CALL6 主よ、人の望みの喜びよ
しばしば目を開けると、カーテン越しに薄くのばした光が部屋をじんわりと照らしていた。
光から逃げるように、布団を被って寝がえりをうった。足の筋がジンジンと痛んだ。
ひどい悪夢を見たようだが、記憶は曖昧である。
体の悲鳴を自覚しながらも、私は生徒生活の役割を果たそうと布団から手を伸ばした。
「学校行かなきゃ、時計は……」
いつもなら、ベッドの頭の方にある目覚ましを探すのだが、今日は自然とポケットに手を伸ばしたのだった。体温によって温められた懐中時計を取り出し、ぼやけた視界の中で盤面に焦点を合わせた。
「遅刻じゃないか……」9時過ぎを確認した私は再び布団を被り、痛みと熱をもった太ももの筋を指圧しながらウーンと唸った。
気づけば、私が今寝ている場所は、ここは私の寝室ではなく、茶の間にひかれた布団の上であった。私の部屋は『奴』に占領されたのか……「なんで私が茶の間で寝るんだ、くそう」とぼやきながら、昨日の出来事を少しずつ思い出そうとしていると、
「おはよう、お姉ちゃん」と起床に気づいた妹ちゃんが、私に優しく声をかけた。布団に狸のように丸まった私を心配しているようだ。
「おはよう妹ちゃん……私って、もう一人……『あの私』はどこいったの」と私は尋ねた。
「うん、もう学校に行ったよ」と妹ちゃんは教えてくれるのだった。
どうやら昨日の事件……私の分裂は、真実らしい。昨日は何度も溜息をついた覚えがある。私の分身の顔と、全ての元凶である例の男の顔が頭を過った。
妹ちゃんはいそいそと私にお茶を運び、朝食の用意を始めた。昨日私を救った小さな勇者はパンの袋をバリバリと広げている。私を心から受け入れてくれているのは、どうやらこの嬉しそうな少女だけである。
母親は既に仕事に出ている時間である。母に私の事をなんて説明したのかと聞くと、「お姉ちゃんはお姉ちゃんでしょ」と答えにならない答えが返ってきた。急に三人姉妹になった状況を、どう受け入れたのだろうかと心配だった。
その心配を察してか「お姉ちゃんは私が守るからね」とフライパンを箸でつつきながら、言葉をかけてくれるのだった。心強いのか、楽観主義なのか……。とりあえず頼っておこう。
私はホカホカなチーズトーストと、チンされたコーヒー牛乳と、中心不明な爆弾低気圧のような目玉焼きとベーコンをむしゃむしゃと食べていた。うまい、何物にも代えがたい。
しかし、私は腑に落ちない。私はテーブルに置かれた新聞を広げ、ぶつぶつと言いながら朝食を胃に流しこんでいる。一度決めた事とはいえ昨日の今日である。
アイツはまた勝手に学校に行ったのだ、私に断りもなく。いや寝坊助の私が悪いのだが……。私の代わりに面倒な勉強を引き受けさせている、と考える事もできる。が実際アイツは私に役割をとられたくないだけだ。きっとそうだ。
私から独立した意識は、どんなに似たように作られたとしても、他人なのである。その他人であるアイツは、私の存在を『同一の人間』として認めるわけがないのだ。私だってそうなのだ。アイツを私と同一であると認める事はできない。だって、もう相手が何をして、何を考えているのか、わからないのだから。私を私たらしめる根拠は、私自身の、過去から現在の全行動と全情動を観測できるからなのだ。二人に分かれたという事は、それぞれの選択も分岐するということ。もう観測の範囲外なのだ。私から独り歩きしてしまった他人なのだ。よく似た他人なのだ。分かれた時点で別々の人生を歩み始めた、別の人物なのである。
アイツにとってみれば私はぽっと出た偽物。奴の生存戦略は既に始まっている。学校で今まで通り生活するのは自分しかいないと思っているのだろう。勝手だ。私は勝手だ。
だからといって、「私は寝てるから、あんたが学校に行ってきてね」なんて言われたら憤激ではすまないのだが。でもどっちが学校担当かくらい話し合ってもいいじゃないか。
私はポケットの懐中時計を取り出し、上蓋の緑の鉱物を指でなぞった。……何か重要なことを忘れている気がする。昨日、私は何かを見て倒れた気がする。
