第13話 中村寿々子【後編】

●真之助視点




「申し訳……ございませんでした」


 喉元にかんざしを強く押しあてると、すっかり血の気が引いた唇から、思ったよりもずっと素直な声が発せられた。


「もうまことさんに近づくような真似はいたしません。お約束いたします」


 その言葉に嘘は見つからなかった。私の怒りはやわらぎ、生前の悪い癖と一緒に簪を引っ込める。


 そもそも私の目的は真の安全の保障が第一であり、寿々子すずこさんを怯えさせることではない。


 真を殺そうとしたことは許せないが、私が真を守りたいように、寿々子さんも成瀬さんを守りたかっただけなのだ。


『お付き人を守るために手段は選ばない』


 その粗暴なやり方は守護霊として正しい判断かと問われれば、百人中百人が誤りだと答えるだろう。しかし、守護霊であれば、誰もが一度や二度はお付き人を守る上で、道義に反する心境に陥るのは起こりえることだった。実行するかしないか、掟を破るか否かは別として、寿々子さんに賛同を示すものもいるはずだ。私にもまったく理解できないわけではなかった。


 ところが、恐怖の対象を遠ざけたにも関わらず、寿々子さんの震えはますます激しくなるばかりだった。


「ごめんなさい、お許しくださいませ。ごめんなさい」


 と湧き出る涙を前にして、ようやく、もうひとつの答えが浮上し、私は慌てて身を引いた。


「寿々子さんは自刃したわけじゃないね。まさか──」


「わたくしは無頼のやからどもの狼藉ろうぜきに合い、死にました」


 自分の至らなさに恥ずかしさが込み上げ、顔が火を噴くようだった。


 寿々子さんは両手で顔を覆って、ときに嗚咽を交えながら、生前について話してくれた。


 幕末、小さな藩の※上士の娘として生まれた彼女は、幼い頃から風に当たれば熱を出すほど病弱だったらしいが、年頃になり縁談の話がいくつか持ち上がったあるとき、これまでとは比べものにならない大病を患ったそうだ。


 ※上士……身分の高い武士。


 じわりじわりと命を削るその病は、当時伝染すると信じられていたため、周囲からの偏見や差別を恐れた両親が「寿々子は長崎に留学した」と嘘をつき、長いこと屋敷の離れに隔離した。その間、彼女は暗い部屋の中、ひとり涙を流して過ごしていたという。


 しかし、絶望に打ちひしがれていた彼女にもいつしか小さな光が見え始める。花菖蒲はなしょうぶが届くようになったのだ。送り主は縁談の話が持ち上がった男のうちのひとりだった。


「最初はなぜ花菖蒲なのかと首を捻っておりましたが、花菖蒲の『勝武』の響きから戦勝祈願のげんを担いだ、『病に打ち勝つ』という強いメッセージだと気がついてからは内に熱い力がみなぎるのを感じました」


 花菖蒲の験担ぎのお陰か、病は奇跡的に寛解へ向った。その頃には三十代に差し掛かっていたという。


 そして、男から結婚の約束として簪、櫛、手鏡を贈られたとき、幸せの絶頂にいた寿々子さんを再び絶望へと突き落す出来事が起こった。


 戊辰戦争が勃発し、彼女の藩は新政府軍と戦うことになったのだ。


 寿々子さんは戦へ赴く男に、自分の身代わりとして連れて行って欲しいと戦勝祈願を込めて手鏡を手渡したのだが、男から思わぬ言葉が返ってきた。


「一緒に逃げよう」と、時代の混乱に乗じて駆け落ちを持ちかけられたのだ。


 その場ですぐに答えが出せず、返事保留のまま迎えた約束の日、戦況は悪化し、藩は持ちこたえることなく、あっという間に落城してしまった。


「『自刃なさい』との母上のめいに背き、力の限り逃げました。わたくしを離れに閉じ込めた両親への復讐もございましたし、何よりそのときの愚かなわたくしは彼を信じておりましたから、はやる気持ちを抑えながら、約束の場所へ向かいました」


