る宝珠が陽光を反してキラリと耀く。


『どうやら、熱烈な歓迎があるそうだぞ』

「ありゃ?」


 淡々としたイヴリーンの言葉に導かれるがまま、毅き眼差しで俯瞰する大草海には、いつしか冷たく輝いた鈍色の光の点が集結しつつあった。


 遠巻きに睥睨する限り、光の粒は今にも新緑の草原を覆いつくさんばかりに広がっている。断罪の刃の輝きにも似たそれらは、これから巨塔に攻め入ろうとする自分に向けられた、阻む側の害意の顕現だ。

 それぞれに込められた敵愾と憎悪、畏怖、そして殺意は大地を丸呑みにする大海嘯の如く押し寄せている。


 怨敵を討滅せんとする意志は凄まじく、相当の距離があるにもかかわらず、後ずさりしかねない威圧を覚えるほどだった。


「おおっ、随分と集まったねえ。こっちの居場所なんて既にバレているみたいだよ」

『……あえて見つかるように動いてきたんだろうが』


 実際、ユディトの周囲には大小様々な鉄塊が転がっていた。それらはいずれも外敵の侵入を察知し迎撃する防衛機構であったが、既にすべてがユディトによって破壊され物言わぬ鉄塊と化している。

 だが、防衛機構を無力化したということは、その地点に異常事態が発生した、と敵側に喧伝しているようなもので。


『見つからずに攻め入ることもできたのに、わざわざ真っ向から進むとは面倒な奴だな』

「だってさ。どんな事情があるにせよ、僕がやっていることは相手にとっては正しくない。その現実には真摯でありたいんだよ」

『だから馬鹿正直に真正面から突破する、か……やはり、お前は人生で損をするタイプだな』

「今更、だね」


 言葉とは裏腹に棘の無い声に、ユディトは一つ苦笑した。


 迸る戦意の先陣とも言える烈風が垂直の岩肌を翔け昇り、こちらの覚悟を試すように荒々しく全身を揺さぶってきたが、ユディトに臆した様子は全く見られない。

 空よりも鮮やかに映える外套をはためかせるだけで、しっかりと立ち尽くしたまま悠然と受け流している。


「……全ては世界の平和の為に。この戦いの果てに、これから先も〈アンテ=クトゥン〉がずっと続く為に」


 それだけ追い詰められた世界を本当の意味で救う為には、この手段しかない。

 ただ一つの願いを祈るように小さく零し、ユディトは一歩崖縁に歩み寄る。そして、何時の間にかその手に握られていた漆黒の長剣を緩やかに薙いだ。


「さあて、往こうかイヴ」

『ああ。これが我らの――』

「――僕達の、最後の戦いだ!」


 双眸に強い耀きを宿したユディトが勇ましく決然と言い放ち、更に一歩前に踏み出す。

 この戦いの先にいつか訪れるだろう、輝ける平和を見据えたまま。

 ユディトは躊躇なく断崖絶壁から飛び降りた。

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