二章 貴やかなるは、夜の花鳥 其ノ一



 は濡羽色の庇車に乗せられた。ももの木のかきめぐらせたとうてんもんの大路をわたり、西へ曲がる。白天門の大路にははくもくれんの垣、赤天門の大路には梅の垣というようにしよくさいされる種類が決まっているのだとか。なんにせよ、道々が季節の花木であふれるのなら、まるで楽土のような都だ。あるがままに草花が月日を巡るさんげつとは、人が暮らす場所さえ違う。

 中央奥側に位置するだいだいは一辺がおよそ百六十路。わずかに南北の路のほうが長く設計されている。(※一路=十メートル)

 ちなみに、てんの路の整備はえんちようが指揮をっている。

 きようには十二庁が存在する。先の苑部庁に、こうもつたぐいを管理するおきくらちよう、軍を抱えるかちちようなどだ。なかでも重要なのはきんまつりごとぜんぱんつかさどきのつかさちよう、祭事関連を司るしきちよう、宮中全般のさいはい権を持つりようちようだ。そのほかに、竜神をまつたつちようが設けられている。こちらは司法をかんかつするさいちようおんみよう博士を抱える紀務庁などのかんしようを受けつけない。宮中にありながら独立した令制として存在する。ただ、そうはいっても現実問題として、織部庁からの奏上をけることは不可能だ。宮中の神事に関わる要望にはやはり耳を貸すより他にない。

 庇車は、大内裏側へは向かわず、おうの城があるよいぎりのみやをまっすぐに目指している。彼に、つつしみを欠いたこうはやめろとたしなめられたため、車箱から路の様子を確かめることもできない。だから紗良はおとなしく座っているのだが、由衣王からの視線が痛い。

 なぜこの方はこうもしつけにじろじろと自分を見るのだろう。

 というよりもなぜまた同じ車に乗せたのだろう。

 くさすぼらしい鈍いなどと、散々悪態をつかれている。よほどこちらの存在が気に食わないに違いない。不思議と老成したふんを持つあのしろながのかみとの会話でも、それは明らかだ。

 だったら目の届く場所に置かなければいいのよ、と紗良はひねくれた思いをいだく。

 だいたい予想はしていたが、まったくぜん多難である。きっとことあるごとに暴言なりたいばつなりがあたえられるのだろう。天上人たちからの風当たりが強くてつらい、なんていうかわいいはんの苦痛ではすまなそうだ。いまからうんざりしてしまうが、とにかく目立たず、口答えせず、地に落ちるかげのようにひっそりと生きるしかない。しかしまつな扱いでいっこうにかまわない。心は、地上の里人たちにささげてきた。じゅうぶんすばらしい日々をすごした。

 これから死ぬしゆんかんまで灰色の日々が続いたとしても笑顔でける。

「……なにを考えている?」

 どこかけいかいしんをうかがわせる、とげとげしい口調で由衣王が問う。

 この身だけではきたらず、頭のなかの考えまでも全部差し出せというのだろうか。

かしこき竜の方、おそれ多くもお答えします。図京があまりにも立派で美しく、天のみなさまも月よ花よとたとえずにはいられぬほどにうるわしくていらっしゃるので、本当に私などに大役がつとまるのかと、我が身のしようさをなげいていたところでございます」

「心にもないうつとうしい弁明はよせ」

 由衣王はぱちんと、閉じた扇で自分のももを軽く打った。

「ああ、おまえもやはり退たいくつだ。世辞にきよげんかんを恐れて顔色をうかがうばかり。だから里人などいらぬというのに」

 反論したくなる気持ちを殺して、ひとまず謝罪をしようと頭を下げかけたとき、急にがたっとひさしぐるまれた。ごろごろと屋形のなかを転がってしまいそうな紗良の身を、由衣王が力強いうででさっときとめる。びっくりしながら由衣王の顔を見上げた直後に、庇車が停止する。

