二〇一〇年五月一日 青山ー新宿

第17話 悲しい夢なんか見ない

 いくにつれて、学校も通えるようになったし、中学では体育会系の部活にも入った。剣道部だよ。意外? 少ないながらも、人間の友達もできた。一緒にアニメ見たり、漫画を読んだりするような友達。

 そうして、どんどん大人になって、今はもう成長から衰退への曲線に差し掛かってるわけだ。え? いやあ、ほんと、色んなものが衰えちゃったよ。これからもっと老いるんだろうけど。まだ、君にはわからないかな。

 でも、僕は、あかのことを忘れたことはなかった。はじめての友達のことを。

 そして、君のことも。わかってる。四歳の頃から、ずっとわかっている。

 僕の愛しい木霊。頭の中の壁に思いをぶつけては受け取って、またその壁に投げつけて。永遠のひとりキャッチボール。

 今は、毎日が忙しい。求めなくても、手を伸ばせばすぐ隣の席に同僚がいる。呼ばなくても電話がかかってくる、メールが押し寄せてくる。君に、会いたいと思う心がつぶれてしまう。

 中野さん、君に会いたい、会いたい、会いたい、知ってるよ、君はついに学外のライブに出たんだろ。バックステージパス、誇らしげだね。部室ですっぽんを飼ってるんだってね、アニメ版の話だけどさ。コミックスでは、さわちゃん先生が何か買ってくれるっていう話、ないものね。

 北海道へ出立する二〇〇九年九月十九日、携帯電話の電波がうまく拾えない首都高のトンネルの中で、不意に、ああ、誰かと一緒に行けたらよかったのに。そう思った時、君はもう、羽田空港のロビーで僕を待ちわびていた。一人の冴えたさみしさと、北海道の大気が、何十年かぶりの友達を呼び寄せた。また、この雑多な東京に帰ってきて、僕がいくら呼んでも、君はいない。ダメなんだ、心のそこからさみしい、君しかいない、って願わなければ。今の僕は、願う力すら弱っている。

 前を見てごらん、ほら、小さなステージ。一緒に北海道で聞いたあの人が、ギターを弾いて歌うよ。旅の途中、かえりみち、君が好きだと言ってくれた歌の数々。

 ねえ、中野さん、中野さん、どうして隣にいないんだ。僕の隣の席が空いているよ。その席のチケットは僕の鞄の中だ。君の席なんだよ、中野さん。中野さん、中野さん、君の声が聞こえない。君の気配が感じられない。君はどこに行ったの。

 ライブが終わって、僕はふらふらと歩きだした。外苑前から神宮方向へ。ライブから受けた大きな熱を持て余している。新宿のなじみの店で飲んで帰ろう、だって、僕は一人だから。

 携帯電話を見るとバッテリの残量がほとんどなかった。それでも病的なまでの習慣として、インターネットに繋げて『電池切れるなう』と打ち込んだところで、バッテリは綺麗になくなり、僕は時刻すらわからなくなった。

 いつだって携帯片手に歩いている。時刻を見る、計算をする、電車の乗り換えを調べる、誰かとやり取りをする、空白を埋める。この小さな月額六千円の機械がありとあらゆる余白を奪っていく。素晴らしい装置だ。

 車用の青い案内標識を見つめながら、真っ直ぐに通りを進む。合っているはず。だけど確認する術がない。奥まった公園では、帽子を斜に被った男の子たちがジャッジャッと威嚇的な音を立ててスケートボードに興じている。酔った学生の一群が歩道一杯に広がって歩いている。言葉をよく聞けば、どこの国のものともつかない。

 駅までの道のりが恐ろしいほどに長い。時間はどれほど経っているんだ。開いている店なんて一軒もない。早く駅へ駆け込みたい。そこには落ち着いた灯りと時計がある。

 富良野の薄くらい国道を悠然と歩いた僕が、煌々と白熱灯の並んだ東京の国道を怯えながら行く。シャツの裾が破けているのを隠して歩いているような心許なさ。ふわふわする。

 ようやく青山一丁目駅を見つけて潜り込む。白い灯り、白い壁。地下鉄の生ぬるい風と香り。乗り込んだ地下鉄が動き出して、やっと息を吐き出せた。

 息を吸って、吐いて、三駅過ぎて新宿駅。深い位置にある大江戸線、南口方向へ回る。粛々と歩を進める。エスカレータに乗る。みんな不安を希釈するように携帯電話を眺めている。僕もポケットを探って黒い端末を取り出して、電源が切れていることを確認して、また仕舞う。

