二〇〇九年九月二十二日 釧路ー網走

第8話 中野さんと釧網本線

 て釧路から網走を目指す。

「人でいっぱいですね」

「釧路湿原や知床に行くんだろうね」

 旅行四日目、クロスシートの向かいの中野さんの目が少し重そうだ。僕も身体の表面に疲れが浮いている感じがする。曇り空。今日は二人とも、ぼんやりと窓の外を眺めている。キハ54のエンジン音。心地よい振動。ディーゼル車はこうでなくちゃ。

 釧路を離れて湿原に差し掛かった頃、

「あ」

 小さく中野さんが声をあげた。僕はさっとカメラを構え、クロスシートに同乗した人々も窓に視線を走らせる。

「カヌーです!」

 中野さん以外の三人の間に、はっきりと「動物じゃないのかよ!」 という意志の交流があった。

「カヌー……珍しい?」

「うん、乗ってみたいです、素敵です!」

 彼女が女の子らしいうっとりとした表情を見せる。たしか、塘路駅界隈で湿原のカヌー体験ができるとガイドで読んだ。僕が、こんな、鈍行だけで北海道を巡る旅なんかにしなければ。北海道ツアーの追っかけをする、なんて思わなければ。

「ごめん、ね。中野さん。僕がこんな旅の行程を組んだから。特急を使うとか……ライブの数を減らすとかすれば、もっと、北海道らしい、観光とか、たくさんできたのに……」

「そういう旅行だって、私がついてくる前から、決まっていたはずですよね?」

 それはそうだけど。でも、中野さんが来るなら、僕はもっと柔軟に旅程を変えるべきだったんじゃないのか。

「夜のピクニック、少しは読みました?」

「あんまり進んでない」

 今回、列車で退屈した用にお互いに本を貸し合っていた。この旅行で読んでほしい本。僕からは内田百閒の「阿房列車」を、彼女からは恩田陸の「夜のピクニック」。

「ネタバレじゃあないんで言いますけど。あの本にはこういう台詞があるんです」

『みんなで夜歩く。ただそれだけのことがどうしてこんなに特別なんだろうね』

 私にとって、この旅行がまさしくそうでした、と彼女が言う。

「初日から時間ぎりぎりまで道に迷った札幌の苗穂、暗い道続きでほんとは怖かった富良野、昨日の釧路は目の前にお店があるのに最後まで気がつかなくてぐるぐる迷って。毎日不安でした。けれど」

 音楽を求めて、知らない街を歩く。こんな特別なこと、歩行祭でだって、ないです。

 だから、どんな観光地より思い出深くて、大切な体験なんです。

 彼女の一生懸命な言葉を聞いているうちに、不意に、じわりと涙が湧いてきた。慌てて横を向く。ガタゴトと快調に列車は走る。窓の外の湿原がゆるゆる流れていく。

「それなら、良いけどさ」

「でも、今日で、おしまい、ですけどね」

 ああ、そうだ。今日でライブはおしまい、千秋楽だ。おしまい、という言葉がひたひたと胸を打つ。一旦は引っ込んだ涙が、また顔を覗かせる。

「あ、バンビです!」

「鹿だろ!」

 かみ殺し切れない同乗の旅人たちの笑い声が、今はありがたかった。

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