 そこで彼女を待っていたのは新政府軍の無法者たちによる乱暴だった。


 ──藩に間者が潜んでいる。


 その噂を思い出し、裏切られたと気がついたときには遅かった。夫となるはず男はついに現れず、彼女は男たちの下敷きとなって絶命した。


「わたくしは死んでからようやく幸せになれたのですよ。美月の守護霊を拝命し、彼女の成長を見守る。こんな幸せは生前味わったことがございませんでしたから。ところが、百五十年以上が経った今、不成仏霊となったあの男がわたくしの前に現れ、成仏するための案内人として美月を手にかけようとしたのでございます。わたくしは恐怖に打ち震え、代わりの生者を見つけるから時間を貰えないかと頼み込みました」


「そこで私たちに白羽の矢が立った」


 寿々子さんは力なく顎を引いた。


「昨夜の公園で真さんが運命期にあると耳にしました。彼ならば美月に好意を寄せていることも知っておりましたから、喜んで死を受け入れてくれる。そう確信いたしました」


「身勝手な人だ」


「貴方だって美月と真さんを近づけたくて、掟に反すると知りながら、わたくしの話に乗ったのでございましょう?」

 

「チャンスを与えたいと思うのは守護霊だったら当然のことだよ」 


「身勝手なお方」


 寿々子さんは再び花菖蒲の海に身を沈め、武家の娘らしく指を添えて、深々と頭を下げた。


「寿々子の最後のお願いにございます。身勝手とは存じますが、ここは乗りかかった船と思い、もう一度助けてはいただけませんか。何分なにぶん、時間がございません。まもなく、が現れる時刻にございます」


「あやつ? 一体、誰のこと?」


 公園に設置された大時計が五時を回ったとき、駐車場の方向から東屋あずまやへやって来る人物が見えた。


 サラリーマン風の物腰の柔らかそうな男性が成瀬さんに話かけると、寿々子さんの憂いがますます濃くなった。

 

「あやつは美月が昨日から連絡を取り合っている男でございます。名目上はデートをするだけとなっておりますが、それは全くの嘘偽り。あの男からはわたくしを殺した男たちと同族のにおいがいたします。このままでは美月は……」


 そこまで言うと寿々子さんは自分自身を抱きしめるようにして体を押さえ込んだ。


 何者かに体を乗っ取られてしまったかのように、戦慄が全身へ巡り、言うことを聞かないのだ。恐らく、命が果てるときの強い恐怖に支配されてしまったのだろう。


 成瀬さんの元へ駆けつけようにも最早足腰が立たず、這うようにして私の足元まで辿り着くのが精一杯の様子だった。両腕を私の足に絡ませ縋りつくと、悲鳴のような声を上げた。


何卒なにとぞ、何卒、美月をあの者からお助けくださいませ!」


「貴女が守らずに誰が守るというんだ。しっかりしろ、寿々子さん!」


 私は叱責した。


 本来あってはならないことだが、私たち守護霊が守護に失敗する要因のひとつに、生前の弱点が挙げられることがある。


 


 一、過去に捕らわれるようなことがあってはならない。



 

 守護霊界の掟で禁じられているようにトラウマが任務遂行の邪魔になるということだ。

 

 例えば、生前、馬に蹴り殺された守護霊は乗り物が苦手だったり、火事で焼け死んだものは火が苦手だったり、戦で命を落としたものは刃物が苦手であったり、そんな具合に、守護霊は自分の死因と近い状況に遭遇したとき、心に負った傷のため、存分に力を発揮できず、お付き人を命の危険にさらしてしまう可能性が高まるのだ。

 

 幽霊の中でも気高い守護霊でさえ、容易に捕らわれてしまう生前の記憶とは一種の呪縛のようなもので、プロならばどんなときもお付き人を守りたいという気持ちが恐怖心を上回っていなければならない。


「クソッ」


 他人のお付き人と関わりを持つことは掟で禁じられているため、私は成瀬さんを助けることができない。歯がゆさが突き上がり、太股に拳を叩き込んだとき、予想外のことが起こった。


