三章 円やかなるは、心の鏡花 其ノ二
──
本来なら
式の女の他には、辰弥庁の
湯浴みや着替えの手伝いが終わる
湯上がりの
「暑いから、風を送れ」と由衣王に命じられたのだ。
言われた通りに
「そのように青白く
紗良は視線を板敷きに落とした。
気をはっているが、正直なところ、湯浴みの仕事だけでへとへとだった。
「血の気がありませんね、紗良様。やはり地上とこちらでは、大気の
大気の
こちらで借りた衣をまとえば多少は
「村に帰りたいか。もう音を上げるか?」
由衣王が意地悪そうな
「いいえ、神なる君にお仕えすることこそ私の喜びでございます」
紗良は視線を落としたまま答えた。
帰るものか。
「ならもっと、
教養のある身分高い者たちは、相手に表情を知られそうになるとすぐに袖や扇で
もちろん逆に遠ざかる場合もあるが、まずはぶつかってみないとなにも進展しない。
──はしたない行為なんだろうなあ。
たぶん貴人たちにとって、みだりに思いを明らかにするのは
ひょっとして紗良の態度に傷ついたのか。
場の
数名の
「王の方々、貢物の
男官が簀子縁に
式の女たちが嬉しそうに布地を広げる。
手箱のほうには組み
「穀物や薬草、金銀などの財物は先ほど、式の者たちに運ばせました」
紗良は内心、首を
女官の一人が、由衣王に
「白長督に文を返すのでしばらく待て。──梨乃、彼らを厚くもてなせ。それから車の用意も。貢物の半分を礼として辰弥庁へ運べ」
「はい」
彼らの会話に、紗良は内心首を
辰弥庁を通して運ばれたはずの貢物の半分をまたそちらへ返す? だったらはじめから半分だけを運んでもらうほうが手間を省けそうなものなのに。こうしたやりとりを貴人たちはまどろっこしく感じないのか、不思議でならない。
習慣の違いを手間と
彼らの
先ほどの、由衣王の物憂げな顔つきがどうも忘れられないでいるせいか。あれはずるい、常に
「やはり里人も、美しい織物には興味があるのか?」
物欲しげな顔で布地を見ていると誤解されたのかもしれない。紗良は
「どの色がほしい? 紅か、青か」
多々王が色っぽく目を細めて
「どれも
いらない、と
肩に乗っていた白羽が
失敗した。竜の
「
「……は、はい?」
「
多々王が次々と織物を紗良に投げつける。怒った白羽が肩から飛び立ち、
「夏季が終わるまでにだ」
紗良は
「まあ、そのような意地悪をおっしゃいますな」
梨乃が頰を
紗良は
「不服か?」と
「できないという顔だな? では、おまえが死ぬまでには仕上がるのか? 浮き島に
由衣王までもそんな
紗良は無言で耐えた。美しい人たちの考え方は、本当に
それまで眠たげに
「村に帰りたいですか?」
彼の問いも当然、
「私は高貴なる方々にお仕えできてこれ以上なく幸せに感じております」
「生首になってもそんな
小瑠王は笑みを絶やさない。
「昨夜の異形は、元冶古であったと教えてあげたでしょう。あれはかつて多々王の宮で働いていた者です。おまえも異形と化せば、俺が首をねじ切ることになりますね」
彼のあんまりな発言に、梨乃が額を押さえる。
小瑠王はわずかにこちらに身を乗り出し、どこか期待のこもった熱っぽい目をして
「どうです。帰りたくなったでしょう?」
「こちらにお召しいただき、本当に嬉しいのです。高貴なる青紫の君、どうか末永く、私をお使いください」
小瑠王の
思い通りの反応を見せない意固地な紗良が、
その後紗良は、由衣王につき従う形で西の対に向かい、小路へ出た。白羽も
「いま俺が暮らしているのは、
説明を聞きながら、由衣王の背を見つめる。袍は
このあたりの事情が、色目の規定が
「小瑠王が使っているのは
由衣王は
「水が豊富なのは桔梗と春椿の里、曼珠と紅梅の里は花々が多い。とくに秋の曼珠の里は美しい。
「は、はい」
急に振り向かれて、紗良は慌てた。立ち止まった由衣王が閉じた
「言え。他のなにに気を取られていた」
せっかく説明してやっているのに上の空とは何事だ、とその
「はい、その──花の
由衣王は予想外の言葉を耳にしたというように、目を見張った。すぐさま横を向き、閉じたままの扇で顔を
「里人は花をまとわぬのか」
「……
山月府では、花を頭に飾る男性をあまり見たことがない。
「榔月府では位階を持つ者も、
「そうなの? ……ですか?」
驚いて、
彼は前を向き、散策の足取りでゆったりと進み始めた。紗良も従う。
「この流行は、とある皇族が、妻からの
「はあ……」
「それが
「じゃあ宵霧の君も、恋しい方からの花を飾られているのですね」
「なぜ俺が女からの花を飾らねばならない」
いまの流れだとそうとしか思えない。という返事をするのはなんとか
「で、ではどうして……?」
「単に花の
思いがけず
「花飾りの他には、なにがお好きですか」
問いかけたあとで、何度目かわからない
さすがに今度こそ
「なぜそんなことを聞く?」
「え? ただ、花以外にも、竜の方のお好きなものを知りたいと思ったのです」
「──」
由衣王はふたたび前を向いた。しばらく無言だったが、やがて返事がくる。
「さあ。他に好ましいものなど、俺にあるのか」
彼が口にした言葉の意味を考える。この方は、自分がなにを好むのかわからないでいる?
ごまかされたのだとは思えなかった。暗い
迷った末、
「それでしたら、これからたくさんの喜びが待っておりますね」
「どういう意味だ」
「いま好ましいものがなにもないというなら、あとは日ごと、増えるばかりです。あれも好ましく、これもよく、と胸を
由衣王の足が急にとまった。だが彼は、今度は振り向かなかった。またゆっくりとした足取りで進み出す。機嫌を損ねたわけではないようだが、なぜかこの竜を
「……村にいた
「はい!」
元気に返事をしてから、
「いえ、あの、
「なら、帰りたいだろう」
「は──いえ」
「
※試し読み版はここまでです。お読みいただきありがとうございました。続きは製品版でお楽しみください。
竜宮輝夜記 時めきたるは、月の竜王/糸森 環 角川ビーンズ文庫 @beans
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