新釈 マッチ売りの少女

淺羽一

【新釈 マッチ売りの少女】

新釈 マッチ売りの少女

 空からはしんしんと雪が降り、吐き出す息さえ凍ってしまいそうな寒い夜、しかしそれでも街を行き交う人々の顔には温かな笑みが浮かんでいました。なぜなら、今日はクリスマス‐イヴです。家では美味しいワインと豪華な食事を前に、可愛らしい子供達が一年で一番行儀良い態度で彼らの帰りを待ってくれているのです。いっそ街道を行く馬車の馬さえ、仕事が終われば特別にご褒美の人参を貰えるかも知れないと期待している風です。

 けれど、そんな街全体がそわそわとしているような中にもかかわらず、たった一人だけ、みんなとはまるで異なる雰囲気を纏っている少女がいました。少女はうっすらと雪の積もる冷たい煉瓦道の上に裸足で立ち、急ぎ足で進む人々に向かって、片手に提げたバスケットからマッチを取り出し「マッチはいかがですか。蝋燭を灯す為のマッチはいかがですか」と必死に呼び掛けていました。

 だけど、残念ながら立ち止まってくれる人は皆無でした。それどころか、無視されるだけならばまだマシな方で、酷い人になると少女が近付くだけで「寄らないで頂戴。今からパーティなのに、せっかくのドレスが汚れるじゃないの」と慌てたり怒ったりしました。

 それでも少女はくじけることなく、小さな手足を真っ赤に腫らしながら、一所懸命に「マッチはいかがですか。暖炉に火を焚く為のマッチはいかがですか」とマッチを売り歩きました。

 しかし、どれだけ頑張ろうとも一向にマッチは売れません。それもそのはず、だって今日は待ちに待ったクリスマス‐イヴなのですから。食卓を照らす蝋燭や家族を温める暖炉の準備をしておきながら、肝心のマッチを忘れてしまっている人なんているはずがありません。

「あぁ、困ったわ。誰もマッチを買ってくれない」

 寒さと空腹で今にも倒れてしまいそうな体を必死に支え、少女は徐々に人通りが減っていく街の中を歩き続けました。

 「このままだと、家で寝ている病気のお母さんに、ワインの一杯も飲ませて上げられない。ケーキの一欠片も食べさせて上げられない」。少女は家で待っているお母さんのことを思い出し、せめて一箱だけでも良いからマッチを売りたいと願いました。

 少女は病に伏せっているお母さんと二人で暮らしていました。お父さんはとても困った人で、少女が幼い頃からお酒を飲んでは暴れてを繰り返した挙げ句、ある日ふらっと彼女たちを置いて家を出てしまったきり、今ではもう何処にいるのかも定かでありませんでした。だから少女の家はとても貧しく、薬もろくに買えない環境でお母さんの体が良くなるはずもなく、二人は少女が懸命に稼いでくる微々たるお金で辛うじて最低限度の生活を送れていると言う有様でした。

「マッチはいかがですか。どうか、マッチを買って下さい」

 少女は泣きそうになる気持ちを堪えてマッチを売り続けました。せっかくのクリスマス‐イヴです、決して贅沢は言わないけれど、ほんの僅かで良いから普段よりも上等な料理をお母さんと一緒に楽しみたくて、少女は徐々に人通りの少なくなりつつある街をそれでも諦めずに歩き回ります。

 だけどいよいよ時間も遅くなってきて、しばらくすると人影はほとんど見かけられなくなってしまいました。そうして遂に、雪の降る中を歩いているのは少女ただ一人だけになってしまいました。

「困ったわ。これじゃあもうマッチなんて売れやしない」

 そう呟いた途端、少女は立っている事が急にもの凄く辛くなってきて、思わず近くの家の軒先に腰を下ろしてしまいました。そこには、きっとその家の人が用意したのでしょう、沢山の色鮮やかな紙や布、木などで飾られたもみの木が立っていて、少女の頭のすぐ上にまで伸びている枝が、彼女を冷たい雪から守ってくれました。

 少女はしばらくの間、そこでかじかんだ両手に息を吐きかけたり、凍えきって氷みたいになってしまった爪先をさすったりしながら、まだ人の残っている所はあるだろうかと考えました。

 と、その時です、そんな少女の耳に、不意に楽しげな歌声が届いてきました。声は家の中から聞こえていました。

 あまりと言えば愉快そうな響きに、少女は何とか細い足で重たくなった体を持ち上げ、窓の端からそっと室内の様子を窺いました。

 温かそうな光に満たされたそこでは、笑顔で豪華な夕食を囲んでいる家族が、明るい聖歌を歌っていました。しかもテーブルの真ん中には、大きなケーキも載っていました。

 少女はその幸せそうな光景を前にして、どうして真面目に生きている自分やお母さんはこんなにも辛く苦しい思いをしているのだろうかと、羨ましくなるよりも先に悲しくなってしまいました。

 家の中にいる子供達は綺麗な洋服を着て、ぴかぴかの靴を履いて、両手に銀のナイフとフォークを握っています。少女はぼろぼろの服を一枚、凍えた裸足は擦り切れて、持っているものと言ったって売れ残った安物のマッチくらいしかありません。

