三章 円やかなるは、心の鏡花 其ノ二




 ──まぎれもなくとうだった。由衣王一人の世話でさえ大変だったのに、時間をおいてぞろぞろと三竜たちも現れる。なぜ他のたいのにある湯屋を使わないのか。紗良は息も絶え絶えになりながら、やんごとなき竜たちをきっちり丸洗いした。とくにかみの長いおうは、かわかす作業もまた大変だった。こちらはちゆうから、世話に慣れた式たちが代わってくれた。

 本来ならこうく者、髪をくしけずる者、衣をえる者と、それぞれ役割分担されているのがつうらしいが、当の竜たちが冶古やにんを増やしたがらない。

 式の女の他には、辰弥庁のかんがお宮をおとずれるという程度。しん殿でんと北の対屋を行き来していたときに彼らとすれ違ったが、こちらは位階を持つ正しい都人の姿というべきだろうか。なんがんも女官も紗良を冷ややかに見るか、ない者としてあつかう。

 湯浴みや着替えの手伝いが終わるころには、身をさいなろうはまた別として、とくしたような晴れやかさすら感じた。紗良自身も全身をらしてしまい、どうしようかと悩んでいたら、それを察した梨乃が新たな衣一式を準備してくれた。なにかと気を配ってくれる梨乃には本当に頭が上がらない。

 湯上がりのりゆうたちが寝殿の南庭に面したひさしすずむあいだに、彼女からお宮での作法や主な仕事内容を聞き出すつもりでいたが、それはかなわぬ夢となった。

「暑いから、風を送れ」と由衣王に命じられたのだ。

 言われた通りにおうぎあおいでいると、由衣王は腹立たしげに口角を曲げた。

「そのように青白くいんな顔を向けられると、俺までゆううつになる」

 紗良は視線を板敷きに落とした。かたの白羽が心配そうに、小さな頭をほおにこすりつけてくる。

 気をはっているが、正直なところ、湯浴みの仕事だけでへとへとだった。まぶたざしたら、そのままねむってしまいそうだ。けれど、いくらなんでも自分がこんなになんじやくなわけがない。

「血の気がありませんね、紗良様。やはり地上とこちらでは、大気のめぐり方がちがうからでしょうか? てんは地上よりも息がしにくいのですよね?」

 つきおうに風を送っていた梨乃がり向き、案じるような表情で言う。

 大気のうすさのせいで頭がぼうっとするのもだるさを招く理由のひとつなのだろうが、それだけじゃないように思える。お宮のきよくたんせいじようさが疲労の主な原因なのではないか。

 こちらで借りた衣をまとえば多少はかんされるが、根本的な解決にはなっていない。

「村に帰りたいか。もう音を上げるか?」

 由衣王が意地悪そうなみを見せて問う。

「いいえ、神なる君にお仕えすることこそ私の喜びでございます」

 紗良は視線を落としたまま答えた。

 帰るものか。いつくばってでもここで長生きする。新しい冶古など選ばせない。

「ならもっと、うれしそうな顔でもしたらどうだ」

 あごつかまれ、顔を上げさせられた。紗良が無理やりにしようを作ると、由衣王は急にげんな表情をかべ、ぱっと手を放してそでで口元をおおう。

 教養のある身分高い者たちは、相手に表情を知られそうになるとすぐに袖や扇でかくしてしまう。紗良にはそれが不思議に思える。心を隠すようなこうに感じられるのだ。笑顔も、おこった顔も、紗良は相手に全部見せてほしい。自身もまた心に浮かぶ思いを相手に差し出す。そうしてたがいのきよを縮めていく。

 もちろん逆に遠ざかる場合もあるが、まずはぶつかってみないとなにも進展しない。

 ──はしたない行為なんだろうなあ。

 たぶん貴人たちにとって、みだりに思いを明らかにするのはけものと変わらぬな所業なのだ。隠す、という所作にめられた奥ゆかしい美しさを、日の下ではつらつと生きてきた里人の紗良にはまだうまく感じ取れずにいる。

 ものげな由衣王の横顔を目のはしでうかがう。せた瞼のつやが一層うれいを引き立てている。

 ひょっとして紗良の態度に傷ついたのか。なぐさめたくなるようなしようどうられたが、口を引き結んでえる。すでに心は村の人々のもとに置いてきた。いまの自分は、たけづつのようにからっぽなのだ。人とすら認めてくれない貴人にくだく心なんて、もう残っていない。