「何事だ」

 紗良を抱えながら、由衣王が外へと問う。すぐには返事がない。外がざわついている。

 由衣王はまゆを寄せると、「ここにいろ」と強い口調で言い捨ててすばやくちようを開き、あさぐつさえかずに出ていった。紗良はしばらくそわそわしていたが、こうしんには勝てず、そっと几帳から顔を覗かせた。夜の刻、空気は生ぬるく、うっすらときりがかかっている。

 ──他のぐるまがとまってる。

 前方に、数台の神車が見える。が、どうも様子がおかしい。

 こちらの屋形を引く黄金のとら──という、天上人のみが所有できる天のけもの──もけいかいするようにひっきりなしにっている。手前の神車をじっと見つめ、紗良は悲鳴を飲みこんだ。まえすだれの部分におどろおどろしい大きな女の顔がかんでいる。屋形から、大女がぬうっと顔を突き出しているような感じだ。まぼろしか、それともあたりにただよう霧が物ののように見せているのかと何度もまばたきをして確かめたが、やはり女の顔でちがいなかった。ぎょろぎょろと目玉が動いている。その動きに合わせて、おもを包む乱れがみもぬらぬらとうごめいていた。

おぼろぐるまか? 陰陽師はなにをしている」

 由衣王の声が耳に届く。視線を巡らせば、朧車と呼ばれたあやしい乗り物の横に、由衣王が立っている。彼のそばには松明たいまつを持つかんどう、白長督、それに見知らぬ長身の貴人が二人いた。羽羽獅童子とは、羽羽獅をつつがなく歩ませる者のことだ。

 紗良は、ぽかんとした。はじめて目にするその貴人たちが、由衣王に引けを取らぬほど姿が美しかったからだ。一人は女のように髪が長いが、なんとも独特な色合いだった。ひじのあたりまではあかぎくのようにあざやかだが、そこから下はじよじようすまり、下部は雪のように白くなっている。両耳の位置に、髪と同化しそうな赤菊の花といろい緑の葉のかざりをつけていた。衣はうつほう、重ねは若葉色。武官のようなで立ちではないのに、なぜか片手に太刀たちを持っている。

 その貴人はこちらに背を向けて由衣王らと話をしているため、顔立ちまではわからない。

 もう一人の貴人は顔が見えた。やわらかなち葉色をした短い髪。片目に前髪がかぶってしまっている。じやくの羽と宝玉のみみかざりをつけている。由衣王よりも多少年上に見えた。二十代後半だろうか。じようという言葉があてはまりそうな彼が、一番背が高い。こちらの直衣のうしもえの袍にしたがさねうすこうばいというふうな色合いだった。なぜか彼も手に弓を持っている。

「──それでおまえたちは、朧車を追ってきたと?」

「仕方ないだろう、俺の宮で異形に変じただ──」

「まだこのあたりに──」

 なにやら深刻な表情で話しこんでいる彼らだったが、ふいに赤菊の色を持つ髪の貴人がこちらを振り向いた。酷薄そうな、っぽい顔立ちの貴人だった。

 彼につられるようにして、となりに立つ朽ち葉色の髪の貴人も振り向いた。すっと通った鼻筋に色気のある厚めのくちびる。どこかひようぜんとした雰囲気を持っている。

 最後に由衣王も振り向いた。彼らは紗良と目が合うと、「あ」とおどろいたような表情を浮かべた。好奇心丸出しでのぞき見していたことに驚かれたのかと紗良はあせった。

 だがそうではないとすぐにさとる。紗良の背後──つまり後簾側から、がさごそと音がひびいた。だれかが屋形に入ってきたかのような。紗良は一瞬、息をんだ。ぞわりと首筋があわつ。

 さつかくなどではなく、背後から冷気のようなきつな風がひゅうと流れこんでくる。かくを決めておずおずと振り向き、心底その行動をこうかいする。へいをまとっためんの異形が、うようにして車箱にしんにゆうしていた。からくりのようにぎくぎくとした不自然な動きだ。