 少女は窓から顔を離してまた座り込むと、これからどうしようかと途方に暮れました。

 煌びやかに彩られたクリスマス‐ツリーのおかげで雪だけは避けられているものの、肌を切るような冷風は絶え間なく小柄な少女から温度を奪い去っていきます。

「あぁ、とても寒い。せめてほんの少しの間だけでも、私も暖炉に当たりたいわ」

 少女は膝を抱き、背中を丸め、出来る限り体を小さくして何とか寒さを凌ごうとしました。もうマッチを売ることは諦めなければならないでしょう。だけど、少女の疲れ切った体では、この雪の中を家までたどり着けるかどうか分かりません。事実、少女は「お家に帰りたい」と呟きながらも、一向に立ち上がる気配を見せませんでした。

 その内、気温はさらに下がってきて、風が吹くたびに氷の糸を織って作られた布を体に巻き付けられているような感じがするほどでした。

 少女は遂に泣き出してしまいました。けれど涙は瞳から溢れた途端に凍ってしまって、ちゃんとこぼれてさえもくれません。まつげにこびりついた涙の結晶を、少女は何度も何度も手の甲でぬぐって落としました。その間も、背後の壁の向こうからは楽しそうな声が聞こえていました。

 と、そこでまた風が強く吹いてきて、少女は思わず小さく悲鳴を上げてしまいました。このままでは、遠からず少女は凍えて死んでしまうかも知れません。

 だけど、そんな少女の目にあるものが飛び込んできました。売れ残ったマッチでした。

 少女はいけないと思いました。けれど、あまりの寒さに、我慢することが出来ませんでした。

「一本だけ。ほんの一本だけ」

 少女は自らに言い聞かせる風にそう繰り返しながら、かじかんで上手く動かない指を使って、マッチを一本、箱から取り出して火を付けました。

 するとどうでしょう、小さいながらも明るい光が生まれて、少女は体だけでなく心までゆっくりと溶かされていくような温もりを感じました。

 しかし、些細な火はあっという間に消えてしまって、すぐに厳しい寒さが少女を襲いました。

「後一本、後一本だけだから」

 再び、少女はマッチを擦りました。また柔らかな火が少女の手の中で生まれました。

 少女はちょっとでも長く火を保たせようと、小さな手でそれを包み込み、体ごと顔を寄せて風から守ろうとしました。

 その直後、不思議な事が起こりました。何と、少女が覗いたマッチの火の中に、それはそれは豪華な料理の数々が浮かんできたのです。

 「まぁ、何て美味しそうなのかしら」。少女は束の間、寒さも空腹も忘れて、その幻に意識を奪われてしまいました。

 けれど、やっぱり火はすぐに消えてしまい、それと一緒に料理の幻も失われてしまいました。

 少女は楽しくなっていました。「最後に一本だけ。もうこれでおしまいだから」。そう言いながら新しいマッチで火を付けると、今度はきらきらと輝く美しい洋服や新品の靴が火の中に現れました。それでもじきに、火は儚く消えてしまいます。

 少女はいつの間にか止まらなくなっていました。短い幻想が散るたびに、新しい幻想を生んでは、その素晴らしさに笑みを浮かべました。マッチは一本、二本、一箱と、どんどん無くなっていきました。

 やがて遂に、少女が持っているマッチは最後の一箱を残すばかりとなってしまいました。

 少女は思いました。もしも、残ったマッチの全部に同時に火を付ければ、それまでよりももっと長い間、幸せな夢を見られるかも知れないと。

 そして少女は、小さな手一杯にマッチの束を握りしめて、火を付けました。

 その途端、まるで太陽でも生まれたみたいに明るい光が生まれて、立派な炎が暗く冷たい世界に色を与えました。

 炎は消えてしまうどころか、どんどんと大きくなり、しばらくすると少女の頭も越えて、いつしか辺り一面を真昼のように照らし出しました。

 果たして、それはやはり単なる幻想だったのでしょうか。ただ、仮にそうであったとしても、少女は心から感動していました。寒さなんて、ちっとも感じませんでした。

 少女はしばらくの間、天空へと続く階段でも見上げる風に、その炎を眺めていました。遠くでは、「大変だ、ツリーが燃えているぞ」と大人達が騒いでいましたが、少女の耳には届いていませんでした。「飾りの紙や布が燃えているんだ。早く消さないと火事になるぞ」。

 いつしか、通りには大勢の人々が集まってきていました。その頃には、少女もようやく我に返っていましたが、売り物のマッチは一本もありませんから、少女にはもう帰ることしか出来ませんでした。ただ、疲れはどこかへと綺麗に消え去ってしまっていました。

 少女は空のバスケットを提げて、突如としてやかましくなった街の中を静かに歩いていきました。周りにいる大人達は、やっぱり少女の事なんて見向きもしませんでした。

 と、少女は急に足を止めました。おそらく、街に出ている誰かの家でしょう、開けっ放しになっている扉の奥に、とても美味しそうな夕食が並んでいました。

 少女は勿論、そんなことはいけない事だと分かっていました。だから心の中に家で待ってくれているだろう母の姿を思い浮かべ、一刻も早く帰りたいと思いました。そんな彼女の想いを無視して勝手に動いていたのは、満足に栄養も与えられていない体でした。

 気付けば少女はバスケットの中に詰め込めるだけの食べ物やワイン、さらには高価な銀器を詰め込んで、冷たい道の上を無我夢中で走っていました。それは、少女がお母さんと二人でクリスマス‐イヴの夜を祝うのに十分な量でした。

「待っていてね、お母さん。すぐに帰るから」

 愛しいお母さんの待つ家へと駆け戻る少女の足跡は、静かに降り積もる雪がそっと消してくれていました。


〈了〉

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