 場のふんがぎこちないものに変わったとき、式の女が、こうもつの到着を告げた。

 数名のによかんを従えた辰弥庁の男官がすのえんの向こうからやってくる。女の手にはいろあざやかな絹織物やまきの手箱が乗せられている。

「王の方々、貢物のあらためを」

 男官が簀子縁にこしを下ろし、いんぎんに言う。女官に目配せして物や手箱を竜たちの前に置く。

 式の女たちが嬉しそうに布地を広げる。かんたんの声が上がった。紅に黄、あいむらさきと、板縁にはなばなしい織物の川が流れる。かつては身分によって着用可能な色、が限定されていたが、その規則はずいぶん緩和された。また、四季に沿った色の衣をまとうことが長らく主流であったのだが、こちらも時代が下るにつれ個人の裁量で様々な重ね方を楽しむようになっている。ただしさんだいの際は、役職によって定められた官服を着用する義務がある。

 手箱のほうには組みひもや石つきの帯留め、かみかざりなどがおさまっていた。どれも上等な飾り物だった。

「穀物や薬草、金銀などの財物は先ほど、式の者たちに運ばせました」

 紗良は内心、首をかしげる。貢物ということは、竜たちもほか同様、しようえんを地上に持つのだろうか。あとで神竜のかんを梨乃に聞こうと思う。

 女官の一人が、由衣王にふみを渡す。折りたたまれている料紙を彼はさっと広げ、目を通す。

「白長督に文を返すのでしばらく待て。──梨乃、彼らを厚くもてなせ。それから車の用意も。貢物の半分を礼として辰弥庁へ運べ」

「はい」

 彼らの会話に、紗良は内心首をひねりっぱなしだった。

 辰弥庁を通して運ばれたはずの貢物の半分をまたそちらへ返す? だったらはじめから半分だけを運んでもらうほうが手間を省けそうなものなのに。こうしたやりとりを貴人たちはまどろっこしく感じないのか、不思議でならない。

 習慣の違いを手間といとわずおもむきがあると感じられるようになれば、ゆうな竜たちからふくみのない笑みを引き出せるのかもしれない。そんな考えがふいに浮かび、紗良はみようあせった。

 彼らのちようがほしいわけじゃないのに、どうして心を求めるような考えに?

 先ほどの、由衣王の物憂げな顔つきがどうも忘れられないでいるせいか。あれはずるい、常におうへいな方だからちょっとさびしげにうつむかれると、落ち着かない気分になるじゃないか。

「やはり里人も、美しい織物には興味があるのか?」

 あかぎくのような色の髪を持つ多々王が、布をつまみながら冷たい口調で問いかけてきた。

 物欲しげな顔で布地を見ていると誤解されたのかもしれない。紗良はあわてて視線をずらした。人でない式の女はやさしい目で紗良を見ているが、官吏らはうとましげな様子を隠そうともしない。とくに女官からはせんぼうねたみがこもっているようなじめついた視線を感じた。

「どの色がほしい? 紅か、青か」

 多々王が色っぽく目を細めてさそうように言う。ためされているのかもしれない、と紗良はけいかいする。ここでけいそつに、ほしいなどと答えたら大変な目にあいそうだ。ずうずうしいとののしられる。

「どれもしような私などにはもったいないものでございます」

 いらない、としんちように伝えたら、どうしたことか、多々王もまた不快と言いたげに顔をしかめる。それは先刻の、由衣王の態度を連想させた。だが多々王はれいこくな表情を作ると、となりの梨乃が手にしていた紅の絹を乱暴に摑み、こちらに投げつけた。

 肩に乗っていた白羽がおどろいたようにつばさをばたつかせる。紗良はとっさに、織物を受けとめるより、白羽をなだめるほうを選んだ。その様子を見た多々王がさらにまゆを寄せる。

 失敗した。竜のなら、自分になつく獣より織物を優先すべきだったのだ。

え」

「……は、はい?」

はかまほう。こいつらの分も」

 多々王が次々と織物を紗良に投げつける。怒った白羽が肩から飛び立ち、こうらんに移動した。

「夏季が終わるまでにだ」

 紗良はがくぜんとした。この量を、秋が訪れるまでに?

