昭和の脱獄王

 白鳥由栄(しらとりよしえ)。


 彼は明治四十年(1907)、現青森市の筒井で生まれた。3歳の時に生家を離れ豆腐屋へ引き取られた。成長して後は蟹工船や魚屋などで働いていたらしい。ちなみに白鳥(”しらとり”と読む)という苗字自体は青森に古くから存在する。


 転機は昭和八年(1933)、白鳥が25歳の時。仲間らと共に強盗殺人を起こした。当時は不況下であり実入りが少なかったことが原因と伝え聞くが、もちろん許されることではない。それからというもの何度も罪をおかし、昭和十年(1935)逮捕および青森刑務所へ収監されるに至る。






 ……ここから、伝説は始まった。


 刑務所での罪人の扱いはひどく、現代みたいに人権で守られてはいない。看守は自由に罪人らをいたぶることができる。白鳥も罵声を浴びせられた。「早く死んでまれ」「おめなんぞ、”はくちょう”なんて代物でねえ。てら(=ハエ)だろ。てら。」など、毎日のように聞かされて笑われる。



 ……白鳥の性格は決して勝気なわけではない。だがそうとう応えたようだ。内なる炎を秘め、白鳥は決意した。”ここの檻からでてやる”と。


 そして実際に成し得てしまったのだ、脱獄を。

看守の緩む時間帯、針金を見つけて鍵穴を壊す。己の布団を膨らませておいて、寝ているだろうと見せかけ、発覚を遅れさせた。


当然、青森市内は大騒ぎ。青森県警の半分以上が動員され、白鳥の捜索が行われた。


 ただし、捕まるのはあっけなかった。食べるものは何もないので仕方なく野草を口に入れたところ、そのまま腹痛をもよおしてしまった。苦しんでいるところをあっけなく捕まってしまった。



 昭和十六年(1941)、二度目の脱獄は秋田刑務所である。青森で脱獄に成功しているだけあって、周りの目は厳しい。それ故、鎮静坊という外光の特段薄い部屋に閉じ込められた。特に冬になると、床が冷たく身が震える。犯罪者といえどもこの扱いはひどすぎる。白鳥は再び脱獄を決意する。


 今度は天井の鉄格子から。お手製のノコギリを天井に付いていたブリキ片と錆びたくぎから製作。看守の交代時間、一日10分の間、天井によじ登ってちょっとずつ切り離していく。


 そして嵐の日。雨風に紛れて脱獄に成功したのである。





 昭和十八年(1943)、三度目は網走である。あの刑務所の代名詞、極寒の大地が待ち受ける。秋田から逃げうせていたが結局は捕まり、もう三度目はさせまいと一番過酷なところへ収監されることとなった。今度は手錠も足枷も、それぞれコンクリーの地面にボルトで溶接されて、一切身動きができない。食事は器を口でくわえてとらざるを得ない。さらには冬でも肌着一枚しか着させてもらえない。いつしか手錠と肌の接触部分はただれ、ウジがわいた。


 だが白鳥も根気強かった。奇跡を信じて手錠にかみついたりして外そうと試みた。いくら手首が痛もうとも、もうこれしかないのだ。するといつしか緩んだようで、いつでも外せるくらいになった。こうなると足枷を外すのも楽なものである。


 外界とを隔てる鉄格子。目を盗んで慎重にかつ大胆にも揺さぶり続けた。さらには食事の際に味噌汁を吹っかけ、塩気で鉄のさびをもたらそうと試みた。……3か月もたつと、結構がたつき始めたようで、あとはチャンスをうかがうだけ。


 ……空襲により、偶然にも送電線が切れた。そのため停電が発生し、隙をついて白鳥は脱獄。通気口の狭いところは、あろうことか肩の骨を外して出たという。




 第二次世界大戦が終結した翌年、昭和二一年(1946)、再び捕まる。そして札幌刑務所に収監。なおいっそう厳しい目で警備したはずだったのだが……脱獄に成功する。四度目である。貧乏ゆすりをしているかのように見せて、実は床の土を削っていた。手製ののこぎりもまた作った。ばれないように慎重にかつ大胆に床を削り続ける。……こんどは下からの穴で外へ這い出たのである。




 こんな人物がいたなんて……。

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