Prologue - 2
森の中を走っている。それだけがわたしにわかることで、それ以外はなにも理解できませんでした。
わたしの目の奥を焼くように支配するのは、炎、炎、炎。赤。炎。炎? あれは本当に、炎だったのかしら。赤。赤。赤。
――赤。
今も背後を振り返れば、あの赤色がわたしを追ってきているのかもしれません。
けれどわたしにそんな勇気はなく、ただ闇雲に、よく知っているはずの屋敷の裏の森をひたすら駆け抜けることしか、できずにいます。
どこを走っているのか、どのくらい走ったのかもわからず、本当にあの恐ろしい光景から遠ざかれているのか、もしかして、わたしの足はそちらへ戻っているのではないかしらとすら思うほど、夕闇が下り、閉ざされつつあった森の景色は見分けがつきません。
「――はあっ。はあ、はっ……」
自分の呼吸がうるさく、心臓の鼓動が耳の奥を満たし、もうすでに足の感覚もよくわからなくなっています。
逃げてくださいというメイドの悲鳴が、脳裏と背筋にこびりついて離れません。
あの時、隠し通路へとわたしの背を強く押した手は一体誰のものだったのでしょうか。あの手の主も、わたしと同じように屋敷の外へと逃れることができたのでしょうか。
「あっ……」
ついに爪先が何かに引っ掛かり、わたしはあえなく地面に転がりました。
両手をつくこともできずに強く打ち付けた胸が痛んで、同時に膝を打ったのか、ひりひりとした熱さが存在を主張します。
湿った土のにおいが鼻腔を満たし、つんと奥を刺激しました。
嗚咽がこぼれそうになって、奥歯をぎゅっと噛み締めましたが、ただ涙の溢れるのは止めることができずに、見る見るうちに視界が歪んでいきます。
こうして一度止まってしまうと、脇目も振らず、時間も体力もわからないまま走り続けたわたしの身体は途端に悲鳴を上げ始めて、もう走りたくない、一歩も動きたくない、と訴えかけてくるようです。
涙が視界を満たしてしまえば、わたしはもうなんだか世界が終わってしまったような気持ちになってしまって、思えば木の幹についたり枝を払ったりした手の平もとても痛くて、どうして嗚咽を堪えようと思ったのかも忘れてしまい、お腹の方から、喉を焼くように熱く、ひりつくような息と声がせり上がってくるのでした。
「うっ……うううっ、うっ……ひ、ひぅっ……」
小さな子どもよりもみっともなく、悲鳴と呼ぶにはあまりに弱弱しく、唇から溢れるようにこぼれた声は、わたし自身でも聞いたことのないようなもの。
寝間着の裾が汚れることも、手の平がざらついて痛むことも、呼吸がしづらくて苦しいことも、心臓の音があまりにうるさいことも、やっぱり足の痛むことも、何もかも思い出してしまえばただつらくて、立ち上がろうという気力すら湧いてきません。
ただ、どうして、と言葉にならない声が、わたしの口から漏れ出たような気がしました。
赤ん坊のように泣きじゃくるわたしの歪んだ視界の隅で、わたしの手が動いたのが見えました。
土を掻くようにもがき、力がこもり、痛む身体をなんとか起こそうとする動作。
――ここで止まっちゃダメだ。
わたしの脳裏に、頭の裏側に、そんな声が流れたように、思えました。
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