「まあ、そのような意地悪をおっしゃいますな」

 梨乃が頰をふくらませ、多々王を軽くにらむ。彼は、ぷいと横を向いた。

 紗良はこんわくしたまま、板縁に広がっている彼のめずらかな色合いの長い髪を見つめた。故意に不可能な仕事を押しつけて打ちえる気なのだろうか。

「不服か?」とたずねてきたのは由衣王だ。

「できないという顔だな? では、おまえが死ぬまでには仕上がるのか? 浮き島にされた冶古はだれもかれも短命だ。持って五年か。一年持たない者も多いが」

 由衣王までもそんなようしやのない言葉を浴びせてくる。

 紗良は無言で耐えた。美しい人たちの考え方は、本当になぞだ。ぜいたくな暮らしをしてなんの不満もなさそうなのに、他者を苦しめることに楽しみをいだす。

 それまで眠たげにきようそくにもたれていたおうが、ぱっちりと目を開け、微笑ほほえんだ。

「村に帰りたいですか?」

 彼の問いも当然、こうていすればなんらかの仕置きが待っているだろう。

「私は高貴なる方々にお仕えできてこれ以上なく幸せに感じております」

「生首になってもそんなうそがつけますか?」

 小瑠王は笑みを絶やさない。こわい方だと思う。由衣王や多々王のほうがまだわかりやすい。

「昨夜の異形は、元冶古であったと教えてあげたでしょう。あれはかつて多々王の宮で働いていた者です。おまえも異形と化せば、俺が首をねじ切ることになりますね」

 彼のあんまりな発言に、梨乃が額を押さえる。

 小瑠王はわずかにこちらに身を乗り出し、どこか期待のこもった熱っぽい目をしてささやいた。

「どうです。帰りたくなったでしょう?」

 りゆうたちはそんなに里人をしいたげたいのか。紗良は内心、がっかりする。

「こちらにお召しいただき、本当に嬉しいのです。高貴なる青紫の君、どうか末永く、私をお使いください」

 小瑠王のうえのきぬの文様がちょうど竜胆りんどうだったのでそう呼ぶ。くもる感情には気づかない振りをして、作り笑いを浮かべると、竜たちはそろって不機嫌な表情を見せた。

 思い通りの反応を見せない意固地な紗良が、にくらしいのかもしれなかった。






 その後紗良は、由衣王につき従う形で西の対に向かい、小路へ出た。白羽もいつしよだ。

 しきを出る前に、梨乃からの短い薙刀なぎなたわたされている。もしかして竜の護衛をしろという意味だろうか。

「いま俺が暮らしているのは、うしとらの方角にある里だ。これをきようの里という。多々王が使っているのはいぬにある里。それをはる椿つばきの里という」

 説明を聞きながら、由衣王の背を見つめる。袍はこめしやの白藍、その下のころもは青と、すずしげな色目だ。ノ《の》くに、というより地上の山月府は寒暖の差が激しいことから土地がよくであり、せんしよくに適した草花や生物がよく育つ。そのため染色技術は他国より数歩も先を進んでいる。わざみがかれれば、しきさいの数も増す。

 このあたりの事情が、色目の規定がかんされた理由のひとつでもあるだろう。

「小瑠王が使っているのはひつじさるにある里。それをまんじゆの里という。月時が使っているのはたつにある里。それをこうばいの里という」

 由衣王はり向きもせず説明を続ける。髪には、組み紐でまとめた白い花の髪飾り。うつの花に似ている。ここまで花の似合う男性というのも珍しい。

「水が豊富なのは桔梗と春椿の里、曼珠と紅梅の里は花々が多い。とくに秋の曼珠の里は美しい。つきやまの周囲には目にあざやかな紅葉もみじが燃え、天から赤い花びらが降り注ぐかのようだ。はながすみならぬくれないがすみの様を楽しめる──聞いているのか?」

