第4話 side - E
お嬢様、と呼ぶ声がして、わたしは顔を上げました。
この家に『お嬢様』は三人いますが、実際にそう呼ばれているのは末娘のわたしだけです。だからお嬢様と呼ばれるなら、それはわたし。
「――はい。ここにいるわ。なあに?」
少しだけ声を張り上げると、わたしを呼んだ声の主は、驚いたように小さく飛び上がりました。可笑しかったのだけど、笑い声が漏れてしまわないように、そっと口元に手を当てます。
「お嬢様! どうしてこのようなところに……いけません、ここは使用人の入るところですよ。もうお茶の時間ですし、どうかここからお出になってください」
きっと今日のお茶の準備をしてくれていたのでしょう。
慌てた顔でわたしのところまでやって来たのは、赤毛とそばかすが愛らしい、長年連れ添ってきたわたしの世話係、カロリーナ。
歳の頃はわたしより一つ二つ上で、この屋敷に来た時、もう随分とわたしより背が伸びていました。けれど姉というよりは友のように育ち、気心の知れた仲です。
「食器を見ていたの。うちに木の杯や器があったなんて、わたし知らなくて」
「それは私たち使用人が使うんです。お嬢様や旦那様には絶対にお出しできないものですし、お目に触れることはまずないかと……じゃなくて! 必要のないものですよ、エミリお嬢様!」
ここは厨房の隣の部屋。厨房の中とも、廊下とも扉で繋がっていて、大きな棚が置いてあります。常温でも長持ちする食材と、あとは食器が保管されていて、カロリーナが必要ないと言ったように、普段は決して入らないような場所です。
だからわたしのことを探させてしまったのでしょう。
ごめんなさいと言うべきなのに、彼女の慌て方が大げさでなんだか可笑しくなってしまって。
笑いを堪え切れずに肩を揺らすと、彼女はすっかり怒って、しゃがみ込んでいたわたしをさっさと立たせてから、部屋の外へと追い出してしまいます。
「もう! 最近のお嬢様はずっとこうです! 使用人の思いも付かないところにいらっしゃって、私たちをびっくりさせてばかり!」
「ふふっ、うふふ……ごめんなさい、屋敷の探検をしているのよ」
「お嬢様のお屋敷なのに!」
そうねと応じながら息を整えると、わたしと同じように笑っている気配を感じました。それが嬉しくて、また少しだけ笑ってしまいそうになります。
「さ、カロリーナ、お茶の時間なんでしょう? 今日はお姉様かお母様はいらっしゃったかしら」
「ああ……いえ、お三方とも、人にお会いになると仰って」
「じゃ、今日のお茶の相手はカロリーナ、あなただわ」
恐れ入ります。と頭を下げたカロリーナの声が少し弾んでいるのが聞き取れました。わたしとお茶ができることを喜んでくれているのです。わたしたち『主人』と、同じ――高価な――ものを口にできることを。
普通は使用人と同じ食卓を囲んだりはしないものらしく、お茶の時間もそれが当然らしいのですが、わたしはそうは思いません。
好きな人と、好きなものを食べることの何がいけないのでしょう。
それに、カロリーナと食べる方が、お作法をちょっと間違えたって叱られないので、わたしは好きでした。
これを言うと彼女も怒るので、秘密なんですけれど。
――場所は庭にしましょうねとわたしが笑うと、顔を上げたカロリーナも同じように笑みで応じてくれました。
「それにしたってお嬢様、どうして今更、お屋敷の探検だなんて?」
わたしがお茶に口を付けるのを待ちながら、カロリーナが首を傾けました。
彼女は律儀に、主人より先に従者が食物に口を付けてはいけないという決まりを守っているのです。
「カロリーナ、これはね、すごいことなの。わたし、もう十五を過ぎたでしょう? 随分大人になりました。それで気付いたの。
屋敷の中をたくさん歩き回っていた小さな頃と比べて、目線が高くなって、色んなものが小さく見えるようになって――世界の見え方が、なんだか変わったのじゃないかしら、って」
その気持ちは本当です。屋敷の探検を始めてから、知っていると思っていたはずのことや物も、知っていたかたちとは違っていたり、記憶とは印象が異なったり。たくさんの発見がありました。
「それでね、大きくなってお目付け役もいないから、昔よりずっと色んなところに入り込めてしまうのよ!」
「それであんなところにいらっしゃったんですね……」
カロリーナが呆れたように言って、ようやくカップに口を付けます。(もっと熱いうちに飲めばよいのにとわたしは思うのですが、これは彼女の自身の決まりですから、できるだけわたしが早く飲んであげる方がきっと良いのでしょう)
使用人たちに必要だけれどわたしたち主人には必要がない、という部屋には、小さな頃は入れてもらえませんでした。
勿論、理由は『ここは用のない部屋だから』です。
小さな頃のわたしは、いつかこの部屋に用を作って入ってみせると思っていたような気がするのですが、大きくなるにつれて、それを忘れていってしまいました。
自分には必要のない部屋だと、確かにわたしも思っていたのでしょう。
そこにあるのに、まるで見えていないように素通りしてしまう部屋が――わたしは自分の住んでいる屋敷だというのに、まだたくさんあるのです。
そんな失われた童心とも言うべきものを、この探検は思い出させてくれました。
初めは自分自身のためというわけではなかったのですが、気づけば、わたしも楽しいから、行く。そういう日課になっています。