「あ、あ……っ」

 地上ではおんりようや悪鬼の類いとそうぐうしたためしがない。み日は外へ出ないよう心がけているといった程度。もっと言うならかたみなども貴人の文化であるため、紗良たち里人にはほぼ関係がない。てんいちじんこんじんがわざわざ地上になんか降りてこないだろう。

 里人にとって一番警戒すべきかいは、やはり鹿がみなのだ。

 鬼面の異形が獣のようなうなり声を上げてこちらに腕をばしてきた。紗良は全身を石のようにかたくし、はくはくと口を開けた。きようで悲鳴すら上げられない。にごった目玉、太い角、耳まで引きかれた口。青白いはだには黒いみが浮かび、まだら模様を作っている。

 異形にれられる寸前、紗良は自分を奮い立たせた。いつもの負けん気はどうしたのだ。おびえるばかりのか弱い女じゃないだろう、足を動かせ! 異形を外へり出せ!

「あ……っちへ行ってよ!!」

 声をしぼり出して必死に暴れる。無我夢中で異形を蹴り、その腕をたたく。

 が、異形はものともしない。紗良のこうげきは異形をひるませるどころか、逆にいかりを植えつけたようだ。おそろしい力でこちらの足首をつかみ、後簾から引きずり出そうとする。

 紗良はゆかに指を立ててていこうした。そでがめくれ、肘や手首が床をこする。そこにびりっと痛みが走った。腕の下に入った髪もいつしよにこすってしまい、ちぎれそうになる。

「や……っ」

 この異形に食い殺されるのではないか。そんなもうそうふくらみ、なみだにじんだときだ。

 とつぜん、ぎゃあああという悲鳴が車箱内に響いた。あわてて鬼面の異形のほうへ顔を向ける。

 その瞬間、全身がこおりついた。鬼面の頭部になにかがぶすりとさっていた。いや、誰かが外から箱車内に上半身を入れ、異形の頭部にで弓矢を突き刺していたのだ。

「えっ……、え、え」

 あぶのあかりがその人物の顔を映し出す。

 れていいのかひたすらこわがるべきか、紗良はもうわからなくなってきた。というのも、その人物も由衣王たちのようにきわって美しい顔立ちをしていたのだ。年のころは二十前後。うれいをふくんでいるような青いひとみ。色白で線が細く、中性的な雰囲気を持っている。髪はつゆくさ色だ。横に流した長めの前髪が、やさしく顔のりんかくを包んでいる。だが、後ろ髪はかなり長いようだった。後部でひとつにまとめており、それがかたにかかって胸側に垂れ落ちていた。ごうしやでんかみかざりを耳の上につけている。ころも撫子なでしこの色の袍、その下に青磁の色を着ている。

 紗良と目が合うと、その貴人はにこっと親しげに微笑ほほえんだ。異形の頭部に刺した弓矢をにぎった状態で。

 おののく紗良から視線を外すと、彼はせんさいようぼうを裏切るざんこくな行動に出た。

 鬼面の異形のざんばら髪を無造作に引っ摑み、ぶちりと首をねじ切ったのだ。

「──」

 さけぶ前に、背後から腕が伸びてきて、紗良のこしを摑む。抵抗する間もなく前側の几帳から外へと出される。ゆうかんに、ひっとのどの奥がふるえた。誰かにかかえ上げられる。紗良は身をけ反らせ、手足をばたつかせて抵抗した。新たな異形にらわれたと誤解したのだ。

「なにもせぬ、暴れるな」

 しつせきの声が耳元で響く。涙目でうかがえば、こちらをにらみ下ろしているのは由衣王だった。

 震える息をこくりと飲み下し、なんとか冷静さを取りもどす。彼が自分を車箱から引っぱり出して抱き上げたのだと理解する。が、なつとくできたからといって、恐怖が消えるわけではない。

 こうちよくする紗良を抱き上げたまま彼は神車からはなれると、あきれた顔でこちらをながめている白長督のほうへ近づいた。そのちゆう、ぎゃあああ、とふたたび悲鳴が響きわたり、紗良はとっさに由衣王の首にしがみついた。

