2・3 隷属ドミネイション

「しなち、そこ」


 女子ラクロス部の部室。

 彼女は、座ったパイプ椅子の背もたれに抱きつきながら、俺に指圧する場所を指定する。


「あのおっぱいの子って、しなちの彼女じゃなかったんだね」

「素子のことですか? 違いますって」

「なんか、ふぅーんって感じ」


 俺が親指を食い込ませると、彼女から吐息がこぼれてきた。


 この部員は紅莉栖くりすひかり先輩。米家さんと同級生で、ここの副部長をしている。髪は染めていて、いつもふんわりしている。メイクは欠かさずスカートもちゃんと(?)短い。ラクロスだけじゃなく恋愛も、という珍しいタイプの人物だ。


 マネージャーになって1週間。


 俺は部員の顔と名前、趣味や性格を覚え始めていた。部員も、俺のことをマネージャーとして扱いだしている。毎日、通いつめたおかげだ。


「嫌いじゃないなら記名しとけば? あとで書き換えられるんだし」

「……そんなことしたら素子が嫌がりますよ」

「大丈夫だって。にしてれば、好きになっちゃうから」


 紅莉栖先輩は、人差し指を指揮者のタクトのように動かしながら言った。

 恋色こいいろエクリチュールは全部で7条からなり、それぞれに下位条項が定められている。



2 恋愛関係は、所定の段階を踏まえながら進められる。



 たとえばこれは第2条にあたるが、それを補足する次のような条文があるのだ。



2・1 接触は、言語的接触から身体的接触へと移行する。


2・1・1 言語的接触とは、挨拶・依頼・お礼・報告・忠告・愚痴・共感など、物理的に接触することなく行われる種々の言語行為を指す。文字・アイコンタクト・ジェスチャーといった手段も含まれる。


2・1・2 身体的接触とは、相手の身体に対して、直接的・間接的に加圧する身体行為を指す。



 まずは挨拶をして仲良くなって、その次に触れなさい、ということだ。もっと後続の条文にはシチュエーション別に、どのような言葉をかけて、どんな触れかたが望ましいかまで書かれてある。当然、授業でも教わるし実技練習だってある。先輩の「校則どおり」とはこのことだ。


「もしおっぱいの子がだめなら、私にしとく?」


 リズミカルに動き続けていたタクトは静止し、先輩自身を指差した。


「先輩はもう記名してるでしょ」

「しなちの言いかた、なんか冷たい」


 先輩の人差し指が力なくうなだれた。


「そういえば、なんですが」


 俺は話題を変える。「ここに行方不明になった人がいるらしいんですけど、知りませんか?」


「んー、それって文芸部の七不思議だよね。よく分かんない、あんま興味なくてさ」

「そうですか」


 俺は、姉ちゃんについて、少しずつ聞いて歩いていた。1年星組や女子ラクロス部の人間からかんばしい返事が返ってきたことはない。


「紅莉栖? まだ?」


 すると米家さんが、部室に入ってきた。みんなが紅莉栖をグラウンドで待っていると説明する。


「はぁーい、ごめんなさぁーい」


 気の抜けた炭酸水のような返事をする先輩。「早くね」と部室をでていく米家さん。先輩はゆっくり椅子から立ちあがり、ロッカーからアイガードとクロスを取りだす。


「初夏は真面目すぎるよね」


 アイガードをおでこにはめると、おどけて身体を震わせた。

 女子ラクロス部での米家さんに対する評価は一致していた。とにかく真面目。練習は手を抜かない。どの部員とも仲がいい。他人の悪口は言わない。遅刻はしない。宿題は忘れない。笑顔は絶やさない。弱音をいているところも見たことがない。


「初夏がライバルか」


 先輩はアイガードを装着し、天井を見上げる。


「紅莉栖先輩は米家さんといい勝負じゃないですか」

「そっちじゃないってば。しなちの争奪戦だよ」


 まだその話は続いてたのか。俺は両肩を落とした。


「そんな反応しないでよー」


 先輩はクロスを脇に挟んだまま、俺の背中をぽんとたたくと、「行ってくるね」と出口へ向かう。


「初夏には、つい意地悪したくなっちゃうんだよね」


 先輩は扉に手をかけ、そうつぶやくと、部屋をでていった。

 アイガードのしたにある先輩の表情はおどけてないように見えた。



 □■



「ごめんね、意地悪しちゃって」


 テーブルを挟んだ向かい側。米家さんが頭をさげてくる。


「気にしてないっていうか、米家さんに言われるまで気づきませんでしたし」


 俺は注文していたオレンジジュースを口にする。米家さんも紅茶を飲んだ。


 放課後の喫茶店。

 練習終わりに米家さんに声をかけられた。話があるから付き合って欲しいと。


 店内は茶色と白を基調としたデザインであり、木目調のテーブルや革張りのソファがしつらえられ、くつろげる空間だった。窓からはさっきまで一緒に練習していたグラウンドが見えている。


