第10話 氷の軍曹

 黒の乗用車がエントランスに停まったのが見えた。運転席から三田村さんが手招きしている。

 

 後部座席へ乗り込むと、助手席にパンツスーツ姿の女性が座っていた。

 

 二十代前半くらいの、まだ少女のあどけなさを残した可愛らしい顔立ちの彼女は三田村さんのバディで「安藤」と名乗った。

 

 少年課の藤木さんとの取り引きで名前が上がった女性だ。

 

 スイカに塩をかけると甘さが増すように、化粧っ気のない澄まし顔にほんのり色づくピンクの唇が驚くほど愛らしい。刑事課に咲く可憐な一輪の花に違いない。

 

 安藤さんの可愛らしい容姿に、危うくときめきや憧憬にも似た感情が芽生えそうになったが、移り変わりやすい秋の空模様よりも速やかに、その気持ちを取り下げることになる。

 

「三田村サン。彼、小学生ですか?」

 

 オレは初めて小学生に間違われたショックで言葉を失う。制服を着ているのに小学生はありえない。


 安藤さんに本気とも冗談ともつかない顔で訊ねられた三田村さんは、さすがに失礼だと思ったようで、部下の罪を隠蔽するかのように、「安藤は復帰したばかりだから、ちょっと調子が出ないんだ。嘘をつけないハッキリした性格だけれど、悪いやつではないから許してやってくれよ」とフォローにもならない曖昧な言葉を発する始末だ。

 

 それから、気まずい空気を感じ取った三田村さんは話題を逸らそうとしたのか、安藤さんに新たな話を振る。

 

「キミさ、今頃になってやって来たけれど、黒川さんの事情聴取のあと、仕事をサボってどこに行っていたの? 頼んでおいた書類整理はやってくれた?」

 

「あの」


 三田村さんの声が車内に吸い込まれてから充分すぎる時間が経った後、安藤さんはぽつりと言った。


「たったひとりの部下である私に書類整理を任せるって、上司としてどうなんでしょうか?」

 

 可愛い顔に似合わず、きつい口調で、上司を責め立てる。

 

「だってそれ頼んだの今朝のことだよね」

 

「それでは逆に訊きますが。部下に仕事を押しつけて、その空いた時間はどうするつもりだったんでしょうか? ひとりサボりたかっただけなのでは? 噂によれば、三田村サンは書類整理と調書作成が大嫌いとか。前任の部下には仕事を押し付けて、喫煙所でスマホばかりいじっていらしたそうで。それを嘆いて彼は異動願いを提出したと聞いています。新天地で彼は素晴らしい上司に恵まれ、さぞ喜んでいることでしょうね」

 

「そんな貧乏くじを引いたみたいな言い方しないでよ」

 

「そう言っているんですが、伝わりませんか?」

 

 安藤さんは声を張り上げ、無罪を訴えるかのようにビシッと公言した。

 

「私はサボっているのではなく、そんな三田村サンに仕事をしてもらうために敢えて仕事をしないんです!」

 

「キミさ、サボっていること肯定してるんだけど気づいてる?」

 

「今のはパワハラ発言と受け取ってもいいですか?」

 

 無表情で三田村さんに詰め寄る安藤さんを前にして、

 

「氷の軍曹みたいだね」

 

 そう呟いた怨霊男の言葉がぴったりと当てはまり、オレは笑いを堪える。

 

 新人教育の任に当たる軍曹が身も凍るような指導を与えているようで、三田村さんと安藤さんのどちらが上司で部下なのか、上下関係がわからなくなる。

 

 無精ひげの口元を引きつらせる三田村さんは、扱いきれなくなった飼い犬に怯える情けない飼い主によく似ていた。

 

 刑事課に咲く一輪の花はすっかり冷凍加工され、誰の心も癒してくれそうにない。

 

「それはそうと」

 

 三田村さんに噛みついていた安藤さんが本来軍人としての任務を思い出したかのようにオレに向かって言った。

 

「高校生とは知らなかったとは言え、間違えてしまい、ごめんなさい」

 

 相変わらず無愛想のまま、ショートヘアーの頭を軽く下げた。

 

 オレが気後れしながら頭を上げるように頼むと、安藤さんはすぐに顔を上げた。反省の色どころか感情の欠片も見受けられない冷めた顔だった。

 

「ところでひとつ訊きたいんですが。崎山クンは万引きでもしたんですか?」

 

「違いますよ」

 

 オレは間髪置かずに即答した。

  

 数分後、聖子先生がやって来て、覆面パトカーは発進した。

 