「なに? 今度はなんなの!?」

「落ち着け。手出しはさせぬ」

 そう言われても、このじようきようで落ち着けるはずがない。紗良はあちこちに視線を走らせた。恐怖が波のように全身をおおう。ももの木が並ぶ大路に、車箱に侵入していた鬼面の異形の仲間がいる。それを、赤菊の髪の貴人と、朽ち葉色の髪の貴人がそれぞれ手にしていた武器で退治していた。ついでといった様子で朧車もさっくり切り捨てている。

 次々と上がる怪の悲鳴に、神車のまわりを右往左往していた官吏たちが飛び上がった。

 紗良も由衣王にしがみつく腕に力をこめた。このとき由衣王がぽんぽんとなだめるように背を叩いてくれたのだが、しようげきの光景に意識を取られてそれに気づかなかった。

 ──なっ、なにあれ!? てんって怨霊やおにがうじゃうじゃいるの? 天都怖い!

「どうやらすべて仕留めたようで」

 と言ってこちらに歩み寄ってきたのは、にゆうみを見せる露草色の髪の貴人だが──片手に、矢が突き刺さったままの異形の首をぶら下げている。

 由衣王の腕のなかにいることも忘れ、紗良は引きつった顔でげ出そうともがいた。転がり落ちる前に、由衣王が慌てて紗良を抱え直す。

「暴れるなと言ったろう!」

 震えがとまらない。異形そのものより、微笑みながら首を持ってくるこの貴人のほうがよほど恐ろしい。

「王の方々におたのみ申し上げる。もう少しおん便びんに片をつけてはくださらないか」

 白長督がろうの滲む表情で言った。

「この場でりゆう化せず、人の姿のまま仕留めたのだから、じゅうぶん穏便と言えるのでは?」

 由衣王は紗良をしっかりきかかえると、突き放すように言った。白長督が重い息を落とす。

「三王の方々はおぼろぐるまを追いまわされたのでしょう? 道理で図京内の気がれている」

「道々に桃を植えた程度でじやのすべてを退けられるとでも? 内から生じる鬼にはなんの効力も持たぬ。百鬼をのがおんみようたいまんをまず責めるべきでは?」

 由衣王は、ぞっとするようなれいこくこわおうしゆうする。

「まあ、もとを正せば、われら竜のとがとも言えますが」

 露草色の髪の貴人が優しく笑いながら口をはさむ。我ら竜という言葉に紗良は、はっとする。

 由衣王はさらに冷ややかな顔を見せると、露草色の髪の貴人を睨んだ。

おう、余計な言を垂れ流す前に、その首をなんとかしないか」

「ああ、これ?」

 あわい色のまついろどられた青い瞳が、自身の手にげられている首へと向かう。だが、ふっと彼の視線がこちらへ動く。

「ところで由衣、そのむすめは?」

「……こたびの冶古だ」

 由衣王が苦々しい表情で答える。

「里人ですか。見るからにうすよごれていますねえ」

 小瑠王、と呼ばれた露草色の貴人がしようする。

 恐怖一色だった胸のなかに、じわりと暗い感情が滲む。この貴人も、里人を見下すのか。

 足音が近づいてきた。異形の群れを始末し終えた貴人二人がこちらへ戻ってきたのだ。

「なんだ、やっぱり冶古を連れてきたのか? どうせすぐに死ぬのに」

 あかぎくの貴人が紗良のほうにひょいと顔を近づけ、にんまり笑う。

「これはまた、とりわけ貧相な里人だな」

 ち葉色の貴人はめんどうそうにこちらをいちべつする。

 ──この方も同じなの?

