第8話 生徒と教師の××
「聖子先生!」
地獄に仏とは、まさにこのことで、いつもはドS極まりない聖子先生が女神に見えてしまうのだから、精神的に追い込まれた人間が
一度は緩んだ涙腺だが、
「やっぱり崎山君ね」
聖子先生が津波のような圧倒的威圧感で迫って来るのを見れば、涙も恐れをなして引っ込んでしまう。
さらに、いつもならカツカツとヒールの音を引き連れてやって来るはずなのに、フロアは静まり返ったままだから、不気味さも増すばかり。
それもそのはず、聖子先生はラフなシャツに、脚の線が出るぴったりとしたデニムの普段着姿で、足下はヒールのないサンダルなのだ。
友人Aなら有り難がって手を合わせる普段着姿も、オレには意識する余裕などない。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください! やっぱりってどういうことなんですか?」
怒りの
「自分を高校生だと言い張っている中学生が少年課で騒ぎを起こしていると刑事さんから聞いて、真っ先に崎山君のことが思い浮かんで相談したのよ。案の定、崎山君じゃない!」
「どうして、それだけの情報でオレを思い出すんですか!」
聖子先生はオレの質問をスルーして、怒りのボルテージをどんどん上げていく。
「崎山君は自分の置かれている状況が解ってる? こんなところで何をしているの? ここは警察署なのよ? 一体、何があったっていうの? 全部、正直に話しなさい」
完全に
ことの経緯を簡単に説明すると聖子先生は複雑に顔を歪め、額に手を当てた。
「
「そうなんですよ。上野をぶっ飛ばしてくれたことには感謝するけど、あいつはオレを置き去りにして逃げ去った無茶苦茶なやつなんですよ」
多少非難をしてみるけれど、本当は怨霊男に肩を捕まれたせいで、逃げ損ねたとは言えない。
「二人に怪我はなかったようだから安心したけど、絡まれたときはまず周囲に助けを求めることよ。ここは私も一緒に警察の方に説明するから、ちゃんと事情をわかってもらいましょう」
聖子先生の有り難い言葉に、再び後光が差した。
これからは遅刻の回数を減らせるように頑張ってみようと
「ところで、聖子先生こそ、どうして
「わ、わーたしは、そのー……なんというかー」
途端に聖子先生はしどろもどろになった。財布から次々と小銭がこぼれ落ちるような動揺を見せたあと、オレの背後へと視線を移した。
「彼に話しても構わないでしょうか?」
三田村さんを窺う肉食獣の瞳が、今にも消えそうな炎のように頼りなく揺らいだ。
「どうぞ、どうぞ。口外されても捜査には影響ありませんので。さあさあ、黒川さんも
三田村さんがいそいそと給湯室へ向かう姿を一瞥してから、差し向かいでソファーに座ると、やや緊張した面持ちで聖子先生が切り出した。
「実は昨日、通り魔に遭ってしまったの」
まさか、聖子ちゃんが通り魔事件の被害にあったんじゃねえだろうな──。
「嘘、ですよね?」
友人Aと交わした会話が現実のものとなってしまうとは、にわかには信じられず、冗談ではないとわかっていても、つい口をついて出た。
「本当よ。今日、学校を休んだのはそのせいで、今まで事情聴取を受けていたからなの」
聖子先生が左手で押さえている右手首を見れば、真っ白い包帯が巻かれている。
「手、怪我したんですか?」
「逃げるときに手首を捻っただけだから、大したことはないわ。いつも崎山君にチョークを投げて鍛えているせいかしらね」
聖子先生は冗談を交えながら、笑顔を取り繕った。生徒に心配を掛けまいとしているのだ。右手首を軽く振ってみせる。
配布の号外かわら版によると通り魔事件は刃物を使った犯行のはずだった。記事の内容通りであれば、聖子先生は六人目の被害者で、刃物で襲いかかる犯人から逃れる際に転んで負った怪我ということになる。
「周囲に助けを求めなければならなかったのは、オレじゃなくて聖子先生の方じゃないですか」
「お互い様よ。でも、先生は本当に大丈夫なの。病院でも『黒川さんは骨も筋肉も頑丈ですから、他人の三倍の早さで回復しますよ』とお墨付きをもらったくらいなんだから」
聖子先生がいつもより少し高いトーンと早いリズムでお喋りな女子高生のように愉快げに話を続けるから、オレはそれ以上事件の内容に触れられなかった。