 暮れゆく町並みに視線を流せば、街路樹の青々とした若葉が夕日色に染められ、水を泳ぐ魚たちのように自由に揺らいでいる。

 

 この木々たちはほんの一ヶ月まで、はにかんだ少女の頬のような桜色で満開だった。

 

 桜並木市はその名前の通り、市のシンボルとする木が桜であるから、駅前の大通り、堀端、公園、桜花川の河川敷に至るところまで桜並木が続く。

 

 中には大人が腕を回しても抱きかかえられないほどの古木も街路樹として植えられており、春には美しい桜が見られる観光地として、全国からたくさんの観光客がやって来て賑わうものだ。花が散ってしまえば、後の祭り、現在のように元の静かな街に戻るのだが。


「はああああぁぁぁぁ……」


 怨霊男を挟んで右隣に座る聖子先生が、蒸気機関車の汽笛のように盛大なため息を漏らした。思わずと言った方がいい。ため息のすぐあとに両手で口を押さえていたからだ。取り澄ました顔で大きな咳払いをしてみせても、上書きできるはずもない。

 

 学校への報告と友人Aへの電話がすんだあとだから、大方、先方に何かしら言われたのだろうと察しがついた。恐らく、原因はあいつだろう。

 

「友人Aがどうかしたんですか?」

 

 無視するわけにもいかず訊ねると、聖子先生は観念したように重たそうな口を開いた。


「実は芦屋あしや君、今日に限ってのことではなく毎日電話をかけてくるのよ。もちろん私は出ないけど。でも、いいチャンスだと思って、『心配してくれるのはありがたいけれど、何度も電話しないで』と伝えたら、彼、何て言ったと思う?」


「さあ」


「『照・れ・屋・さ・ん』」

 

 鬱々とした感情が聖子先生の声にしみ出している。


 友人Aが聖子先生からの電話に浮かれ、ひとり楽しげに笑っている様子が脳裏に浮かぶようだ。友人Aの気の毒な勘違いにオレは友達として恥ずかしさと申し訳なさでいっぱいになる。

 

「友人A君はポジティブだね」

 

 怨霊男が心底感心したような声を出した。

 

「今時の高校生は随分マセてるんですね」

 

 運転席の三田村さんが会話に入ってくる。

 

「マセているのではなく、ただのストーカーなのでは?」

 

 冷淡な声で助手席の安藤さんがきっぱりと言った。

 

「俺が高校生の頃は好きな女の子のリコーダーを舐めるくらいの可愛いもんだったよ」

 

「それはただの変態なのでは?」

 

 相変わらず、安藤さんは容赦ない。

 

まこと君もやっただろ? リコーダー」

 

 バックミラー越しに三田村さんと目が合った。

 

「オレは」 

 

 口を開こうとしたとき、聖子先生と安藤さんの視線が気になり始める。


 答えによっては軽蔑されてしまうと思い、咄嗟に「や、やりませんよ、そんなこと普通」と言い直す。

 

「本当は小学校三年生のときに罰ゲームで大好きだった愛ちゃんのリコーダーをやろうとしたんだけれど、先生がやってきて未遂に終わっただけなんだよね」と怨霊男が横から口を挟み、恥ずかしさで顔が上気する。

 

「未遂だってやってないことには間違いないんだからな!」

 

 声を荒げたが、すぐに血液が温度を失ってゆく。怨霊男の言動に反応してしまったことに気付いて、硬直する他なかった。

 

「やっぱりやったんだな」と三人分の冷めた目がオレを捉えた。


 過去の恥を晒すのなら、最初から罪を認めた方が恰好がついたはずだ。みんながいる手前、これ以上怨霊男を怒鳴るにも怒鳴れない。

 

「オレは小学生の頃の話ですよ、しかも未遂。三田村さんは高校生のときに実行しているじゃないですか。オレより重症ですよ」 

 

「どちらも変態に間違いないのでは?」

 

 安藤さんのだめ押しの一言に、オレは空腹の金魚のように口をぱくぱくさせ、頭を抱えた。


 この場に友人Aがいたとしたら、恐らくこう返すに違いない。

 

「変態でもなんでもいいので、是非ともオレを逮捕してください」と。

 

 そして、だらしないほど鼻の下を伸ばして、オレに耳打ちしてくるはずだ。

 

「真は聖子先生と安藤さん、どっちが好みよ?」

 

 肉食系女教師と氷の軍曹はサディスト好きにはしっかり可憐な花に映るのだろうな。

 

 悪いがオレはどちらも願い下げだ。


 しかし、そんな余裕が羨ましくもある。

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