 恐怖や怒り、悲しみと、様々な感情がまりのようにあちこちへねる。目立たず生きねばと自分にちかったばかりなのに反発したくなる。

おうつきおうも、里人をからかうのはおやめください」

 白長督が口角を下げて小言を言う。

 その彼を、多々王と呼ばれた赤菊の貴人がななめに見下ろし、鼻で笑った。

「からかってなどいない。事実だろ?」

「そうであろうと、これは罪なき者です。多少はを見せるものでしょう」

「ははっ、おまえは慈悲という名のきよげんけというのか、ばからしくてかいだな」

 多々王は、髪と同じ真っ赤な色の瞳を紗良に向ける。

「新たなよ、おまえはどちらがお好みだ? 生ぬるいうそか、厳しい真実か」

「……お、おそれ多くも申し上げます、竜の方」

 小瑠王が先ほど、我ら竜と口にしていた。由衣王とけんするその美しさで容易に想像がつく。この多々王や月時王もまた、四の宮の主たる竜にちがいない。

「どんなときも真実を望みます。私たち里人はつまらぬ身、ですが心までつまらぬものとなってしまえば加護をくださる地の神々に申し訳が立ちません。ゆえに、心を強くし、その厳しさに打ち勝ちたいと存じます」

「心構えは立派なことだ」

 多々王は、紗良の言葉をかけらも信じていないような冷め切った微笑をかべる。

「まあたいていは、死期が近いとさとれば心もゆがむぞ。これのように」

 彼の視線が、小瑠王の持つ異形の生首へと向かう。小瑠王は虫一ぴきの命さえしむようなはかなげな表情を見せながら、その生首をいきなり紗良の顔に近づけた。全身が総毛立つ。

「これがなにかわかります?」

 小瑠王が甘えるような声で問う。この貴人が一番苦手かもしれない。

あつ、とか……?」

 震えながらも答えると、竜の王たちはいつせいに笑った。

「確かに、ある意味悪鬼ですね」

 小瑠王は、つん、と生首のほおを指先でつついた。その指で、今度は紗良の頰もつつく。

「これね、あなたと同じだったんですよ」

「──神奴冶古」

「うん、そうです。あなたの前に、我ら竜に仕えていた冶古」

 繊細なぼうの小瑠王から生首へ、ゆっくりと視線を動かす。冷たい手で背中をすうっとでられたような心地ここちになる。この首が……異形の者が冶古。なぜこんな姿に?

「一年ほど前になります。けがれとうらみつらみを身に抱えすぎて、ついに果てたのですが、ある日そのしかばねが行方知れずとなりました。ところがよい、なんのまえれもなく出現した。朧車のおんねんに取りこまれ、本格的に鬼と化したようで。ああ、朧車とは、ろうていちようを争う女たちの恨みが形をなしたかいですよ。大きな害はないのですが、そうぐうした者の精気をうばうので、注意して」

 紗良は混乱しながらも、小瑠王の話を必死にしやくする。

 するとこの生首は──近い未来の、自分の姿?

「差し上げましょうか?」

 小瑠王が生首を軽くる。紗良は胸が悪くなってきた。きっといやがらせに違いないが、それにしたってあんまりじゃないだろうか。里人には感情すらないとでも思っているのか。

 答える気力もなくなり、うつむきかけたとき、とつじよ、ごぽっと生首がうめいた。ぎようてんする紗良に向かって、生首が真っ黒いかたまりを吐き出す。紗良は目をき、肩にへばりついたぬるつくその塊をほうり投げようとした。だが、ふと動きをとめる。あたたかい──生きている? それに、つばさがある。全身を覆うねばついた真っ黒い液体のせいで、翼を広げられないでいるようだ。

「あっ」

 これはからすだ。いつしゆんにごったひとみが紗良をとらえた。苦しそうだった。悲しそうにも思えたし、なにかをうつたえかけているようにも思えた。よく見ると、りが身に巻きついている。