「は、はい」

 急に振り向かれて、紗良は慌てた。立ち止まった由衣王が閉じたおうぎの先で自分のあごを軽くたたき、こちらを睨み下ろす。あつかんたっぷりだ。

「言え。他のなにに気を取られていた」

 せっかく説明してやっているのに上の空とは何事だ、とそのひとみは明らかに紗良を責めている。紗良は彼のげんな顔ばかり見ている気がした。

「はい、その──花のかみかざりがよくお似合いだと思いまして」

 由衣王は予想外の言葉を耳にしたというように、目を見張った。すぐさま横を向き、閉じたままの扇で顔をかくすような所作を見せる。

 えんりよに見つめたせいで、不快に思われたのかもしれない。気をつけよう。

「里人は花をまとわぬのか」

「……こんむすめなら、飾ることもあります。あと、祭事のときも」

 山月府では、花を頭に飾る男性をあまり見たことがない。かむびとくらいか。

「榔月府では位階を持つ者も、ぞうしきもよく髪を飾る。神事の際の挿頭華かざしとはまた別に」

「そうなの? ……ですか?」

 驚いて、の声が出た。急いでよそいきの顔を作る。

 れ馴れしいととがめられるだろうか。そう焦って背に力をこめるも、由衣王は軽く目を細めるだけで注意するりすら見せない。よくわからない方だと紗良はまどう。妙なところで機嫌をそこねるくせに、つうならしつせきするだろうという場面ではのがしてくれる。

 彼は前を向き、散策の足取りでゆったりと進み始めた。紗良も従う。

「この流行は、とある皇族が、妻からのふみえられていた花を髪にして歩いたことから始まった。ほかの女に目移りなどせぬ、この通りに私の心は妻一筋である、といううわの言い訳として」

「はあ……」

 みような気持ちになった。そういえばてんでは一夫多妻が当たり前なのだったか。

「それがいきであるとして、貴人のあいだで形を変えて広がった。こいなかの女からおくられた花を飾り、なかむつまじさをまんする、というように。あるいはこいがたきに対するけんせいだな。この花はすでに自分がんだぞ、じやをするな、という」

「じゃあ宵霧の君も、恋しい方からの花を飾られているのですね」

 なつとくしたら、ぜんとした表情で勢いよく振り向かれた。みるみるうちに彼の機嫌が悪化していく。

「なぜ俺が女からの花を飾らねばならない」

 いまの流れだとそうとしか思えない。という返事をするのはなんとかこらえた。

「で、ではどうして……?」

「単に花のかおりが好ましいからだ」

 思いがけず可愛かわいらしい理由だった。竜は花を好むらしい。日常面でぽろっと知れる好ききらいは、しつらいころもえのときに役に立つかもしれないので、覚えておきたい。

「花飾りの他には、なにがお好きですか」

 問いかけたあとで、何度目かわからないこうかいの念にられる。友人でもないのに好みを気軽に尋ねてどうする。

 さすがに今度こそしかられるかとかくしたのに、返ってきたのはじゆんすいな驚きだった。

「なぜそんなことを聞く?」

「え? ただ、花以外にも、竜の方のお好きなものを知りたいと思ったのです」

「──」

 由衣王はふたたび前を向いた。しばらく無言だったが、やがて返事がくる。

「さあ。他に好ましいものなど、俺にあるのか」

 彼が口にした言葉の意味を考える。この方は、自分がなにを好むのかわからないでいる?

 ごまかされたのだとは思えなかった。暗いふちしずむようなこわだったからだ。

 迷った末、しろあいの背に、紗良はぽんと言葉をほうる。

「それでしたら、これからたくさんの喜びが待っておりますね」

「どういう意味だ」

「いま好ましいものがなにもないというなら、あとは日ごと、増えるばかりです。あれも好ましく、これもよく、と胸をかがやかせることが紅霞ならぬきらがすみのように降り注ぐのではないでしょうか。大変だわ、そうしますと毎日、被衣かずきが必要になるかもしれませんよ」

 由衣王の足が急にとまった。だが彼は、今度は振り向かなかった。またゆっくりとした足取りで進み出す。機嫌を損ねたわけではないようだが、なぜかこの竜をさびしくさせたのではないかと紗良は感じた。

「……村にいたころ、煌霞はおまえに降り注いでいたか?」

「はい!」

 元気に返事をしてから、あわてる。

「いえ、あの、みなが私に、喜びを降らせてくれていたんです。私はそれに浴するばかりでした」

「なら、帰りたいだろう」

「は──いえ」

うそつきめ」

 なじる声を最後に、由衣王は口をざした。やはり寂しげな背中に思えた。





※試し読み版はここまでです。お読みいただきありがとうございました。続きは製品版でお楽しみください。

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竜宮輝夜記 時めきたるは、月の竜王/糸森 環 角川ビーンズ文庫 @beans

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