CALL5 拝啓、私さま
夕刻 駅前百貨店
17時 ――あと7時間
西の空が茜に染まっている。図書館騒動の余韻をかき消しながら、その西側の向こうに太陽の光が隠れていくのを見て、神様にも、世界にも置いて行かれる気がしていた。
人の手によって規律的に建てられた電柱の蛍光灯だけが、私を照らす光だった。
もう太陽には頼る事ができないのだ。夜の扉が開いている。それもまた一日の普遍的事実であって、つまり日常なのだから、いつもならば受け入れるのだが、ただ今日に限っては私は空しい現実と迫られる決意との板に挟まれた、悪魔に憑りつかれたシンデレラなのだ。
夕焼けは翌日の晴れを教えてくれる、私は明日の太陽を見られるのだろうか。
私は帰宅中の『もう一人の私』を密かに観察していた。生まれて初めての尾行である、その対象が自分自身であるのもおかしな話だが、たしかにあの後ろ姿は自分であった。
私は『もう一人の私』が喫茶店に入っていくのを遠目に見送りながら、喫茶店に隣接した書店の棚の前で悶々と立ち読み、いや座り読みのフリを続けている。
その喫茶店というのはいつも学校帰りに友人と来ているデートスポットである。ここで待ち伏せが成功するのも計画通りである。
焙煎されたのコーヒー豆のなんだか赤点を回避できそうな、賢くなりそうな香りを漂わせているお気に入りの小さな店である。今朝トカゲ談義をしていた2人の様子も見て取れた。
私はただ黙って、これは妄想か否か、私は患者なのか否か、あの私とそばにいる友人達の圧倒的な存在感は幻覚か否か、と疑いの精神の渦中で悶々としていた。
今度は声だけでなく『もう一人の私』の姿を見たものだから、いよいよ心の始末がつけられない。幻聴に加え幻覚も見え始めた末期な私に相変わらずの口調で男がしゃべり始めた。
「何を恐れている。握手をしにきたのではないのか。そうすれば晴れて二人の世界が待っている。ただ付きまとっているだけでは状況は停滞したまま、0時に君はすべてを失う。接触しなければ意味がない。図書館では、あれだけ自信あり気に悪魔でもなんでもこい、と高笑いしていたではないか。末期患者は末期患者らしく、妄想に従うべきではないのかね。それが正常な妄想患者のあるべき姿ではないか。失うものはプライドか、プライドや意地のために消滅を選ぶのか。恐怖を克服するために患者としての自覚を手に入れたのではないのか」
「じゃあ、あんたの魔法で勝手にくっつけたらいいじゃないですか、ワープでもなんでもしてください。それに幻覚に付き合ってあげているんだから、偉そうにしないでくれたまえよ。帰って病院に行こうとしたのを引き留めて、ここに連れてきたのはあんたじゃないか。本来なら精神病理学の最先端のお薬を飲んで、妹ちゃんとゆっくり静養しているハズだったのだからね」
「君の礼を失した口ぶりには感心してやろう。しかし態度だけでは変わらない、行動に変換しなければな。そして、『君が本当に帰宅するつもりだったなら』止めはしなかった」
「…………」
「君が家とはあさっての方に歩き始め、駅の踏切を目指そうとしていたのは明らかだった。ひと時でも全てを受け入れた君の勇気を見直したものだが、何も死ぬことはあるまい」
私は、私の心の位置を定める事ができないようになっていた。あるわけがない、あるはずだ、わからない、と頭が解答を探しているうちに心が不安に乗っ取られている。
『もう一人の私』の姿を遠目に見てから、舞台袖でヒロインを眺める脇役のような気分を味わっていた。では今までの私は主役だったかといえば、決してそうではないが、私の座は私一人であってしかるべきである。どこからどう見ても幻覚には見えない、幻覚だとしたら、あの友人二人が話しかけている人物は誰だ、あれは私だ。
「君が願ったことなのだ『コール』によってな。当局は君という存在を写しとった。当局の慈悲深い行為を受け入れがたいなら、ここで終日まで潜伏し君個人の絶滅を選ぶがいい。そうなれば明日からは君の模造品が、いつもの君に変わって日常を生きていくことになる」
なぜ私に不利益のある選択しかないのか。何が夢のコールだ、リコールしてくれ。私は私に会いたくはない、向こうだって同じ気持ちだろう。なにせ私なのだから。気持ちが悪いじゃないか。勝手にコピーするなんて理不尽じゃないか。どうして原物がコピーの私に人生を譲って消えなきゃならないんだ。