「おい、おっさん!」


 真がサラリーマン風の男に食って掛かったのだ。まだまだ子供だと思っていたのに真の剣幕は大切な女性を守ろうとする頼もしい勇者そのもので、圧倒された男は尻尾を巻くようにして逃げ去った。私は誇らしさで胸がいっぱいになる。


「真さんのお陰で美月が窮地を脱しました。ありがとうございます……」


 寿々子さんは幼い少女のように泣きじゃくった。


 しかし、そうそう安堵の余韻に浸る余裕もない。成瀬さんが立ち去る素振りを見せたため、寿々子さんの手を取って立ち上がらせた。


 ずっと私の手中にあった簪を髪に戻してやると、寿々子さんはまなじりを下げ、ぎこちなくはにかんだ。彼女本来の美しい笑顔だった。


「では、もう行きます」


「じゃあ、また明日。学校で」


 私も自然と笑みを返したそのとき──。




 ……シャン。




 遥か遠くから音がした。


 成瀬さんが真の頬を張った音かと思ったが違う。


 耳を澄ますとその音は次第に大きくなっていった。




 シャン、シャン、シャン……。




 ゆっくりとリズムを刻むその音が、錫杖しゃくじょうが地面を突く音だと気がついたときには背中に不気味な虫が這い上るかのような不快感が走った。


 今まで隣にいたはずの寿々子さんの姿はすでになく、遠ざかる錫杖の音を追って視線を走らせると、五十メートルほど前方で私に助けを求め、手を伸ばしている。


 必死に泳いでも泳いでも抵抗虚しく底無し沼に沈んでいくかのような苦しげな形相が私を捉える。


「イヤッ。美月から離れたくない、こんなところで終わりたくない。真之助様、助けて!!!」


 寿々子さんの周囲には彼女を取り囲むように錫杖を手にした五人の山伏たちが輪をなしていた。彼らの前では檻の中に入れられたも同然、抗うことすらできない。


 私は彼らを知っている──。

 

 そこからは瞬く間の出来事だった。


 境界線を引くかのように強い風が駆け抜けた。風は寿々子さんと山伏たちの輪郭を陽炎のように揺らしたかと思えば、彼女たちを跡形もなく消し去った。


 そして、入れ替わるようにしてひとりの女性が現れた。


 彼女は私になど目もくれず、サラリーマン風の男を追う成瀬さんに続いた。


 彼女は寿々子さんの後任者だ。


 明日から学校で彼女と顔を突き合わすことになるのだろう。恐らく、今日のように言葉を交わすこともなければ、協力を仰がれることもない。守護霊同士の正当なあり方が築かれるはずだ。


「寿々子さんは掟を破ったから、守護霊界の使者に連行されてしまったんだ。彼女はこれからおさに厳しい罰を与えられる」


 先ほどから背後に感じていた気配に声を投げた。


「どうして彼女を頼ったの?」


 振り返ると、青白い顔をした黒装束の男が表情もなく佇んでいる。


「貴方たちの過去についてあれこれ言うつもりはないけれど、こうなったのも貴方が成瀬さんに憑こうとしたのがすべての原因だ。寿々子さんはもう昔の寿々子さんじゃなかったんだ。守護霊として新しい人生を生き直していたのに、貴方が彼女の幸せを壊した」


 虚ろな視点は焦点を結ばずに寿々子さんの消え去った方向を見つめ続けている。


 不成仏霊の彼は何を感じているのだろうか。反省か悔恨か、それとも成仏できぬ己の身を案じているのか。


 彼のはだけた胸元から深い銃創が見えたが、私には関係のない話だったから、同情も深追いもしなかった。


「今後、真や成瀬さんに近づいたら、私が絶対に許さないよ」


 花菖蒲が描かれた手鏡を突き返すと、不成仏霊は姿を消した。


 きっと、彼はこれからもこの世をさ迷い続けるのだろう。生者の中からあの世への案内人を探し出し、成仏できる日が来るまで。


 不意に声をかけられた気がして振り返ると、花菖蒲が風に揺れていた。


 色とりどりの蝶たちが佳麗に舞うかのようなその花は寿々子さんとよく似ていた。

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