 一人を持て余している。誰のためでもないつぶやきが出来ないつまらない不安。白い踊り場が少しずつ見えてくる。

 そこに。

 揺れる黒髪が見えた。人ごみの中からいち早く僕を見つけ出して、そっと小さく手を振っている。僕も、小さく振りかえす。プロトコルが確立された。今、目の前にシャツワンピースを着た、彼女が立っている。今、ここにいる。ここにいる。

 エスカレータが終わったなー、と、ほっとしたと思ったら、それはただの踊り場で、また一本エスカレータが待ってるって、ひどいトラップだと思うんだよ。エスカレータって、ただでさえ、不安な感じがするだろ。

「終わりが見えない、すっごく長いエスカレータのほうがこわいです」

 ああ、都営新宿線とか、地獄へ降りていくのかと思うくらい長いね。新しい地下鉄ができればできるほど、深いところに線路を作らなくちゃいけない。エスカレータもその度長くなる。新宿あたりの地下ってどうなってるんだろう。誰か断面を見せてくれないかな。

 踊り場の壁によりかかって、ぐるぐるとエスカレータを乗り換える人の流れを見ている。隣にいる彼女も、なんとはなしにその様子を見ている。直接見なくても気配でわかる。

 久しぶり。

「久しぶり……になるんでしょうか」

 そうだよ、久しぶりだよ。どう、最近。

「そうですね……ああ、二年生になりました」

 知ってる。

「知ってるんだったら聞かないでください」

 そう、ふくれないでよ。今日ね、ライブだったよ。すごく良かった。

「……知ってます」

 そうだよね。

 途切れることのない人。下から絶え間なく現れては、また上へ消えていく。実は、上に行った人はまた下りのエスカレータに乗っていて、なんども同じところをぐるぐる回っていたりして。

 中野さん、そろそろ下の名前を教えてよ。

「じゃあ、あなたのお名前も教えてください」

 それは。

「答えられないでしょう」

 答えてしまったら、何かが壊れてしまう気がする。

「そうです。世界の輪郭をはっきりさせてしまったら、私は、私たちは」

 僕の知っている彼女は『世界の輪郭』なんて言葉使わない。ねえ、君は。

「中野、梓だろう?」

「あなたが、そう思うのなら」

 そうだ、君の名前は、中野梓。桜ヶ丘高校の二年生。軽音部所属。担当楽器はサイドギター。友達は憂と純ちゃん。君は、画面の中にいる、紙の中にいる、ただの薄っぺらな美少女キャラクターに過ぎない。

 知ってる、知ってる、知ってる。あかが、僕の中にしかいなかったように。君も、また。

「ええ、私は、あなたが思う、中野梓です。でも、あなただって、名前がない。二十代の男性のふりをした」

「うん」

 僕は、僕ではない。僕は、私、だ。

「そうだね……中野さん、私は、僕」

「アニメに私はいます。コミックスに私はいます。でも、アニメに私はいません。コミックスに私はいません。私は、二〇〇九年九月に、僕と北海道を旅した、中野、です」

「そう、そうだね」

「私は、誰かが思った数だけ、そこにいます。いつだって、その人のそばにいます」

 強い強い願いの数だけ現れる、無数の中野さんたち。中野さんだけじゃない、あらゆる媒体、あらゆる思いから派生して生まれる、「彼女と僕」の影絵。

「私たちが忘れることはありません。忘れられさえしなければ、いつだって」

 そうだ。彼女たちを薄れさせるのは、僕らの責だ。次々に現れる新しい女の子はいつだってみんな可愛い。僕だって、中野さんの前は誰に思いを寄せていた?

 目の前を行く人の流れに、二重写しのようにもうひとつの人の群れが重なっていた。色とりどりの少女たち。スモッグを着たゆのっち、ひきこもりになってしまった澪、セーラー服に赤い眼鏡のミク、己にそっくりな子供を抱いて笑う大河、よく見ると首輪をつけているみのり、かがみと恥ずかしそうに手をつないで去るこなた、ケーキの箱を抱えているヒロさん、快活な綾並、空に帰らなかった観鈴……。

 みんな、誰かの見た夢だ。無限に連なる二次元と三次元の万華鏡。僕たちは、けして、悲しい夢なんか見ない。

 僕が一歩踏み出すと、彼女たちの姿は消えた。きっと、誰かの世界の中に帰ったのだろう。僕は、僕だけの少女に別れの手を振る。

「中野さん、また、会おうね」

 呼んでくれれば、いつだって。

 けして耳には聞こえぬ、声が応えた。

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