じゃあわかった悪魔よ、願いを変更する。
「元に戻してください。消費者魔法、クーリングオフ発動!」
「あと6時間だ。結論を急ぎたまえ」男は既に暗くなっている外を見ながら冷たく答えた。
山々が夕焼けを背にまるで切り絵のように輪郭を描きながら、夜の世界を演出している。街灯がひっそりと街を照らし、黄色い月は運命を笑うように弧を描いていた。
私は窒素、酸素、二酸化炭素、とその他を深く吐いた。
18時 ――あと6時間
これからの彼女らの行動を予見しよう、こちらの強みは先読みできることである。
『もう一人の私を含む彼女ら』は百貨店地下街でパンの試食、夜食を買い込み、駅の改札まで友人二人を見送って手を振り、そのまま徒歩で帰宅する。間違いない。なぜなら私はいつもそうしているからだ。奴の帰宅時間はおそらく19時を過ぎるだろう、私から会いにいく決心はできない、ならばどうするか。
私は家路を走った。もうどうしようもない。
私が決められないなら、『もう一人の私』に決めてもらおうではないか、私を受け入れるか否か。『私』を間接的に巻き込んでやるのだ。よくのうのうと私の一日を過ごしてくれたな。その一日は私のもんだ。いや、返せとは言わない。ただ私が一方的に悩むのはおかしなことなんだ、この悩みをお前に、そうだ私に押し付けてやる、私よ、私のように悩むがいい。
暗がりの中、憑かれたキツネのようにひたすらに走った。鈴虫がコロコロと鳴いている夜道をただ無心に駆け抜けた。
胸の中に「たくらみ」を抱えながら、軽食屋から漂うイタリアンな匂いも一刀両断し、すれ違った帰宅中の後輩の声も振り切り、3台ほど自転車を追い抜き、ただ、家のみを目指した。
荒い呼吸と、ポケットの中で跳ねる時計と鎖の金属音と、アスファルトをばたばたと蹴飛ばす音が、周囲の家屋の壁を廻りながら轟いていた。
そして何百何千回と見飽きた、瓦屋根と枝の伸び切った植木の一軒を捉えた。私は勢いよくドカンと扉を開け、ズドンと玄関に崩れ落ちた。私は見事なフライングで私とのレースに勝った。
帰宅を察知した妹ちゃんが不安げにも尻尾を振って出迎えてくる。
「大丈夫?」と、汗だくの私を介抱している。
私は茶の間まで這いつくばりながら移動した。
冷たいグラスを差し入れされ、人生で最もうまい麦茶を全臓器に供給した。
「妹ちゃんよ、君は可愛い」帰宅第一声に私は言った。
そしてようやく息を整えながら、珍妙かつエキセントリックな質問をした。
「私が、世界に二人いたらどう思う」
妹ちゃんは銀河の渦巻のように頭をぐるぐると傾け、やがて私の目を真っすぐと見た。
「あめーじんぐ」
葉っぱに溜まった朝露のような目がキラキラと光っていた。
18時30分 ――あと5時間半
私のたくらみ、それは。
――――――――――――――――――――
拝啓 私さま
自分に手紙を書くのは初めてのことなので、いや小学校の時「未来の私へ」のような作文を書いたような気もしますが、その時は夢も希望もありましたが、このような事態になってしまい、夢も希望もないことばかりが現実におきてしまい、頼るのは自分しかないことはわかっているのですが、しかし自分の意志があなたとどこまで違っているのか、それも察するしかないため、解答を出す術を思いつきませんでした。どこまで信じてもらえるかは、あなたを信じるしかありません。もう妹ちゃんから聞いたかもしれませんが、聞いていなくても、とりあえず今日何が起きたかを伝えなければなりません。私はあなたと二人の存在になってしまいました。あなたが学校で過ごしている間、一日だけ考える時間がありましたが、もう時間がありません。なんて書いたらいいか、どうしてかはわかりませんが、とにかく私はここにいてあなたによく似た字であなたに手紙を書いているのです。まあ急にこんな手紙もらったら、かなり恐ろしい事かもしれませんが、悪夢のような事態を収拾させたいのですが、先程いったように原因も対処法もこれといった策もありません。証拠があれば書いたほうがいいでしょうか、右腕のホクロ毛の長さ、いや、初恋の事、どう説明したら私があなた自身であると信じてくれるかはわかりません。妹ちゃんに聞くのが一番早いとお思います。私は今朝学校からすぐに帰って、妹ちゃんとゲームをしました。そして私は今日とても大変でした、会うべきか会わないべきか、、、とても大変な日を過ごしてしまいました。