ごくたまにいる天才タイプ

 東大は90%の秀才を輩出し、京大は1%の天才を生み出す。

 なんてことをどこかで聞いたことがあるけど(ごめんソースは忘れた)、そんな東大でもたまに天才タイプはいる。


“天才”。

 こうやって書けばたった7画の簡単な文字。

 Wikipediaには「人の努力では至らないレベルの才能を秘めた人物を指す」とある。

 そんな“天才”について、筆者がいまでも覚えているくらい印象に残っているのは二人いる。



 一人は教養学部(後期)の数理科学コースにいたとき。(数学科と思ってもらっていいよ。)

 ゼミでは十人くらいで一冊の本を輪読りんどくするんだけど、そいつが講釈をする番になると、他のみんなはもう何を言っているのか理解できない。

 説明が下手なわけではなくて、論理展開があまりにも速くかつ独特すぎて、ついていけない。

 筆者はそのとき初めて“人の努力では至らないレベルの才能”ってやつを見せつけられた。それまでは、多少の向き不向きはあっても努力すれば人間大抵のことはできるでしょ、って楽観的に考えていたけど、そういう甘っちょろい考えを粉々にしてくれた。

 筆者が文転したきっかけの一つがこれ。


 ただね、惜しむらくは、そいつは全く外国語ができなかった。ついでに言うなら日本語もおぼつかなかった。

 よく入試を突破できたなって不思議に思うくらい。(当時は後期日程試験っていう科目数の少ない試験があったから、おそらくそっちで入学したのだと思う。)

 英語も第二外国語も必修科目なので、単位を落とすと進級できない。

 だから……本当に残念なことに留年してしまった。

 正直、ここに東大(というか大学)のシステムの限界があると思う。

 ああいうヤツが数学者にならずして、誰がなるんだっていうね……。



 もう一人は文学部思想文化学科にいたとき。(哲学とか倫理学とかそういうのね。)

 通常の講義では全然目立ってなかったのに、卒論の準備でテーマ発表をしたときに頭角を現した。


 思想系の学科は自分の思想体系を語るものって、たまに勘違いされるんだけど、実はそうじゃなくて、昔の思想家(西洋だとカントとヘーゲルが断然多い)の書いたものを自分なりに解釈して論文にするのね。で、自分の関心のある1冊を選んで、そこからテーマを決めて卒論を書く。

 とはいえ、学生の解釈なんて知れたものだから、卒論中間発表ではボロクソに言われるのが常識だった。

 でもね、そいつの解釈は担当教官もうなるくらい斬新かつ魅力があったらしくて(“らしい”というのは自分には内容を理解できなかったから……)、教官も文句の付けようがなく、そいつだけは大絶賛されていた。


 こっちは人当たりも良かったし、他の科目の成績も問題なく、無事に大学院に進学した。

 なお、学科内で大学院に合格したのは、その年はそいつ一人だけ。(ちなみに筆者も受けた。)

 彼は一つだけ障害を持っていたけど、それをものともせずに突き進んだ。

 いま改めて名前を検索してみたら、どこかの大学の研究者になっていた。ちゃんと順当に進んだんだなあ。



 東大では珍しい(と勝手に筆者が思っている)“天才”二人のお話でした。

 こういうステータス極振り系の人って、東大よりは京大の方が多いんじゃないかなあ。

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