「ほんとごめんなさい。紅莉栖はああいうところがあるから。悪気はないんだけど」

「大丈夫です。マネージャーは楽しいですから」

「ううん。私がしっかりしなきゃだよ。社君には無理して来てもらっているんだし」


 米家さんはまた謝ってきた。

 どれくらい謝罪とそのフォローが続いただろう。米家さんの口から「社君がそう言うなら」という台詞がでてくるまで、オレンジジュースと紅茶は減り続けた。


「あ、せっかくだから、調査結果を」


 俺は話を切りだす。


 女子ラクロス部ですごしてみたが、米家さんの悪口を聞くようなことはなく、むしろ真面目な部長として尊敬している部員ばかりだったと、俺は説明した。米家さんは恥ずかしそうにして返事に困っていた。


「ただ、疑わしい人物がいないわけじゃないです」


 米家さんは不安そうな上目遣いで見てくる。


 さっきまで話題だった紅莉栖先輩。米家さんを真面目すぎると評し、それこそ意地悪したくなると言っていた。


「紅莉栖先輩にかぎって、とは思いますが、万が一ってこともありますから」


 俺は米家さんに心当たりがあるかどうか聞いた。

 すると彼女は、ためらいながらも、喧嘩けんかしたことがあると教えてくれた。去年の3月に行われた女子ラクロスの全国大会。とある作戦について意見が割れたのだという。結局、米家さんの意見が採用されて試合には勝った。


「でも、そんなことくらいで」


 米家さんは自分でも半信半疑のようだった。


「紅莉栖先輩が犯人である可能性を潰しておきたいんです。そうすれば調査が進みますから」


 俺が先輩を疑っていないことが分かると、米家さんはほっとした表情を見せた。


「あとは俺に任せて、米家さんはいつもどおりにしてくれれば」

「う、うん」


 彼女はぎこちなく頷いた。


 報告の切れ目。俺は携帯で時刻を確認する。すでに19:00をすぎていた。ずいぶんと長話をしていたらしい。


「じゃあ米家さん。また明日」と俺は席を立とうとする。

「あ、社君。あのね」と、米家さんは俺を呼び止めた。


 言い忘れたことがあるのだろうか。俺はソファに座り直し、米家さんの言葉を待つ。だが彼女はしゃべらない。紅茶の水面みなもを見つめたまま。


「……私、不安なの」


 米家さんはようやく口を開いた。


「今のところ嫌がらせは落ち着いてるけど、また始まるかもって……」


 うっかりしていた。

 米家さんは嫌がらせの被害者で、加害者は学内にいる可能性が高い。今だって決して安全なわけじゃない。嫌がらせがエスカレートする危険だってあるのだから。


 俺の仕事はマネージャーじゃなくてボディガード。調査をしつつ依頼人を守るためにいる。彼女を置いて帰ろうとするのは間違いだった。


「安心してください。事件が解決するまで一緒ですから」


 俺はテーブルに手をついて身を乗りだした。


「ありがとう、社君」


 米家さんは俺の手を握る。

 白と黒のコントラストのはっきりした鎖骨辺りが、ゆったりとした制服のせいであらわになった。慌てて離れようとすると、米家さんはその手に力を込めてきた。俺をそこにとどめようとするかのように。心臓が壊れそうなくらい強く鼓動する。


「あっ、えっと、ちゅ、注文してっ、いいですか!?」

「え、注文って――」

「――すいませーん!」


 俺は勢いよく手をかざした。強引に彼女を引き離す。

 店員さんにオレンジジュースをもう1杯注文すると、米家さんも紅茶を追加した。俺と米家さんはソフトドリンクを飲みきるため、さらに30分ほど時間を潰す。


「社君、今日はありがとう」

 そして米家さんは喫茶店をあとにしていった。

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