どう書いたら信じてもらえるか、、、ともかく、私はどうやらあなたと出会わなければ消えてしまうらしいのです。らしい、と書くとますます怪しいと思われるかもしれませんが、とにかく消えてしまうらしいのです。あなたの気持ちを考えると、私なんて、気味が悪い、どうぞ消えてください、と思うかもしれないけど、私は消えたくはないのです。しかしあなたに会いにいくことが、とうとう出来なかったのです。どう話し合えばいいかもわからないのです。それはあなたも同じでしょう。これは全て夢なのかもしれません、でもどうかもう一人の私を助けてください。あなたと出会わなければ今日0時に私は消えてしまうのです。どうか、あなたが選んでください。私を受け入れて私を救ってくれるか、そのまま私を受け入れず明日を迎えるか、選んでください。
一番近くの公園で待っています。
私より かしこ
――――――――――――――――――――
23時 ――あと1時間
私は妹ちゃんに託した手紙を思い返しながら、やはりあんな手紙じゃ気味悪くって、出てこないよなと思っていた。
しかし他に書きようがないではないか、自分がもう一人いる状況を伝える手紙の書き方、そんなもの授業では習わない。入試にも出なかった。だから自分で考えたのだ。おかしな大学に入れば、習うかもしれないが。
もう23時を回っている。
どうした私よ、遅すぎる。もう誰もこないのではないか。
空はすっかりと黒く染まり、電灯の光を吸い込んでいた。蚊に何度も刺された。そして何度か泣いた。
約束の地である最寄りの公園で、ブランコをいそいそと漕いだり、生い茂るクローバーをつまんだり、懐中時計の裏の装飾を眺めたり、全力疾走の疲労をベンチに寝そべって癒しながら、もう会えないかもしれない妹ちゃんを想いながら『もう一人の私』を待っていたのだった。
この公園は家から走れば、10分とかからない距離だ。何を悩んでいるんだ私よ、私に会いに来るだけだ。もう私は走らないぞ。はやく来るんだ。もう0時になっちゃうじゃないか、私よ、それでいいのか。
実際『もう一人の私』は別の人格である。もう一人の私が何を考えているか、もうわからない。私が過ごすべきだった一日を別の視点で過ごした別個体なのだ、別人格なのだ。別個体の私の選択は、もう私の知りえる範囲の外側にあり、既に知る由もない。もう残り10分を切っている……諦めよう。例の男の姿もない。このまま、一人で消えてしまおう。
「――お姉ちゃん、はやく。もう一人のお姉ちゃん、助けなきゃ」
夜の公園に天使の声が優しく響いた。二つの人影が公園の入口で、ぼそぼそと小声で口論しながら一進一退をしている。ひとつの影は袖を引っ張られながら、もうひとつ小さな影は難航する大きな影を引きずっている。
その健気な小さな勇者の影の正体は妹ちゃんである。私が無償の愛の精神を教えた少女に間違いない、間違えるはずがない。私はどんな暗闇の中でも、あの妹ちゃんを見つけられる。この感動は幻覚ではない、本物だ。妹ちゃんがいて、故に私があるのだ。そして少し大きい方の影は――言うまでもなく『私』である。
ついに私が私の目の前に立ちはだかる。第一声は決めていない。じろじろと眺め合う二人と、向こうの私の袖を強く握る妹ちゃんが、かつて感じたことのない雰囲気の中で顔を合わせた。
「この妹ちゃんは、私の妹ちゃんなので」と、『向こうの私』が話を切り出して、続けた。
「なので、そっくりなあなたが増えたら、こちらも困ってしまうわけでして……」
よく似てるなあ、と感心されながらまじまじと私は観察されていた。そちらこそ、よく似てますなあ、と言うとでも思ったか。それどころじゃない。妹ちゃんの所有権に関しての反論の時間はない……あと5分、ここに来たという事は、もう覚悟してもらう。妹ちゃんはお願いのポーズで指を組んでいる。『向こうの私』は不可思議な状況におどおどしながら言いよどんでいる。
私は黙って目を伏せながら右手をゆっくりと差し出した。十秒ほど、永遠流れるような時間が流れ、手の平にそっと手が合わさる感触を覚えた。
助かった、これで助かったのか、私は伏せた目を相手の顔に向き合わせた、その瞬間。
その顔は悪魔の微笑を漂わせていた。
「よくやった」
私は奇妙な叫び声を上げ、意識を失った。
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