3・5 安穏めいあん
文芸部に、柔らかい手つきでノートパソコンを操作する人物がいた。テーブルには偽造誓約書の束が置かれている。かちかちと指先が踊ると、『米家初夏の偽造誓約書事件に関する報告書』と文字列が浮かんできた。
画面を見つめる物憂げな表情。
さらに指が動き、『1.事件概要』というタイトルが吐きだされた。
かちかち。
『5月10日』
かちかち。
『米家初夏の提案により、品近社は女子ラクロス部のマネージャーとして潜入調査を開始する』
かちかち。
『状況証拠は米家初夏が犯人であることを示唆していた』
かちかち。
『ただし、米家初夏には真相の
勢いよく画面が黒く染まっていく。
が、それとは対照的に、彼女の表情は停滞していた。
「どうして品近さんの同行を許可したのでしょうか。嫌がらせを継続できないばかりか、自作自演がばれてしまうかもしれないのに」
品近社がボディガードを提案したとき、女子ラクロス部のマネージャーとして引き入れたのは、米家初夏その人。嫌がらせを理由にして例外措置を狙うには、
――ありがとう、社君――
喫茶店での風景が、祭門部の脳裏をよぎる。品近社を見つめるその目は、明らかに恋に落ちているそれだった。部室で事情を聞いたときとは、まるで別人。
「……好き、だったのよね」
彼女の脳は答えをはじきだしていた。
自作自演がばれるかもしれない。でも品近社とは一緒にいたい。
あまりにも純粋で無邪気で浅薄で計画性がない。偽造「事件」と呼ぶことすら
「潜入調査など頼まなければ」
彼女は後悔していた。
米家初夏と品近社がどうなるか。火を見るより明らかだったはずだ。
恋色エクリチュールなどどこ吹く風で、ただ例外措置を求めて、努力し続ける品近社。
ラクロスしか知らず、恋愛は恋色エクリチュールに頼りっきりの、不器用な米家初夏。
彼女が偽造を重ねたところで一方通行なのは変わらない。かりに
かちかち。
『なお生徒会による処分は不要だと思われる。かりに処分が必要であるとすれば、女子ラクロスや部活動協議会への影響力に鑑み、反省文相当が望ましいであろう』
「詳細は品近さんからの報告を聞いてからですね」
かちり、と入力を終えた。
「……忌まわしい。こんなものがあるから」
その視線の先には、無造作に置かれた偽造誓約書があった。
□■
「そもさん」
夕刻。自宅への帰り道。
アスファルトが夕焼けによって照らされていた。自分の影が地面に伸びあがっている。
「品近、そもさん」
そこにもう1本の影が寄り添ってきた。返事してよ、と悪態が追いかけてくる。
「……お前ん
「元気ないね。シスコンで訴えられたの?」
影がひょこひょこと近寄ってきて、俺のものに重なり1本の影になる。
「ならスパッツ? もしかして米家先輩にいたずらしたの?」
「……んなわけないだろ」
じり、と影を踏みつけるように歩きだそうとした。
「なんでそんな言いかたするわけ」
が、すぐに腕をとられ、その場に縫いつけられてしまう。
「お前には関係ない」
「そんなの話してみないと分かんないじゃない」
「ないもんはないんだよ」
「米家先輩と何かあったんでしょ。その気もないのに告白されたとか」
「なっ……」
素子を振り向けない。
「それくらい分かるよ、米家先輩を見てたら。品近が落ち込んでるのだって、すぐ分かった。茜さんがいなくなったときと同じだもん」
「どうして、今その話をすんだよ!」
俺は腕を振りほどいて、振り返った。
素子が待っていた。背後から夕日を浴びていて、その瞳だけが輝いている。
「品近の気持ち、当ててあげよーか?」
「お前なんかに分か――」
「――俺は、世界でいっちばん不幸なんだよっ! だから俺はかわいそうな男なんだ! さっさと慰めろよ全人類と神様、こんなにも傷ついているんだぞ――じゃない? 何それ、くっそばかじゃん」
素子の
「忘れちゃった? またそんな顔したら殴るって。吐くまで殴りつけるって。それが嫌なら話を聞かせてって。私と約束したじゃんか」
思いだしたくもない。
姉ちゃんがいなくなった中学3年の記憶。みっともなく
それで花園学園に探しに行こうって、だから受験勉強も頑張ろうって。
――私も行くから――
素子に慰められるなんて人生最大の汚点だ。
「……すまん素子」
「聞ーこーえーまーせーんー。大きな声でどーぞー」
素子は耳に手を当てて、聞こえない振りをした。
「お……、俺が悪かったよ! ちゃんと話すから! 聞いてくださいお願いします幼馴染み様!」
「はーい、よくできました」
「くそっ……」
俺は、米家さんとのことを説明することにした。
彼女が事件の真犯人で、その決着をつけるために2人だけで話をしたって。その前に彼女から告白されていたが、その場で断ったことを。
「米家先輩のこと好きだったの?」
不意に素子が聞いてきた。
「……気持ちは揺れた」
「へえ、そ」
「と、思う。けど関係ない」
「関係、ないんだ」
「惹かれていたって記名するつもりはなかった」
「なんで」
「恋に落ちるって、そういうことじゃない。ラクロスとか、退学とか、誓約書とか、傷つけたくないとか、求められたから記名するとか、そういうのは全部違うって思うんだ。だからしたくなかった」
「ふうん」
「それに俺には、心に決めた人がいる」
「うーわ、気持ち悪っ!」
すると素子は正拳突きを放ってきた。拳がみぞおちに食い込む。ちょっとだけ痛い。
「おい、話が違うだろ。ちゃんと話せば殴られないって約束じゃねえか」
「品近・スパッツ・社が、お姉ちゃんお姉ちゃんってうるさいからだよ。ばーか」
「何も言ってねえし。あとミドルネームみたいにスパッツとか言うな。ハーフか」
「ふーんだ、ふーん。ばーかばーか」
「ばかって言う奴がばかだからな。ばーか」
「へへーん、ばーかって言う奴がばーか、って言う奴が本物のばーかだもん」
素子は、そっぽを向いてしまう。
「素子、そもさん」
俺はすぐさま禅問答を挟んだ。
「え? 何?」
「そもさんと言ったら、言うことがあるだろ。そもさん」
「ええと、せ、せっぱ」
「今日は素子のおかげで助かった」
「……別に、いいし……」
素子はもじもじし始めた。俺はその
「勝手に
素子は抵抗しなかった。
だって痛いはずがないからな。手加減したんだし。
「か弱い振りして乙女のつもりか? でかいし強いし、料理下手くそだし、靴下は片一方だけなくすし、アイロンはかけられないし、無理に決まってんだろ」
かぁっ、と素子の頬が染まる。
「女子ラクロス部のマネージャー? ちっさいし弱いし、
「うるせえな、ほっとけよ」
「もう女子でいいじゃん。お化粧とかしてみたら」
「ああ、お前がな」
「お家でめそめそ泣けばいいし。うわ、恥ずかしい」
「言われなくてもそうするさ」
それからも素子は悪態を突き続けた。俺が自分の家に着くまで。
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