3・4 深層かいじょう

「偽造誓約書に共通点があったんです。男子は全員体育系の部活に所属して、しかも部長や副部長ばかり。そのうえ部室はどれも女子ラクロス部に近いところでした」


 喫茶店に雑談する声が漂ってくる。

 コーヒーやケーキの甘い香りも混じっていた。


「酷いな、そんな理由で疑うなんて」

「俺だって共通点がそれだけだったら笑います。ただの偶然じゃないかって」

「じゃあ、なんで――」「――偶然が1つだけじゃないからです」


 米家さんは冷めきった紅茶を飲んだ。

 カップから口を離し、どういうことなのと聞いてくる。


「部長は最初から疑っていたみたいです。直筆の偽造サインが、なぜあれほどの完成度なのかって。ただの嫌がらせにしては手が込んでいる。もしかしたら直筆でないといけない理由があったんじゃないか」


「……知らないよ、そんなこと」

 彼女の声には驚きと不快感が込められていた。


「覚えてますか? 俺と喫茶店に行ったときのこと。嫌がらせが怖くて1人になれないって話をしてくれましたよね」

「もちろん覚えてるけど……」

「実は、部長もそこにいたんです。素子と一緒にちょうど打ち合わせをしていて。たまたま俺たちの様子を見ていました」

「……ふうん」


 米家さんは紅茶カップに口をつけたまま、外のグラウンドを眺める。


「嫌がらせが怖くて1人でいられない。そう言った直後、米家さんは矛盾した行動をしました。俺を置いて喫茶店をでていったんです」


 米家さんはびくっと反応した。そのまま紅茶を飲み干す。


「どうして米家さんは1人で帰ったのか。もしかしたら1人でも大丈夫だと知っていたのでは。だとしたら、なぜ知っているのか――そのとき、ある仮説を思いついたそうです。なら大丈夫に決まっている、と。直筆の偽造サイン。そもそもがだったとすれば辻褄つじつまが合う」


 スプーンに手を伸ばす米家さん。

 すでに砂糖やミルクを入れるべき紅茶はなくなっていた。


「あと、俺がマネージャーになった頃から嫌がらせが止まってます。俺が一緒に行動しているせいで偽造誓約書をけなかったとすれば、ここでも偶然が重なります」

「……紅莉栖が怪しいってのは、どうなったの」


「先輩は犯人じゃありません。米家さんと記名してくれって、俺にお願いをしてきました」

「え、紅莉栖が?」

「はい。米家さんに幸せになって欲しいって」

「…………」


 米家さんは黙り込んでしまった。

 俺はオレンジジュースのグラスを握り、手のひらの温度が奪われるのに任せていた。


「どうしてそんなことするの」


 手のひらから感覚がなくなった頃、ようやく米家さんが口を開いた。「だって意味ないじゃない」と。


「去年の全国大会、幕田まくだ植流えるという3年生が活躍したらしいですね」


 米家さんは息を呑んだ。そして口をきつくつぐむ。


「どんなポジションもこなせる規格外の選手で、花園学園の女子ラクロスを全国に知らしめた。そんな彼女が卒業してしまい、今年は全国大会出場すら危ぶまれている」


 空になったカップを見つめたまま米家さんは動かない。


「成績不振になれば例外措置はだめになる。そうなれば半年後には退学。ラクロスを続けることはできない。でも嫌がらせによる不振であれば続けられる。心の失調は、入学・転学・病欠等の事情に含まれますから」


 俺はグラスから手を離した。

 冷えきった部分に血液が流れ込んでくる。


「これ、俺に預けてください」


 そして、テーブルに置きっぱなしだった誓約書を指で押さえた。


「このサインと偽造のを比較させてください。鑑定すれば白黒がはっきりします」

 俺はそのまま『米家初夏』と書かれた誓約書を引き寄せる。

「いい、そんなのしなくて」


 だが、米家さんは俺の手首を握ってその動きを止めた。


「いいから。どうせ一致するよ。だって私が全部書いたんだし……」

「米家さん……」


 俺が力を抜いても、彼女は握ったままでいる。


「最初は冗談のつもりだった。名前を書いて配ったらどうなるかなって。部活動協議会で知ってる部長とか、適当に。面白かったんだ。みんなすぐ記名しちゃうから」


 彼女はその手に力を込めた。


「あとは祭門部さんの推理どおりだよ。嫌がらせを理由にすればいいって途中で気づいて。けど文芸部が調査するようになって、話がどんどん大きくなっていって、どうしようって……」

「……記名相手を探そうとは考えなかったんですか?」


 米家さんはゆっくり首を振った。

 私にはラクロスしかないから、とつぶやく。


「女子っぽいこと分からないし、思いつかなかった。私は恋愛じゃ勝負にすらならないから」

「そうですか……」


 喫茶店は静寂に包まれていた。

 客はいるし、店員もいる。ただ音だけがない。


「さっき社君、言ってたよね。恋に落ちるのは自然なことだって。だから校則はいらないんだって」

「はい……」

「私には分からない、かな……。自然に恋に落ちるって、どういう感情なのか……」


 米家さんの声がにじみだす。


「私が不自然だったからいけなかったの? それとも名前を書いてもらうことしか考えてないから?」

「……分かりません」

「何がだめだったの? 私、頑張るから、ちゃんと直すから。この事件のことだって反省しているし、責任だってとる」


 彼女は、俺の手首ごと誓約書を握る。


「だからお願い、社君……」

 そのまま俺の前までスライドさせてきた。


 目の前には、緊張で震えている彼女の手。そこに収められた記名ずみの誓約書。ここで書くことだってできる。部長はああ言っていたが、米家さんが責任をとって、あらためて俺が記名相手になることは変じゃない。けど。


「…………すみません、俺は……、書けません」


 俺は米家さんの手に、もう片方の手を乗せ、ゆっくりと誓約書を押し戻した。

 彼女からすすり泣く声が聞こえてくる。俺は怖くて顔をあげられない。ただじっと彼女の手を見つめるまま。


「校則なんてなければいいってことなの? でもそんなの無理だよ。会話の仕方もデートの仕方も分からなかったのに。誓約書がなかったら、私たち赤の他人のままだったんだよ。社君は大丈夫だから、マニュアルなんていらないからって、そんな言いかたするの、酷い……」

「……米家さん」



「社君なんか、好きになるんじゃなかった」

 思わず見上げた彼女の顔には、大粒の涙が流れていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る