 液体が原因というより、この紙縒りにしばられているため動けずにいるようだ。

「なんと。これはいけません」

 小瑠王があわてたように生首を放り捨て、烏に手をばそうとした。紗良は自分でもなぜそうしたかわからないが、ぎゅっと烏をかかえこみ、彼からかばった。

「穢れが形を持ったのか? それとも冶古が目についたけものを手当たりだいむさぼったか。──早く小瑠王にわたせ。おまえにも穢れが移るぞ」

 由衣王がしかるような声で言う。ふたたび小瑠王が手を伸ばしてきた。

 紗良はとっさに身をよじった。由衣王のうでから転がり落ちたが、なんとか烏は手放さずにすんだ。急いで数歩、彼らからきよを取る。

「こら」

 由衣王が険しい顔をして腕をつかもうとする。紗良はうろうろしたあと、呆気あつけに取られている月時王の後ろに逃げた。「うん?」と月時王がこんわくした様子で振り向く。

「──この子は、生きているようですので、どうかせつしようは」

「生きる、の境界とはなんだ?」

 由衣王が、すような視線をこちらに向ける。紗良のたて状態になっている月時王が両手をひらひらさせて、「俺を巻きこむな……」とぼやく。

「果たして、恨みつらみを抱えた怪は、生き物か?」

「それは……」

可哀かわいそうな物のは、同情心で生きていることにするのか。ではしき怪は? いや、そもそもだれにとっての悪だ。人か。神か。怪か、それとも里人か、天上人か」

 ぐっと紗良は息をめる。明快な線引きは、自分のなかに存在しない。

「学なき私に条理はわからず、ただ自身の感じるままにこのつれなき世を見つめるばかりです。それしか、物事の行方を知る方法がありません」

「わからぬと安易になげくなら、わかる者に渡せ」

 由衣王が大きく一歩をみ出し、月時王の背にかくれる紗良をのぞきこむ。紗良は首を左右に振った。

「この命を、はすのようだと思ったんです」

「なに?」

どろからけんめいに顔を出そうとする命だと。そんな気がしました。……きっとしっかり洗えば穢れも落ちると思います。ですのでどうか」

「確かにこれは生きていますね」

 真横からひびいた声に、紗良はどきっとした。いつの間にかしのび寄ってきていた白長督が、興味深そうに紗良の腕のなかにある鳥を見つめる。

「救う価値があるかはわかりませんが……、おや、紙縒りが……これはじゆじゆつ? どこぞのおんみようの式か? 調べてみますか。どれ、私にしなさ──」

 白長督の言葉のちゆうで、由衣王が不愉快きわまりなしといった表情を浮かべながらも紗良のかたを自身のほうへ引き寄せる。

「よい。これがもしもおんの塊であれば、俺のそばにあるほうが始末しやすい」

「なりません。もしも陰陽師の式であった場合、始末すれば穢れが返ってしまうおそれがあります」

「だから?」

「陰陽師は紀務庁に属する者。いがみ合うのは得策ではありません」

「俺に言うな。あちらのほうこそ争っても利にならぬとわかっているだろうよ」

「そうであってもです。人の心は移りやすいのですよ。波風は立てぬほうがよい」

「知らず立つのが波というもの。風にくなと命じても聞き届けられるはずもなし」

「王、ざれごとは……」

 言い合う二人をこうに見て、紗良はめまぐるしく考える。どうにかしないと。りゆうたちにこの命を渡せば始末される可能性が高い。白長督に預けたところで結果は変わらない気がする。

 ──とりあえず、この紙縒りが問題なの? 手で簡単に取れそうだけど。

 紗良には術のこわさがよくわからない。思い切って紙縒りを引きちぎる。こちらを注視していたらしい小瑠王と多々王が、「おお」と吞気のんきおどろきの声を上げる。その反応で由衣王たちも紗良の行動に気づき、ぎょっとした顔をする。


 烏を染めていた真っ黒い液体がざあっと周囲に広がった。ちりあくたが強風に飛ばされたかのようだった。紗良はその穢れたぶきをもろに顔に浴びた。こちらに手を伸ばす由衣王の姿が見えた。紗良の腕から飛び上がった烏の翼が白く変わっていく様子も。

 その直後、頭に布でもかぶせられたように視界がやみおおわれ、紗良は気を失った。



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