その時、ガチャリと玄関の扉が開く音が聞こえた。廊下をトントンと歩く音が聞こえる。茶の間に入ってきたのは、制服姿の私であった。
妹ちゃんは「おかえり」と言って、小躍りしながらお茶の用意を始めた。
茶の間の入り口に立つもう一人の私と、初めて目が合った気がした。昨日は表情の観察どころではなかった。その顔は雰囲気はそっくりではあっても、鏡に写る顔とは違ってどこか間抜けであった。初めて他人の視点から自分を見た感想は、『なんだか無愛想』である。おそらくもう一人の私も、そう思っているだろう。他人とはいっても思考は似ているはずだ。
「よう、起きたのか。公園で気絶したお前を運ぶのに苦労したぞ、ダイエットしろよ」
と『もう一人の私』は帰って早々に文句を言うのだった。私はあの後、気絶していたらしい。それを聞いて私は思い出した。昨日あの時……私の顔が悪魔に見えた気がする。言うべきか、言わないべきか……。やめておこう……。もう疑うのは疲れた。
「お前こそ私の体で太るんじゃないぞ」と私は負けじと溜息をつきながら無愛想に反論し、「帰りが早いじゃないか。忘れ物でもしたのか」と素っ気なく聞いた。
「あんたが気になって勉強どころじゃない、それに今日は午前終わりで自習だけだから……」
「そう」
私は適当に返事をしながら、目を合わさないよう新聞の折り込みをめくっていた。
テーブルの対面にドサリと無作法に座る向こうの私の前に、温かいお茶が行儀よく、そっと置かれ、次いで私の湯飲みにも丁寧にお茶が注がれた。
妹ちゃんは始終、満面で歓喜しているが、私たちはつまらない顔をしている。しばらくの沈黙、牽制し合う二人、微笑む少女一人。特に会話もなく、あえて違うタイミングで交互にお茶をすする音だけの静かな空間。
そして、ぱたぱたと駆け回る妹ちゃんの足音だけが――なぜ走る妹ちゃん。
「一緒に弾こうよ」
妹ちゃんは両手でやたら大きなケースを部屋に持ってきた。
もう一人の私は気が進まないような様子だったが、妹ちゃんの頼みなら仕方がないという顔でそれを受け取り、「ケーブルと、アンプも」とつぶやいた。
妹ちゃんはそれを聞いて、太いコード、電源アダプター、小さなスピーカーを運び込み、もう一人の私の指示通りに配線をがちゃがちゃとこなしている。何が始まるんだ。これは何だ。
「……コーグって何」私は黒いケースにある白い文字を見て問いかけた。
「コルグでしょ、KORGの61鍵」もう一人の私はこう言った。
「……ああ、そう」と私は力なく答えた。
家にこんなもの、あったっけ。ざわざわと、背筋に恐ろしい違和感を覚えた。
黒いソフトケースから出されたのはキーボードであった。
「あんた弾けば」
もう一人の私が準備の整った鍵盤楽器の一つをピンとはねて、私に演奏を促した。私は硬直していた。どうぞ一曲という意味だろうか。あんたなら弾けるでしょ、と言わんばかりの視線を送ってくる。いや、待ってほしい。キーボードとピアノとオルガンの違いすらわからないぞ私は。鍵盤ハーモニカで手こずった思い出しかない。なぜこんな高そうな楽器が家にあるんだ。
その楽器の存在感と威圧感にクラクラしながら立ち尽くしていると、妹ちゃんは助け船を出すように「お姉ちゃん、一緒に弾こう」と誘うのだった。
「ごめん妹ちゃん……」
「お前、妹ちゃんの頼みがきけないのか」
「いやそうじゃないんだけど……弾き方わからなくて…………」
「ふうん……そう……やっぱ、偽物は偽物か」もう一人の私は冷たく言った。
私は返す言葉がなかった。分裂した自分に偽物と言われた場合、本来なら憤慨すべき事態なのだが、私は私が本物の私であることを証明する公式文書も免許ももっていない。証明の手段は、私だけが知っている記憶、それだけが頼みの綱であり自己確立の支柱なのである。その記憶が、すれ違っている。私は本物としての生存戦略に敗北した。偽物の一言によって。分裂した相手には、偽物と言わないという暗黙の了解をコイツは破った。禁句だろそれは……。