だから感謝しているのです。
「――……ね、カロリーナ? これからわたしの言うことを、何にも言わないで聞いてくれる?」
「ど、どうしたんです、お嬢様」
焼き菓子を齧っていたカロリーナが、半ばうろたえて構えました。
確かに、普段わたしは深刻な悩みなんてちっとも持っていなくて、他者に相談するようなことも、三つ編みが上手くできないのだとか、そういった小さな事柄ばかりです。
そんなわたしがちょっと真剣に、いかにも秘密の話をしますよという調子で話を振ったから、きっと緊張してしまったのでしょう。
でも、これは確かにちょっぴり深刻で、わたしにとっては重大な秘密です。
「わたしね……最近、いつもそばに妖精さんがいるのよ」
「……。……は?」
その妖精さんがわたしのところにやって来たのは、突然のことでした。
ある朝、目が覚めたわたしの身体は、既にベッドから起き上がっていたのです。
驚きと戸惑いでわたしが何もできずにいると、わたしの身体は部屋の中をぐるりと見回してから次いで歩き回り、カーテンを、絨毯を、ベッドを、本棚や机をひとつひとつ検分するように眺め回しました。
その間、なんとなく、わたしの身体を動かしているものも戸惑っているのでは、という気がしました。
部屋の外からカロリーナの声がかかって、わたしの身体を動かしていた何かは途端に
「ええ、起きてるわ」
自分の意思できちんと声の出たことに少し驚きました。そしてどうやら先ほどまでわたしを動かしていた者も驚いていて、今はとにかく、状況がわからないのだから落ち着かなくては、と思ったのです。
きっと互いに、状況がわからないのだわ、と。
だから気持ちを落ち着かせるため、一先ず日課を行うことにして、鏡の前へ座ったのです。
そうしたら、どうしたことかその『誰か』はわたしの顔をまじまじと見つめるので、鏡に映っているのはわたし自身のはずなのに、なんだか恥ずかしくなってしまって、目を逸らさずにはいられませんでした。
「それでね、妖精さんはわたしより三つ編みがとっても下手だったのだけど、最近はすぐ上手になってきていて……困っているの。おかしいわ、わたしの方が先に習っていたはずなのに」
「はあ……そう、なのですね」
カロリーナはお茶を飲み、菓子を口に運びながら平静を装っていますが、目を白黒させて、どうしたものかと考えているようです。
けれどもわたしはお構いなしに、妖精さんの話を続けます。
「妖精さんは、わたしたちの文化や土地……とにかく色んなことを知らなかったみたいなの。いつも何にでも興味津々で、わたしよりも妖精さんに先生の授業を受けさせてあげたいくらいよ」
「……お嬢様、お勉強がしたくなくてそう仰っているわけではないですよね?」
「まさか! ……と言いたいところだけど、わたしにだってどうしても興味のないお勉強はあるのよ、カロリーナ」
「お嬢様は贅沢でいらっしゃいます」
唇を尖らせて不平を言うカロリーナのそれはきっと本音なのだと、わたしはわかっていました。
使用人は最低限の教養を身に着けるためある程度の教育を受けますが、彼女たちの本分は『仕える』こと。だからたとえ望んでも、貴族と同じような勉強をさせてもらえることは、ほとんどないのです。
……こういう本音を使用人が言うことは、本来ありません。叱られてしまいますから。
彼女がこうして不平を言ってくれるのは、わたしと彼女が、言ってみれば仲良しだから、ということで、わたしはそのことを、とても嬉しく、誇らしく思うのです。
「ねえカロリーナ、妖精さんのことは、秘密よ。お姉様たちなら笑って聞いてくださるかもしれないけれど、お父様とお母様にお話ししたら、慌ててお医者を呼んでくるかもしれないわ」
「わたくしもお医者を呼ぶべきか、うんと悩みました、エミリお嬢様」
「まあ! ダメよ、秘密なのだから」
わたしが笑うと、カロリーナも笑いました。それからいかにも真剣な様子で「仕方がありませんね」と言って見せるので、ますます笑ってしまいます。
わたしの笑い声と、カロリーナの笑い声と。
そしてわたしの頭の裏側で、妖精さんの笑っている気配がしていました。
初めは戸惑いましたが、今ではなんだか、ずっと一緒にいてくれるお友だちができたようで、心強くさえあります。
お話しはしてくれないけれど、どうやらわたしの言葉はきちんと伝わっていますし、一番初めの日と、そして今は探検の時以外、わたしの身体を勝手に動かしたりすることもありません。
良い妖精さんなのだ、と思います。
……本当はまだ、自分の中に『誰か』のいる感覚には慣れませんし、少し気味悪く思ってしまうところもあります。突然こんなことになって、どうしてわたしが、と思わないこともありません。もしかしたら、わたしが退屈のあまり心に作り出してしまった遊び相手なのではないか、とも。
でも今、妖精さんのおかげで笑っています。一緒に屋敷の探検をして、わたしの周りのことを学び直す日々が、とても楽しいのです。
だからきっと、これは悪いことではない。笑えるのだから、悪いことではない。
そう、思うのです。
「今度は妖精さんと一緒に、馬で遠乗りするのもいいかなって、思っているのよ」
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