何でもない振りを続ける聖子先生に、中途半端な正義感と同情を寄せるのは、被害に遭ったときの恐怖心を呼び覚ましてしまうだけなのだ。
「弾丸チョークができるように早く怪我を治してくださいね」
オレは聖子先生の意地とプライドを尊重して、生徒として
すると、聖子先生は今度こそ緊張の殻を脱ぎ捨てた笑顔を見せ、「そこは心配いらないわ。先生は両利きなの。明日も遅刻したら容赦しませんからね」と左手でチョークを投げる仕草をする。
すっかりドS気質が戻ったことは喜ばしい限りだが、うっかり墓穴を掘ったオレは、掘り下げた穴の中で一生を過ごしたい気分に陥った。
「折り入って、崎山君にお願いがあるの」
話すタイミングを見計らっていたのか、突然、改まって聖子先生が向き直った。
「お願い、ですか」
このタイミングでお願いごととはあまりいい予感はしない。
「崎山君にしか頼めないことなの」
相手は女神の仮面を被った弾丸チョークの聖子先生だ。
先日、同じクラスの
これ以上、面倒ごとはごめんだとファイティングポーズを取ろうとするも、
「オレができることなら何でも言ってください」
口が無責任なことを言い出すものだから、ほとほと自分が嫌になる。
「実はね」と、聖子先生が口を開く。
「学校側から生徒たちの不安を煽らないように今回の事件は秘密にするよう言われているのよ。だから、この件は先生方しか知らないの。崎山君には私の方からクラスのみんなに報告書できるときが来るまで、誰にも話さないで欲しいの。特に芦屋君には」
なるほど。他の誰かに知られても、友人Aにだけは口外するな、ということか。
あいつに知られてしまえば、後々、面倒なことになりかねない。余波は必ずオレにも及ぶだろうし、根掘り葉掘り、しつこくねちねちと訊いてくるのが火を見るより明らかだ。
「もちろん、あいつには絶対に話しませんよ。聖子先生もオレと今日ここで会ったことは誰にも言わないでくださいね。特に友人Aには」
「ええ、言わないわ」
「絶対ですよ」
「ええ、絶対」
「いいね、そういうの。生徒と教師の秘密の共有。禁断の香り」
三田村さんの声と共に、テーブルには三人分の湯飲み茶碗が置かれた。
「煎茶だけに茶化してみました」
「「そういうのは一切要りません」」
自分のギャグにひとり笑う三田村さんをよそに、オレと聖子先生は示し合わせたように声を合わせた。
「俺が淹れるとやっぱ不味いな」
聞き捨てならない呟きを漏らしたが、何事もなかったかのように聖子先生に話を振る。
「そういえば、黒川さんは市立病院で
「ええ、そうですが」
「俺のバディの安藤も一昨日まで市立病院に入院していたんですよ。黒川さんと同じように驚異の回復力だと褒められて退院したんですけどね」
三田村さんは自分の子供を自慢するように得意げだ。
それからオレと聖子先生を交互に見て力強く言った。
「犯人は必ず俺たちが逮捕しますよ」
貧乏神のような頼りない容貌を忘れさせる刑事の声だった。
それを聞いた聖子先生の瞳が涙で潤んだのは、煎茶が不味かったせいではないと思う。
「さぁてと」
三田村さんは仕切り直しだと言うようにオレに視線を投げてよこした。
いよいよ、オレの事情聴取が始まるのだと気を引き締めたとき、予想に反して三田村さんは「そろそろ帰ろうか」と車のキーをクルクルと指で
「ちょうど黒川さんを家まで送るところだったんだ。キミも乗っていくだろう? 覆面パトカーに乗れる機会なんて滅多にないよ」
「オレを家に帰していいんですか? 事情聴取はどうなるんですか?」
「しない、しない。どうせ、若者ありきのただのケンカだろ? 通行人に中学生だと勘違いされてしまったから、話が大事になってしまっただけ。違うかい? ケンカは男子の登竜門だ。キミはあとでパトカーの中でテキトウに経緯を話してくれればいいから」
「はあ」
三田村さんは調書を取るつもりも、詳細を訊ねるつもりもないらしい。
細かいことに頓着しない、言ってみれば面食らってしまうほど
だが、お陰で、オレは窮地を脱することができるのだ。
帰り支度をしようと怨霊男を探したが、刑事課のどこにも姿が見当たらなかった。
短時間のうちに成仏してくれていたらラッキーだなあと、あまり期待しない程度に願う。
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