私がショックのあまり打ちひしがれていると、もう一人の私は、「幼少から中学校までピアノを習ってたじゃないか」と、思い当たることのない過去を私に説明するのだった。どういう事かわからない、何を言っているのかわからない。どうして私は「その記憶」がないのか、オリジナルは、本物は、私ではなかったのか……。
欠落した記憶に唖然としながらテーブルに置かれた鍵盤を、ただ黙って眺めていると、「じゃあ……弾いてやるよ、何か思い出すだろ」と提案されたのだった。
沈黙の底から振り絞って出した私の口は「……バッハ」と、おもむろに答えていた。ピアノ曲のリクエストのセオリーを知らない私は、音楽室を脳裏に過らせつつ、授業で習った人物を伝えたのだった。結果、頭に浮かんだのが、あの肖像画の「バッハ」だった。
そして静かに、鍵盤に手を構えた瞬間、その手が一瞬だけ時を止めて、やがてメロディを奏で始めた。それは聴き覚えのある「懐かしい」曲であったが、その「懐かしさ」を感じたのはテレビやラジオで聴いていたから知っていたのである。その音色の中で、私は、自分が、自分の存在が、透明にうつろになっていく様な気がしていた。
目の前のもう一人の私が生み出す繊細な響きに、色合いや景色を、両手の指で操っている様子に、その美しさに、私は胸を締め付けられるのだった。私にはそれができないという悔しさと、その真っすぐな音の波の透明感とが、一気に心に混ざって溶けていくようだった。「私にはどうして弾けないのだろうか」と、「この目の前の私にはどうして弾けるのだろうか」と、敗北感や引け目や寂しさが一気に私を刺した。巣から落ちた雛鳥のような、誰も迎えにこない留守番をしているような、灰色の空虚な感情がこみ上げてくる。迫りくる卑しさと浅ましさによって、私の自我が暗い所に閉じ込められる。その旋律によって、私の心の至る所をかき混ぜられた。
気づいたら私は家の外に出ていた。
うつむいて涙をこらえながら、抜け殻になった私の全てを、運命を悟った気がした。
そうだ、私は悪魔に大切な記憶をとられたのだ、二人になった代わりに。
妹ちゃんは私にしがみついて泣いている。
涙でいっぱいになった妹ちゃんは、私に打ち明けた。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……。お姉ちゃんごめんなさい…………。私が……悪いの私が……。お姉ちゃんといたかったから……。わがまま言ってたから……そう思ってたの…………。お願いしたの、私がお願いしたの。私のせいで……。きっと私のせいで……弾けなくなっちゃったの……。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。お姉ちゃんごめんなさい」
「そっか、妹ちゃん。お姉ちゃんいなくて、家で一人で、淋しかったんだね。妹ちゃんのせいじゃないよ。私は、ずっと、妹ちゃんの本当のお姉ちゃんだからね。……ごめんね。でも鍵盤を見てたら、あの曲聴いてたら、なんとなく、私にとって大事なことだったって、それは思い出せる気がするの。忘れたくないって気持ちだけが、心にあるんだけど、思い出せなくて……。でも、妹ちゃんの事は忘れなくてよかった。本当によかったよ。私は大切なこと、ひとつ忘れちゃったけど、妹ちゃんは、私の事、きっと……忘れないでね」
私はどうしても聞きたい事を、ひとつ聞いた。
「あの曲の、名前を教えて」
妹ちゃんは、涙をこらえながら、時間をかけて、ゆっくりと教えてくれた。
「心と口と行いと生活で――主よ、人の望みの喜びよ」
その瞬間、懐中時計が地面に落ちる音がした。
抱きしめた少女の温もりが少しずつ消えていった。
――――――――――――――――――――
こちらJC04RXO。
分裂化「Another one」担当。事案の少女一名、現在10時14分、消滅を確認。
消滅に関する詳細、及び契約状況に関する不備は不明、内容の調査、解明を頼む。
記憶班、至急、回収を願う。以上。
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